マスターは一人、静まり返った建物の奥に佇んでいた。
そこは喫茶店とは別に、彼が誰にも知られぬよう所有していた場所――
外界から切り離された、彼自身の“決意”を置くための部屋だった。
窓の向こうには、夜闇の中に浮かび上がる中央政府の施設がある。
冷たい光を放つその建造物は、まるでこの街の心臓であり、同時に癌のようにも見えた。
部屋の壁には巧妙に作られた隠し棚があり、その中には銃、刃物、通信機器――戦場を生き抜いてきた者だけが揃えられる、実戦用の装備が整然と並んでいる。
マスターは全身を黒一色の戦闘服に包み、無駄のない動作で装備を身につけていった。
ベルトを締め、ホルスターを確認し、刃の重みを確かめる。
その一つ一つの動作に、迷いは一切なかった。
その瞳に宿るものは、怒りでも狂気でもない。
――ただ、語ることすら許されないほどに重い「覚悟」だった。
その時。
「……今日はやけに、誰かにつけられていると感じていたが、その正体はお前か?」
振り返ることもなく、独り言のように呟く。
だがその声は、確かに“誰か”へ向けられていた。
室内は沈黙を保ち、応答はない。
マスターは装備を整え終えると、ゆっくりと暗闇へ視線を向けた。
空気のわずかな揺らぎ――人なら気づかぬその違和感を、彼は見逃さない。
「そこにいるのは分かっている。早く出てこい」
ホルスターからサプレッサー付きの拳銃を抜き、迷いなく構える。
銃口は暗闇の一点を正確に捉えていた。
やがて、その闇がわずかに動いた。
影の中から現れたのは、フードを深く被った一人のニケ。
足音一つ立てず、まるで闇そのものが形を成したかのように。
マスターは眉を顰める。
「……女?何者だ。フードを取れ。ゆっくりと」
一切の油断もなく、引き金に指を掛けたまま命じる。
ニケは抵抗せず、言われるがまま、ゆっくりとフードを下ろした。
露わになったその顔――
それを見た瞬間、マスターの時間が止まった。
「……デイジー?」
信じられないものを見るように、声が震える。
「何故、ここに……?」
思わず、拳銃を下ろしかける。
だが、その刹那。
「銃を下ろすな」
冷たい声が、室内を切り裂いた。
それは、彼が今まで一度も聞いたことのない声。
優しさも、迷いも、温度もない――ただの命令。
マスターは反射的に拳銃を構え直す。
「それでいい……」
Dは静かに、だが確かな殺意を宿して続ける。
「……そうじゃないと、お前を敵として殺せなくなる」
その右手に、斧が握られる。
無骨で重い、確実に命を断つための武器。
マスターは銃を構えたまま、苦く笑った。
「……そうか。君が、ニケの噂の部隊――シージペリラスか」
理解と同時に、深い悲しみが声に滲む。
Dは表情一つ変えず、問いを投げる。
「私たちのことを知っているのか。……何故こんなことをする?目的は?」
その声は冷徹で、任務遂行者のそれだった。
マスターは肩を竦めるように笑う。
「君たちの存在はとっくに知っていたさ。あいにく、顔までは分からなかったが……」
一瞬、窓の外――中央政府の施設へと視線を向ける。
「目的と聞いたな?簡単だ」
そして、歪むような笑みを浮かべる。
「……復讐の為だ!!」
次の瞬間――マスターは拳銃をDへ向かって投げつける。
同時に、腰に差していたククリナイフを抜き放ち、距離を詰める。
それは、遠距離武器を自ら捨てる行為。
だがDには、その意味が一瞬で理解できた。
――ニケには、人間用の銃は通用しない。
だから彼は、刃を選んだ。
Dは飛んできた拳銃を躱し、迫る刃を斧で受け止める。
金属同士が衝突し、暗闇に火花が散った。
数度、激しい衝突音が響く。
鍔迫り合いの中で、Dは息を呑む。
(……拮抗している)
否――
(押されている……?)
人間であるはずの彼が、ニケである自分と力を競り、互角以上に渡り合っている。
その事実が、Dの中で静かな戦慄を呼び起こす。
「……クッ!」
力を振り絞り、マスターを押し返す。
距離が開いた瞬間、Dは斧を振り抜いた。
だがマスターは、それを予期していたかのようにバックステップで躱す。
――一瞬の攻防で、Dは確信する。
『……やはり、彼はただの人間ではない』
額を伝う汗を拭うこともせず、Dは問いを投げた。
「復讐と言ったな?何の復讐だ」
マスターは即座に言い返す。
「そんなことを、一々説明するつもりはない」
その言葉は、鋭く、拒絶に満ちていた。
Dの胸に、鈍い痛みが走る。
それは戦闘によるものではない。
――初めて、彼から向けられた、明確な拒絶。
二人は互いに得物を構えたまま、静かに見つめ合う。
かつて朝を共にし、温もりを分け合った相手が、今は、確実に命を奪うべき“敵”としてそこにいる。
雨音が、遠くで強くなっていた。
まるで、この先に待つ結末を知っているかのように。
この戦いに、逃げ場はない。
ーーーーーー
音が、なかった。
呼吸すら、互いに抑え込んでいるかのようだった。
マスターはナイフをわずかに下げ、直立に近い姿勢で立っている。
刃先は床を向き、力は抜けているが、いつでも殺せる距離と角度を保っていた。
Dは斧を肩に預けている。
誇示も威嚇もない。
ただ、そこに“ある”という事実だけが、圧となって空間を支配していた。
二人は、相手の呼吸だけを見ていた。
筋肉の緊張、重心の微細な移動、まばたきの間隔――言葉よりも雄弁な情報が、無音の中で交錯している。
先に動いたのは、Dだった。
斧が振られるより前に、空気が歪む。
重さが移動した、その“兆し”だけで、マスターは一歩ずれる。
次の瞬間、斧が床を砕いた。
鈍く、重く、建物全体を揺らす衝撃。
床材が割れ、破片が雨のように飛び散る。
マスターはその破片の中を滑るように踏み込み、ナイフを振り下ろす。
Dは斧を引き、今度は横に払った。
空間そのものを消し飛ばすような一振り。
風圧が壁を叩き、轟音となって室内を満たす。
だが、マスターは後退しない。
その場で身を屈める。
刃が彼の髪を切り、黒い房が宙を舞う。
風圧だけが、彼の背後を通過していった。
斧を振り切った一瞬の隙。
マスターはそれを見逃さない。
ナイフが走る。
Dは斧の柄で床を叩き、強引に体勢を戻す。
重心は低く、崩れない。
互いに、無駄な動きがない。
呼吸は荒れず、言葉もない。
ただ、命のやり取りだけが、淡々と繰り返されていく。
だが――その目には、殺気も憎しみもなかった。
そこにあるのは、あまりにも深い悲しみ。
壊れてしまったものを、互いに理解してしまっている者同士の目だった。
再び、構える。
マスターが床に散らばる破片を掴み、Dに向けて投げつける。
目潰し――即席で、だが確実な戦術。
Dはそれらを斧で弾き飛ばす。
その瞬間、気配が消えた。
――いない。
次の刹那、背後で空気が鳴る。
反射的に、Dは斧を振り上げる。
だが、斧は空を裂いただけだった。
マスターは、そこにはいなかった。
すでに、別の角度――死角に回り込んでいた。
ナイフが、Dの首元に触れる。
……寸前で、止まる。
同時に、Dの斧もまた、マスターの肋骨のすぐ脇で止まっていた。
互いに、致命傷を与えられる距離。
互いに、それを選ばなかった。
二人は動かない。
ただ、見つめ合う。
最初に口を開いたのは、マスターだった。
「……最初から嘘だったのか?」
声は低く、震えてはいない。
だが、悲しみが溢れていた。
「俺の店に来た時から、俺のことを調査するために近づいたのか?」
Dは目を見開く。
何かを喋ろうとして――やめる。
一度口を開けば、もう止まらないと分かっていたからだ。
マスターは続ける。
「俺のケーキを美味しいと笑った時も……二人でデートした時も……君は、心から楽しんでいるように見えた」
そして、ついに。
Dの首筋に当てていたナイフを、下ろしてしまう。
「……っ、ナイフを下ろすな!」
Dの叫びが、空気を裂く。
だが、マスターは止まらない。
「キスをしたあの時、君は心地良いと言ってくれた。ベッドで……君は、幸せだと言ってくれた」
痛みを隠すことなく、続ける。
「デイジー……あれも、全部嘘だったのか?」
その眼差しは、あまりにも悲しかった。
Dは斧を握る手が震えるのを自覚しながら、声を絞り出す。
「お願いだ……!ナイフを、下ろさないでくれ……!」
涙が、溢れていた。
マスターは静かにDを見つめる。
「デイジー……俺は、君を殺したくない」
その言葉に、Dの中で何かが壊れた。
「うるさい……うるさいっ!!」
叫びながら、Dはマスターに蹴りを放ち、強引に距離を取る。
「嘘をついていたのはお前の方だろう?!私の気持ちが嘘だと……!?ふざけるな!」
斧を構え、真っ直ぐに向ける。
「むしろ、裏切ったのはお前だ!」
そして、冷たく、名を告げる。
「私は、シージペリラスのニケ。D。罪を犯した者を、粛清する者だ」
涙を押し殺し、仮面を無理やり被り直す。
「ナイフを構えろ。どちらかが死ぬまで、これは終わらない」
その声は、冷酷だった。
――そう、演じていた。
「……デイジー……」
マスターは呟き、一瞬だけ固く目を閉じる。
そして、開いた。
ナイフを、構える。
二人とも、分かっていた。
次の一合で――どちらかが、必ず倒れる。
ーーーーーー
終わりは、音もなく始まった。
ナイフと斧がぶつかり合い、乾いた火花が闇を裂く。
金属と金属が噛み合う鈍い音が、遅れて空気を震わせた。
距離は、近すぎた。
互いの吐息が肌に触れ、心臓の鼓動さえ聞こえてしまいそうなほどに。
マスターの刃が鋭く走り、Dの斧がそれを弾く。
重い衝撃が腕を痺れさせ、骨の奥まで響く。
二人はほぼ同時に一歩踏み込んだ。
刃が絡む。
ほんの一瞬――武器同士が噛み合い、時間が止まったように見えた。
その刹那、Dの指がわずかに滑る。
同時に、マスターの手も僅かにずれる。
ナイフが、床に落ちた。
ほぼ同時に、斧の柄が弾かれ、Dの手から離れる。
重たい音を立てて転がる二つの武器。
それはもう、誰のものでもない刃だった。
沈黙の中で、先に動いたのはマスターだった。
彼は一歩踏み出し、斧を掴む。
Dは、迷わなかった。
床に転がったナイフを、躊躇なく拾い上げる。
一瞬だけ、視線が交わる。
互いに、笑わなかった。
互いに、驚きもしなかった。
「……っ!」
マスターの喉から、かすかな声が漏れる。
斧が振り下ろされる。
Dは身を引く。
鋭さよりも、どこか重さを感じる軌道だった。
振り下ろされた斧は、致命の一撃になり得た。
だが――その動きは、あまりにも慎重だった。
まるで、
“誰にも当たらないように”
そう配慮されたかのように。
マスターは、終わらせることができた。
Dの身体を砕き、ニケとしての命を断つこともできた。
それでも――
彼は、踏み込まなかった。
その迷いを、Dは見逃さない。
胸の奥が、強く、痛んだ。
Dは一歩、前に出る。
距離が、完全に消える。
ナイフが、一直線に胸元へ向かう。
彼は、避けなかった。
斧を持つ手も、下ろしたままだった。
刃が、胸に沈む。
音は小さく、驚くほど静かだった。
肉を裂く感触すら、雨音に紛れて消えてしまいそうなほどに。
Dの手が、震える。
マスターの身体が、わずかに揺れる。
目が合った。
彼は、何も言わない。
ただ、苦しそうに息を吐き、それでも――どこか穏やかな顔をしていた。
Dは、ナイフから手を離せなかった。
時間だけが、二人の間に落ちていく。
やがて、マスターは口から血を吹き出し、力なく崩れ落ちる。
「……っ!」
Dは慌ててその身体を抱き止めた。
腕の中にある温もりが、あまりにも現実で、あまりにも重い。
血が、止まらない。
服が、腕が、床が――赤く染まっていく。
「どうして……っ!」
Dの声は、掠れていた。
「どうして……!何故?!何故、私を殺さなかった……?!」
それは責める言葉であり、
同時に、救いを求める叫びだった。
自分を殺せる瞬間が、確かにあった。
それでも、彼は斧を当てなかった。
わざと、外した。
その事実が、Dの心を引き裂いていく。
マスターは、空気が漏れるような呼吸をしながら、かすかに笑う。
「……あぁ……なんでだろうな……やっぱり、殺せない」
声は、消え入りそうだった。
身体から、どんどん力が抜けていくのが、抱きしめているDにも分かる。
それでもDは、離さなかった。
「デイジー……」
血に濡れた唇が、ゆっくり動く。
「すまない……横にしてくれないか……?」
その声は、あまりにも優しくて。
Dは、涙を零しながら頷いた。
震える手で、そっと彼の身体を床に横たえる。
「……少し、楽になったよ……」
命の灯火が消えかけているというのに、彼はなお、微笑んでいた。
Dは、彼の胸元を見る。
ナイフは、心臓の奥深くまで刺さっている。
誰が見ても、致命傷だった。
Dはその場に座り込み、両手で顔を覆い、嗚咽を漏らす。
そして、必死に言葉を絞り出した。
「……マスター……教えてくれ……」
涙に濡れた声で。
「何故……こんなことを……?」
喫茶店のマスターでいてくれたなら。
ただ、コーヒーを淹れ、ケーキを焼き、笑ってくれていたなら。
こんな結末は、なかったかもしれない。
幸せな未来だって、あったかもしれない。
マスターは、小さく息を吐いた。
それから――ポツリ、ポツリと。
まるで、長い間胸に溜め込んでいたものを、
最後に吐き出すように。
ゆっくりと、語り始めた。
ーーーーーー
「第一次ラプチャー侵攻の際――」
マスターの声は、かすれていた。
血に濡れた唇が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「人類は……なす術もなく、蹂躙されていた……」
彼は微笑もうとして、ほんの少し口角を上げる。
その仕草だけで、Dの胸は締めつけられた。
「やがて……人類の技術の粋を集めて生み出されたのが、ニケ……君たちだった……」
血に濡れた手が、震えながらDの頬に触れる。
その温もりが、まだ確かに“生きている”ことを告げていて、Dは息が詰まりそうになる。
「だが……」
マスターは一度、喉を鳴らす。
「人類は、すぐに気づいた。ニケを作るには、あまりにも……資材も、時間も、かかりすぎることに」
その直後、激しい咳が彼の身体を襲う。
赤黒い血が、口から溢れ落ちる。
「……っ!」
Dは咄嗟に彼の頭を抱え、自分の膝の上へとそっと引き寄せる。
マスターは、笑った。
「……安価で……換えがきいて……それでも、ラプチャーに対抗できる兵士が必要になった……」
呼吸が、荒くなる。
「……それが……俺たちだ」
言葉が落ちた瞬間、Dの眉間に深い皺が刻まれる。
理解してしまったからだ。
あまりにも、残酷な真実を。
「俺たちは……もともと、各国の特殊部隊所属だった……」
彼は、遠い過去を見るような目をした。
「ある日突然……何も知らされず……拘束されて……身体を、好き勝手に弄られた……」
一瞬、言葉が止まる。
「……脳みそまで、だ」
Dの喉が、ひくりと鳴った。
それは、人間に対して行われた、あまりにも非人道的な行為だった。
「……それが……復讐の理由か……?」
Dの問いは、震えていた。
だが、マスターは、ゆっくりと首を振る。
「いや……」
彼は、静かに息を吐く。
「人類のために戦うこと自体は……嫌じゃなかった……だから、そのこと自体を……恨んじゃいない」
苦しそうに息を整えながら、それでも微笑む。
「……それに……身体が頑丈になったおかげで……長生きできて、こうして、君と出会えた……」
死が、すぐそこまで来ているというのに。
彼は、優しかった。
「やがて……俺は、部隊を率いて……あるニケの部隊に合流した……」
静かな声で、彼は続ける。
「……“ゴッデス”と、呼ばれていた部隊だ」
Dは、息を呑む。
「……ゴッデス……」
それ以上、言葉は出なかった。
ただ、彼の声を聞いていたかった。
「眩しかったよ……彼女たちは……」
マスターの目に、微かな光が宿る。
「俺たち……使い捨ての部隊のことも……必死に助けようとしてくれた……」
だが、その光は、すぐに翳る。
「戦況は……日に日に悪化して……やがて……俺は負傷した……」
悔しそうに、歯を噛み締める。
「治療のために……部下達と……ゴッデスから……離れることになった……」
一拍。
「……治療の後、目を覚ました時には……」
声が、低く沈む。
「人類は……アークへ撤退した後だった……俺は昏睡状態になっていたらしい」
Dの手が、無意識に強く握られる。
「……俺の部下達と……ゴッデスは……人類が逃げるための……“盾”になって……消えていた……」
マスターの目に、濃い憎しみが宿る。
「人類のために盾になったのなら……まだ、よかった……」
唇が、歪む。
「だが……中央政府は……部下達の存在を隠し……ゴッデスの彼女たちのことも……見捨てた……」
低い声で、吐き捨てるように。
「……その時からだ……復讐を……考えるようになったのは……」
沈黙が落ちる。
やがて――その憎しみの目が、ふっと、柔らかくなる。
「……だが……」
彼は、Dを見つめた。
「こうして……君に止められたのは……よかったのかもしれない……」
微笑む。
「俺の部下達が……ゴッデスの彼女たちが……必死に守り抜いたアークを……俺の手で壊すことになったら……」
かすかに、首を振る。
「……アイツらに……顔向けできない……」
その直後、激しい咳が彼を襲う。
血の量が、明らかに増えていた。
「……っ……!」
マスターは、震える手で、自らの胸に刺さったナイフに触れる。
「……マスター!ダメだ……!抜いたら……死んでしまう……!」
Dは、必死に彼の手を押さえる。
だが、マスターは、穏やかに笑った。
「……どのみち……助からない……」
優しく、諭すように。
「それに……俺が死なないと……君に……迷惑がかかる……」
「嫌だ……!」
Dは、首を振り続ける。
「なにか……なにか……方法が……あるはずだ……!」
涙が、止まらない。
「……一人に……しないで……くれ……」
嗚咽混じりの声。
「……もう……一人は嫌なんだ……!愛しているんだ……!貴方を……!」
縋るように、叫ぶ。
マスターは、その姿を、愛おしそうに見つめた。
「あぁ……俺も……君を愛している……」
かすれた声で。
「ずっと……そばに居たい……」
だが、ゆっくりと、首を振る。
「……だが……俺には……君を……幸せには……できない……」
そう言って――
彼は、ナイフを抜いた。
「……っ!!」
Dは、ただ、見ていることしかできなかった。
血が、一気に溢れ出す。
床に、広がっていく。
マスターの体温が、急速に失われていく。
Dは、その身体を、強く、強く抱きしめる。
「嫌だ……嫌だ……!」
声が、壊れる。
その耳元で、マスターが、囁いた。
「……デイジー……顔を……見せてくれないか……」
Dは、涙で歪む視界のまま、顔を近づける。
その時だった。
Dの胸元から、淡い光が溢れ出す。
スミレのネックレス。
二人でデートしたあの日、マスターが贈ってくれたもの。
マスターは、目を見開く。
「あぁ……」
小さく、息を吐く。
「……やっぱり……そのネックレスは……君によく……似合う……」
微笑んで。
Dの頬に手を添える。
「……綺麗だ……」
次の瞬間――
彼の身体から、すべての力が抜け落ちた。
その微笑みを残したまま。
静かに。
あまりにも、静かに。
ーーーーーー
いつのまにか、雨は上がっていた。
あれほど激しく窓を叩いていた音は消え、静寂だけが、重く部屋を満たしている。
雲の切れ目から、エターナルスカイに映し出された偽りの月が姿を覗かせる。
人工の光であるはずなのに、その淡い月明かりは、どこまでも優しく、冷たく、窓越しに差し込んでいた。
月光は床を撫で、壁を伝い、やがて――Dの膝の上に横たわるマスターの顔を、静かに照らし出す。
Dは、動けずにいた。
膝枕をしたまま、まるで時間そのものが凍りついたかのように、ただそこに在った。
「……マスター?」
声は、かすれている。
「……目を、開けてくれないか……?」
返事はない。
「……雨が止んだ、綺麗な月だ……マスター……」
月明かりの中で、彼の顔は驚くほど穏やかだった。
苦しみも、怒りも、長い年月に積み重ねてきた恨みさえも、すべてを手放したかのように。
Dは、震える指でマスターの頬を撫でる。
その肌は、もう温もりを返さない。
「……作り物の月だが……綺麗なんだ……」
言葉が、途切れる。
「……だから……お願いだ……」
喉が詰まり、声が震える。
「……目を、開けて…………もう一度だけ……」
その瞬間、Dの視界が歪む。
目元から溢れ出た水滴が、閉じられたマスターの瞼へと落ちた。
ぽとり。
また、ぽとり。
「……っ……」
息が、うまく吸えない。
「……マス……ター……」
その名を呼ぶ声は、ついに耐えきれず、嗚咽へと変わる。
やがて、部屋の中に響くのは、Dの啜り泣きだけだった。
それは、声を殺そうとすればするほど、深く、長く続いた。
誰に聞かせるわけでもない、ただ喪失だけを吐き出す音。
――どれほどの時間、そうしていただろうか。
気づけば、マスターの身体は、完全に冷え切っていた。
膝に伝わるその冷たさが、何よりも残酷に、これが夢ではないと告げてくる。
Dは、ぼんやりとマスターの顔を見つめる。
赤く腫れた目で、何度も、何度も。
そして、ゆっくりと、その頭を撫でた。
もう返ることのない温もりを、確かめるように。
その瞳には、押し潰されそうな悲しみと、どうにもならない現実を、必死に受け止めようとする色が宿っていた。
Dは、そっと身を屈める。
そして――マスターの唇に、静かに口付けた。
それは、情熱でも、欲望でもない。
ただ、最後の別れとして捧げられた、深い祈りようだった。
「……」
言葉は、もう必要なかった。
Dは、ゆっくりと彼の頭を自らの膝から下ろす。
床に横たえ、静かに整える。
立ち上がると、足元がわずかにふらついた。
それでも、彼女は扉へと向かう。
扉の前で、一度だけ、立ち止まり――振り返る。
月明かりに照らされたマスターの姿が、そこにあった。
穏やかで、静かで、もう何も語らない姿。
そして、彼女は扉を開け、部屋を後にした。
残されたのは――長い年月、恨みと復讐に囚われながらも、それでも人に優しく、温かいコーヒーを淹れ続けた、ひとりの男の亡骸だけ。
偽りの月は、何も語らず、ただ静かに、その姿を照らし続けていた。
ーーーーーー
合流地点には、すでにKがいた。
コンクリートの床には、乾ききらない血の跡が点々と残り、空気には鉄の匂いが薄く漂っている。
Kの姿は、その中心に立っていた。
返り血が頬から首元にまで及び、彼女が「問題なく」仕事を終えたことを、雄弁に物語っていた。
それでも――
Kは、いつもと変わらない調子で笑う。
「やっと帰ってきたか。いやー、遅いからさ。やられたんじゃないかって、ちょっと心配したんだぞー?」
軽口。
あまりにも軽く、あまりにも日常的な声。
Dは立ち止まらない。
視線も向けず、ただ静かに答える。
「問題ない。始末した」
それだけだった。
感情は、声に乗らない。
まるで報告書の一文のように、乾いた言葉。
Dはそのまま、Kの横を通り過ぎる。
「あ、おい!ちょっと待てって!」
Kは慌てて声を張る。
「報告書はどうすんだよ?なぁ、おい!?聞いてんのか!?」
だが、Dは振り返らない。
足を止めることもなく、夜の闇へと溶けるように去っていく。
Kは、その背中を見送りながら、言葉を失った。
いつものDとは、どこか違う。
それだけは、はっきりと分かった。
ーーーーーー
やがてDが辿り着いたのは、あの喫茶店だった。
灯りは落ち、看板も消え、すでに閉じられた空間。
それでも、その扉の前に立った瞬間、胸の奥が締め付けられる。
震える手で、ポケットから鍵を取り出す。
マスターから渡された、合鍵。
金属が触れ合う、かすかな音。
鍵穴に差し込み、回す。
カチャリ。
扉が開いた瞬間、
コーヒー豆の香りが、Dの鼻腔を満たした。
その香りは、あまりにも優しく、あまりにも残酷だった。
Dは、おぼつかない足取りで店内を進む。
カウンター、テーブル、磨かれた床――すべてが、彼の存在を訴えかけてくる。
そして、奥の部屋。
あの夜、彼に抱かれた、あのベッドのある部屋へ。
扉を開けると、静寂が迎えた。
Dは、中に一つだけある椅子に腰を下ろす。
視線は、定まらない。
壁でも、床でも、天井でもない、どこでもない場所を、ただ見つめる。
なにも考えられなかった。
思考が、止まっている。
生きる気力も、目的も、理由も――
すべて、あの瞬間に置いてきてしまったかのように。
愛する人を、
自分の手で殺してしまったという現実。
それが、Dの心を、容赦なく蝕んでいた。
憎かった。
自分が、何よりも。
事実、Dの精神は、限界に近づいていた。
思考転換――ニケとしての機能が、過度のストレスにより、すべてを切り替えようとする兆候。
Dは、無意識に斧へと視線を落とす。
冷たい金属。
馴染みすぎた重さ。
ゆっくりと、それを持ち上げる。
そして――自らの首へ、添える。
その刃は、確かにそこにあった。
その時だった。
耳元で、確かに――小さく、優しい声がした。
『デイジー。君は、生きろ』
息が止まる。
咄嗟に、振り返る。
だが、そこには誰もいない。
空気だけが、静かに揺れている。
Dは、小さく、悲しげに笑った。
「……マスター……」
名前を呼ぶ声は、震えていたが、どこか穏やかだった。
そして、Dは顔を上げる。
その表情から、先ほどまでの深い悲しみは消えていた。
残っていたのは――決意と、静かな哀悼。
Dは立ち上がり、喫茶店の扉をくぐる。
外へ出て、鍵をかける。
カチャリ。
鍵を、強く、強く握りしめる。
そして、振り返らず、その場を後にした。
ーーーーーー
数ヶ月後。
シージペリラスの待機所に、Dはいた。
今日もまた、ターゲットに近づくための変装。
肩が露わになった、扇情的な服装。
任務に必要な、仮面。
そして、胸元には――あのスミレのネックレス。
Kは、その姿を見て、ふと違和感を覚える。
「なぁ、D」
軽く声をかけながら、視線を巡らせ――
そして、気づいた。
「そのタトゥー……今まで、あったか?」
Dの左腕。
そこには、新しいタトゥーが刻まれていた。
Dは、一瞬だけ視線を落とし、
その部分を、そっと撫でる。
「入れてもらった」
その声音は、柔らかい。
そして、悲しみを含んでいた。
Kは、首を傾げる。
「花だよな?なんて花なんだ?」
Dは、少しだけ間を置いて答える。
「スミレだ」
それだけ言うと、Dは待機部屋を後にする。
左腕に刻まれた、かつて愛した男との記憶。
胸元に揺れる、贈られた想い。
それらを抱えたまま、
Dは今日も、闇へと身を潜める。
アークを、影から守るために。
彼女は、シージペリラス。
これまでも。
そして、これからも。
これにてD編は完結です。
やめて!殴らないで!!結局悲恋になっちゃった!!
途中から雲行きが怪しいなーとは思ってたんですけど、結果悲恋になっちゃった泣
でも、Dがスミレの花が好きな理由の裏付けにもできたし、流れは満足してます笑
次は紅蓮編かー。
しんどそうやな笑
あ!ところで、マスターの設定はどうでしょうか?!
この設定はHALOというゲームに出てくるスパルタン計画をモデルにしています!
この設定はすべての話に共通にしようと思ってます!
次紅蓮編をやろうと思いますが、D編くらい長なってもいいですか?(´・ω・`)
-
いいよー!!
-
短めで!
-
ほかのニケ書いて!!