────己が己であるために。呪術界隈の補助監督として働いている山本幸子(25歳)は好奇心からこの仕事についた。その性格が故に、同行した術師と交わす言葉は他の補助監督よりも多い傾向にある。そして会話の始めを作るために、山本はとある質問をする。
「間違っても入ったらダメだからね、山さん。大人しく待っててよ」
「勿論です。気をつけてください、釘崎1級術師」
「そうね、夜更かしは互いに肌に悪いもの。──すぐ終わらせてくる」
山本が発する質問は『なぜ術師を続けるか』である。ここで重要なのは『術師になった理由』ではなく『続けている理由』だ。術師になった理由だなんて多忙の借金だとか、たまたま呪霊が見えていて楽そうだったからとか、理由なんて物は腐るほどある。
「私もあんな風に戦えたら良かったんですが」
故に山本は質問を発する。釘崎野薔薇にも同様に、なぜ術師を続けているかを聞いた。黒いストッキングに包まれた長い足に、手入れを欠かせない白い肌。艶めいて見える美しい髪を持つ彼女は生意気な笑みを浮かべ、迷わずこう答えた。
『己が己であるために』
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岩手県盛岡市に位置する四十四田ダムは心霊スポットとして岩手県内で大きく声を上げている。ダムであるが故、心霊スポットであるが故に飛び降り自殺は多発し、付近にある駐車場では車内での硫化水素自殺など、負の事件が大きく上げられている。しかし、
「普通のダムって感じね。地元にいる時は気にもしなかったけど、心霊スポットとしては怖さが足りなくてつまんねー!」
夜中であるにも拘わらず、心霊としての恐怖を感じさせる
「つーか、ダムでどこに幽霊が出るっつーのよ」
疑問を口に出しながら天端の上を歩く釘崎。下を見下ろすも、上を見上げるもも呪霊の存在は確認できず、呪霊らしき呪力も感知できない。ダムの内部まで、とは言わなくとも、被害が出そうな場所に立っていても生得領域には入らない。こんな場所で一体どのような霊障が危険視されているのか。
「ねえ、あなたって幸せ?」
「⋯⋯? ええ、幸せよ。神様なんてクソ、信じなくてもいいぐらいにはね」
白い布切れのような、イエス・キリストを彷彿とさせる女性に話しかけられる釘崎。口から発せられた言葉もまた、どこか宗教を感じさせる内容だ。今の自分が不幸で、不満があるかって? 愚問。私が私なだけで、私どころか世界は幸せだ、なんて風に言葉を返す釘崎。が、
「私はね、幸せじゃなかった。母親が意味の分からない宗教で苦しめられ、金はなくなって付き合いきれないと父親とは離婚。高校にも行けず、働く事もできず、何も、できず」
四十四田ダムの駐車場では硫化水素自殺の事件が大きく発見されている。無論、ダムならではの飛び降り自殺もだ。
「私は憎いよ。あんな犯罪者が宣う世界も、胸を張って幸せだと言える────お前もォ!!」
「あっそ」
咆哮。瞬間的に増強される筋肉は女の体の限界を超えており、ボコボコと膨張した手足が細い頭と体を強調させている。言うまでもなく、その者が人なるざる者という事を証左している要素の数々が次々と表れ、その肉体を獰猛な殺人兵器へと変化させていく。そして、
「憎憎憎憎憎憎ォ!」
「────ッ!」
振るわれる剛腕と共に周囲へと広がる呪力の衝撃波。バックジャンプによって呪霊の打撃を避けるも、黒に近い紫の色をした衝撃波が釘崎の肉体を貫通する。襲いかかる痛みに歯を食いしばり、声を上げようとしたが──、
「⋯⋯? ただ臭いだけで、なんともない?」
────人体の異常なし。呪霊に体臭があるかだとかは分からないものの、痛みもなく、ただただ釘崎は顔を顰める。食物が腐敗したかのような匂いは鼻の奥を突き刺すが、戦いへと支障を出す物ではない。困惑している釘崎へと振るわれた2度目の剛腕を片手で流し、呪力を流した金槌で上から叩き落とす。大きいが故、バランスが取りずらく、呪霊の体は大きく傾き、腕ごと地面へと転んでしまう。
「コホッコホ⋯⋯全然、大した事ないじゃない」
戦闘開始から1分。腐敗臭を感知してから5〜10秒と言った所だろうか。未だに直接的な傷や負傷は目立っておらず、鼻を突き刺す臭さと咳き込み、喉の痛みだけが増加するばかり。タイミング悪く風邪にでもなったかと釘崎は面倒そうに思いながら、目の前の敵の強さを頭に入れていた。体こそ大きいものの、その分だけ動きが遅くて体術もない。特殊な術式がある訳でもなく、2級に届くか届かないかのレベル。こんな物相手に1級術師が派遣されるべきなのかと。だから、
「ゴホ、ゴボっ、ぉお⋯⋯」
腐敗臭に咳き込み、目眩に頭痛に、極めつけは吐血。
「ざまぁ!」
「がふっ、う」
膝から崩れかけた途中に、呪霊の打撃が腹を貫く。酸素が肺から吐き出され、口の外へと出されては朱が飛び散る。周囲を見る眼球がおかしい。視界の端が黒く、中心は赤い斑が付着している。肉体が上手く動かせない。まるで全身に鉛でも詰められたかのように。
「お前は、お前らは。結局は見て見ぬふりをしていただけなんだ」
岩手県盛岡市に位置する四十四田ダムでは飛び降り自殺と駐車場にて行われる『硫化水素』自殺が多発している。人体へと悪影響を及ぼす毒ガスは吸い込めばたちまち体の隅々を犯し、微かな腐敗臭とガスによってしみる目。焼けるような喉の痛みに軽い咳き込み。
「お前らは全員を助けない。届く範囲でしか助けない」
症状は時間の経過と共に悪化し、激しい咳によって傷ついた喉は出血をしてしまう。吐き気、目眩は肉体の動きを妨害し、浅くなった呼吸は酸素の取り込みを減らし、思考速度を低下させる。揺れる視界と耳鳴りに低下した身体機能は気づかない。
「私は私を助けない奴を許さない。私しか助けないやつも、私以外しか助けないやつも。────死ね」
貫手によって放たれる刺突。遠のく意識の最中で釘崎は思った。このまま動かなくば、左胸を貫かれ、痛みのない死を迎えると。だが同時に思った。いつぞやの勝手に椅子を持ってきて、生意気にも友達面をした男はそれを正しい死と認めてくれないと。そしてこうも思った。このまま死んでしまえば──、
『鄒霊呪法・共鳴り』
────きっと男は泣いてしまうと。意識を保つのがいっぱいで、金槌を持つのもやっとの思いでやって、必死にやったから、迫ってくる死に恐怖を抱く暇なんて物はなかった。振るわれた金槌は己の左腕に微かに突き刺さった『釘』へと落とされる。呪いを持ってして呪いを制す。鄒霊呪法の主要道具である『五寸釘』が肉へと食い込み、鮮やかな血の噴出を持ってして白い肌の奥底へと突き刺さる。そして、
カァァァァァン
「う、ぅ」
再度、金槌は叩きつけられる。直後、呪霊の全身をごちゃ混ぜにするかのように、肉体内部から突き出た呪力の釘が肉を貫く。鄒霊呪法の真髄である『共鳴り』は丑の刻参りをモチーフに過去の術師が作った技である。遡ること数千年。最初に鄒霊呪法の使い手になった男はその力を一度、自分で攻撃を当てた箇所に同じ衝撃を繰り返させる程度の物として認識していた。しかし、時代と共にイメージは変わるもの。釘を用いて使うようになった鄒霊呪法はやがて釘という『繋ぎ止める』イメージから拘束型の物へと変わった。そうして進化してきた古きよき術式の技『共鳴り』の効果は──、
「共っ鳴りぃ!」
「がぁああぁ!」
────不可避の攻撃の発生。対象者の体の一部を釘で貫く事によって発動する術式は最強の術師でさえも回避不可能な一撃を生み出す事ができる。再度、金槌によって叩かれ、さらに奥深くと腕に食い込む釘が呪力を発生させる。して、なぜ『共鳴り』が釘崎自身の腕に対して使って敵へと攻撃を与えれていれるのか? その答えは至ってシンプルである。
「共鳴り。共鳴り、共鳴り!」
「────」
この世界ではなかった歴史の一つである九相図vs虎杖&釘崎にて。血液を元に発生した九相図の呪いが刻まれた己の肉体を元に、共鳴りを発動させていた事がある。ようはそれと同じ原理であり、釘崎の体を犯す毒ガス『硫化水素』の発生源は呪霊の体、その一部からと言う事が分かる。四十四田ダムの駐車場にて行われた数多の硫化水素自殺。何かしらの悩み、闇を抱えて死んでいった人間たちの怨念が実現しうる呪霊の術式。しかし、
「共鳴りィ!」
「ぁあああああああ!」
術式の強みは鄒霊呪法の前では──否。釘崎野薔薇の前では弱点となる。6度に渡って連続で発動した共鳴りは釘崎自身の左腕を肘から上部分を壊す事に。しかし、同時に呪霊もまた、塵へと化していた。釘崎野薔薇と言う術師は──、
「上っ面だけの助けを求める奴を私は許さない。────たく、助けれなくて辛いのはこっちも同じだっつーの」
────どんな術師よりも自己中な術師だった。他者を助けるのをやめた時、釘崎野薔薇と言う女は死んでいる。だから自分であり続けるために。
『己が己であるために』
釘崎野薔薇は今日も人を助ける。いつぞやの虎を脳裏に描いて。
「四十四田ダムの呪霊」
膨張したかのような肉体で現れては硫化水素ガスによって人をあの世へと誘う悪霊。ダムの天端にふらりと現れては『今のあなたは幸せ?』と言う質問を投げかけてくる。『幸せです』と答えればありったけの憎悪と嫌悪を込めて殺され、『幸せではない』と答えれば抱擁が如き、安らかな死を毒ガスによって迎える。つまり、どっちを答えても行き着く先は死である。ちなみに駐車場の車内にて硫化水素自殺を行った女の怨念から生まれた呪霊であり、その矛先は職場でのいじめをいつまでも見て見ぬふりする同僚や上司など、理不尽なこの世界自体へと向けられているが故にここまでの強さになったと見られる。