今回も長くなりそうな予感
side、マスター
喫茶店ルポ。
アークの喧騒から、ほんの一歩だけ距離を置いた場所。
そこは今日も、時間そのものが歩みを緩めたかのような静けさを湛えていた。
豆を挽く低い音が、規則正しく空間を満たす。
湯が注がれる微かな音。
陶器に触れる金属のかすかな震え。
立ち昇るコーヒーの香りは、ここが戦争の名残を抱えた都市であることを、ほんのひととき忘れさせる。
だが、その香りの奥底には、どこか拭いきれない哀愁が滲んでいた。
カウンターの向こうに立つ男は、白い湯気の向こう側で、一杯のコーヒーを淹れている。
その所作は静かで、正確で、無駄がない。
しかし同時に、どこか過剰なほど丁寧だった。
カウンター正面。
今日も、そこだけは空いている。
誰も座らない。
誰も案内されない。
それでいて、椅子が引かれることも、撤去されることもない。
まるで、
いつか誰かが、座るのを待っているように。
マスターは、いつもの日課のように、その席へと視線を送る。
そこに誰もいないことを確認し、それでも目を離せずにいる自分を、責めることもなく。
そのとき――
カラン、と鈴が鳴った。
ドアが開く。
その音に、マスターの手が、ほんの一瞬だけ止まった。
常連の足音とは違う。
耳が覚えている。
だが、心が拒絶する歩調。
「……いらっしゃい」
反射的に口をついて出た言葉は、途中で途切れた。
視線を上げた、その瞬間。
店に入ってきた男を見た瞬間――マスターの表情から、すべての柔らかさが消えた。
背筋が、自然と伸びる。
目が、鋭く細められる。
それは、まるで戦場で敵に銃口を向けるように刺々しいものだった。
男は、ゆっくりと帽子を脱ぐ。
その動作に、気取ったところはない。
ただ、疲労と歳月が滲んでいる。
「久しぶりだな」
低く、落ち着いた声。
しかし、その奥には、隠しきれない疲弊があった。
マスターは、眉間に深い皺を刻む。
「……何をしにきた?」
吐き捨てるような声。
それは、客に向けるものではない。
ましてや、かつて知った男へ向ける声音でもなかった。
そこにあったのは、
嫌悪。
憎しみ。
そして、長年沈殿していた怒りだった。
男――アンダーソンは、その視線を真正面から受け止める。
逸らさない。
言い訳もしない。
ただ、小さく息を吐く。
「……まだ、俺のことは許せないか?」
その言葉は、問いというよりも、確認だった。
答えは、最初から分かっている。
それでも、口にせずにはいられなかったのだろう。
「……許せないか、だと?」
次の瞬間。
マスターの手が、カウンターを強く叩いた。
ドン――
乾いた音が、静かな店内に響き渡る。
「当たり前だ!!」
声が荒れる。
抑え込んできた感情が、堰を切ったように溢れ出す。
「お前は……!彼女達の指揮官だったんだぞ?!」
その瞳に宿るのは、怒りだけではない。
悔恨。
悲嘆。
そして、決して埋まることのない喪失。
「人類の希望だと?勝利の象徴だと?ふざけるな……!」
カウンター越しに、マスターはアンダーソンを睨みつける。
「ゴッデスは……彼女達は、人類の盾になって消えた。俺の部下達もだ。なのに……!」
声は低く、震えていた。
「何故だ?何故、お前は……今も俺の目の前にいる?」
それは問いではない。
答えを求めていない。
ただの――責めだった。
アンダーソンは、何も言えず、視線を落とす。
帽子を胸に抱いたまま、深く俯いた。
「……それは、言えない」
沈黙が落ちる。
「機密事項なんだ」
短い言葉。
だが、それはあまりにも簡潔で、あまりにも残酷だった。
マスターは、しばらく何も言わなかった。
怒りが消えたわけではない。
ただ、それ以上ぶつけても、何も変わらないと理解していた。
「……あぁ。知っている」
ぽつりと、呟く。
「何も言えないことくらい。……お前に怒鳴ることが間違っていることもわかってる」
「……俺だって、戦場に戻れず、部下達の……彼女達の犠牲の上で生きている……」
やり場の無い怒りなのか、それとも自分の無力さへの怒りなのか、分からないまま、深く、深くため息を吐く。
その吐息には、何年分もの諦めと疲労が混じっていた。
「で?」
視線を上げる。
「本題は?意味もなく、ここに来るような男じゃないだろう」
アンダーソンは、ゆっくりと顔を上げた。
そこにあったのは、
かつて人類を率いた英雄の顔ではない。
ただ、多くを失い、今なお背負い続ける――一人の男の顔だった。
「……ああ」
短く頷く。
そして、一拍置いてから、慎重に、言葉を選ぶように口を開く。
「ゴッデス部隊は――」
その名が出た瞬間。
店内の空気が、凍りついた。
「……まだ、生きている」
世界が、止まった。
マスターの指が、微かに震える。
信じない。
信じてはいけない。
信じれば、また失う。
それでも。
胸の奥で――
確かに何かが、ほんのわずかに、揺れた。
ーーーーーー
夜。
アークの灯りが遠くで滲み、店内にはもう客の気配はない。
看板は裏返され、扉は固く閉ざされている。
それでも、カウンターの内側だけは、淡い照明が落とされていた。
マスターは一人、カウンターの中で、カップを磨いていた。
白い布で、ゆっくりと。
何度も、何度も。
その動きは、昼間と変わらない。
正確で、静かで、習慣に染み付いた所作。
いつもの日課。
いつもの作業。
――の、はずだった。
だが、今夜に限っては、彼の意識は、その手元にはなかった。
昼間。
アンダーソンと交わした、あの会話を思い出す。
その一言一句が、
耳鳴りのように、執拗に脳裏で反響していた。
『……は?なに、を、言っている?』
自分の声が、記憶の中で再生される。
信じることを拒むような、乾いた声音。
それに対して、アンダーソンは、逃げも誤魔化しもしなかった。
『まだ確定では無い。しかし――その可能性はある』
その言葉が、何度も、何度も、胸の内側を叩く。
マスターの手が、ふと止まる。
磨いていたカップの縁に、指が触れたまま動かなくなる。
『ある一人の指揮官と、その部隊が――地上で彷徨う、白いピルグリム……ニケと遭遇したそうだ』
白い、ニケ。
その言葉を思い出した瞬間、喉の奥が、きゅっと締め付けられた。
ごくり、と生唾を飲む。
白。
その色が示す存在を、マスターは一人しか知らない。
いや――
知っている、というより、忘れられない。
『彼女は、その指揮官の前で、ラプチャーとの戦闘の際――こう言ったそうだ』
アンダーソンは、ほんのわずかに間を置いた。
『――セブンスドワーフ。と』
その言葉が、疑念を、確信へと変えた。
マスターは、静かに呟く。
『……スノーホワイト……』
声は、震えていなかった。
だが、それがかえって、深く胸に沈んだ。
脳裏に浮かぶのは、レッドフードに揶揄われ、その白い肌を、怒りと羞恥で真っ赤に染めていた、あの顔。
不器用で、頑固で、それでも誰よりも真っ直ぐだった彼女。
アンダーソンの声が、再び響く。
『今、分かっているのは、そのニケのみだ』
希望を与えながら、決して浮かれさせない声。
『だが――他のメンバーも、生き残っている可能性は、十分にある』
その瞬間。
マスターの身体から、力が抜けた。
磨いていたカップを、そっと置き、
カウンターの内側にある椅子へと、ゆっくり腰を下ろす。
背中が、丸くなる。
『……スノーホワイト…』
低く、呟く。
『…生きて……いたのか……』
俯いたまま、力なく笑う。
それは、喜びとも、悲しみともつかない、微笑だった。
そして、顔を上げ、アンダーソンを見る。
その表情には、長年積み重なった疲労が、一気に噴き出したような影があった。
『それを……わざわざ、教えに来てくれたのか?』
アンダーソンは、小さく笑った。
それは皮肉でも嘲笑でもない。
ただ、どこか懐かしむような笑みだった。
『君が、ゴッデスの紅蓮と――懇意だったことは、リリスから聞いていた』
その名前を聞いた瞬間。
マスターの目が、僅かに見開かれる。
『……あぁ』
息を吐くように言う。
『久しぶりに……その名前を、他人の口から聞いた』
悲しげに、笑った。
『…紅蓮…』
とだけ、小さく呟く。
その声は、まるで、割れ物が割れてしまわないように、傷付かないように、大切に呟いていた。
そして、言葉を続ける。
『今すぐにでも……地上に行って、彼女を……紅蓮を、探しに行きたい』
一瞬、言葉が詰まる。
『……無理な話だがな』
そう言って、自嘲気味に、笑った。
アンダーソンは、そんなマスターを見つめていた。
まるで、痛々しいものを見るようでもあり、同時に――ひどく眩しいものを見るようでもあった。
『……ここに来たのは』
アンダーソンが、静かに切り出す。
『それを伝えるためだけじゃない』
マスターは、ふと我に返る。
ゆっくりと、顔を上げる。
『……?』
意味が分からない、というように。
アンダーソンは、はっきりと告げた。
『白いニケに会った――その指揮官に』
一拍。
『会ってみないか?』
喫茶店に、静寂が落ちる。
それは、マスターの止まっていた時間が、再び動き出す音だった。
ーーーーーー
side、紅蓮
勝利の翼号の甲板には、夜の風が流れていた。
乾いた金属を撫でるように吹き抜ける風は冷たく、遠くで機関の低い振動音が、絶え間なく船体を揺らしている。
星はよく見えた。
その空は広く、深く、そして残酷なほどに澄んでいる。
甲板の縁に腰掛け、紅蓮はただ空を見上げていた。
雲の切れ間を流れていく星々を、何度も、何度もなぞるように目で追いながら。
――帰ってくる。
そう信じている。
信じていなければ、ここに座り続ける理由などなかった。
来る日も、来る日も。
作戦の合間を縫い、暇があればこの場所に足を運び、彼女は同じように空を眺め続けた。
誰かを待つという行為は、時に戦うことよりも体力を削る。
それでも紅蓮は、立ち上がろうとしなかった。
「……蓮……紅蓮?」
背後から、控えめに呼びかける声。
聞き慣れた、優しい声だった。
「……っ」
はっとして、紅蓮は振り返る。
そこにはリリーバイスが立っていた。
柔らかな光を背に受け、彼女は紅蓮の顔をじっと見つめている。
その視線に、紅蓮は一瞬だけ目を逸らした。
自分の顔が、どんな表情をしているのか――分かってしまったからだ。
想い人に会えぬ悲しみ。
期待と不安が交互に胸を締めつける、その狭間で揺れる心。
紅蓮の表情は、強く在ろうとする意志とは裏腹に、どこか脆く、震えて見えた。
「もう時間も遅いわよ?」
リリーバイスは、責めるでもなく、諭すでもなく、穏やかに言った。
「みんなで食事にしない?」
紅蓮は、再び空へと視線を戻す。
そして、ゆっくりと首を横に振った。
「……いや。私は、もう少しここに居ることにするよ。食事は……皆で先に食べてくれ」
その声は静かで、しかし決意に満ちていた。
リリーバイスは、その横顔を見つめ、少しだけ息を整える。
「……今日も、”彼”を待つつもりなの?」
優しく、微笑みを含んだ声だった。
紅蓮の瞳が、わずかに揺れる。
だがすぐに、その揺れは収まり、彼女は小さく笑った。
――もう、隠す必要はない。
彼女は理解していた。
自分と彼の関係は、とうにリリーバイスに見抜かれているのだと。
「……あぁ。なんだか、今日は彼が帰ってくる気がするんだよ」
そう言って浮かべた微笑みは、どこか無理をしているようにも見えた。
希望を手放さないために、自分自身に言い聞かせているような、そんな笑み。
リリーバイスは、胸の奥が少し痛むのを感じながら、その隣に腰を下ろした。
金属がかすかに鳴る。
彼女は持ってきた籠を、紅蓮の横に置く。
中には、暖かな飲み物と、簡単な軽食が丁寧に詰められていた。
「……なんだい?これは」
紅蓮は戸惑ったように尋ねる。
リリーバイスは、わざと明るく笑ってみせる。
「私が言っても、動かないだろうと思ったから。少しは食べて、ちゃんと寝なさい」
そして、少しだけ声の調子を変えて、冗談めかして続けた。
「じゃないと、彼が帰ってきたときに、やつれた顔で迎えることになるわよ?きっと、びっくりするんだから」
彼女は知っていた。
紅蓮が、彼を待つ間、ほとんど何も口にしていないことを。
飲まず、食べず、ただ空を見上げていることを。
紅蓮は一瞬きょとんとしたが、やがて小さく笑った。
「……そうだね。彼が、せっかく回復して帰ってくるのに、私が体調を崩していたら……意味がない」
そう言って、籠から軽食と飲み物を取り出し、ゆっくりと口に運ぶ。
それを見て、リリーバイスは満足そうに頷いた。
「そうそう。食べないと元気出ないわよ?」
一拍置いてから、にやりと笑う。
「……それに、彼に抱いてもらう時に痩せ細ってたら、彼もその気にならないわよ?」
「――っ!」
紅蓮は、思いきりむせた。
「ゲホッ……ケホッ!!」
「な、な、何を言っているんだい?!わ、私は……まだ彼とは、そ、そんなことは……!」
顔を真っ赤にして言い返す紅蓮に、リリーバイスは声を立てて笑う。
「ふふ、ごめんなさい。冗談よ。……紅蓮でも、そんなふうに取り乱すことがあるのね」
ようやく揶揄われていたと気づき、紅蓮は大きく息を吸い、吐く。
「……まったく。揶揄うのも大概にしてくれるかい」
そう言いながら、再び軽食に手を伸ばす。
リリーバイスは、遠い空を見上げたまま、静かに言った。
「大丈夫。彼は、きっと帰ってくるわ」
紅蓮は、その言葉に、ほんの少し俯いた。
「……最近ね。嫌な夢ばかり見てしまうんだ。彼が帰ってこない夢を」
声は小さく、夜風に溶けるようだった。
「いろんな結末があって……待っても、待っても帰ってこなかったり」
「逆に、帰ってきたと思ったら……そこで目が覚めて、現実を思い知らされる」
それは、彼女にとって珍しい弱音だった。
リリーバイスは、思わず紅蓮を見る。
――ここまで想っているのだ。
その事実が、胸に深く刺さる。
リリーバイスは、そっと微笑んだ。
「……愛しているのね。彼を」
紅蓮は、否定しなかった。
ただ、静かに言葉を選び、呟く。
「この感情を、愛というのなら……」
「私は、彼を間違いなく愛しているよ。心から」
リリーバイスは立ち上がる。
夜風に髪が揺れる。
「紅蓮?いい時間になったら、ちゃんと寝るのよ。いつ作戦に呼ばれるか、分からないんだから」
紅蓮は、顔を上げて微笑んだ。
「私は、リリスの子供かい?」
リリーバイスも笑う。
「私の部隊は、手のかかる子ばかりで困るわ」
そう言って、彼女は甲板を後にした。
その背中を見送りながら、紅蓮は小さく、しかし確かに呟く。
「……ありがとう」
その声は、リリーバイスに届いたかどうか分からない。
だが、確かに紅蓮の中に残った。
再び、彼女は空を見上げる。
変わらぬ星々の下で、ただ一人、待ち続ける。
――帰ってくると、信じて。
紅蓮編の結末予想ーー!
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やっぱり、ハッピーエンドだよね!
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このクソ作者の癖が全開になりバッドエンド
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紅蓮さんとマスターが2人旅するんだ!
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アークに戻って喫茶店を営む日常に戻る