あ、書けばいいのか……
「……逃げろ」
その呟きは、あまりにも低く、あまりにも静かだった。
だが、その場にいた全員の鼓膜を、確かに震わせた。
指揮官とカウンターズは、思わず互いの顔を見交わす。
違和感――それも、言葉にするなら“恐怖に近い違和感”だった。
この四日間。
たった一人で、マリアンを執拗に狙い続けてきた敵と、獅子奮迅の戦いを繰り広げてきた男。
疲労も傷も意に介さず、前へ前へと立ち続けてきたその背中から発せられた言葉が、これだったからだ。
「……マスター?」
マリアンが、そっと袖を引く。
だが、マスターは反応しない。
瞬きすら忘れたように、ただ正面――新たに出現した敵部隊を、凝視していた。
その瞳に宿るものは、闘志でも覚悟でもない。
それは、確信だった。
――これ以上、ここに留まってはならない、という確信。
「どうしたんだ」
指揮官が一歩踏み出し、声をかける。
「あの部隊が、なにかあるのか?」
その問いに、マスターは答えない。
代わりに、喉を震わせ、肺の底から声を叩きつける。
「逃げろ!! 早く!!」
その叫びは、命令であり、同時に、懇願でもあった。
ーーーーーー
コマンドセンターから、最も近い地上エレベーターへ。
カウンターズは、半ば転がるように走っていた。
「ねぇ! 指揮官様!!」
アニスが振り返りざまに叫ぶ。
「本当にこれでいいの?! あの人を置いていくなんて!!」
「分からない!!」
指揮官は、歯を食いしばりながら叫び返す。
「……だが、今は彼に従うしかない!!」
それが正しいのかどうか。
誰にも分からない。
だが、あの声に逆らえる者はいなかった。
マリアンだけが、走りながら何度も振り返る。
遠ざかっていくコマンドセンター。
そこに残された、ただ一人の背中。
「……マスター……」
呟きは、騒音に掻き消された。
ーーーーーー
コマンドセンター内部。
照明はすべて落とされ、生身の目では一寸先も見えない闇が支配していた。
だが、黒一色の部隊にとって、それは障害ですらない。
ナイトヴィジョン越しに映る世界は、緑色の輪郭となって、鮮明に浮かび上がっていた。
躊躇はない。
足音も、呼吸も、極限まで殺されている。
ただ静かに、前進する。
獲物を狩るために。
通路を進み、角を曲がり、目的地へ向かう。
指揮官室の前で、部隊は止まった。
扉の下から、かすかに漏れる灯り。
――中に、誰かがいる。
部隊長が、ハンドサインを出す。
言葉よりも正確で、洗練された合図。
次の瞬間。
扉が破られ、部隊は雪崩れ込む。
無駄のない動きで、室内を制圧していく。
一人、また一人と、サムズアップが返されていく。
――誰もいない。
部隊長はナイトヴィジョンを外し、室内を見渡した。
その時、机の端末が、微かに震えていることに気づく。
着信。
確認しようと、一歩近づいた瞬間――
爆発し、指揮官室は、内側から炎に包まれる。
ーーーーーー
爆炎を背に、マスターは外から崩れ落ちる指揮官室を睨みつけていた。
『……仕留めた感覚はない』
冷静な思考が、戦場の中で淡々と結論を下す。
『だが……時間は稼げたか』
それでいい。
それだけで、十分だった。
先に行ったマリアンたちに追いつくため、踵を返す。
――その瞬間。
爆発で歪んだ窓枠を突き破り、黒い影が、次々と飛び出してくる。
ドン。
ドン。
ドン。
着地と同時に、視線がマスターを捉える。
部隊長が、短くハンドサインを出す。
『追え。殺すな』
影は、一斉に走り出した。
『クソッ……もう追ってきたか!』
内心で吐き捨てながら、マスターは振り向き、ネオンから借り受けていたセミオートショットガンを放つ。
轟音。
対ラプチャー用の弾丸は、人間相手には過剰な殺意を孕んでいた。
だが、影は止まらない。
避け、散り、なおも距離を詰めてくる。
――近い。
マスターは拳銃を抜き、構えた。
だが、その腕は弾き上げられる。
次の瞬間、掌底が胸を打ち抜いた。
「……ッ?!」
空気が、強制的に吐き出される。
「ガハ……!!」
膝が崩れ、視界が揺れる。
呼吸が、できない。
ヒューヒュー。
と、嫌な音を立てながら、必死に空気を吸う。
肺が焼けるように痛い。
空気を吸おうとしても、喉が痙攣するだけ。
視界の端で、黒い影が動く。
反射だけで身体を横にずらす。
さっきまで頭があった場所を、ブーツが突き抜けていた。
震えた空気が伝う。
避けた勢いのまま、しゃがみ足を払う。
一人の体勢が崩れたその隙に、マスターは無理やり息を吸い込む。
ヒュッ、と細い空気が肺に流れ込み、咳が込み上げた。
『止まるな』
立ち上がりざま、肘を打ち込む。
硬い感触。
相手の呻き。
だが、次の瞬間には背後から腕を絡め取られる。
身体を沈め、強引に振りほどく。
筋肉が悲鳴を上げる。
疲労が、骨の奥にまで染みていた。
拳が飛ぶ。
頬をかするだけで、切り傷を負い血が滲む。
視界が白く揺れる中で、それでも拳を返す。
当たった感触だけを頼りに、距離を取る。
囲まれている。
呼吸はまだ浅い。
心臓はうるさいほど鳴っている。
それでも、足は止めない。
一人に踏み込み、肩口に体当たりする。
勢いのまま押し倒し、拳を振り下ろす。
だが、横から蹴りが入り、肋骨に衝撃が走り、身体が流される。
地面を滑り、無理に受け身を取る。
立て、と頭の奥で命令する。
脚に力を込めるが、わずかに遅れ、影が同時に動く。
腕を掴まれ、ねじ上げられる。
もう片方の足を払われ、均衡が崩れる。
歯を食いしばり、全身で暴れる。
それでも、力が足りない。
疲労が、決定的な差になっていた。
遂に、マスターの膝が、地面に触れる。
砂利の硬さが、骨に直接伝わってきた。
踏ん張ろうとした脚は震え、力が入らない。
息は浅く、荒い。
肺はまだ焼けるように痛み、吸うたびに嫌な音が喉を鳴らした。
黒い影たちが半円を描くように取り囲み、距離を保ったまま動きを止めていた。
誰も踏み込んでこない。
その中で、影の向こうで、一人が動いた。
ゆっくりと、確かな足取りで前に出てくる。
周囲の兵が、無言で道を開けた。
均整の取れた歩みには無駄がなく、靴底が瓦礫を踏む音だけが乾いて響く。
その視線は最初から最後まで、膝をついたマスターだけを捉えていた。
数歩の距離で立ち止まる。
見下ろす形になっても、銃は向けない。
ただ、値踏みするように、静かに観察している。
指一本動かす余力も残っていないことを、自分が一番よく分かっていた。
瓦礫の向こうで炎が揺れ、赤い光が二人の間を明滅する。
部隊長は一歩だけ近づき、マスターの前で足を止める。
そして、その影が、静かにマスターに覆いかぶさる。
『…ヘレティック、モダニアはどこにいる?』
ガスマスク越しの変声期を通った声が、無機質に響く。
マスターは俯いたまま、口元だけを歪める。
「……知るか」
拳銃が抜かれ、頭に押し当てられる。
『……そうか。目標はモダニアだけだ』
『お前は、ここで死ぬことになるぞ』
顎を持ち上げられ、顔を見た瞬間――
部隊長は、凍りついた。
『……?! お前は……?』
その言葉を遮るように、猛烈な弾幕が降り注ぐ。
黒の部隊は即座に散開し、遮蔽物に身を隠す。
その中へ、駆け寄る影。
「マスター!! こっちです!!」
マリアンだった。
展開された武装が、怒涛の火力を吐き出す。
マスターは引き摺られるようにして、立ち上がらされる。
そうして――逃げた。
弾幕が止み、辺りには無数の弾痕だけが残る。
遮蔽物から現れた黒の部隊員たちは、誰一人として傷ついていない。
彼らは、マスターが消えた方向を、無言で見据えていた。
ーーーーーー
マリアンは、ほとんど抱きかかえるようにして、マスターを引き摺っていた。
大柄な身体は思った以上に重く、彼女の足取りも次第に乱れていく。
マスターの呼吸は、胸の奥で軋むような音を立てていた。
ヒューヒュー、と。
肺のどこかが歪み、空気の通り道が狭まっているのが、はっきりと分かる嫌な音だった。
それでも彼は、無理にでも言葉を絞り出す。
「……すまない……」
声は掠れ、途切れ途切れだった。
「助かった……。危険な目に……遭わせてしまったな……」
謝罪の言葉は、まるで自分の痛みよりも、彼女を巻き込んだことの方が耐え難いと語っているようだった。
マリアンは足を止めず、首を横に振る。
その顔には、いつもの柔らかな笑みが浮かんでいた。
「マスターは、私や指揮官たちを助けてくれました」
そう言って、少しだけ声を張る。
「それに、マスターに何かあったら助けるって約束しました!」
その目には、誰よりも慈愛に溢れていた。
マスターはその目を見て、かすかに自身の目を細める。
「……本当に……君は……優しいな……」
苦笑にも似た、弱々しい笑み。
やがて、地上エレベーターの前に辿り着く。
重厚な扉の向こうから、降下してくる低い駆動音が、床を震わせていた。
「マリアン! マスター!!」
ラピたちが駆け寄り、すぐさまマスターの身体を支える。
「怪我しているのか?!」
指揮官も肩を貸し、顔を覗き込む。
マスターは苦しそうに息を整えながら、首を振る。
「……ッ、大丈夫だ……。少し……殴られただけだ……」
呻くように言いながら、彼はエレベーターへ視線を向ける。
もうすぐ、到着する。
あと少し――そのはずだった。
その時、アニスが不安を押し殺すように口を開く。
「ねぇ、マスター……」
声が震えていた。
「さっきの、黒い連中……何者なの?……貴方でも、手こずる相手ってこと?」
その問いに、全員の視線が集まる。
マスターは一瞬、答えることを躊躇った。
そして、短く息を吐く。
「……アイツらは……」
言葉を選ぶように、間を置いて。
「俺と、“同類”だ」
空気が、凍りつく。
「……同類?」
ラピが、思わず呟いた。
その瞬間。
地上エレベーターが到着し、鈍い音と共に扉が開く。
マスターは、かすかに笑みを浮かべる。
「詳しい話は……あとだ……。さぁ、早く行こう……」
一歩、踏み出そうとした――その時だった。
『そこまでだ。全員、動くな』
冷たい声が、空間を切り裂く。
反射的に、全員が散開し、近くの遮蔽物へ身を投げる。
指揮官は拳銃を抜き、マリアンは即座に装備を展開する。
ラピたちは、マスターを庇うようにしてしゃがみ込む。
黒い部隊の隊長が、武器を構えたまま告げる。
『カウンターズ指揮官に告げる。即時、武装解除および投降。そして、ヘレティック、モダニアを引き渡せ』
「……断ると言ったら?!」
指揮官が、歯を食いしばって言い返す。
返答は、あまりにも淡々としていた。
『我々は、対ラプチャー用の武器を構えている。その気になれば、お前たち全員を殺し、死体だけ持ち帰ることもできる』
その言葉に、アニスが息を呑む。
「……アイツらも……対ラプチャー用の武器を……?」
声が震える。
「……まるで、マスターみたいじゃない……!」
一触即発。
張り詰めた空気が、今にも弾けそうになった、その時。
マリアンが、ゆっくりと遮蔽物から身を出した。
「マリアン?! 何をしているんだ!!」
指揮官が止めようとした瞬間――
弾丸が、彼のすぐ横を掠める。
『そこから出るな。出たら、次は頭を撃つ』
黒い部隊は一斉に、マリアンへ照準を向ける。
隊長が、冷たく告げる。
『……ヘレティック、モダニアだな。共に来てもらおう』
マリアンは、怯まずに睨み返す。
「私は! モダニアなんて名前じゃありません!」
声は震えていなかった。
「マリアンです!」
そして、一拍置いて。
「……私が投降すれば……みんなは、助けてくれますか?」
「な、何を言っているんだ?! マリアン!!」
指揮官が叫ぶ。
隊長は、わずかに沈黙し――
『お前が大人しく投降するのなら、他の者に危害は加えない』
マリアンは、深く息を吸う。
「……必ず、守ってください」
そう告げて、振り返る。
「指揮官。ラピ、アニス、ネオン……」
涙を浮かべながら、それでも笑って。
「私を、カウンターズに入れてくれて……ありがとう……」
「ダメだ! マリアン!!」
叫びは、銃口に遮られる。
『動くなと言った』
マリアンが、一歩、黒の部隊へ向かおうとした、その瞬間。
遮蔽物から、一人の影が出た。
マスターだった。
彼は、ふらつきながらも、マリアンの前に立つ。
黒い部隊の隊長は、その姿を見て、低く呟く。
『……やはり……お前……』
ーーーーーー
「……話を、聞いてくれ」
マスターの声は低く、かすれていた。
胸の奥を締めつける痛みを、無理やり押し殺すように。
黒の部隊は応じない。
銃口は下がらず、引き金にかけられた指も外れない。
沈黙そのものが、威圧のようだった。
それでも、マスターは一歩も引かなかった。
「頼む……」
喉を震わせ、言葉を継ぐ。
「彼女を……見逃してくれないか」
その言葉に、黒の部隊長は武器を構えたまま、低い声を返す。
『……何故だ』
夜の空気を切り裂くような声。
『何故、お前がそちら側にいる?何故、ソイツを庇う?……分かっているのか? そいつは――』
言い切る前に、マスターは答えた。
「ヘレティックだ……元、な」
空気が凍りつく。
部隊長の呼吸が、わずかに乱れる。
『……分かっていながら、何故だ?!』
声が、初めて荒れた。
『そいつらに!どれだけの仲間が殺されたのか!忘れたのか?!』
トリガーにかかる指が、わずかに震える。
マスターは、腹の底から叫び返した。
「忘れてはいない!!」
その一声は、怒号ではなかった。
積み重なった死と後悔を、すべて背負った者の叫び。
黒の部隊が、思わず息を呑む。
マスターは、部隊長を真正面から見据える。
「彼女は確かに……元はヘレティックだ」
言葉を選び、噛みしめるように。
「……だが、俺たちが戦ってきたヘレティックとは違う」
視線を、背後へと向ける。
「彼女は、誰よりも他人が傷つくのを嫌う。そして今も……自分を犠牲にして、他の仲間を救おうとしている」
拳を握りしめる。
「そんな彼女が……本当に、俺たち人類の敵なのか?」
問いは、銃よりも重く突き刺さる。
部隊長は一瞬だけ、歯を食いしばり――冷たく言い放つ。
『……関係ない。ヘレティック、モダニアを回収する。それが、私たちの任務だ』
再び、銃を構え直す。
部隊長の視線が、マスターの背後へと移る。
そこにいたのは――怯え、震え、それでも一歩も退かずに立つ少女。
恐怖に押し潰されそうになりながら、それでも仲間を守ろうとする、その姿。
ニケでなければ、軍人が全力で守らねばならない、か弱き存在。
『…………』
部隊長は、言葉を失った。
マスターは、畳みかけるように、最後の言葉を投げる。
「頼む……少しだけでいい……」
視線を逸らさずに。
「俺を、彼女を信じてくれ」
二人は、長い時間、睨み合う。
張り詰めた沈黙。
銃声一つで、すべてが終わる距離。
やがて――
『……クソッ……!』
部隊長が、苛立ちを吐き捨てるように息を吐く。
『……はぁ』
そして、短く命じた。
『全員、武器を下ろせ』
一瞬の躊躇もなく、黒の部隊は一斉に銃の構えを解く。
その動きだけで、彼らがどれほど訓練され、統率された部隊かが分かった。
『……まったく』
部隊長は、呆れたように呟く。
『貴方のお人よしは……本当に、変わりませんね』
ヘルメットを外し、ガスマスクを外す。
そこに現れたのは、金髪を短く切り揃えた、一人の女性だった。
鋭い眼光。
数多の戦場を生き抜いてきた者の、それ。
だが今、その瞳は、どこか柔らかく、懐かしさを帯びていた。
「……君も相変わらず、厳しいな」
マスターは、目を細める。
「お久しぶりです、先輩」
彼女は、少しだけ悲しそうに微笑んだ。
「……こんな形で再会したくは、ありませんでした」
形のいい眉を歪ませて、呟く。
「俺もだ」
とマスターは返すと、彼女の背後に並ぶ隊員たちを見る。
「……君の部下も、随分減ったな」
彼女は、視線を落とす。
「……先輩に比べれば、これでも、残った方です」
自嘲するように。
「お互い……よく生き残ったものですね……」
そう言って、踵を返す。
「撤収するぞ!」
号令と共に、部隊は動き出す。
彼女は一度だけ、振り返る。
「……上には、“あと一歩のところで取り逃した”と報告しておきます」
そして、ほんの少しだけ笑った。
「また会いましょう。その時は……お互い、こんな物騒な物は持たずに」
闇の中へ、彼女は消えていった。
マスターは、その背中に向かって、静かに告げる。
「……ありがとう」
その言葉は、立ち去った彼女達を追って、闇へと消えていく。
ーーーーーー
地上へと向かうエレベーターの中は、低い駆動音だけが絶え間なく響いていた。
金属の箱に閉じ込められた空間には、戦闘直後の血と火薬の匂いがまだ残っている。
誰も大きな声を出さない。
四日間にわたる死線を越えた疲労が、全員の身体に重くのしかかっていた。
その中央で、マスターは壁にもたれかかるように座っていた。
ラピが手際よく医療キットを開き、無言で処置を続けている。
彼女の指先は正確で、無駄がない。
しかし、その動きの奥には隠しきれない緊張があった。
「ラピ。マスターはどう?」
アニスが覗き込みながら尋ねる。
ラピは一瞬だけ手を止め、深いため息を吐いた。
「……ボロボロよ。歩けているのが不思議なくらいね」
淡々とした口調だったが、その言葉は重かった。
アニスとネオンも加わり、三人がかりでマスターの防弾ベストを外す。
金具が外れる乾いた音が、やけに大きく響いた。
露わになった身体を見た瞬間、三人は言葉を失う。
そこには、数えきれないほどの痣と裂傷が刻まれていた。
紫色に変色した皮膚。
応急処置の跡。
無理に動かし続けた筋肉が、悲鳴を上げているのが見て取れた。
それでもマスターは、かすかに笑う。
「俺は……大丈夫だ」
息を整えながら、呟く。
「これくらいの傷は……どうってことない」
その笑みが、強がりなのは、誰の目にも明らかだった。
マリアンが静かに歩み寄る。
震える手で、そっとマスターの手を握った。
「マスター……」
潤んだ声が漏れる。
「さっきは……守ってくれて、ありがとうございます。私の前に立ってくれた時……嬉しかった……」
涙が頬を伝う。
マスターはその顔を見て、柔らかく微笑んだ。
「マリアンこそ……俺を助けてくれた」
握られた手に、わずかに力を込める。
「……これで、おあいこだな」
マリアンは何度も頷き、涙の中で笑った。
その様子を見ていた指揮官が、ゆっくりと歩み寄る。
「マスター……教えてくれないか」
静かな声だった。
「さっきの連中は、一体何なんだ。どことなく……貴方と同じ気配を感じたが……」
一拍、間を置く。
「そして、貴方は……一体何者だ?スノーホワイトとの関係は?……本当のことを教えてくれないか?」
エレベーターの空気が、わずかに張り詰める。
マスターは長く息を吐き、頭を壁に預けた。
「……さっきの部隊は」
目を閉じたまま、言う。
「俺と同じ……強化兵士の生き残りだ。俺達の、一世代後輩だがな」
「強化兵士……?」
聞き慣れない言葉に、指揮官の眉が寄る。
マスターはゆっくりと語り始めた。
それは、遠い過去の話だった。
ラプチャー侵攻戦の最中、彼らが“使い捨ての兵士”として、生き延びるためではなく、時間を稼ぐために、強制的な遺伝子改造を施され誕生したことを。
人間でありながら、人間ではいられなくなった兵士たち。
スノーホワイトが所属していた部隊と、絶望的な戦場を駆け抜けた日々。
そして――
そこに、想い人がいたこと。
声はかすかに震えていた。
失った手足を治療するために施された処置。
その結果として訪れた、長い昏睡。
目を覚ました時には、すべてが終わっていた。
想い人も。
共に戦った部下たちも。
すでに、この世にはいなかった。
エレベーターの中が、静まり返る。
「……そんなのって」
アニスが呟く。
怒りと悲しみが入り混じった声だった。
指揮官も、ラピも、ネオンも言葉を失う。
マリアンは両手を胸の前で握りしめ、
「……酷すぎます」
と涙をこぼした。
マスターは小さく苦笑する。
「亡くした彼女を想いながら……長い、長い時間を過ごした」
視線を落とし、静かに続ける。
「遺伝子まで改造されているからな。困ったもので、人よりも……長生きでね」
自嘲気味の笑み。
「そして……君たちが地上でスノーホワイトに会ったことを知った」
ネオンがはっと顔を上げる。
「スノーホワイトが生きていると知った貴方は……部隊員だった彼女も……」
マスターは、ゆっくり頷いた。
「生きているかもしれない……と思ったんだ」
その笑みは、壊れそうなほど脆かった。
それでも、必死に希望へ手を伸ばしている笑みだった。
その時、指揮官の脳裏に一つの記憶がよみがえる。
スノーホワイトが、自らを指して言った言葉。
――『私“たち”』
指揮官は顔を上げる。
「……もしかしたら、スノーホワイトには仲間がいるかもしれない」
全員の視線が集まる。
「自分のことを……“私たち”と言っていた」
マスターの目が、大きく見開かれる。
「……本当か?」
かすれた声。
指揮官は強く頷く。
「あぁ、確かに言っていた。……だから、希望はあるはずだ」
マスターは目を閉じる。
胸の奥で膨らむ感情を、押さえ込むように。
――やっと。
やっと、君に会えるかもしれない。
その想いが、静かに燃えていた。
やがて、エレベーターの減速音が響き始める。
地上は、もうすぐだった。
ラピがそっと手を差し出す。
「マスター……さぁ、行きましょう」
その声は、どこまでも優しかった。
マスターは目を開け、微笑む。
そして、その手をゆっくり取る。
閉ざされた箱の中で生まれた小さな希望を胸に、マスターは地上へと向かっていた。
今回登場した、黒装備の部隊は、マスター達強化兵士の一世代後輩になります。
マスター達の世代よりも、遺伝子操作の技術が発展して、総合的な身体能力は上がっています。
でも、マスター達第一世代には実戦の経験値があるので、模擬戦闘や、格闘訓練では、二世代達は一世代に勝てませんでした。
ていう、裏話笑
紅蓮編の結末予想ーー!
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やっぱり、ハッピーエンドだよね!
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このクソ作者の癖が全開になりバッドエンド
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紅蓮さんとマスターが2人旅するんだ!
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アークに戻って喫茶店を営む日常に戻る