(読者の皆様)「あ、あぁ!言った!言ってた!!」崖にプラーン
(作者)「あれは嘘だ」手を離す
(読者の皆様)「うわぁーーーーー!!」崖にポーン
すみません、ふざけすぎました。
長くなりすぎて分けただけです!
すぐ投稿しますので、お待ちを!!
Dの指先は、まるで氷の中に沈められたかのように震えていた。
端末の画面は青白い光を放ち、暗い部屋の中で彼女の顔を照らす。
だが、その光の冷たさよりも、胸の奥を冷えさせているものがあった。
画面に表示された“真実”が、Dの心拍を乱し、身体の芯まで軋ませていた。
スクロールするたび、誰かがナイフを心臓に突き立てているように感じた。
政府の要人の個人情報。
巨大企業の幹部たちの私生活。
そしてニケを造り上げる三大企業――ミシリス、テトラ、エリシオンの研究員たちのデータまでもが、整然と並んでいた。
整っている。
隙が無い。
目的を持った者の動きだ。
Dは唇を強く噛みしめる。
視界がじわりと揺らいだ。
濁った涙ではない。
怒りでもない。
もっと複雑で、もっと重く、もっと残酷な感情。
――これを集めたのが、本当に、あの優しい男だというのか。
喫茶店で見せた穏やかな指先。
自分に向けてくれた穏やかな笑み。
名前を呼んでくれた、あの温かい声。
「……嘘だ……これは……違う……」
喉からこぼれた声は震え、思考はぐしゃぐしゃに引き裂かれていく。
昨夜、彼の腕の中で初めて知った安らぎ。
胸の奥に灯った、小さくて、温かくて、手放したくなかった感情。
“愛してしまった”――その事実が、今は深く、深く自分を割く刃となっていく。
彼の端末を開いている指先が、今にも折れそうに震える。
画面に残されたメールのやり取りを読み進めるが、その度に呼吸が乱れた。
『ターゲットの選定はしたのか?』
『……中央政府の中枢……』
『……爆薬の準備……』
『……設置と起爆は任せる……』
テロ組織と共謀し、政府中枢を爆破する計画。
淡々とした文面は、意志の固さと冷酷さを滲ませていた。
こみ上げる拒絶を抑えられなかった。
「……ちがう……そんなはず……ない……」
声は涙に濡れたように弱い。
自分がここまで“否定したい”と思うこと自体が、彼を深く愛してしまった証だった。
そして、先ほど着信の続きを開く。
『爆破準備が整った。爆弾を渡す。今日の午後10時にいつもの場所で』
その文を見た瞬間――
肺に刺すような痛みが走り、息が止まる。
時が、静止した。
部屋の静けさが耳鳴りのように重く、水中に沈んだように音を奪う。
Dの心臓は暴れ、全身が拒絶反応を起こしているのに、目だけは画面から離れられなかった。
彼がテロ計画の実行者であるという事実。
そして、その“受け取り”が今日だという事実。
愛と任務。
幸福と現実。
救いたい心と、粛清しなければならない使命。
どれもが、彼女の胸の中でぶつかり合い、押し潰し合い、悲鳴のような痛みに変わっていく。
今、Dは自分の世界が音を立てて崩れるのを、ただ見ているしかなかった。
ーーーーーー
薄闇に沈んだ室内に、かすかな足音が滲みこんだ。
軽やかでも、重々しくもない。
聞き慣れたリズム――マスターの歩調。
その気配を感じた瞬間、Dの身体は悲しみの底に沈んでいながらも、訓練と任務で刻まれた反射で動いていた。
隠し端末をそっと元の位置へ戻し、机の表面を乱暴に触った形跡が残らないよう位置を整え、そして、シーツを肩まで引き上げてベッドの温もりに潜り込む。
「寝ているフリをする」という任務行動が、あまりにも自然に、あまりにも迅速に行われたその事実――
それすらも、Dにとっては胸を潰すほどの悲しみだった。
扉の開く音。
静かに、慎重に。
マスターはそんな音の出し方をする人だった。
薄く閉じたまつ毛の隙間から、そっと視線を送る。
マスターは部屋に入った瞬間、ほんの一拍――机の方へ視線を滑らせた。
その目の動きは、一瞬だった。
気づかない者にはわからない。
だが、Dは幾度となく任務で同じ仕草を見てきた。
隠し事がある者の、確かめる為の視線。
それは、優しく穏やかだったはずの彼の本性の一端を、嫌でも示していた。
胸が、絞り上げるように痛む。
「デイジー?……まだ寝ているのか?」
マスターの声は相変わらず柔らかく、愛情を含んだ響きだった。
その声だけで、彼が悪意を持って政府を狙っているなどと、誰が思うだろうか。
シーツ越しに近づく気配。
ベッドの端が沈む。
そして、Dの素肌の肩にそっと触れた手は、昨夜と同じ温かさだった。
Dはゆっくりと目を開け、柔らかな表情を作る。
それは任務で何度も“作り上げた顔”。
その内側は、涙で濡れていた。
「……すまない。二度寝してしまっていた……」
声は自然に出た。
仮面をかぶることが、彼女の業であり、生きてきた道そのものだった。
マスターは微笑む。
優しく、あまりにも優しく。
「せっかくモーニングを作ったんだ。冷めないうちに食べよう」
身をかがめて、Dの頬へそっと触れるだけのキスを落とす。
軽い、愛情の証のようなキス。
昨夜、その唇に触れられたとき、世界が温かく色づいていくように感じた。
だが今は――その温もりが、胸を刺す凶器となっていた。
「……分かった。着替えたらすぐに行く」
Dは微笑む。
完璧な微笑みだった。
愛される女の顔。
だが、心はちりちりと焼けるように苦しい。
マスターは満足そうに頷き、部屋を出ていく。
ドアが閉じると、Dの背筋からすべての力が抜け落ちた。
身体が小さく震える。
昨夜、彼に脱がされたまま床に散らばった下着と衣服が、あまりにも鮮烈な記憶となって目に飛び込んでくる。
幸せだった時間。
初めて愛を知った時間。
彼の大きな身体に包まれる幸せ。
その全てが――今は残酷な罠のように見える。
『今日の午後10時に、マスターがテログループと会うのは……間違いない』
目の奥が熱くなる。
嗚咽が押し寄せてくるのを必死で噛み殺す。
『……マスターがテロ行為を実行する前に……何としてでも止めなければ』
そこまではまだ“任務”の範囲だ。
しかし、その先に待っている現実は――
『その後は……彼を……』
言葉にしようとした瞬間、思考が拒絶し、胸の奥底がひきつれるように痛んだ。
口が動かない。
息が詰まる。
『彼を……消さなければ……』
変えることのできない現実。
愛した人を、自分の手で殺す未来。
その想像だけで、視界が歪み、世界が暗く沈んでいく。
足元に影が広がっていくような感覚。
それでも、任務は――進む。
止められない。
彼女は、シージペリラスなのだから。
ーーーーーー
衣服を身に纏い、扉を開いた瞬間、温かな光が視界を満たした。
朝日――夜の苦悩を少しでも洗い流すような、柔らかく包み込む光。
部屋の中心でその光を受けているのは、机に料理を並べ終えたマスターの背中だった。
彼は何気ない仕草で皿の位置を整え、ふと振り返る。
その笑顔は、昨夜と変わらない。
「起きたか。ほら、そこに座って、食べよう」
優しく、自然で、何の悪意もない声。
机には、色鮮やかな朝食が並んでいた。
しっとりと焼かれたパンケーキ、ふわふわのオムレツ、カリカリのベーコンとソーセージ。
湯気を立てるコンソメスープ、瑞々しいサラダにヨーグルト。
そして――小さな一口サイズのケーキが、愛情の証のようにそっと添えられている。
こんな朝食を、誰のために作ってくれるというのだろう。
恋人以外に、こんな食卓を用意する理由があるだろうか。
Dは椅子に腰を下ろし、マスターが差し出すフォークを受け取る。
その動作すら、胸に痛みが走る
「……ありがとう。頂きます」
一口。
たった一口食べただけで、Dの心に広がったのは――味のない世界だった。
『……味が、しない……』
舌が感じなくなったわけではない。
心が拒絶しているのだ。
恐れと絶望と、愛情が、味覚を押し潰していた。
つい昨日まで幸福で満たしてくれた食事が、今は灰のようだった。
マスターはDの口元をじっと見つめ、少しだけ眉を寄せる。
「どうだ?」
その問いに込められた優しさ。
気遣い。
心からの想い。
『その顔は……貴方の本当の顔なのか……?』
たった一瞬で疑いに満ちた世界に変わってしまった自分自身が、何より苦しい。
Dはかろうじて微笑みを作る。
「……美味しい」
その瞬間、マスターの眉がかすかに動く。
ほんのわずか。
心が触れなければ気づかないほどの動き。
「……そうか。よかった」
そして彼も、いつものように食事を始める。
ただそれだけなのに、Dには胸が締めつけられるようだった。
やがて食事が終わり、温かいコーヒーの香りが部屋に満ちていた。
マスターはカップを口に運びながら、少しだけ顔を和らげて問いかける。
「デイジー、今日は仕事なのか?」
Dは表情が強張らないよう注意しながら、自然に見える声で返す。
「あぁ。今日は……仕事があるから。食べ終わったら行ってくる」
心を隠す技術は、長い任務生活で身につけたものだ。
今日ほど、その技術に感謝したことはない。
マスターは疑うそぶりもなく頷く。
「そうか、わかった……なぁ、デイジー」
呼ばれた名に、Dは静かに顔を上げた。
マスターは迷うような、緊張を含んだ目をしていた。
「なんだ?」
Dが尋ねると、マスターは一度息を整え、そして言った。
「仕事が終われば……ここに帰ってくるか?」
意味を測りかね、Dは首を傾げる。
「? 仕事が終われば、家に帰るが? それがどうかしたのか?」
マスターは少し苦笑する。
照れの色が、ほんのりと浮かぶ。
「すまない。聞き方が悪かったな。……デイジー。ここに住まないか?」
世界が、止まった。
心臓が一度だけ、大きく跳ねた。
そしてすぐに、重たく沈む。
嬉しさが込み上げた。
幸せな言葉だった。
同時に――その幸せがどれほど残酷なものかを、Dは誰よりも理解していた。
涙が、自然に滲んでくる。
必死で俯いて隠す。
マスターは慌てたように身を乗り出した。
「すまない。急すぎるか?」
その気遣いが、さらに胸を裂く。
Dは必死に首を振った。
泣き崩れてしまえば、全てが終わる気がした。
任務も、愛情も。
だから、仮面を被り直す。
このままでは心が壊れてしまうのに。
微笑む。
声を震わせないように。
「……っ……嫌、嬉しいだけだ……」
その言葉に、マスターはようやく安心したようだった。
「よかった」
その笑顔が――
Dにとって、今はいちばん残酷な光に感じた。
ーーーーーー
「デイジー」
朝食を終え、喫茶店の扉へと向かっていたその背中を、柔らかい声が呼び止めた。
さきほどまで端末が置かれていた奥の部屋から、マスターがこちらへ歩み出てくる。
振り返ったDの胸元へ、ふいに小さな金属の音を立てて何かが飛んできた。
反射的にキャッチした彼女の手のひらには――銀色の鍵が、静かに乗っていた。
「今日は、用事で帰りが遅くなる。だから……帰ってきたら、それで中に入って待っていてくれないか」
いつもの調子で微笑む彼。
その声音は確かに優しく、穏やかで、ずっと彼女を救ってきた温度を帯びている。
Dは掌の上の鍵を見つめた。
細い金属の冷たさが、今は胸を締め付ける。
本来なら、この鍵は “幸福” を形にしたようなものだ。
彼との距離が確かに縮まった証であり、明るい未来へと差し出された手のようなものだ。
だが――今は違う。
それは、直視したくない現実と結末を見せつけられるようだった。
Dは歯を食いしばり、震える呼吸を抑え込む。
「……分かった。……その用事は、そんなに遅くなるのか?」
任務のためでもあった。
だが、それ以上に――彼を心配する気持ちが、言葉に混じっていた。
マスターは笑みを崩さない。
「なに、ただの買い出しだよ」
「……ただの買い出しが、そんなに遅くなるのか?」
軽く追及する声は、不器用ながら切実だった。
少しでもいい。
自分のことを怪しんでほしい。
彼の計画が露見したかもしれないと感じてほしい。
ほんの僅かにでも疑ってくれれば――計画を中止し、逃げてくれるかもしれない。
そうすれば。
自分の手で彼を葬る未来を回避できるかもしれない。
だがマスターは、きょとんと目を瞬かせただけだった。
そしてすぐに、穏やかな笑みが戻る。
「ただの買い出しだ。なにぶん量が多い。だから、少し時間がかかるだけだ」
それだけを言うと、彼はほんの軽い調子で肩をすくめ――
「どうした、デイジー。……まさか早速、俺がどこかで浮気しないか心配してるのか?」
冗談めいた視線を向けてきた。
Dは思わず顔を赤くしてしまう。
「ち、違う!ただ……気になっただけだ!」
口では否定した。
だが、脳裏に一瞬浮かんだ“自分以外の女”と並ぶ彼の姿に――胸の奥がざらついた。
その女を消してしまいたいと思ってしまった自分に、D自身が凍りつく。
彼との時間が、永遠に続けばいいと願ってしまう自分。
そして、任務を遂行しなければならないと思う自分。
その二つが噛み合わないまま、彼女の内側で軋みを立てていた。
「冗談だ、デイジー」
マスターがそっと距離を詰める。
その近さは、彼が彼女を深く信じている証だった。
「ちゃんと帰ってくる。それまで……待っててくれるか?」
微笑み。
優しい声。
温度のある視線。
Dは唇を震わせながら、
「……分かった。待っている……。……早く、帰ってこい」
必死に笑顔を作った。
マスターはその言葉に穏やかな笑みを返すと、Dの頬に手を添え――軽くキスを落とした。
「ほら、仕事に遅れる。……行ってらっしゃい」
その優しさが、Dを崩壊へ追いやりそうだった。
胸の奥がひりつく。
涙があふれ出しそうになる。
次に彼と会うとき、二人は恋人ではなく――敵として対峙する。
その未来が、冷たく心を切り裂く。
Dは扉に手を伸ばそうとして――振り向いた。
迷いを振り払うように、彼へと近づく。
そして、もう一度――長く、深く口づけた。
まるでこれが“最後”だと知っている恋人のように。
唇を離すと、かすれた声で、
「……行ってくる……」
そして、彼だけには聞こえないほど静かに――
「……さようなら」
言い残し、Dは振り返ることなく扉を開けた。
朝の光が差し込む中、彼女はただ前へ歩いていく。
背中が角を曲がり、完全に見えなくなるまで――マスターは、扉の前に立ち、その姿を暖かく見送っていた。
ーーーーーー
夜の街は、ひび割れたアスファルトを叩き続ける雨の音に沈んでいた。
街灯の光は雨粒に砕かれ、ゆらめく光の断片だけが濡れた路地に漂っている。
その中を、マスターは傘も差さずに歩いていた。
湿った髪が額に張りつき、コートの裾は雨に濡れて重く揺れる。
普段なら柔らかな笑みを宿す横顔も、今はどこか疲れ切っており、雨粒が表情をさらに硬くしていた。
時折、彼はふと立ち止まり、背後を振り返る。
その視線は何かを確かめるような……あるいは、見えない影を警戒するような気配を帯びていた。
そんな彼を、ビルの屋上から見下ろす二つの影があった。
雨を吸い込んだ夜気がまとわりつくような高さ。
その縁から覗くDの瞳は、光を宿すことなく、ただ静かにマスターを追っていた。
隣にはKがしゃがみ込み、珍しく無駄口も叩かずにその動きを追っている。
マスターがふいに空を見上げる。
その気配に、二つの影は反射的に濡れた床へと身を伏せた。
雨音だけが屋上を叩き、彼女達の気配をすべて消し去る。
再び歩き始めるマスター。
彼の足取りは急ぎもしないが、迷いもない。
その背に、Dは言葉にならない痛みを覚えていた。
あの鍵を渡されたときの、甘くて、壊れそうな幸福の残響が、まだ胸の奥を締めつけていた。
雨の匂いが濃くなる。
マスターが路地の奥、錆びたフェンスの脇を抜けていく。
その先には、誰も近づかない古びた倉庫が佇んでいた。
外壁は剥がれ、木枠の窓は腐り、蜘蛛の巣が雨に濡れて光っている。
ここが、彼の“ただの買い出し”の場所だとでも言うのか。
Dは息を潜め、Kとともに暗闇へ溶け込むように近づいた。
マスターが重い扉を押し開けると、倉庫の中から湿った空気と鉄錆の匂いが溢れた。
その瞬間、内部の灯りが揺れ、複数の影が浮かび上がる。
黒いコートの男たち――その手には銃の冷たい光。
「ようやくか、待ってたぞ」
乾いた声が倉庫に響く。
男の両手が誇張された演出のように広がり、マスターを迎え入れた。
その顔を見た瞬間、Dの背筋に冷たいものが走った。
数時間前――あの優しい微笑みを浮かべた彼と同じ人物とは、到底思えなかった。
マスターの顔に、温度はなかった。
薄い光の下、濡れた黒髪が肌に貼りつき、その表情は凍りつくほど冷酷だった。
感情の欠片も、躊躇も、迷いもない。
ひとつの目的にのみ収束した、殺意と意志の顔。
「爆薬は何処だ?」
その声は低く、静かで、聞く者の背骨を圧すようだった。
言葉というより命令。
沈黙に逆らうことを許さない確信。
男は鼻で笑い、隣の木箱を顎で指し示す。
「ここにある。約束の物だ」
部下が蓋を開ける。
その中には、淡い光を放つ新型の爆薬が整然と積み上げられていた。
「新型の対ラプチャー用の爆薬だ。威力は保証するぜ」
説明する声は得意げだったが、マスターは一切反応を見せない。
ただ無言で、箱に歩み寄り、手袋越しに丁寧に爆薬を点検していく。
その仕草はあまりにも手慣れており、まるで長年の友と再会したかのようだった。
Dは息を殺しながら、窓の外からその光景を見つめる。
胸の奥で心臓が痛む。
彼の横顔が、見たくないほどに冷たかった。
隣のKが、舌打ちとともに小声で呟く。
「チッ……やっぱり爆破する気みたいだな」
Kの瞳にも、苛立ちと殺意が揺れていた。
「おいD。作戦は予定通りでいいんだな?アタシがターゲット以外の奴らを片付けて、ターゲットは……Dがやる」
Dはわずかに目を閉じ、呼吸を整えてから答えた。
「……あぁ。変更はない」
それだけを絞り出す声は、どこまでも冷静に聞こえたかもしれない。
だが、その内側では膝が崩れそうなほど痛みが渦巻いていた。
マスターの影を見つめながら、Dは数時間前の光景を思い出す。
あの温かなキス、優しい声、差し出された鍵――
そのすべてが、胸の奥で鈍く、深く、鋭く疼き始めていた。
ーーーーーー
数時間前の記憶が、倉庫の薄闇に滲む雨音へと溶けていく。
まるで胸の奥から引きずり出されるように、Dはその出来事を思い返していた。
──待機室。
薄い蛍光灯の光が、冷えきった金属の机と椅子を無機質に照らしている。
その静けさを破るように、Kは資料を片手に机に腰かけ、眉間に皺を寄せながら何かを考え込んでいた。
重い扉が開き、Dが無言で中へ入る。
その姿を見た瞬間、Kの険しい表情が一転し、にやりと揶揄う笑みに変わった。
「よーD。昨日は“お楽しみ”だったか?」
嗤う声には、明るい悪意と好奇心が混ざっている。
Kは見ていたのだ。
Dがターゲットに接近するために紅を引き、髪を整え、喫茶店の扉に手をかけたことを。
そして――店から出てこなかったことを。
通常のDなら2時間もあれば連絡を寄越す。
それが5時間も戻らなかったのだから、Kがからかいながらも妙な気配を感じていたのは当然だった。
だがDは、Kの揶揄に微動だにしなかった。
表情はいつも以上に無表情で、声は氷のように冷たかった。
「奴の狙いが分かった」
その言葉に、Kの瞳がぱっと見開かれた。
「さっすが!!仕事が早いな!で?狙いは?」
無邪気な子供のように身を乗り出すK。
その期待に満ちた視線を真正面から受け取りながら、Dは淡々と告げた。
「中央政府の施設。そこを爆破する。そして、今夜10時に爆薬を他の組織から入手し、実行するようだ」
Kの顔から一瞬で色が消える。
そして怒号が部屋に響いた。
「……はぁ?!正気か?!」
Dは眉をわずかにひそめ、苛立ちを隠さず言う。
「うるさい。静かにしろ。事実だ」
Kは頭をガシガシと掻きながら、大きく息を吐く。
「はぁ……じゃあ、アタシらはどうする?その爆薬を引き渡す時に全員やっちまうか?」
Dは視線を落とし、一瞬だけ考え込む。
その短い沈黙の裏側で、胸の奥にはあの男の穏やかな笑顔と温かい手の感触が、鋭い棘のように刺さっていた。
だがDは、そのすべてを冷酷に押し殺す。
「……いや、引き渡し場所では始末しない。狙うのは、引き渡し後。奴らが散ったところで二手に分かれて、どちらも始末する」
Kはその答えを聞き、気を取り直したように口角を上げる。
「よっしゃ。じゃあアタシがターゲットを始末してやるよ。流石に今回は顔馴染みだろ?アタシに任せとけよ」
どこか優しさの滲む申し出だった。
だがDは静かに首を横に振った。
「……いや、ターゲットは私が始末する。Kは他の奴らをやってくれ」
その言葉は刃のように固く、鋭く、揺らがなかった。
Kの笑顔がわずかに曇る。
「……いいのか?今回は、流石にアタシがやった方がいいんじゃないか?
……その、なんというか、いつもと様子が違うぜ?」
気遣いと不安が混ざった、珍しく柔らかい声だった。
だがDは、その優しさを拒絶するように冷たく言い放つ。
「私は変わらない。いつもと同じだ。ターゲットが有罪なら始末する。それだけだ」
その言葉には、揺るぎない殺意だけが宿り、内側で震える弱さは一切滲ませなかった。
KはしばらくDを見つめ、何かを言いかけたが、結局深いため息をつく。
「……わかったよ。じゃあ任せる。だけど気をつけろよ。ターゲットは正体不明の元軍人なんだ。戦闘技術は持ってると考えた方がいい」
Dはマスターの笑顔と、温もりを思い出しそうになり――強引に胸の奥へ押し込めた。
「分かっている」
そう答える声は冷静そのものだったが、その裏で指先がわずかに震えたことに、Kだけは気づいていたのかもしれない。
――そして、今。
濡れた倉庫の内部で、マスターが無表情に爆薬を点検している。
その姿は、数時間前Dが別れ際に抱きしめ、キスを交わした男とは思えないほど冷えきっていた。
Dは屋根裏の影に身を潜めながら、
静かに、唇を噛みしめていた。
ーーーーーー
倉庫の中には、古びた蛍光灯がつくり出す薄青い光と、外から流れ込む雨音だけが満ちていた。
湿った空気を震わせるように、マスターは爆薬の最終点検を淡々と行っていた。
その手つきは、まるで慣れ親しんだ日常作業――料理の下ごしらえをするような、そんな自然さを帯びている。
爆薬の状態を確認し終え、マスターが蓋を閉じる。
その瞬間、待っていたようにテロ組織のリーダーがにやついた。
「それにしても、まさかアンタが俺たちに協力してくれるとは思ってなかったよ」
マスターは無表情のまま、リーダーへ視線すら向けない。
代わりに、男の声が倉庫全体を震わせる。
「中央政府のゴミどもを消す。そして、アウターリムとの境界を破壊する。そうすれば、奴らはたちまち俺たちのことを無視できなくなる」
野望に燃えるその目は、狂気じみた光を宿していた。
「そして、俺たちがアークの頂点に立つんだ!!」
リーダーの雄叫びに続き、周囲の部下たちが一斉に口々に喚く。
「そうだ!!」
「ゴミどもに死を!」
「新時代を俺たちが作る!」
だが――その熱狂は、マスターの冷めた眼差しにぶつかった瞬間、まるで氷の壁に阻まれたように虚しいものへ変わった。
彼は淡々と告げる。
「俺は、お前らのようなテロリスト共の思想などどうでもいい。協力していたのは利害が一致していたからだ。誤解するな」
その声は低く、冷たく、そして揺るぎない拒絶だった。
男は一瞬ぽかんとし、それから鼻で笑い、眉をひそめる。
「は! 何を言ってんだか。お前も立派なテロリストだろうに」
その瞬間――
目にも止まらぬ速さで、マスターの手がコートの内側へ滑り込んだ。
そして、気づいた時には銃口が男の眉間に突きつけられていた。
あまりの速さに、倉庫にいた全員の空気が止まる。
冷汗が男の頬を伝い落ちた。
「俺がこれからやることは、お前らと違って“大義”がある。……お前らのようなクズと一緒にするな……!!」
殺気が剥き出しだった。
それは研ぎ澄まされた刃のように、そこにいる全員の喉元へと触れていた。
だがリーダーは、震えながらも軽口を捨てなかった。
「へへ……流石は“使い捨て部隊”の生き残りだな。全く見えなかったぜ、“少佐殿”」
しぼり出すような強がり。
だが、その声は震えていた。
マスターは冷酷な瞳を細める。
「貴様に少佐などと呼ばれる筋合いはない。その減らず口も過ぎると身を滅ぼすぞ」
一言吐き捨てると、彼は銃をホルスターへ静かに戻す。
冷たく、正確に、そして美しいほど無駄がない動作――
やがてマスターは爆薬の入ったカバンを持ち上げ、背を向けて歩き出す。
「振り込みは済ませてある。爆破は成功させる。その後は勝手にしろ」
淡々と吐き捨てると、そのまま倉庫を後にした。
扉が閉まると同時に、沈黙が倉庫を覆う。
部下の一人が小声で尋ねた。
「親分、あの男……何者なんです?」
リーダーは深く、深くため息を吐いた。
「過去に囚われた惨めな男だよ……ほら! 俺たちもとっとと撤収するぞ!」
その言葉の裏にどんな意味が込められていたのか――それを知る者は誰もいない。
だがDは、屋根裏の暗がりからそれを聞きながら、胸が締めつけられるような痛みに気づいた。
男たちが散り始めたのを見届け、KがDの横に寄る。
「よし、分かれたな。……じゃあアタシは、テロリスト共を始末してくる。始末できたら、合流ポイントで待ってるぞ」
Dは、その声がやけに遠く聞こえるほど集中していた。
雨音が、胸の奥で溺れるように響いていた。
「分かった」
それだけ告げると、Dは雨の帳へと身を投じた。
マスターの背を追うために。
二つの影は別れ、
夜の雨はますます強さを増していく。
そして、どこにも逃げ場のない結末の時が、確実に――静かに迫っていた。
次紅蓮編をやろうと思いますが、D編くらい長なってもいいですか?(´・ω・`)
-
いいよー!!
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短めで!
-
ほかのニケ書いて!!