重たい空気が、部屋の中をゆっくりと流れていた。
何かを言おうと、ヴァルトが口を開いた――その瞬間。
「……ごめんなさい。今のは忘れて」
グレイフィアはかすかに笑みを作りながら言った。
「ごめんなさい。ちょっと、用事を思い出したわ」
そう言って彼女は、背を向ける。
階段を上がる足取りは静かだったが、その背中はどこか危うく、
まるで一歩踏み外せば壊れてしまいそうなほど儚く見えた。
扉の向こうに姿が消えたあと、
ヴァルトはしばらく何も言えず、ただその場に立ち尽くしていた。
やがて、ぽつりと呟く。
「……すまない」
その声は小さく、悲しみに滲んでいた。
それが二階に届いたのかどうかは、誰にもわからない。
けれど――それが、今の彼にできる唯一の言葉だった。
「ヴァルト様に頼まれて屋敷を出たのはいいけど……」
リアスは森の中の細い道を歩きながら、眉をひそめた。
「……完全に道に迷ったわね」
辺りを見回すが、見えるのは木々ばかり。
鳥の声と風の音だけが響いている。
「肝心のスマホも圏外……まいったわ」
小さくため息をつき、髪をかき上げた。
慣れない人間界の土地、そして見慣れない道標。彼女にとっては未知の世界だった。
そんなリアスを、少し離れた木陰からじっと見つめる影があった。
「……あれ? これって、もしかして迷ってる感じ?」
木の陰から顔を出した少女が小声で呟く。
黒髪を高く結い上げ、忍装束のような軽装をまとったその少女の名は――飛鳥。
ヴァルトに仕える、リアス専属の“極秘護衛”である。
「助ける? うーん……でも私は彼女の存在を“護る”だけの任務。
姿を見せちゃいけないって、主様に言われてるし……」
そう呟きながら、飛鳥は頭を抱えた。
彼女の任務は明確だ。
> 『仮に俺とリアスが別々に行動するときは――リアスを最優先に護れ。だが、決して気づかれるな』
その主の命令が、今まさに彼女を苦しめていた。
「でもこのままじゃ……夜になったら危ないし……」
飛鳥は木陰でぐるぐると回り始めた。
「はぁ〜もう! どうしたらいいのよ!」
「無理だよ……柳生ちゃん、主様、助けてよぉ〜!」
泣きそうになりながら、飛鳥は地面にしゃがみ込む。
けれど――本当に助けが必要なのは、今まさに森の中で迷っているリアスの方だった。
「……うそ。ここ、どこ?」
リアスは木々の間を見回すが、どこも同じような景色ばかり。
焦りと不安が胸を満たしていく。
「やっぱり、グレイフィアに言われた通り一人で出るべきじゃなかったかしら……」
彼女の足取りは、次第に弱くなっていった。
その様子を、木の陰から見つめる影がひとつ。
――飛鳥。
リアスの護衛を任された、若き忍び。
(やばい……完全に迷ってる……)
心の中でつぶやきながら、飛鳥は頭を抱えた。
助けるべきか、それとも指示通り“影”に徹するべきか。
忍の世界では――一秒の遅れが命を落とす。
それを教えたのは、ほかでもない主・ヴァルトだった。
けれど、その教えを知っているからこそ、今の飛鳥は動けない。
心臓が早鐘を打つ。
いくら“忍”として生きているとはいえ、彼女はまだ十六歳。
恐怖と責任の狭間で、パニックになるのも無理はなかった。
そんなとき、ふと頭に過ったのは――三年前の記憶。
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「いいか、飛鳥」
訓練場に響くヴァルトの声は鋭く、そして重かった。
「忍の世界では、一秒の遅れが命取りになる」
「は、はい!」
緊張で背筋を伸ばす飛鳥。
「じゃあ、相手に正体を隠したまま助けるときはどうする?」
飛鳥は腕を組み、うーんとうなった。
そして、ぱっと顔を上げて答える。
「私なら――隠れて助けます!」
その横で柳生が呆れたようにため息をつく。
「バカか。先生は“どうやって”助けるか聞いてんだよ」
「ひ、ひどい、柳生ちゃん……!」
柳生はそっぽを向いて「ふん」と鼻を鳴らす。
ヴァルトが少し笑い、柳生に尋ねた。
「じゃあ柳生、お前ならどうする?」
「俺なら……変装して相手を助けます」
「……さすがだな」
ヴァルトは柳生の頭を軽く撫でた。
「……!」
柳生の顔が真っ赤になる。
それを見た飛鳥は頬を膨らませた。
「ブーブー、柳生ちゃんだけずるい!」
柳生は冷たい笑みで答える。
「ふん。先生は、俺のものだ」
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――その瞬間を、飛鳥は今も鮮明に覚えていた。
「……そ、そうだ! 変装して助ければいいんだ!」
顔をぱっと輝かせた飛鳥は、思わず叫んでしまった。
「これだぁーーーっ!!!」
森中に響く大声。
「っ……だ、誰!?」
リアスが振り向き、身構える。
当たり前だ。
この森は人がほとんど通らない。
そんな中、突如響いた叫び声――警戒しない方がおかしい。
(し、しまったぁぁぁ!)
飛鳥は木の陰で顔を真っ青にしていた。
「だ、誰なの……? まさか……はぐれ悪魔……!?」
リアスの声がわずかに震える。
(あわわわ……どうしよう! 完全にバレた! 主様ぁぁぁ!!)
飛鳥の心の中は、もはや修羅場だった