終わらん!!笑
あと一話です!
感想などドシドシ待ってますーー!!
翌朝。
夜の名残がまだ天井の片隅に溜まっているような、わずかに冷えた空気が漂う頃、Dは無言のまま歩いていた。
足音だけが廊下に薄く反響し、それが胸のざわめきをいっそう際立たせた。
シージペリラスに割り当てられた無機質な部屋。
その扉の前で一度だけ呼吸を整え、いつもの仮面を貼り付けてから、Dは自動扉を開ける。
扉を開けると、相変わらず雑然とした空気の中、Kがソファに寝そべっていた。
片腕を後頭部に回し、もう片方の手がひらひらと怠惰に揺れる。
その視線は天井に向いたまま、だが声には愉快で軽薄な色が滲み出ている。
「よぉーD。昨日はどうだった?」
相変わらず、Dの表情を確認すらせずに放たれる軽口。
その無造作さが、ひどく痛かった。
「……問題ない。奴との距離は狭まっている。このままいけば、奴を探るのもそう難しくはないはずだ」
その答えは、何百回と任務をこなしてきた自分が、反射のように口にする“正解の言葉”だった。
しかし、喉の奥にはひっそりと嘘が沈んでいる。
薄い膜の下に隠した真心の痛みが、言葉の縁をじんと熱くしていた。
Kはその返答を聞くや、バネ仕掛けのように跳ね起き、
「さっすが!なぁ?言ったろ?Dが色気を振りまけば、虜にならない男はいねーよ!」
と、ソファの背もたれをドンと叩きながら笑った。
その笑い声は高く乾いており、どこまでも軽い。
だがDには、その軽さが酷く遠いものに感じられた。
胸の奥がずくりと痛んだのは、Kの言葉が真実からあまりにもかけ離れていたからだ。
昨夜の自分――
Dは脳裏に、暖かな街灯の光の中で歩いていた瞬間と、名を呼んでほしいと願った瞬間を思い出す。
任務として近づくはずだったのに、いつの間にか自分の足は彼の隣を“ただ歩きたい”と思っていた。
任務のための会話ではなく、もっと彼を知りたいという欲求が胸を満たしていた。
別れ際の寂しさが胸を締めつけた時、自分はもう“任務のD”ではいられなかった。
本当は――
任務などどうでもよかった。
どうにかこの任を外れたい。
ただ彼と会いたい。
笑ってほしい。
自分の名前を、あの低く温かい声で呼んでほしい。
そして。
彼の大きな身体に、抱きしめられたい――と。
想像しただけで胸の奥がじんと熱を帯び、指先がじっとり汗ばむ。
昨日まで持ったことのなかった感情。
任務では決して許されない、女としての欲求。
それが今や、収まらない焔のようにDの内を焦がしていた。
『……なにを考えてるんだ、私は』
自嘲の息が喉の奥で震えた。
だが、否定しようとすればするほど、その情欲にも似た熱は強く脈打つ。
考えれば考えるほど、あの優しい眼差しと、手の温もりを思い出してしまう。
任務の規律が、感情の奔流の前で軋んで揺らいでいた。
Dが黙ったことによる沈黙。
その一瞬の空白は、刃のように鋭く、ひどく長く感じられた。
どう答えればいいのか――という迷いではない。
“どう隠せばいいのか”。
それを測るような沈黙だった。
Dが言葉を失い、目の奥に微かな陰影が差したのを見て、Kはようやく視線を向けた。
普段の軽薄な態度がわずかに薄れ、代わりに猜疑心と仲間としての心配が入り混じった、複雑な眼差しになる。
「……おい、D? 大丈夫か? ……もしかして、昨日何かあったのか?」
問いに含まれていたのは“勘”だ。
長く任務を共にしてきた者にしか分からない、僅かなズレ。
それをKは嗅ぎ取っていた。
Dはほんの一秒だけ目を伏せ、それからふっと顔の筋肉を滑らかに落とした。
いつもの、無感情を装う完璧な“仮面”だ。
「大丈夫だ、問題ない」
その声にはひび一つ無い。
だが、隠している感情の重さが仮面の裏側から滲んでいた。
Kがそれに気づいたのかどうか、判断は難しい。
彼女は唇を吊り上げて笑い、
「ふーん、そっか。ならいいや」
と軽く流した。
だが続けざま、まるで本題はここからだと言わんばかりの調子で身を乗り出す。
「私の方で奴のことを調べてみた。これを見てくれよ」
机の上に数枚の写真がばらばらと滑り落ちた。
光を反射する紙の白が部屋の冷たい空気を切り裂く。
一枚目には、スーツ姿のマスターが街中を歩く姿。
日差しに照らされ、歩くそのラインは警戒心よりも余裕を纏っている。
二枚目。
政府の重要施設から出てくる彼。
その背後には厳重な警備体制が敷かれている。
そして三枚、四枚……
どれも角度が違い、服装も違う。
季節さえ違う。
それほど誰かが継続的に追ってきた痕跡だ。
そして最後の一枚――
軍服を着た十数名の男たちが銃を携え、笑っている集合写真。
その中心に、マスターが立っていた。
Dの指先がそこで止まった。
胸の奥に、強い衝撃と、熱い“鼓動”が混ざり合う。
「只者ではないと分かっていたが、やはり、元軍属だったか。よくこれだけ集めたな」
淡々と告げながら、心の内側では写真に映る“彼”に強く息を奪われていた。
その眼差し。
その佇まい。
“危険な美しさ”すら感じるほどに、若々しく、強く、そして……魅力的だった。
任務としての興味ではない。
昨日の自分が惹かれた男の、知らない顔。
その全てが胸を熱くした。
KはDの返答に満足げに笑う。
「なかなか集まらなくてさ、そうしたら、ジャッジスの上層部からポンってこの写真を渡されたんだ」
軽い口調。
しかし言っている内容は異様だった。
Dの眉間に深く皺が寄る。
「なに? 上層部からこの写真が?」
不審というより、警戒本能が強く反応していた。
上層部からの“直接の情報提供”――それは有り得ない例外だ。
シージペリラス――彼女たちは基本的に捨て駒だ。
任務の成功も失敗も全て“影”として扱われ、表に出ることなどない。
上層部は、彼女たちの存在を切り捨てられるよう、いつでも情報の線を断つ手法を取ってきた。
「……奇妙だな」
Dが呟くと、Kは肩をすくめた。
「な? 変だろ? それに、この写真ちゃんと見てみろよ」
写真を一枚ずつ、Kが指で叩きながら説明する。
「この写真は数カ月前。こっちは10年前。で、これが30年前だ」
Dは息を呑んだ。
「……待て。何を言っている? 意味が分からない」
不可能だからだ。
どの写真にも写る彼は――一切、老けていない。
髪の色も、体格も、表情の険しさも、若さもすべて、そのまま。
もしKの言葉が本当ならば、彼はすでにかなりの高齢になっていてもおかしくない。
だが写真に写るのは、昨日自分が惚れた男そのものだった。
Kは顔を顰め、しかし声は妙に低くなった。
「まだ終わりじゃないぞ。極めつけは……この軍服を着て写っている写真。これは……第一次ラプチャー侵攻の時の物だ」
空気が凍った。
Dの背筋から冷たいものが這い上がる。
第一次ラプチャー侵攻――。
それは“100年程前”の出来事。
写真の中の男は、変わらぬ姿のまま笑っていた。
ーーーーーー
「……どういうことだ……!!」
声が漏れた瞬間、自分でも信じられないほど胸が震えていた。
Dの顔には“混乱”という、彼女が最も遠ざけてきた感情が露わになっていた。
任務に生きるシージペリラスとして、常に冷静で、無表情で、揺らぎなど一切見せずに生きてきたはずの彼女が――
今はただ、理解を拒むように目を見開いていた。
Kはその様子にわずかに眉を寄せ、だが軽く首を振った。
そして写真の束を指で叩く。
「さぁな。コイツが何者でなにをしていたのか、全くわからない。分かることといえば、コイツは"超が着くほど長生き"していて、しかも、"容姿も変わらず"、そして、"政府の重要施設まで入ることができる"、若しくは、できた男ってことだな」
彼女の声には、軽薄さは一切なかった。
純然たる“警戒”と“恐怖”が滲んでいた。
Kはさらに続ける。
「おそらく、この男の疑惑は真実なのは間違いないみたいだぜ。事実、過去に何度かこうやって、コイツの行動確認をしていた工作員が、何人か消されてるらしい」
空気が凍り付いた。
冗談ではない。その声音が、告げていた。
「なんで今になって、こんな大事な事を言ってきたのかは分からないがな」
険しい表情のまま付け加える。
Dは写真に映る彼――マスターを見つめたまま、小さく呟いた。
「……そんな、ばかな……」
世界がひっくり返る感覚。
昨日の優しい笑顔、温かな声……
食卓を挟んで一緒に笑ったあの時間。
ネックレスをそっと胸元に掛けてくれた大きな手の温度。
――それが、すべて“仮面”だったのか?
本当に優しかったのか?
あの目は本当に自分を見ていたのか?
もしや、初めから“気づかれていた”のではないか?
いや、違う――
彼が本当に何者なのか、何を抱えて生きているのか。
私は何も、知らなかったではないか。
胸が締め付けられ、思考の輪郭がぼやける。
「D? 大丈夫か?」
Kの問いに、Dはハッと瞬きをした。
僅かに乱れた息を整えると、感情を押し込み、吐き捨てるように言う。
「大丈夫だ。任務は継続する」
Kは怪訝そうに眉をひそめ、
「……なぁ。やっぱり、今夜にでも2人がかりで、コイツを始末した方が良くないか? たぶん、コイツはヤバいぞ。証拠なんて始末してからでも……」
と提案しかけたが――
「だめだ」
Dが食い気味に遮った。
その声は、鋭く、切迫していた。
「コイツは私が単独で調べる。これは変えない」
拳が震えていた。
任務のため――ではない。
“彼を信じたい”という痛切な願いが滲んでしまっていた。
事実を真実として認めたくない。
写真の中の男がどれほど異様な存在でも、昨日の温かい声を信じたかった。
KはそんなDの表情を見て、深いため息を吐く。
「……分かったよ。でも、気をつけろよ。少しでも危険だと分かったら、2人で始末する。これは決定だ」
言葉は柔らかいが、決意は硬い。
Dがどれだけ否定しても、Kは命令としてそれを遂行するつもりだ。
二人の間に重苦しい沈黙が落ちた。
その時――
ピロン
携帯の通知音が、静寂を破り、部屋全体に響き渡った。
Dは反射的に端末を見た。
次の瞬間、胸が強く跳ねた。
高鳴りと同時に、得体の知れない恐怖が心臓を掴む。
Kが怪しげな視線を向ける。
「誰から?」
Dは端末の画面を、愛おしそうに――けれど悲しみを湛えて見つめた。
そして、吐息のような声で答えた。
「彼からだ」
その言葉が落ちた瞬間、彼女の心は恋と恐怖の境目で静かに軋んでいた。
ーーーーーー
部屋に戻ったDは、扉が閉まるか閉まらないかのうちに、まるで磁力に引き寄せられるように椅子へと座り、端末へ目を落とす。
そこには、たったいま届いたばかりの――彼からのメッセージが、静かに光を放っていた。
震える指先で画面をタップする。
文章が表示された瞬間、胸の中心でいっそう鋭く脈が跳ねた。
『昨日は楽しかった。会ったばかりなのにこんなことを言うのは笑えるんだが……次はいつ会えるだろうか?』
読み終えるより前に、息が詰まりそうだった。
その文面には驚くほど飾りがなく、気遣いと、素直な“また会いたい”という願いがまっすぐに込められていた。
たったそれだけの言葉が、どうしてこんなにも胸を熱く灼くのか。
こんな私に、また会いたいと言ってくれる。
任務に生き、嘘と仮面を当たり前にしてきた私を。
心など持つはずがないと信じ込ませてきた、この私を。
嬉しい。
けれど、同時に――痛いほどに苦しい。
胸の鼓動は嬉しさと恐怖とが絡み合い、脈絡のない熱として溢れてくる。
息すら整えられないまま、Dは机の端に手をつき、深く俯いた。
温かな言葉とは裏腹に、冷静な自分がどこか遠くで囁いている。
――この男の言うことは、本当なのか?
――私から何かを聞き出そうとしているだけではないのか?
――警戒しろ。忘れるな、私は任務の最中だ。
その声は、これまでならば迷いなく従ってきた“訓練された思考”だった。
だが、今は――胸の奥に新しく芽吹いた「会いたい」という欲求に、無惨に押しつぶされかけている。
唇を震わせながら、Dは返信を打ち込んだ。
『こちらこそ昨日は付き合ってもらってありがとう。私も昨日は楽しかった。私はいつでも、貴方に会いたい』
書き終えた時、胸の奥がひどくきしんだ。
これは、任務の建前でも、組織に仕組まれた嘘でもない。
隠しようのない“本音”だったからこそ――辛い。
もし次に会う時、彼を疑わなければならない。
彼の瞳を、声を、笑顔を。
純粋な想いで見つめられない。
その想像だけで、胸が裂けるほどに痛い。
送信からわずか数秒の沈黙ののち、端末が震えた。
彼からだった。
『それはよかった。貴女にそう思われていることがとても嬉しい。次はディナーはどうだろうか』
表示されたその短い文字列を見た瞬間、Dは自然と口元が緩んだ。
こんなにも飾り気がなく、気負いのない言葉なのに、どうしてこんなに愛おしいのだろう。
胸が温かくなる。
鼓動が柔らかく跳ねる。
ただ彼が返事をよこした。それだけで。
Dはそっと息を整え、微笑みを浮かべながら返信を打つ。
『もちろん。日にちはいつがいい?』
送信してから、一瞬で不安が襲ってきた。
――堅すぎないか?
――まるで事務連絡のようではないか?
――こんな文で、可愛げのない女だと思われないだろうか?
慌てて訂正しようかと端末に手を伸ばしたその時。
まるでそんな迷いを吹き飛ばすかのように、再び通知が鳴った。
『よかった。では、明日の夜はどうだろうか?よかったら、明日の夜6時に店に来てくれ』
読んだ瞬間、胸の内側が音を立てて解けていくようだった。
――気にしていない。
――私の不器用さも、言葉のぎこちなさも。
――すべて、分かっているかのように受け止めてくれる。
その事実が、嬉しくて、どうしようもなく愛おしかった。
『明日の夜、分かった。楽しみにしている』
そう打ち込み、送信した後。
Dは端末から手を離し、椅子に深く身を預けた。
大きく、長い息が漏れる。
たったメッセージのやり取りで、こんなにも神経がすり減るとは思わなかった。
彼を想う気持ちと、任務の冷たい鎖に縛られた自分との間で、胸が押しつぶされそうだった。
それでも――
次に来る「明日の夜」が楽しみで仕方がない自分がいる。
その事実が、なにより残酷で、なにより幸せだった。
ーーーーーー
次の日の夜。
Dは静かな闇を切り裂くようにして街へと歩みを進めていた。
彼と――マスターと会うために。
身に纏っているのは、初めて二人で出掛けた日のそれを思わせる、シンプルでありながら彼女の身体の曲線を惜しみなく引き出す装い。
だが今夜は“ディナー”だった。
形式は同じでも、まとっている雰囲気は明らかに違う。
深い色合いのドレスは布地そのものが光を孕み、歩くたびに静かに揺れ、
スカートには大きなスリットが走り、白く滑らかな脚線を覗かせる。
その一歩一歩が夜気を妖しく揺らし、通り過ぎる誰もが振り返るほどの艶を帯びていた。
そして――
胸元には、マスターが贈ってくれたスミレのネックレスが、街灯の光を集めて淡く煌めいていた。
その輝きは宝石のものというより、むしろ“彼の手”そのものの温度のようで、Dの胸をじんわりと熱くする。
この首飾りを身につけるたび、彼に触れられた記憶がよみがえる。
まるで彼の手がいまもそこにあるように。
――この装いで何人もの男が骨抜きになり、秘密を語り、そして“消えて”いった。
任務としての誘惑。
組織のための微笑み。
偽りでしかなかった優しさ。
だが今夜は――心が任務を拒んでいる。
出発する直前、Kの言葉が蘇る。
『いいか? 無茶するなよ?今回は私たちのことがバレてることを視野に入れておけよ。もしバレてなかったら、当初の作戦通り、奴の女になって情報収集だ。念のため、私は近くで待機しておくから、なんかあったら呼んでくれ』
普段は豪胆で、無神経なくらいまっすぐなKが、
あれほど警戒の色を滲ませていた。
それがどれほど“マスター”という存在を危険視しているかを物語っている。
だからこそ――
Dは心がかき乱されていた。
会いたい。
けれど、会えば任務としての疑いを持たねばならない。
彼の微笑みすら、真実か欺瞞か見極めねばならない。
一歩進むたび、胸の奥で
“会いたい” と “逃げたい”
その二つの衝動が衝突し、胸を締め付けた。
ふとビルの屋上に目を向けると――
薄闇の中、Kがビルの端に腰を下ろし、こちらに向かって片手を高く挙げていた。
サムズアップ。
言葉にせずとも、その仕草にははっきりとした意味がある。
『大丈夫だ、ちゃんと見てるよ』
Dの胸に、ほんのわずかに安堵の灯がともった。
だが同時に、それは“ターゲットは危険だ”という警告の証でもあった。
その事実が、再び胸を締め付ける。
やがて目的の店――マスターの喫茶店が視界に入る。
扉の前に立った瞬間、鼓動が一段と強く跳ねた。
早く開けたい。
逃げたい。
でも――会いたい。
深く、深く息を吸い込み、荒れ狂う鼓動を胸の奥に押し戻すように吐き出す。
震えを抑えるようにドアノブへ手を伸ばし――ゆっくりと回した。
扉が静かに開く。
ーーーー
扉を押し開けた瞬間、暖かい照明の光がゆるやかに広がり、静謐な空気がDの身体を包み込んだ。
そして――彼がいた。
上等なスーツを身に纏いながらも、その下に隠しきれない鍛え上げられた体躯。
服の上からでも、その背筋の強さ、肩幅の確かさ、胸板の厚さが一目で分かる。
しかしその“完璧な男”は、いま、鏡の前で必死にネクタイと格闘していた。
結び目は右へ左へ暴れ、マスターの指は何度も同じ動きを繰り返しては、かえって混乱を増しているようだった。
「……デイジー? すまない、もうそんな時間か」
振り返った瞬間の、少し焦ったような声音。
いつもの落ち着きはなく、どこか少年めいた気配すら漂っている。
その姿を目にしたDは、
――あぁ、会えた。
胸の奥からじわりと温かさが溢れ、思わず微笑みがこぼれる。
「いや、私こそ早めに来てしまった……ところで、なにをしている?」
柔らかく問いかけると、マスターはわずかに肩を竦めた。
「恥ずかしいところを見られたな。実は…スーツを着るのは久しぶりなんだ。だからネクタイをうまく結べなくてな」
普段は頼り甲斐があり、どんな危機にも動じない男。
そんな彼が、ネクタイひとつ満足に結べずにいる。
そのギャップが、とてつもなく愛おしかった。
胸の奥から、遠い昔に置いてきたはずの“誰かを労わりたい”という感情が温かく芽生える。
母性とも、恋情ともつかない、柔らかい光。
Dはそっと彼へ近づき、
鏡と彼の間へ身を滑り込ませた。
「デイジー?」
マスターの戸惑いが至近距離で聞こえる。
低く温かいその声に、Dの胸がざわつく。
彼の喉元に両手を伸ばし、乱れていたネクタイの位置を整えはじめる。
指先が布地に触れるたび、マスターの体温がふわりと伝わり、胸が震えた。
「……貴方にも不得意な事があるのだな……」
小さく呟くと、マスターは少し拗ねたように苦笑し――
「俺にだって出来ない事が山ほどあるんだ」
その表情があまりに人間らしく、可愛らしく、Dは思わず笑ってしまう。
「ふふっ、そうなのか。意外だ」
二人の間に、ゆるやかで温かな空気が流れる。
聞こえるのは、Dが結び目を整える小さな衣擦れの音だけ。
やがてDは結び終えると、そっとマスターの胸板に手を添え、彼を見上げる。
分厚く、温かい胸板だった。
「……できた」
マスターは柔らかな眼差しで見下ろしながら、
「ありがとう。1人ではこう綺麗には出来なかった」
Dは少し頬を染め、微笑む。
「こんなことでよかったら、いつでも私が代わりに結ぶ」
その言葉に、マスターは静かに息を吸い――まるで深い愛を告げるような声音で、優しく笑んだ。
「それは……うれしいな。じゃあいつも側にいてくれるのか?」
心臓が一瞬止まる。
愛の告白とも取れる言葉。
その熱が、真っ直ぐにDの胸へ飛び込んでくる。
なにも言えないまま、ただ彼を見つめ返す。
しばらく見つめ合う中で、自然と距離が縮まっていく。
息が混ざり合うほど近づいたところで――
唇が触れ合った。
静かで、しかし熱のこもったキス。
感じる体温、匂い、息遣い。
すべてが彼で満たされ、頭が蕩けそうになる。
――幸せだ。
こんな時間がずっと続けばいい。
だが、心の奥底に潜む“仮面をかぶった自分”が、突然叫びを上げた。
『離れろ。離れるべきだ。そいつはターゲットなのだから』
その声が氷のように脳を刺し、Dは震えた。
そして――マスターの胸板に手を当て、押し返してしまう。
驚いたように、マスターの瞳が揺れた。
「……すまない。いきなり性急すぎた。嫌だったら言ってくれ。……今日のディナーもまだキャンセルできる……」
悲しみに滲む声音。
その優しさが、逆にDの胸を裂いた。
「嫌じゃない!」
条件反射のように叫び、続いて乱れた呼吸のまま絞り出す。
「……嫌じゃ……ない。……むしろ心地よかった。……だが、その……いきなりすぎて……驚いただけだ……」
マスターは眉を寄せ、静かに問いかけた。
「……なら、何故、泣いているんだ?」
「……え?」
頬に手を当てると、そこには温かい涙が伝っていた。
自覚した瞬間、全てが溢れ出す。
恋と任務の狭間で揺れ、初めて“自分が自分でなくなる”ような感覚。
これまで保ってきた仮面が崩れていく恐怖。
彼とのキスで、心の堤防は完全に決壊してしまった。
「……デイジー?」
心配する声が優しく響き、Dは限界を迎えたように顔を上げる。
涙に濡れながら、それでも必死に微笑んで――
「……っ……すまない。やはり……今日はキャンセルしてくれないだろうか?」
「……デイジー」
マスターがゆっくり近づこうとすると、Dは涙ながらに後ずさる。
「……来ないでくれ。お願いだ……!貴方にこんな顔を見てほしくない……!」
背中が壁に触れる。
逃げ場がなくなり、震える声で懇願した。
「もう……今日は帰らせてくれないか……?また、今度……埋め合わせは……するから……」
その姿は、強く、冷静なDではなかった。
何かから逃れようともがいている。
ただひとりの女として、心を守ろうと必死だった。
マスターはそっと手を伸ばし――彼女の涙を指先で優しく拭った。
そして、抵抗する間もなく、ゆっくりと抱きしめた。
暖かく、広く、逃げられないほどの腕。
けれどその抱擁には、欲望ではなく、ただ深い“愛情”だけがあった。
ーーーーーー
Dはマスターの腕の中で、まるで止めどなくしみ出す泉のように涙をこぼし続けていた。
胸に頬を押し当てるたび、熱が伝わるたび、腕の力がわずかに強く抱き寄せられるたびに、任務に縛られた彼女の心はひび割れ、崩れ、溶けていく。
――ダメだ。
何をしている。
泣き止め。
任務を遂行しろ。
これは私ではない。私はシージペリラス。
影となり、心を殺し、ただ命令だけに従う存在――。
頭のどこかで、冷たい声が鋭く命じ続けていた。
しかし、その声はマスターの温もりに触れるたびに遠ざかり、薄れ、やがて砂のように崩れて消えていく。
苦しいのに、泣きたくないのに、涙は勝手に頬を伝って落ちていく。
止めたい。抑えたい。
任務の仮面をかぶった自分が叫ぶ。
だが、濡れた頬を優しく拭い、揺れる肩を一つひとつ包み込むマスターの手が触れるたび、Dはもう、抗うことができなかった。
「……こんなにしんどいのなら……こんなに辛いのなら……マスターに、貴方に出逢わなければ、よかった……」
声を震わせながら、Dはかすかに首を振る。
押し殺してきた本音が、こぼれ落ちるように彼の胸の上で零れる。
それは決して口にしてはいけない言葉だった。
言ってしまえば後戻りできない。
それでも、もう止められなかった。
マスターは抱き寄せた腕の力を少しだけ強め、彼女の涙の跡を見つめながら静かに言った。
「……君が、何故そこまで苦しんでいるのかはきかない。だが、俺は、君と出会えて幸せだと思っている」
柔らかく、けれど確かな響き。
それはDの胸の奥深く、暗く固まっていた何かに触れ、ひびを入れた。
「……え?」
Dは涙の膜の向こうに彼を見上げる。
その顔は恥ずかしげに微笑み、しかし目は真剣だった。
「正直に言うと……君が初めて店に来た時から、ずっと気になっていた」
その言葉に、Dの中の時間が止まる。
初めて店を訪れた日。
フードを深くかぶり、感情を読ませず、ただ依頼で動く“影”としての自分。
誰にも心を開かず、ただ任務のために存在していた自分。
任務の合間の時間潰しにたまたま立ち寄った時の自分。
そんな自分を――気にしていた?
困惑する彼女の表情を見ると、マスターは恥じらいを含んだ笑みを浮かべて続ける。
「君がコーヒーを飲む姿が……なぜか目から離れなかった。無表情だった君が、俺のコーヒーを飲んだ瞬間だけ、ほんの一瞬。微笑んだんだ。その表情に……心を奪われた」
Dの顔が一瞬にして真っ赤に染まる。
信じられない。理解が追いつかない。
自分の胸が急に熱くなり、呼吸が速くなる。
『な、なにを……私は……そんな……』
羞恥と動揺と、胸を締めつけるような喜びが入り混じり、Dは言葉を失った。
思わず、逃げるようにマスターの厚い胸に顔を埋める。
彼の体温が頬を包み、胸の動きが耳元に響く。
そのすべてが恥ずかしく、そして安心できた。
「君の微笑みがあんなに温かいなら……笑ったらどれほど温かいのだろう。どんな顔で笑うんだろう、と……そればかり考えてしまっていた」
穏やかな声が頭上から降ってくる。
「だが、君は決まった日に来ないから、やきもきしたがな」
彼の言葉に、Dは小さく身をすくませ、胸に顔を押しつけたまま小さく呟いた。
「それは……その……す、すまない……」
「君が悪いわけじゃないさ。だが……ようやく会えた時に思い切って話しかけて、本当に良かった。あの日があったから……俺は今、こうして君と二人きりでいることができる」
胸の奥が震えた。
肩が揺れ、指先がぴくりと震えた。
Dの心は、もはや“任務”という言葉に縛られるにはあまりにも脆く、あまりにも無垢に、彼を求めていた。
マスターは涙で伏せられたDの顔に手を添え、そっと顎を持ち上げる。
Dは吸い寄せられるように彼と目を合わせた。
赤い瞳と深い黒の眼差しが重なる。
呼吸が止まるほどの距離。
見つめ合った瞬間、世界が二人だけのものになった。
「デイジー……俺は――」
Dの胸の奥で警報が鳴る。
『だめだ。聞いてはいけない。任務のためにも、自分のためにも――』
だが、その声はもう霞のように薄い。
Dは怖いのに、逃げたいのに、それでも続きを聞きたいという自分の心を止められなかった。
そして、彼は言い切った。
「……俺は、君のことを愛している。だから、俺の側にいてほしい」
その瞬間、Dは心のどこかで理解した。
――もう前の自分には戻れない。
溶けていく。
崩れていく。
任務の仮面も、影の名前も、すべてが脆く砕けていく。
マスターの指が再び彼女の顎をそっと包み、囁くように問う。
「デイジー……さっきの続きを、してもいいだろうか?」
Dの身体が小さく震えた。
涙がまだ頬に残っている。
だが、その目はもう逃げていなかった。
「……そんなこと……聞かないで……くれないか…」
小さく震える声で、彼に身体を預ける。
告げるというよりも、吸い込まれるように。
「……それは……失礼した」
低く甘い声が耳に触れ、次の瞬間、二人の唇は再び静かに重なった。
今度のキスは、先ほどとは違う。
激情でも、衝動でもない。
互いに互いを求め、触れれば触れるほど深く沈んでいく、静かな愛のかたち。
Dはその優しさに溶けるように目を閉じ、そっと抱き寄せ返した。
ーーーーーー
柔らかな朝の光が、薄いカーテン越しにゆっくりと部屋へ差し込んでいた。
Dはまぶたの裏にその光のぬくもりを感じながら、ゆっくりと意識を浮上させた。
昨夜、泣き疲れ、そして、愛し合った時に聞いた彼の心臓の鼓動と呼吸が、まだ自分の胸の奥に残っている。
眠りの中で何度も感じた腕の重みが、温度のかすかな残滓となって肌に残っている。
Dは静かに寝返りを打った。
視線の先――そこに、マスターがいた。
広い背中。
端正な横顔。
無意識下でさえ、何かを守るようにわずかに眉の寄った表情。
その寝顔が、胸のどこかを締めつけるほど愛おしかった。
――ずっと、このままでいたい。
昨日、やっと気持ちが通じ合った。
孤独と任務に塗りつぶされた心の隙間を、彼の言葉と温もりが静かに満たしていく。
何度思い返しても、胸がじんわりと熱くなる。
そのとき、彼のまつげがかすかに震えた。
ゆっくりと瞼が開く。
半睡の黒い瞳が、真っ直ぐ自分を捉えた。
「……おはよう、デイジー」
まだ少し寝ぼけた声。けれど、その声には確かな愛情があった。
Dは胸がくすぐったくなるのを抑えきれず、自然と微笑む。
「……おはよう」
こんなに穏やかに、誰かと“朝”を迎えることが、自分に許されるとは思わなかった。
殺し、監視し、任務の道具として生きてきた自分が――こんな優しい挨拶をする日が来るなんて。
マスターは軽く伸びをすると、小さく笑った。
「昨日は……楽しかった」
その言葉に、Dの胸が再び熱くなる。
昨夜の記憶。
触れ合った唇の感触。
泣き崩れた自分を抱きしめた、温かな腕。
初めて知った“愛される”という感覚。
任務のためではなく、求め合う愛情。
それを思い出すだけで、頬が赤く染まり、視線をそらしてしまう。
「……私も……幸せだった」
呟く声が震えていた。
その反応が可愛いとでも言いたげに、マスターは悪戯っぽく笑った。
「昨日はディナー、結局キャンセルしちゃったからな。腹、減ってるだろ?」
Dは反射的に半身を起き上がらせて声を上げた。
「そ、それは仕方がないだろう?! キスだけで終わればディナーに行けたのに、マスターが私をベッドに連れ込んだのではないか!」
マスターは声を立てて笑った。
「確かに。悪かったよ。でも……後悔はしてない」
「……っ……!」
その言葉が胸に刺さり、Dの顔はさらに赤くなる。
マスターはゆっくりとベッドを降り、衣類を手際よく身につけながら言った。
「モーニングは豪華にするよ。作ってくる。デイジーは……ゆっくり準備してからおいで」
そう言って優しい笑みを残し、部屋を出ていった。
扉が閉まり、静寂が戻る。
Dはベッドに再び身を沈め、天井を見上げた。
胸に広がるのは言葉にならない幸福。
けれど、その幸福の端には、どうしても消えない影が差している。
――任務。
どれだけ抱きしめられても、心の片隅には、冷たい現実が残っていた。
『……彼が、マスターが無実だと証明しなければ……ジャッジスは迷わず彼を処理しようとするはず』
Dは深く息を吸い、ベッドを降りる。
シーツを身に巻きながら部屋を歩き、周囲を観察する。
シンプルで、整った部屋。
余計な物がほとんどない。
マスターらしい、静かな生活の色があった。
机の上。
一台の端末――昨夜も見かけたもの。
胸の奥にぎゅっと硬いものが芽生える。
「……すまない……でも……必要なことだ……」
彼に背を向けているようで、罪悪感が喉を焼いた。
それでも、触れざるを得ない。
愛を知ってしまった今だからこそ、彼を守りたい一心で、手を伸ばす。
端末を起動し、冷徹な訓練で染み込んだ手つきで解析を始める。
隅々まで、短時間で調べ上げる。
任務のために築いた技術が、皮肉にも彼を救うために役立った。
――何もない。
データは驚くほど少なく、怪しい箇所もない。
Dは深い息を吐いた。
『よかった……ひとまず、彼は無実。証拠は何もない……』
その瞬間、緊張が溶け、微かな笑みがこぼれた。
そして、彼の元へ向かおうと扉へと行こうとした時、部屋の中に小さな着信音が響いた。
ニケである彼女だからこそ聞こえた小さな音。
Dは振り返る。
先ほどの端末ではない。
音源は――机の方。
再び、短く鋭い通知音。
胸が跳ね上がった。
嫌な予感が、背骨を冷たく撫でる。
机へ近づくと、視界の端に“不自然な線”が見えた。
触れると、わずかに響く空洞音。
――隠し扉。
震える息が漏れる。
「ハァ……ハァ……」
手が汗ばんでいる。
本能が、危険を告げている。
だが、逃げるわけにはいかなかった。
隠されていた小型端末を取り出し、ツールでパスワードを解除する。
冷たい光が画面を照らした。
届いていたのは――たった一件の通知。
その内容を読んだ瞬間、Dの血の気が一気に引いた。
『爆破準備は整った。あとはお前のタイミング次第だ』
時が、止まった。
呼吸が抜け落ち、指先が震え、視界の色がゆっくりと褪せていく。
マスターの声が、遠くから響いた。
「デイジー! もうすぐ出来るぞー!」
愛おしい声。
優しい声。
あれほど恋しいと思った声が、いまは現実感を失って遠く聞こえる。
Dの手から端末が滑り落ちそうになった。
――どうすればいい?
愛してしまった男を、一晩中寄り添ってくれた男を、自分を救ってくれた男をーー
Dはどうすればいいかわからず、立ちすくむのだった。
作者のニケの性格は
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再現できている。
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ちょっと違う
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違う、ゲームで、勉強してこーい!笑