「よく来てくれた」
アンダーソンの低く落ち着いた声が、執務室に響いた。
重厚な扉を開けて入ってきた男――マスターは、ゆっくりと一歩を踏み出す。
その隣には、エリシオン社のCEO、イングリッドが立っていた。
腰に手を当て、背筋を伸ばしたその姿は、意図せずとも自身の地位と存在感を示している。
「彼が?」
イングリッドは短く問い、アンダーソンは静かに頷いた。
「あぁ、そうだ」
その返答を受け、イングリッドは迷いなくマスターの前へと歩み寄る。
そして、次の瞬間――
彼女は、敬礼した。
形式的ではない。
軽くもない。
一人の人間として、最大限の敬意を込めた、はっきりとした敬礼だった。
「はじめまして。私はエリシオンのCEOを務めております、イングリッドと申します」
澄んだ声で名を名乗り、続けて言葉を重ねる。
「貴方のことは、アンダーソンから伺っております。過去のご献身に対し、感謝の念しかありません」
その言葉に、マスターは思わず目を見開いた。
一瞬、何を言われたのか分からなかったように。
次いで、苦笑が浮かぶ。
「……やめてください」
声は低く、静かだった。
「私は、ただの敗残兵です。部下も守れず、共に戦ったニケの彼女達も守れなかった……ただの、元軍人に過ぎません」
その言葉を吐いた瞬間――
マスターの脳裏に、否応なく光景がよぎった。
泥と血にまみれた戦場。
叫び声。
通信の途絶えたヘッドセット。
名前を呼び続けても、返事のなかった部下達の顔。
そして――
灰色の甲板。
冷たい風。
約束を交わした、紅蓮の眼差し。
待っている、と言った彼女。
信じている、と微笑んだ彼女。
守ると誓ったもの。
帰ると誓った場所。
それらすべてを、果たせなかった現実。
マスターの視線が、自然と床へと落ちる。
だが、イングリッドは首を横に振った。
「それでも、です」
はっきりと、強い口調で言い切る。
「それでも、私達人類が今こうして生きているのは、その当時、必死に戦ってくれた貴方の部下達と、ニケ達の尽力があったからです」
一歩も引かない。
「誇ることはあっても、恥じることではありません」
その言葉は、慰めではなかった。
評価でも、同情でもない。
――断言だった。
マスターは、何も言えなかった。
喉の奥が、ひどく重い。
胸の奥が、締め付けられる。
思い出してしまったのだ。
命令を待っていた部下達の目を。
懸命に戦うニケ達の背中を。
紅蓮が見せた、あの微笑みを。
それらが、一気に胸に押し寄せる。
マスターは一瞬だけ俯き、目元を指で押さえた。
――堪えなければならなかった。
ここで崩れるわけにはいかない。
彼らの名を背負っているのは、自分なのだから。
やがて、静かに顔を上げる。
「……ありがとうございます」
短い言葉だったが、そこには、長い沈黙と後悔と感謝が詰まっていた。
その表情を見て、アンダーソンはわずかに微笑む。
「よし。君が来たから、本題に入るぞ」
イングリッドは頷き、再びアンダーソンの隣に立つ。
マスターは一度だけ深く息を吐き、背筋を正した。
「わかった」
そして、視線をアンダーソンへ向ける。
「白いニケに出会った指揮官に会えると言っていたな」
「あぁ」
アンダーソンは頷く。
「そして――頼みがある」
マスターは眉をひそめる。
「頼み?ただ会うだけじゃないのか?」
アンダーソンは、一瞬だけ視線を伏せ、そして告げた。
「今、その指揮官に危機が迫っている」
静かな声だった。
「頼みとは、その指揮官を――守ってやってほしい」
ーーーーーー
「……守る?」
マスターは、反射的に問い返していた。
その声音には、困惑と警戒が混じっている。
「どういうことだ。何故、指揮官が狙われる?」
理解が追いつかない、というように眉を寄せ、アンダーソンを見据える。
アンダーソンは一度、小さく息を吐いた。
簡単な話ではない――そう語る前から分かっている表情だった。
「実はな……」
言葉を選ぶように、視線をわずかに逸らす。
「その指揮官は今、あるニケを保護している」
その言い回しだけで、只事ではないことは察せられた。
マスターは即座に言葉を挟む。
「……そのニケに、問題があるのか」
問いではなかった。
断定だった。
アンダーソンは、短く――だが重く頷く。
「そうだ」
それ以上の説明はなかった。
沈黙が、逆に事態の深刻さを際立たせる。
マスターは腕を組み、思考を巡らせる。
「何が問題なんだ。ニケなんだろう。犯罪を起こすとは考えにくい。……無許可離隊か?」
その問いに答えたのは、アンダーソンではなく、イングリッドだった。
「詳細は、私から説明します」
彼女は一歩前に出る。
「問題となっているそのニケですが――実は、“元ヘレティック”なのです」
その言葉が放たれた瞬間、マスターの表情が、はっきりと変わった。
「……ヘレティック?」
信じられない、というように目を見開き、次の瞬間には険しい色が宿る。
「なぜ破壊しない」
声は低く、鋭かった。
マスターにとって、ヘレティックとは――討つべき敵であり、守る対象などでは、決してなかった。
過去の戦い。
ゴッデス達がいなければ、生き延びることすらできなかった死線。
そして、その時失われた、自らの片腕と片足。
今でも、時々、あるはずのない痛みに襲われる。
その記憶が、怒りと恐怖が憎悪を伴って胸の奥から噴き上がる。
イングリッドは、即座に制止するように言葉を重ねた。
「お気持ちは、理解しています」
だが、声は揺らがない。
「しかし、その元ヘレティックのニケは、既に脳洗浄を施されています。
現在、我々人類を敵視する要素は確認されていません」
マスターは眉間に深い皺を刻む。
「……“元”とはいえ、ヘレティックだろう」
声に、怒気が滲む。
「次はいつだ?いつ、俺たちに牙を剥く?」
一歩、踏み出す。
「もし今の状態が演技だったら?もし、他のヘレティックと合流した時、記憶が戻ったら?」
拳が、強く握られる。
「ヘレティック一体を破壊するのに、どれほどの犠牲が出るか……分かっているのか?」
その言葉は、問いではない。
記憶から滲み出る、怒りそのものだった。
イングリッドは、言葉を失う。
それほどまでに、マスターの放つ殺気は濃く、重かった。
彼の脳裏には、身体の半分を失いながら、散っていった部下達の顔が浮かぶ。
そして、満身創痍になりながらも、人類を守るために戦っていたゴッデス達。
――紅蓮。
彼女の姿が、最後に重なる。
「……クソっ」
絞り出すように呟き、マスターは大きく息を吐いた。
「ハァ……」
怒りを押し殺すように、天井を仰ぐ。
「……ソイツを守る理由は、それだけじゃないんだろ」
アンダーソンが、静かに頷く。
「そのニケは……保護している指揮官の“元部下”だ」
マスターの視線が、わずかに揺れる。
「彼は、助けられるかもしれないと分かった瞬間、彼女を救うために奔走した」
アンダーソンは苦笑する。
「君なら、分かるだろう?」
そう言って、真っ直ぐにマスターを見る。
マスターは、何も言えなかった。
しばらく、沈黙が流れる。
やがて、低く、覚悟を含んだ声が響く。
「……それで?」
視線を上げる。
「俺は、何をすればいい」
アンダーソンは即答する。
「先程も言った。その指揮官を、守ってほしい」
イングリッドが続ける。
「中央政府は、その元ヘレティックのニケを解体――俗に言う“解剖”することで、アークの技術が百年分進歩すると考えています」
淡々とした口調が、かえって冷酷だった。
「そのため、水面下で各部署が暗躍しています」
さらに、追い打ちをかける。
「悪いことに、その情報はアウターリムにも漏れている。今や、アーク全体がそのニケを狙っている状況です」
マスターは、短く頷く。
「……元ヘレティックのニケか。未だかつてない状況だ」
理解を示す。
「騒ぎになるのも、無理はない」
アンダーソンは、わずかに笑った。
「話が早くて助かる。問題は、その指揮官の周囲にはニケしかいないことだ」
声が引き締まる。
「ニケ相手なら戦える。だが、人間相手となると……彼女達は無力だ」
マスターは即座に察した。
「つまり――俺に、その指揮官のボディガードをしろ、というわけか」
「あぁ」
アンダーソンは頷く。
「彼は、そのニケを何としてでも守るつもりだ。その過程で、地上で出会った白いニケに助けを求めるだろう」
一拍置き、
「……そうなるよう、私達からも助言しておく」
マスターは、短く黙考する。
そして、結論は早かった。
「……で?」
視線を鋭くする。
「武器庫は、どこだ?」
その言葉に、アンダーソンは微笑むのだった。
ーーーーーー
「クリア。室内は安全です。――指揮官、入ってきても構いません」
赤いニケ、ラピの低く澄んだ声が、荒れ果てた指揮官室に響いた。
慎重に周囲を確認しながら、部隊が室内へと足を踏み入れる。
次の瞬間――
「……うわ。なにこれ。メチャクチャじゃない」
アニスが、思わず顔を歪めた。
壁という壁には無数の弾痕。
天井には黒く焼け焦げた跡が走り、床には砕けた破片が散乱している。
かつて「生活の場」であったはずの空間は、完全に戦場の残骸だった。
「この有様……まさに“火力"って感じですね」
静かに、だが妙に感心したようにネオンが呟く。
「ちょっと、あんた何言ってんのよ」
即座にアニスが噛みつく。
「大丈夫です!」
その空気を切り裂くように、明るい声が響いた。
「みんなでお掃除すれば、すぐ元通りになります!」
そう言って笑ったのは、マリアンだった。
この惨状を前にしてなお、曇りのない笑顔。
彼女が“元ヘレティック”であることを忘れさせるほど、無邪気な声音だった。
「……留守の間に、随分と荒らされたようだな」
そう呟いたのは、一人の男。
軍服に身を包んだ、カウンターズの指揮官だった。
アニスは彼の傍に歩み寄り、声を潜める。
「ねぇ、指揮官様……スノーホワイトには、連絡した?」
指揮官は小さく頷いた。
「あぁ。さっきな。集合場所と日時を指定された」
白いニケ――スノーホワイト。
その名が意味するのは、地上での匿い。
マリアンを、安全な場所へと移すための、最後の手段。
――だが、そのことは、マリアンには告げていない。
彼女がそれを知れば、必ず拒む。
自分たちがやろうとしていることを、彼女は決して受け入れない。
指揮官の脳裏に、先ほどの光景が蘇る。
ーーーーーー
マリアンを奪還しようと迫る、トライアングル部隊。
その追撃を、アンダーソン副司令官の介入によって辛うじて振り切った後――
カウンターズは、地上と前哨基地を結ぶエレベーターで、イングリッドと相対していた。
『これから、アーク中の勢力がマリアンを狙うことになるだろう』
イングリッドは、はっきりと断言した。
『……もう、お前達だけでは無理かもしれない』
重い沈黙。
『私に……マリアンを、渡せと言うんですか』
指揮官の手が、無意識に腰のホルスターへ伸びかける。
――それを、必死に堪えた。
イングリッドは、その動作に気づいていた。
だが、何も言わず、静かに続ける。
『違う。方法を探せ。誰でもいい。助けを求められる人物がいるなら、連絡しろ』
『助けを……頼める人物』
その瞬間、指揮官の脳裏に浮かんだのは――マリアンを救うために、共に戦った白い影。
『それって丸投げじゃない?……ちょっと冷たくない?』
アニスの抗議。
『アニス、やめるんだ』
指揮官の一言で、彼女は口を噤む。
『……お前達を、信じているからだ』
イングリッドは、そう言った。
『私とアンダーソンだけでは、アーク全体を相手にするには限界がある。
だが――助っ人は手配しておいた。後で来るだろう』
ーーーーーー
その記憶から引き戻され、指揮官は一人、黙り込んでいた。
「指揮官?」
不意に、柔らかな声。
「どうしたんですか?私、お腹が空きました!」
マリアンが、屈託のない笑顔で見上げてくる。
指揮官は、一瞬だけ胸を締め付けられる感覚を覚えながら、それを悟られないように微笑み返した。
「……分かった。軽く、食事にしよう」
その瞬間だった。
ラピが、鋭く身を翻し、壊れた扉の向こう――廊下へと武器を向ける。
アニスとネオンも、反射的にそれに続いた。
指揮官は、即座にマリアンを抱き寄せ、机の裏へと身を隠す。
「……ラピ、どうした?敵か?」
低く、静かな問い。
ラピは銃を構えたまま、微動だにしない。
「……いいえ。断定できません。ですが……尋常ではない“気配”です」
空気が、凍りつく。
アニスの額に、汗が滲む。
「指揮官様……もしもの時は、マリアンを連れて逃げて」
ネオンも、珍しく声を落とす。
「流石の私の火力でも……抑えられるか、分かりませんね」
いつもなら冗談を交える三人が、廊下の向こうに“いる何か”に、本能的な恐怖を覚えていた。
指揮官は、ゆっくりとホルスターから拳銃を抜く。
――もし、それが人間だった場合。
ニケ達では、対処できない。
やがて。
ゴツ……
ゴツ……
重く、慎重な足音が響き始める。
一歩、一歩。
その音だけで、背筋が凍る。
足音は次第に大きくなり、
ついに、扉の向こうから影が現れた。
カウンターズは、一斉に武器を構える。
そこに立っていたのは――
全身を武装で包み、ゆっくりと、両手を上げた一人の男。
その男――
マスターだった。
ーーーーーー
「止まりなさい。貴方は何者?」
ラピの声は鋭く、よどみがなかった。
完全武装の大男を前にしても、彼女の照準は微塵も揺れない。
プレートキャリア越しでも分かるほど、筋肉の盛り上がった体躯。
その全身から漂うのは、歴戦の兵士特有の気配。
マスターは、両手を上げたまま動かない。
サングラスの奥の眼光が、細く鋭く光る。
――観察している。
ラピは直感的にそう理解した。
敵意ではない。だが、油断でもない。
まるで獲物の強さを測る猛獣のように、マスターの視線は、ニケ達一人一人をゆっくりとなぞっていく。
ラピ。
アニス。
ネオン。
そして――
その視線が、ふっと止まった。
マリアン。
一瞬だけ、空気が凍りつく。
マスターの視線は、まるで彼女の存在だけを切り取ったかのように、深く、静かに据えられていた。
「……そいつが、元ヘレティックのニケか?」
低く、感情を削ぎ落とした声。
その一言で、場の緊張が一気に張り詰める。
指揮官は反射的に動いていた。
マリアンの前に立ち、拳銃を抜き、マスターへと向ける。
「それ以上近づくな」
声は冷静だったが、内心では全神経を研ぎ澄ませている。
「これは脅しじゃない。答えろ。お前は何者だ? 何をしにここへ来た?」
マスターは肩をすくめ、苦笑する。
「そのニケに手を出すつもりはない。安心しろ」
そう言ってから、ゆっくりと告げた。
「アンダーソンから頼まれて来た。お前達の――ボディガードとして」
その言葉を、指揮官は即座に信用しなかった。
「なら、まず武装を解除してもらおう」
一歩も引かずに言い切る。
「俺達を騙している可能性もある」
マスターは、ほんの一瞬だけ目を細めた。
「……嫌だ、と言ったら?」
その問いに、空気がさらに張り詰める。
指揮官の目が鋭くなる。
「だったら、無理やりそうさせてもらう」
即座に判断を下し、仲間へ目配せする。
「ラピ、アニス。その男の武装解除と制圧を。ネオン、ゴム弾に切り替えろ。少しでも動いたら、撃て」
命令は簡潔で、的確だった。
その一連の動きを見て、マスターはわずかに口角を上げる。
「ほぉ……流石だな。アンダーソンが目をかける指揮官というわけだ」
「それはどうも」
指揮官は短く返す。
ラピとアニスが左右から距離を詰める。
ニケとしては完璧だった。
動き、距離、制圧手順――すべて想定内。
そのはずだった。
「だがな」
マスターが、ぽつりと呟く。
「何故、俺一人だけが、ここに寄越されたと思う?」
指揮官は答えない。
違和感が、背筋を走る。
ラピが、マスターの手首に手を伸ばした――その瞬間。
「俺が、ただの人間じゃないからだ」
理解が追いつくよりも早く、事態は起きた。
「――ッ! ラピ、離れろ!!」
指揮官の叫びは、わずかに遅れた。
マスターは、ラピの腕を掴むと同時に、逆方向へ捻り上げる。
関節の可動域を正確に見切った、容赦のない動き。
「――っ!?」
ラピ自身が、何をされたのか理解する前に、視界が反転した。
床が迫り、次の瞬間、衝撃。
「ラピ!?」
アニスが叫ぶ間もなく、マスターは既に動いていた。
一歩、詰める。
アニスの拳を紙一重でかわし、そのまま背後へ回る。
「う……ぐっ……!?」
羽交い締め。
ニケの出力であっても、微動だにしない拘束。
アニスは混乱する。
(え……? なに、これ……? ほどけない……?)
ネオンが銃を構える。
「ちょっとアニス! 邪魔ですよ!」
「そんな……こと言ったって……!」
次の瞬間、アニスの体が投げ飛ばされる。
「う、わっ……!!」
「ちょちょ! こっちに来ないでください!!」
二人は絡まるように床へ転がる。
――静寂。
ほんの数秒。
ラピは床に倒れたまま、理解できずに目を見開いていた。
アニスも、ネオンも同じだった。
(……負けた?)
(私達が?)
(人間に?)
演算が、答えを拒否する。
理解できない。
ありえない。
それでも、身体だけは事実を知っていた。
――敵わない。
マスターは、ホルスターから拳銃を抜き、ゆっくりと指揮官へと向ける。
「これで分かったか?」
その声は、淡々としていた。
「その気になれば、お前達を仕留めるのは簡単だ」
指揮官は、生唾を飲み込む。
目の前の男は、殺していない。
確実に制圧できたはずの場面で、あえて殺さなかった。
――軍人だ。
しかも、相当場数を踏んでいる。
指揮官は、ゆっくりと拳銃を下げた。
「……分かった」
短く、しかしはっきりと。
「信じる」
その言葉に、マスターは銃を下ろし、わずかに笑った。
ーーーーーー
「……指揮官?」
マリアンの声は、わずかに震えていた。
それを悟られまいとして、彼女はいつもより少しだけ明るい声色を作る。
「その人は……敵ですか? 撃ちますか?」
問いかけながら、彼女の視線はマスターから離れない。
ほんの数秒前、ラピも、アニスも、ネオンも――圧倒的な力で、まるで玩具のように制圧されていた。
理解が追いつかない。
でも、恐ろしいという感情だけは、はっきりと胸の奥に残っている。
(……怖い)
マリアンはそれを認めたくなくて、唇をきゅっと結んだ。
その瞬間、視界の前に影が差し込む。
指揮官だった。
彼はマリアンの前に立ち、彼女とマスターの間に、確かな距離を作る。
銃口は下げたまま、しかし身体は自然と庇う姿勢だった。
「大丈夫だ」
低く、落ち着いた声。
「彼は敵じゃない。味方だ」
その声には、揺らぎがなかった。
戦場で幾度となく人を導いてきた者の、確信に満ちた声音だった。
マリアンは一瞬、きょとんとしたように瞬きをする。
そして――ふっと、表情が和らいだ。
「……分かりました!」
にこっと、いつもの無邪気な笑顔を浮かべて、元気よく答える。
「じゃあ、大丈夫ですね!」
その言葉に、場の張り詰めていた空気が、ほんのわずかに緩んだ。
マスターは、そのやり取りを黙って見ていた。
その視線は、まるで眩しいものを、羨むように見ているようだった。
サングラスの奥の視線は、マリアンと指揮官を静かに行き来し、やがて、小さく息を吐く。
それから、倒れているラピ達の方へと歩み寄った。
床に手をつき、立ち上がろうとするラピの前で、彼は足を止める。
そして、何のためらいもなく、手を差し出した。
「大丈夫か?」
柔らかく、穏やかな声。
「信用してもらうには、言葉より実力を見せた方が早いと思ってね」
そう言って、軽く笑う。
その笑顔を見て、ラピは一瞬、戸惑った。
ほんの先程、自分たちを一瞬で制圧した男と、今、目の前で手を差し伸べている人物が――どうしても結びつかない。
それでもラピは、その手を取った。
だが、その瞬間、はっとする。
(……しまった)
自分たちはニケだ。
人間とは比べものにならない重量を持つ身体。
それを、人間が片手で引き起こせるはずがない。
「あ、まっ……!」
慌てて制止しようとした、その時だった。
マスターは、何事もないように――
本当に、何でもない動作で、ラピをひょいと立たせた。
「……え?」
思わず、間の抜けた声が漏れる。
ラピは、自分の身体が立っていることを、理解できずにいた。
床を踏みしめる足。
掴まれたままの手。
すべてが現実なのに、感覚だけが追いつかない。
マスターは、そんな彼女を一瞥すると、短く言った。
「……すまなかった」
それだけ告げて、踵を返す。
今度は、いまだ床に倒れ込んだままの、アニスとネオンの方へ向かった。
「ちょっとネオン! いつまで寝てんのよ!」
アニスの声が響く。
「アニスこそ! その大きなお尻を、早く退けてもらえます?」
ネオンも負けじと言い返す。
言い合いを続ける二人に、影が落ちる。
マスターが、そこに立っていた。
「あ!」
アニスが気づいて声を上げる。
「ネオン! 来たわよ! 早く起きなさいよ!」
「わ、私よりも、アニスが先です! どう考えても!」
二人とも、明らかに怯えていた。
つい先程、何が起きたのかを、身体が覚えている。
マスターは、その様子を見て、ふっと笑った。
「元気だな」
懐かしむような目で、二人を見下ろす。
「君たちを見ていると……昔の仲間を思い出すよ」
そう言うと、彼は二人を軽々と起こした。
一瞬で。
「……は?」
アニスとネオンの表情が、完全に固まる。
それほどまでに、非常識な光景だった。
人間が、ニケを一人で起こすなど――想定外にも程がある。
ネオンが、ぽつりと呟く。
「……アニス、痩せました?」
「はぁ!?」
アニスは顔を赤くして叫ぶ。
「し、失礼ね! 私は太ってないわよ!……たぶん!」
そこへ、ラピが歩み寄る。
「二人とも、大丈夫?」
その問いに、アニスとネオンは、こくりと頷いた。
アニスが、声を潜めて言う。
「ねぇ……あの人、何者なの?」
視線は、指揮官の方へ向かうマスターを追っている。
「普通の人間が、ニケを制圧するなんて……あり得ないわよ」
ネオンも同意する。
「ええ。その通りです。動き方も、普通の軍人ではありませんでした」
ラピは、しばらく黙っていた。
そして、静かに答える。
「……分からないわ」
だが、その声には、確かな判断があった。
「でも、敵ではなさそうね。敵だったら……今頃、私たちはここにいない」
一瞬、言葉を切り、続ける。
「今は、指揮官に任せましょう」
その言葉に、二人は小さく息を吐いた。
理解できない。
納得もできない。
それでも――この場にいる誰よりも、指揮官が状況を見極めていると、本能が告げていた。
ーーーーーー
「改めて。君達のボディガードとして、アンダーソンから派遣された」
マスターは静かにそう告げると、視線を巡らせた。
壊れた指揮官室、まだ焦げの匂いが残る床、そして警戒を解ききれないニケ達。
その視線が、最後に止まったのは――
指揮官の背後に、半歩引いて立つ少女だった。
「……そこにいるのが、問題となっているニケだな?」
低く、確かめるような声。
指揮官は一瞬だけ間を置き、それから頷いた。
「……あぁ。彼女の名はマリアン。私の元部下だ。侵食によりヘレティックとなっていたが、救出した。……現在は脳洗浄によって、人類への敵意はない」
言葉を選びながら、慎重に。
マスターはその説明を遮ることなく聞き終えると、小さく息を吐いた。
そして、再びマリアンを見る。
彼女は、彼の視線を正面から受け止めることができず、
指揮官の陰に身を寄せるように立っていた。
その仕草は、敵意とは程遠い。
ただ怯え、困惑し、それでも人を信じようとする少女のものだった。
「……本当に、ヘレティックだったのか」
思わず零れた言葉。
マスターの脳裏には、かつての“敵”がよぎっていた。
圧倒的な力によって蹂躙し、感情の無い眼でこちらに銃口を向けてくる姿。
一体倒すのに、数多くの仲間達が犠牲になっていく記憶。
その記憶と、目の前で指揮官の背に隠れるマリアンの姿が、どうしても重ならなかった。
――あまりにも、違いすぎる。
その目には、敵意でも恐怖でもない、戸惑いと痛みが複雑に絡み合った感情が宿っていた。
指揮官は、その変化を見逃さず、無意識のうちにマリアンを庇うように一歩前へ出る。
「……貴方は何者だ?」
鋭い問い。
「見たところ軍人ではあるようだが、1人の軍人がニケの部隊を制圧するなど、聞いたことがない」
マスターは一瞬だけ視線を伏せた。
「俺が何者かなど、どうでもいいことだ」
そう言い切る声には、拒絶ではなく、疲労が滲んでいた。
「それより、今後どうするかだ。俺は出来る限り、お前達を守る。……だが、絶対ではない」
一拍。
そして、少しだけ言い淀む。
「……誰かに、助けは求めたのか?」
その問いに、指揮官は頷いた。
「あぁ。一週間後、地上で合流する予定だ」
マスターの肩が、ほんのわずかに強張る。
「……それは、誰だ?」
声が、僅かに震えていた。
指揮官はその変化に首を傾げながらも、答える。
「地上を彷徨い、単独でラプチャーと戦い続けているニケだ」
「……彼女の名は、スノーホワイトという」
その瞬間。
マスターは言葉を失った。
室内に、重い沈黙が落ちる。
機械音も、呼吸音さえも遠のいたかのように。
「……そうか」
絞り出すような声。
「……やはり、そうだったか……」
彼は目を固く閉じた。
「……あぁ……生きて、いたか……」
その声は、泣いてはいなかった。
だが、確かに泣いていた。
胸の奥に沈め続けてきたものが、
ほんの一瞬、浮かび上がってしまったような声だった。
指揮官も、ラピ達も、言葉を失う。
この男が、スノーホワイトを“知っている”という事実に。
マスターは拳を強く握りしめていた。
あまりに強く、爪が掌に食い込み、血が滲むほどに。
その時。
その手を、そっと包み込む温もりがあった。
「……?」
マスターが目を開けると、そこには、彼の手を両手で優しく握るマリアンがいた。
「だめです。そんなに強く握ったら、怪我をしてしまいます」
そう言って、彼女は救急箱を取り出し、慣れない手つきで包帯を巻き始める。
「はい。これで、大丈夫です!」
マスターは目を見開いた。
「……君は」
静かに問いかける。
「マリアンと、言ったか?」
マリアンは、ぱっと顔を上げ、明るく笑う。
「はい!そうです!」
その無垢な笑顔に、マスターは思わず苦笑した。
「……さっきは、怖い思いをさせてすまなかった」
マリアンは一瞬きょとんとしたが、すぐに首を振る。
「でも、貴方は……私達の味方なんですよね?」
マスターは、少し照れたように視線を逸らしながら、
「あぁ。味方だ」
と答えた。
その言葉を聞いたマリアンは、ぱっと花が咲くように笑い、
「だったら、怖くありません!」
と、はっきり言い切った。
その一言が、この場に漂っていた重苦しさを、ほんの少しだけ溶かしたのだった。
紅蓮編の結末予想ーー!
-
やっぱり、ハッピーエンドだよね!
-
このクソ作者の癖が全開になりバッドエンド
-
紅蓮さんとマスターが2人旅するんだ!
-
アークに戻って喫茶店を営む日常に戻る