朝。
まだ日が昇りきらない淡い光が差し込むなか、ヴァルトは静かに言った。
「……しばらくここを出る。留守を任せるぞ、二人とも」
「はい」
「うん」
雛森とアスナが、それぞれ落ち着いた声で返事をする。
だが、ふとアスナが小首をかしげた。
「でも……アリサや桃香には言わなくていいの?」
その疑問に雛森も「確かに」とうなずく。
ヴァルトは小さく笑って答えた。
「アリサは疲れてるみたいだったし、桃香に関しては……うるさいからな」
「確かに、騒ぐね。桃香は」
アスナが思わず吹き出す。
「もう、二人とも……」
雛森は軽くため息をつきながらも、口元に笑みを浮かべた。
「後で怒られても知りませんよ?」
「そのときはそのときだ」
ヴァルトは肩をすくめるように言って笑った。
だが次の瞬間、表情を引き締める。
その声に、部屋の空気がわずかに張り詰めた。
「……準備が整ったら、頼むぞ」
「もちろん」
アスナはにっこりと笑顔を見せる。
そして、ふとリアスの方に視線を向けた。
「リアス。ヴァルト君のこと、お願いね」
リアスは真剣な顔でうなずく。
「えぇ、任せて」
「よし。行くぞ、リアス」
「はい……!」
リアスの声には少しだけ緊張が滲んでいた。
二人が部屋を出て行く。
その背中を見送った雛森が、ぽつりと呟いた。
「……寂しくなりますね」
「うん。確かに」
アスナは窓の外を見つめながら小さく笑う。
「でも……ここを守ることも、大事だから」
その声には、どこか切なさと、強い決意が混じっていた。
淡い光が二人の横顔を照らし、静かな朝が流れていく
「それで──最初はどちらに向かいます?」
リアスが隣を歩きながら尋ねる。
「まず、そうだな……」
ヴァルトは顎に手を当て、少しだけ考え込む素振りを見せた。
そして、ふと何かを思い出したように言う。
「協力者に会いに行く」
「協力者……?」
リアスが首をかしげる。
「あぁ」
短く、しかし確信に満ちた声だった。
──そして。
二人が辿り着いたのは、森の奥に佇む大きな屋敷だった。
白い壁と広い庭。
まるで時が止まったかのように静まり返っている。
「ここに?」
リアスが不思議そうに問いかける。
「あぁ。ここにいる」
ヴァルトは確信を持ってそう答え、躊躇なく玄関のチャイムを押した。
すると、奥から穏やかな声が響いた。
「大丈夫です。開いてますよ」
その声を聞いた瞬間──リアスの胸がわずかに締めつけられた。
懐かしい。
どこかで、何度も聞いた声。
(……まさか)
頭の中で否定する。
そんなはずない。
姉は今、魔界で兄と共に暮らしている。
幸せそうな笑顔を最後に、もう何年も会っていない。
「おい、なにしてる。早く入るぞ」
ヴァルトの少し怒った声で、現実に引き戻される。
「は、はい!」
リアスは慌てて彼の後を追った。
屋敷の中に入ると、奥から歩み寄る影があった。
「お久しぶりです、ヴァルト様。そして──リアスも」
その声に、リアスは息をのんだ。
視線の先にいたのは、銀髪のメイド服の女性。
「グ、グレイフィア……? ど、どうしてあなたがここに!?」
驚きの声が漏れる。
グレイフィアは少しだけ微笑み、視線をヴァルトへと向けた。
「あれ? まだリアスには話していないのですか?」
ヴァルトは腕を組み、静かに答える。
「……あぁ、まだだ」
グレイフィアは一歩近づき、ヴァルトの耳元にだけ届く声で囁いた。
「……変わらないですね。意地悪な人」
ヴァルトは鼻で笑い、
「ふん」
とだけ短く返した。
二人のやり取りを見ていたリアスは、胸の奥がざわめくのを感じた。
(……二人、知り合いなの? しかも、なんか雰囲気が……いい感じ?)
わけもなく、胸が痛んだ。
それが何の感情なのか、リアス自身にもわからなかった。
「──簡単な話だ」
ヴァルトが静かに口を開いた。
「俺はこの町の管理者になった。だがな、上に報告書をあげなければならない」
そこで言葉を区切り、続きを言おうとした瞬間──
「そこで、私の出番ってわけよ」
横から割って入る声。グレイフィアが胸を張って得意げに言った。
「……おい、俺のセリフだぞ」
ヴァルトが半眼で睨む。
「ふふっ、なんのことでしょうか?」
グレイフィアが口元に手を当て、笑いながらとぼける。
リアスは頭の上に「???」を浮かべたような表情だった。
二人のやり取りがまるで通じ合っているようで、余計に混乱する。
「そ、それで……どうしてあなたなの?」
たまらずリアスが声を上げた。
グレイフィアはリアスの方へ視線を向け、穏やかに問い返す。
「じゃあ、報告書って──誰にあげるのかしら? リアス」
「そ、それは……上司とか、かな?」
リアスが少し戸惑いながら答える。
「えぇ、そうね」
グレイフィアが頷き、すぐに続けた。
「じゃあ、彼──ヴァルトの上司は誰かしら?」
「え……?」
リアスは思わず固まった。
(そういえば……ヴァルトに“上司”なんているの?)
グレイフィアはそんなリアスの様子を見て、やさしく微笑んだ。
「えぇ。あなたの考えてる通りよ。ヴァルトには上司はいないの」
「だったら?」
リアスが眉をひそめる。
「確かに、直接の上司はいないわ。でもね──魔界の“上の人たち”には、定期的に報告をあげる必要があるの」
グレイフィアの声は落ち着いていて、どこか説得力を持っていた。
「町ひとつ管理するって言っても、結構大変なのよ。
例えば“はぐれ”が出たら? 事件が起きたら? それを確認しておくためにも、報告書が必要になるの」
「なるほど……」
リアスは少しずつ理解し始めた様子で頷く。
「そして、その報告を受け取るのが──魔王サーゼクスなのよ」
「そ、そうなの!?」
リアスが思わず声を上げた。
グレイフィアは微笑みながら、リアスの反応を楽しむようにうなずいた。
「そうよ。そして、私はそのサーゼクスの妻として、報告の確認を任されているの」
「……なるほどな」
ヴァルトが腕を組み、続ける。
「だが問題は、俺はこの町のことをほとんど知らなかった。
だから──先にグレイフィアに来てもらって、この町の情報をまとめてもらっていたんだ」
「それに、報告するなら“近い存在”のほうがやりやすいからな」
そう言ってヴァルトがグレイフィアを見ると、彼女も静かに微笑み返す。
二人の間に、短いけれど確かな信頼の空気が流れた。
リアスはそれを見て、ようやく完全に納得したように息をついた。
「……確かに。理にかなってるわね」
だがその胸の奥では──
“少しだけ、チクッとした感情”がまだ残っていた。