勝利の女神NIKKE 希望のカフェ   作:スウェーデンクラス

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ルートD pt2

――鋭い声が、遠くから響く雷鳴のようにDの意識を揺さぶった。

 

「――おい、おい! D! 聞いてんのか?!」

 

深い水底から浮上するように、ぼんやりとした思考が急に現実へと引き戻される。

まばたきをひとつ。

目の前には、シージペリラス所属のニケ――Kが腕を組んで立っていた。

 

いつもの皮肉気な笑みを浮かべ、その口元から覗く特徴的な八重歯が、灯りを受けてきらりと光る。

その表情には、明らかに「怪しんでいる」という感情が乗っていた。

 

Dは、静かに息を整え、落ち着いた声を作る。

 

「ああ……すまない。聞いている」

 

いつも通りの冷静さを装う。

だがKは大げさにため息を吐き、呆れたというより心底心配しているような顔をした。

 

「ったくよ。最近のお前、おかしいぞ? 任務中はまだマシだが……なんつーか、うわの空? 心ここにあらずってやつだ。そういうのが増えてる」

 

言葉の軽さとは裏腹に、その双眸は鋭い。

長年共に死地を歩んだ仲間だからこそ、細やかな変化にも気づくのだ。

 

Dは短く返す。

 

「……大丈夫だ。問題ない」

 

しかしKは納得した様子もなく、首を回しながら続けた。

 

「ふぅ〜ん……まぁいいさ。じゃあ話を進めるぞ。今回の任務だが、いつもの簡単な“抹殺任務”だ」

 

Kが指先で机の上の資料をトントンと叩く。

散らばっている写真、地図、対象者の行動ルート――殺しの準備に必要な一式。

 

「ターゲットは……アークで喫茶店やってる男だ。なんでも、アウターリムのテロ組織と連絡を取って、情報を売ってるらしい」

 

そう言って、Kは一枚の写真をつまみ上げる。

その写真には――

喫茶店《ルポ》の店主。

あの、マスターが、穏やかな笑みを浮かべて写っていた。

 

その笑みを見た瞬間、Dの心臓がひどく静かになった。

まるで一瞬、世界が止まったかのように。

 

Kは気付く様子もなく続ける。

 

「喫茶店は小さいが、そこそこの人気店らしいな。常連には、うちの上層部の連中や政府の要人もいるって話だ。そんな連中の情報を売られたらヤバい。だから知られる前に消せって事だ」

 

最後にあっけらかんと言い放つ。

だがDはすでに言葉が耳に入っていなかった。

写真に手を伸ばし、その顔を指でそっとなぞる。

 

微かに口元が緩んだ。

優しく、慈しむように。

 

だが、次の瞬間――その瞳は感情を捨てた、殺し屋のそれに戻る。

 

『何をしている。これは任務の対象だ。迷うな……』

 

心が必死に、自分を正そうとしていた。

マスターに向ける優しさを、容赦なくその手で握りつぶそうとしていた。

 

Dは静かに口を開く。

 

「……分かった。こいつの身辺調査はどうする? 私がやるか?」

 

いつも通り、淡々とした声。

だが内心では――自分の手で確かめたい

彼が本当に罪を犯したのかどうか、必ず見極めたい。

 

そんな切実な願いが渦巻いていた。

 

だが、Kの返答は、その想いを容易く裏切る。

 

「あー、今回は“下調べナシ”だってさ。行動確認したら、すぐに仕留めろだとよ。手段はいつも通り、静かに、痕跡残さず、だ」

 

Dの眉がきつく寄る。

 

「……何? それでは、ターゲットが本当に有罪か判断できない。もし無実ならどうする?」

 

Kは肩をすくめ、わざとらしく言う。

 

「知らねーよ。上層部がそう判断したんだ。私らは従うだけだろ?……なぁD、“いつものお前”なら、こんな事で疑問抱かなかったじゃないか」

 

その言葉は、Dの胸を冷たい刃のように突いた。

確かに、昔なら迷わなかった。

命じられた相手なら、誰であれ淡々と処理したはずだ。

 

だが――今は違う。

 

Dは低い声で言う。

 

「疑問ではない。ターゲットが有罪なら、始末する。それが私たちシージペリラスの役目だ。だが……その判断は“私たちが調べて下すもの”だ。上層部の指令でも、それだけは曲げられない」

 

KはしばらくDを見ていた。

深く、真っ直ぐに。

そして小さく息を吐く。

 

「……分かったよ。リーダーはお前だ。でもな、命令に逆らえば、お前も私もただじゃ済まねぇかもしれないんだぞ」

 

それは仲間としての純粋な忠告だった。

そして続ける声は、ほんの少し柔らかかった。

 

「D。ターゲット……知り合いなのか? もしそうなら言えよ。今回は私だけでもやれる」

 

優しさが滲み出ていた。

それが、逆に胸に痛い。

 

Dは俯き、写真を見つめた。

長い沈黙の後――静かに首を振る。

 

「……違う。知り合いではない。ただ、その喫茶店を使ったことがあるだけだ。任務に支障は……ない」

 

言葉は冷静だった。

だがその声は、どこか細い。

誤魔化しきれない痛みが隠れているようで。

 

Kはそれ以上何も言わなかった。

ただ、仲間として見守るように、軽く肩を叩いた。

 

「よし……ならさっさと準備すっか」

 

そう言い、任務の資料を確認していく。

あえて深く聞かない――Kなりの気遣いだった。

 

紙を捲る音だけが響く。

ひどく重い静けさだった。

 

Dは再び写真を手に取る。

指が触れた瞬間、胸の奥が締めつけられる。

 

マスターの柔らかな笑顔。

あの店の温かな灯り。

差し出してくれたコーヒーの香り。

優しく呼んでくれた声。

 

ひとつひとつが、刃のように痛い。

 

「……」

 

Dはそっと写真を胸元に押し当てた。

まるで、離れたくないものを抱きしめるように。

 

そして、深く息を吸い――

写真を、服の内ポケットに大切に仕舞い込む。

 

その仕草は、まるで祈りだった。

これから向かう“役目”が、どれほど残酷であろうとも。

 

影の中に生きる者が、初めて抱いた願い。

その願いが砕ける前の、最後の温もりを――Dは胸に押し抱くようにしていた。

 

ーーーーーー

 

カラン――。

 

軽やかな鈴の音が、雨上がりの午後の空気に溶けていった。

その音はまるで、Dの胸の奥深くに眠っていたものをそっと呼び覚ますかのように、静かに優しく響いた。

 

次の瞬間、喫茶店《ルポ》の温かな空気が、彼女の全身を包み込む。

柔らかなコーヒー豆の香り。

甘い焼き菓子の匂い。

木のテーブルが馴染む気配。

客たちの穏やかな笑顔と談笑。

 

そのすべてが、Dには眩しかった。

 

「いらっしゃい。デイジーさん」

 

その声が、真っ直ぐ届いた。

思わず顔を向けると――

カウンターの向こうで、エプロン姿のマスターが鍋を振りながらこちらに微笑んでいた。

 

その笑みは、決して作り物ではない。

“お前を歓迎している”と、そう語る温度が確かにあった。

 

胸が、とくんと鳴る。

昨夜、どれほど苦しい思いを抱えて眠ったかも忘れるほどに。

 

Dは一歩進み、客で賑わう店内を見渡した。

昼の《ルポ》は夜とは違う息吹を持っていた。

テーブル席では料理に舌鼓を打ち、幸せそうに笑う客たち。

そこには確かに「生きる」という営みがあった。

 

「昼時にすまない。迷惑ではないか?」

 

ほんの少し申し訳なさを滲ませた言葉に、マスターは肩をすくめて笑う。

 

「何言ってるんだい? 大歓迎だよ。ほら、そこに座って」

 

指差されたのは――

彼の正面。

つい最近、Dが“初めて”心を許した席だ。

 

Dは思わず微笑んだ。

その笑みは、自分でも気づかぬほど柔らかい。

 

「ありがとう」

 

そう言い、自然な仕草でフードを外す。

もう隠す理由も、隠したい気持ちもなかった。

 

その変化にマスターは僅かに目を細めた。

その微笑みは、誇らしげで、ほんの少し嬉しそうで――

胸の奥が温かくなる。

 

「今日はどうする? いつものやつかい?」

 

Dは席に座り、迷わず答えた。

 

「ああ。いつもので頼む。……あと、ケーキを。マスターのオススメで」

 

「了解。待ってな」

 

――その言葉を最後に、マスターは軽快な動きでコーヒーを淹れ始めた。

 

お湯を注ぐ音、豆が膨らむふわりとした香り。

その所作は、いつ見ても美しく、無駄がなく、静かな情熱があった。

 

Dはその背中を眺めながら、昨夜のKとの会話を思い出す。

 

『Dがターゲットと顔馴染みなのは助かるな。それ、利用しない手はねぇよな』

 

Kは笑いながら言った。

乾いた笑いではあるが、悪意はない。

ただ、シージペリラスとしての“常識”を述べているだけだ。

 

『D、そのまま店に通って、ターゲットを“落としちまえ”。そうすりゃ後が楽だろ? ターゲットの“女”になっちまえば、情報収集なんざ一瞬だよ』

 

Dは目を伏せた。

 

『……どうだろうな。その男は、そんな簡単ではないと思うが……』

 

自分でも驚くほど静かで弱々しい声だった。

 

しかしKは気にも留めず、豪快に笑った。

 

『なーに言ってんだよ。Dの手にかかれば、どんな男だって“落ちる”だろ。今までだって散々やってきたじゃねぇか』

 

そう――事実だ。

 

Dは、任務のために多くの男を“落として”きた。

甘い視線を向け、仕草ひとつで心を揺らし、

必要なら身体を使い、

「特別だ」と錯覚させ、

そして最後に――消す。

 

男は脆い。

柔らかな言葉で、熱のこもった眼差しで、簡単に崩れる。

 

だからDは反論できなかった。

それが自分の“役目”であり、“技術”であり、“生き方”だったから。

 

しかし――胸の奥で、小さな声が震える。

 

『……マスターは、そんな男ではない……』

 

それは初めて抱いた、

任務とは無関係の、

弱くて、痛くて、どうしようもない――願い。

 

しかし、その願いは唇まで届かず、

喉の奥で押しつぶされる。

 

なぜなら、Dには自信がない。

 

彼のことをよく知らない。

喫茶店で交わした会話はほんのわずか。

数回の笑顔。

数杯のコーヒー。

ひと切れのケーキ。

 

それだけで、心が熱くなった。

胸が高鳴った。

声が聞きたくなった。

また会いたくなった。

 

――そんな自分に、D自身が一番驚いていた。

 

もっと話していれば。

もっと店を訪れていれば。

もっと踏み込んでいれば。

 

もしかしたら、“彼”の本質に触れられていたのだろうか?

 

だが――

 

もう、その可能性はない。

 

何故なら、

 

彼は、今はもう“ターゲット”なのだから。

 

「はい、お待たせ」

 

ふと顔を上げると、

マスターがコーヒーと、真新しいケーキをそっと置いたところだった。

 

その笑みはやさしくて温かくて、

Dの胸の奥の痛みを、逆に強く締めつける。

 

――こんな表情を見てしまえば。

――こんな温度を知ってしまえば。

 

もう、元には戻れない。

 

Dは微かに震える指先をテーブルの下で握りしめながら、その香りを吸い込んだ。

 

この香りを嗅ぐたびに、

この人を――

消さねばならないという現実が、胸をえぐるように迫ってくるのだった。

 

ーーーーーー

 

Dは、出されたコーヒーとケーキに、まるで祈るように指先を添えた。

フォークを持つ手は、普段の戦闘任務では決して見せないほど繊細で、震えるほど静かだった。

 

ゆっくりと、ひと口。

甘味が舌の上に広がる。

だがそれ以上に胸の奥を締めつけるのは――この時間が、終わりへと向かっているという事実だった。

 

次のひと口を口へ運びながら、Dはほんのわずかに目を伏せる。

 

――この数分、この数秒が永遠に続けばいいのに。

 

そんなことを、シージペリラスの戦闘員である自分が思うなど、本来ならば滑稽だ。

だが、どうしても願ってしまう。

 

これを食べ終えれば、またフードを、仮面を被らなければならない。

 

任務のための“顔”に戻らなくてはならない。

人を欺き、人を殺める影の存在へ。

それが彼女に与えられた役割であり、宿命だった。

 

残りひと口のケーキを見つめながら、Dの赤い瞳が細められる。

 

――これが最後。

――これを食べた瞬間、私はまた“シージペリラスのD”に戻る。

――そして、任務を遂行する。

 

心の中で呟いたその決意は、思った以上に重かった。

 

最後のひと口を食べる前に、Dは無意識に視線を上げる。

 

カウンターの向こうで、マスターが客へコーヒーを淹れていた。

その横顔。

その穏やかな気配。

その、柔らかな笑み。

 

彼は、自分が“抹殺対象”として名を挙げられていることなど、露ほども知らない。

いつもと変わらぬ優しさで、今日も静かに店を切り盛りしているだけだ。

 

Dの唇が、ごくわずかに緩む。

愛おしさから生まれた微笑みだった。

しかしその端には、深く沈む悲しみが宿っている。

 

……私がニケでなければ。人間であったのなら。

もっと違う出会い方ができたのだろうか。

 

心に浮かんだ言葉は、静寂の中にすっと溶け落ちた。

 

ケーキを口へ運ぶ。

コーヒーを飲む。

温かさが喉を通るたび、胸の奥がひどく痛んだ。

 

そして――Dは、もう一度心に仮面を被る。

仮面を着けることは、悲しいほどに慣れていた。

 

――客がいなくなった静かな店。彼女だけが残された。

 

Dが食べ終える頃、店内からいつの間にか客の姿は消えていた。

昼の喧騒は落ち着き、閉店時間が迫っている。

 

そんな中、マスターがDの席へ静かに歩み寄ってきた。

 

「デイジーさん。ケーキの味はどうだった?」

 

その声は、今日も変わらず、優しくて――あたたかくて。

Dは思わず、仮面の奥で瞳を閉じる。

 

「とても美味しかった」

 

柔らかく返すと、マスターは少し照れたように笑った。

 

「今日は仕事は?」

 

その問いに、Dの目が揺れた。

言葉が喉につかえ、視線が落ちる。

ほんの少し、恥ずかしそうに。

 

「今日は……休みだ。……ただ、私には趣味というものが無い。だから、その……ここに来ることにした」

 

その言葉は事実ではある。

だが同時に――本当の想いは隠されていた。

マスターはそんな彼女の内心など知らず、柔らかい笑みを深めた。

 

「だったら、休みの日にここに来てくれたことに感謝しなければならないな」

 

その言葉が、胸に染みた。

Dは思わず、目を逸らして微笑む。

 

「せっかくの休みなんだ。ゆっくりしていけばいい。お代わりはいるかい?」

 

その一言が、どれほど嬉しかったことか。

だがDは首を振る。

 

「いただきたいが、もう閉店時間だ。迷惑になるからもう帰ることにする」

 

その返答に、マスターは困ったように、しかしどこか楽しげに微笑んだ。

 

Dの前に置かれた空のカップに、静かにコーヒーを注ぐ。

香りがふわりと広がり、Dの心の動揺を優しく刺激した。

 

「…え」

 

戸惑うDに向けて、マスターは明るく言う。

 

「常連さんが休みの日にわざわざ来てくれてるんだ。閉店時間がちょっと過ぎるくらいなんて事ないよ」

 

そう言うと、店の入口に向かい、カタン、と軽い音を立てて「Open」の札を裏返し、「Close」に変えた

 

「ただ、もう豆が無いから、貴女で今日は最後だ」

 

その言葉は、ふざけるようで、優しさに満ちていた。

Dは自然と微笑みが零れる。

 

「ふふ、ありがとう。いただく」

 

コーヒーを受け取るDの表情は穏やかに見えたが、胸の奥では別のものがくすぶっていた。

 

マスターは何も知らない。

ただ、目の前の女性を「デイジー」という一人の客として大切に扱っているだけ。

 

その何気ない優しさが、Dには酷だった。

彼の優しさを欺き、利用し、最終的には裏切らなければならない自分が

 

――いや、自分の存在そのものが。

 

それでも、マスターと交わす言葉はどれも温かかった。

2人で向かい合い、静かに笑い合う姿は、誰が見ても仲の良い恋人のようで――

まるで本当に関係が生まれつつあるかのように見えただろう。

 

けれどDの胸中では、言いようのない痛みだけが静かに広がっていた。

 

(――すまない。私は……あなたを騙している)

 

その痛みに、ただ耐えるしかなかった。

 

ーーーーーー

 

夕焼けが静かに街を染めていた。

琥珀色の光が細長い窓から差し込み、喫茶店の木製カウンターを温かく照らす。

その光の中に、コーヒーの香りと、ゆるやかに時を刻む穏やかな空気が満ちていた。

 

客のいなくなった店内には、ふたり分の声だけが落ち着いた余韻を残しながら響いている。

 

カウンターの向こうで、マスターが柔らかい笑みを浮かべながら、ふと問いかけた。

 

「ところで、デイジーさんには趣味が無いんだって?」

 

Dは、カップの縁に触れた唇を離し、どこか恥ずかしそうに、そして少し寂しげに視線を落とした。

 

「あぁ……趣味というか、休みの日に何をすればいいのか……私には分からない」

 

その声音には、膨大な使命を背負った者の孤独が滲んでいた。

彼女が普段、どれほど“日常”から遠い世界にいるのかを示すように。

 

マスターは眉尻を下げ、優しい苦笑を浮かべる。

 

「趣味なんて、肩肘張るものじゃないよ。映画でも、ショッピングでも……ただ、自分がやってみたいと思ったことをすればいいんだ」

 

その言葉に、Dはまるで初めて聞く概念を前にしたかのように目を瞬かせる。

しばらくの沈黙のあと、ふいに恥じらいを含んだ眼差しでマスターを見つめた。

 

「……じゃあ、マスターが……私に“趣味のやり方”を、教えてくれないか?」

 

その一言は、Dにとって勇気を伴う告白にも似ていた。

マスターは一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべる。

 

「驚いたな……これはデートのお誘いかな?」

 

「ち、ちがう! そうではなくて……」

 

Dが慌てて否定し、耳まで赤くなる。その反応に、マスターは優しく笑った。

 

「はは、冗談だよ。……俺でよければ、いくらでも付き合うよ」

 

その言葉に、Dは息を吸うようにして俯いた。

 

「あ……じゃあ、よろしくお願い……する」

 

消え入りそうな声。それでも確かに、胸の奥から絞り出された言葉だった。

マスターは、その初々しい姿を穏やかに見つめる。

 

「じゃあ、予定を合わせないといけないな。次の休みはいつ?」

 

問われた途端、Dはまたも戸惑いながらも真っ直ぐに答える。

 

「い、いつでも大丈夫だ。マスターに……合わせる」

 

「じゃあ連絡先を交換しよう。ブラブラはやってるかい?」

 

「ああ、している」

 

その場でふたりは端末を取り出し、連絡先を交換する。

小さな電子音が鳴り、ふたつの名前が互いの画面に並んだ瞬間――Dの胸がふわりと熱くなった。

 

「予定が分かれば、すぐ連絡するよ」

 

「……分かった。待っている」

 

その言葉は、ほんの少し震えていた。

期待と不安、そのどちらでもない何かが、Dの胸の奥で静かに灯っていた。

 

それからしばらく、穏やかな会話が続いた。

夕焼けは少しずつ赤を失い、店内の灯りが代わりに温かさを増す。

コーヒーの香りと、互いの言葉だけが静かに夜へと溶けていった。

 

外へ出た時には、すっかり日が暮れていた。 

アーク特有のネオンの光が、微かに揺らめく。

 

「……すまない。長居しすぎた」

 

Dが申し訳なさそうに言うと、マスターは首を横に振り、柔らかく笑った。

 

「そんなことはないよ。貴女との時間は……楽しいから」

 

その言葉にDは少しの間動けなくなる。

そして、かすれるような声で返した。

 

「私も……マスターとの時間が……好きだ」

 

マスターは、返された言葉の純粋さに驚いたように目を瞬き、それから照れ隠しのように笑った。

 

「じゃあ、予定が分かったら連絡するよ」

 

「ああ……待っている」

 

Dはフードを被ると、僅かに揺らしながら、夜の街へと歩き出す。

その背中はどこか名残惜しげで、しかし少しだけ軽かった。

 

店に戻ったマスターは、掃除をしながらふと窓ガラスに映る自分の表情に気づく。

そこには、抑えきれないほど柔らかな笑みが浮かんでいた。

 

「……何を浮かれてるんだ俺は」

 

苦笑交じりに呟くが、その声にはどこか楽しげな響きがあった。

 

彼女との時間を、思いの外、心から楽しみにしている自分。それを認めながらも、照れくさそうに、マスターはまた小さく笑うのだった。

 

ーーーーーー

 

喫茶店からの帰路、夜気を掻き分けるように歩き続けるDの胸中には、ほんのわずかに残る温かな余韻と、それをすぐに塗りつぶす冷たい現実とが、入り混じった靄のように渦巻いていた。

 

任務――その一語が、彼女の心の輪郭を強引に形作っていく。

 

待機所の自動扉が滑らかに開くと、蛍光灯の白々しい光が彼女を迎えた。

その光の中、ソファを占領するように寝転がっていたKが、だるそうに手を伸ばして頭の後ろに組み、気配を察したように顔だけこちらへ向けてくる。

 

「お?帰ってきたかD。それで?どうだった?」

 

軽い調子で浮かべられた笑み。

一見すれば、友の恋路を茶化す程度の無邪気さがある。

だが、Dにはその言葉の奥底に潜む

“任務の成果確認”

という鋭い意図が、肌を刺すように伝わってくる。

 

恋でもなく、羨望でもなく、ただ冷徹に対象へ迫れたのか――その一点だけ。

 

Dは視線を伏せたまま、努めて平坦な声音で答える。

 

「……2人で会う予定をつけてきた」

 

その一言が落ちた瞬間、Kはバネ仕掛けのように跳ね起きた。

目を大きく見開き、口角を上げ、遠慮という言葉を知らないほどの快活さで笑う。

 

「さっすが、D!話が早いな。Dの手にかかれば、どんな男もイチコロだな」

 

カカカッ、と、短く鋭い笑声が待機所に響く。

任務が前へ進めば——Kにとってはそれで十分なのだ。

 

だが、Dの胸は、笑い声とは真逆の方向へ沈んでいく。

Kの反応を横目にとらえたのち、表情を変えずに短く答えた。

 

「……私は部屋に戻る」

 

踵を返すDの背を、Kは訝しげに小首を傾げて見送る。

 

「うん?どうしたんだ?……まぁいいか!今回の任務も楽勝そうだな!」

 

ソファに再び身体を投げ出す音が背後に響く。

Dは何も返さなかった。返せなかった。

 

扉を閉め、自室へ足を踏み入れると同時に、彼女は大きく息を吐き出す。

外套を外し、椅子へ投げるように置くと、糸が切れた人形のようにベッドへ倒れ込んだ。

 

胸の奥で疼くのは、マスターとの時間の記憶。

そのどれもが、もし自分が任務という名の“仮面”をつけていなかったなら、到底できなかった会話ばかりだった。

 

任務という仮面。

それさえあれば、自然な呼吸をするように言葉が出る。

だが、それを外した自分には、どんな言葉も、どんな笑顔も、途端にぎこちなくなる

――そんな己の弱さが、何よりも情けなかった。

 

仰向けになり、天井の無機質なラインを目でなぞりながら、彼女は端末を手に取る。

画面に映るのは、マスターの連絡先。

 

ただそれだけで、胸にふわりと温かいものが灯り、気づけば口元が緩んでいた。

その瞬間、心臓を素手で掴まれたように、はっと我に返る。

 

『何を期待しているんだ。あの男はターゲットだ。全ては演技。本心では無い』

 

自分に向けて呟く声は、痛ましいほど冷静だった。

そう言い聞かせなければ、境目が溶けてしまいそうだった

――任務と自分、仮面と本心、その境界線が。

 

その時、不意に端末が震えた。

手がわずかに跳ね、胸が不自然なほど大きく脈打つ。

 

画面に浮かぶ発信名を見た瞬間、その脈はさらに跳ね上がった。

彼からだった。

 

心拍の高鳴りを無視するように、息を整え、着信を開く。

 

『先程は楽しかった。誘われたこと嬉しく思う。予定だが、3日後はどうかな?』

 

簡潔で、彼らしい誠実さに満ちた文面。

読み終えた瞬間、Dは気づかぬ間に微笑していた。

 

『私も楽しかった。3日後、分かった。予定を空けておく』

 

返信を送った後も、しばらく画面から目が離せない。

ほどなくして、再び通知が灯る。

 

『よかった。では3日後の午前11時頃に、ショッピングモールの前で集合しよう』

 

その文章を読んだ時、胸の奥がほんの少し熱くなった。

期待――その名を持つ感情を、誰よりも自分自身が否定したがっているにもかかわらず。

 

『わかった。楽しみにしている』

 

返信し終えたあとも、彼とのやり取りの余韻が指先に残る。

店以外で交わした初めての約束。

ただそれだけのことが、自分をこんなにも揺さぶるのかと、苦笑が漏れそうになる。

 

だが同時に、胸はぎり、と張り裂けそうなほど痛んだ。

 

温かな喜びと、冷たい罪悪感が、胸の中で拮抗する。

その狭間で、Dはただ静かに、息を吸って吐いた。

自分がどこへ向かっているのか理解しないまま、それでも止まることはできなかった。

 




あかん。
紅蓮編の続編が思い浮かび、別作品の続きも思い浮かび、D編の続編も思い浮かぶせいで、どれから手をつけたらいいのか分からない。
あと、このままいったらD編また悲恋になりそう笑

どうでしょうか?Dの矛盾をうまく書けてるでしょうか汗
続編も今書いてますのでしばらくお待ちくださいー

このニケの話を書けや!

  • D
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