結論から言うと、交渉は決裂したのであった。
「ダメよ、アリス」
お母様の静かで、それでいて有無を言わさぬ声が、陽光あふれる応接室の空気を凍てつかせる。わたしの目の前で、聖母のように優雅に微笑む彼女の紫色の瞳には、しかし一切の妥協の色はなかった。
「……どうしてですか、お母様! お金なら、クライネルト家にはたくさんあるはずです!」
わたしは六歳の子供が駄々をこねるように、精一杯の抗議の声を上げた。
セーラの妹を救うために必要な、大司教様への莫大なお布施。それを、伯爵家から融通してもらえないか。
屋敷に戻るなり、わたしはお母様にそう直談判したのだ。
「ええ、ありますわ。けれど、それはわたくしたちが好き勝手に使っていいお金ではないの。クライネルト家が民から預かっている、大切な税金ですもの」
お母様は、諭すように言う。
「あなたがお願いしている金額が、どれほど大きなものか理解している? 例えば、このクライネルト領にある村一つを、一年間運営できるほどの金額なのよ。あるいは、屈強な騎士様を何十人分、頭のてっぺんから爪先まで最高級の装備で武装させることだってできるわ」
その具体的な例えに、わたしはぐっと息を呑んだ。
想像していたよりも、遥かに桁が違った。
「一介のメイドの家族を救うために、それだけの領民の生活や、領地の守りを危険に晒すことなど、決して許されはしない。それが、領地を預かる貴族の『務め』なのよ、アリス」
正論。あまりにも、完璧な正論だった。
お母様は、ただ意地悪で言っているわけじゃない。貴族としての責任と、現実を、わたしに教えてくれている。
「で、でも……っ!」
「それにね、アリス」
お母様は、悲しそうに眉を寄せた。
「たとえ大司教様にお願いできたとしても、その奇跡で、必ず妹さんが助かるという保証はどこにもないのよ。あまりにも……夢物語だわ」
その言葉が、わたしの胸に突き刺さる。
お母様は、そっと席を立つと、わたしの前にしゃがみこみ、その柔らかな手でわたしの頬を包み込んだ。
「あなたの優しい気持ちは、お母様、とても嬉しく思うわ。本当に、自慢の娘よ。だから……だからこそ、あなたには現実を見てほしいの。今はまだわからないかもしれないけど、いずれはわかるはずよ」
その瞳は、心からわたしを愛している、母親の瞳だった。
だからこそ、これ以上は何も言えなかった。
込み上げてくる悔しさと無力感に、視界が滲む。
「……お母様の、バカぁっ!」
わたしはそう叫ぶと、お母様の手を振り払い、応接室を飛び出した。
扉の外には、心配そうな顔でセーラが待っていた。
わたしは、彼女の姿を見るなり、わっと泣き声を上げてその胸に飛び込んだ。
「うわあああんっ! セーラぁ……っ! お母様がいじわるだよぉおおおお!!」
「お嬢様……」
セーラは何も言わず、わたしの小さな身体を優しく、力強く抱きしめてくれた。
その温もりに、わたしは子供のように声を上げて泣いた。
――なんてね。
六歳らしく泣いてみただけで、頭の中はいたって冷静だ。
この程度は想定済み。
お母様に断られたくらいで、諦めるわたしじゃない。
むしろ、逆境であるほど、燃えるのがわたし、一流のゲーマーとしてのプライドだ。
涙で濡れた顔をセーラのメイド服にうずめたまま、わたしは次の作戦へと、思考を切り替えていた。
正直な話、お金稼ぎなんてアリスちゃんにとって、レベル上げよりもずっと簡単だ。
だって、わたしには現代知識という名のとっておきのチートがあるんだから。
言うなれば、異世界転生したアリスちゃん、現代知識でお金をガッポガッポ稼いで無双するってとこかな! ふははっ。
◆◇◆
翌日、わたしはあるものを準備してから、家庭教師であるレオル先生のことを待っていた。
「先生、質問があります!」
そして、歴史の授業が始まるや否や、わたしは勢いよく手を上げた。
「この国の、お金のことについて教えてください!」
「お金、ですか。また随分と、実用的なことにご興味がおありなのですね」
レオル先生は少し驚きながらも、すぐにいつもの穏やかな笑みを浮かべて頷いた。
「ええ、もちろんです。まず、この国で最も広く使われているのは銅貨です。次に銀貨、そして金貨。一枚の金貨は、銀貨十枚、銅貨千枚の価値があります」
「大司教様にお願いをするときは、どれくらいのお金が必要なのですか?」
わたしのあまりに直接的な質問に、レオル先生はさすがに目を丸くした。
「……なぜ、そのようなことをお聞きするのですか?」
いきなりこんなこと聞いても困惑するのは当たり前か。
わたしは「えっと……」と言いながら、これまであったことを話し始めた。セーラの妹ちゃんのことを。
「……『無貌の魔女』。神話の時代の、最も忌むべき災厄の一つです。妹さんにはかわいそうですが……非常に難しい問題ですね。決まった額はありません。あくまで『お布施』ですから。ですが、魔女の呪いを解くほどの奇跡を願うのであれば……金貨で、少なくとも千枚は必要になるかと。それでも、治るかどうかは五分といったところかと」
「き、金貨千枚……」
銅貨百万枚分。村が一つ、一年間暮らせる金額。お母様の話と一致する。
わたしは唇を噛み締めた。
「どうして、そんなにお金がかかるのですか! 神様にお仕えする人なら、困っている人を無償で助けてくれてもいいじゃないですか! いじわるです!」
子供の純粋な怒りを装う。
すると、レオル先生はふぅ、と息をついて、少しだけ真剣な表情になった。
「アリス様。神官の方々が行う奇跡は、決して便利な魔法ではありません。あれは、自らの生命力……魂の一部を削り、神への祈りとして捧げることで、ようやく成り立つ神聖な儀式なのです」
「魂を、削る……ですか?」
「はい。特に、『無貌の魔女』の呪いを解く奇跡となれば、その消耗は凄まじい。儀式の後、一月以上も寝込んでしまわれても不思議ではありません。その失われた生命力を補うために、非常に高価で希少な聖水が必要不可欠なのです。お布施とは、そのための実費、と考えるのが正しいでしょう」
むむむ……っ。
なるほど。単なる金儲けじゃないのか……。
一応世界観に根ざした理由があるってわけね。
わたしは納得したように頷くと、おもむろに、足元に置いていた小さな布袋を持ち上げた。
「先生。これ、見てください」
わたしは袋の口を開け、中身をそっとテーブルの上に広げた。
ちゃらり、と重い音を立てて現れたのは、先日セーラから取り上げた、十数枚の金貨と、きらびやかな宝石の数々だった。
レオル先生の翠色の瞳が、驚愕に見開かれる。
「アリス様、これは……!?」
「わたしのお小遣いです! 今まで、こつこつ貯めてきたんです!」
もちろん、真っ赤な嘘だ。
伯爵令嬢だからといって、お小遣いが、こんな大金なわけがない。
先生も、その異常さには気づいているはずだ。だけど、彼は何も言わず、ただ黙って宝石の一つを指でつまみ上げた。
「……先生。これ、全部でどれくらいの価値がありますか?」
わたしの問いに、レオル先生は宝石を光にかざし、しばらく鑑定するように眺めてから、静かに答えた。
「……金貨にして、およそ五十枚、といったところでしょう。素晴らしい品ですが、目標には、まだ遠く及びませんね」
金貨五十枚。大金には違いない。だけど、千枚には、絶望的に足りないか。
レオル先生は、探るような目でわたしを見つめた。
「アリス様。これを、どうなさるおつもりで?」
その質問待ってました!!
わたしは内心でガッツポーズを決めながら、顔では天使のような無垢な笑みを浮かべ、高らかに宣言する。
「このお金で、商売を始めます! ……と、その前に、まずは、これを見てください」
わたしは足元に隠していた、もう一つの小さな布袋から、何の変哲もない、黒い布で覆われた一本の筒を取り出した。長さは腕の半分ほど、太さは大人の男性がようやく握れるくらいだ。
「先生、これはなんだと思いますか?」
「……望遠鏡、でございますか? それにしては、随分と短いようですが」
「ふふんっ。これは、わたしが作ったあたらしいおもちゃです!」
わたしはそう言って、筒の片側についている覗き穴をレオル先生に向けた。
「こちらから中を覗いて、向こう側を明るい窓の方へ向けてみてください」
レオル先生は、わたしの意図が読めないまま、訝しげにその筒を受け取ると、言われた通りに中を覗き込んだ。
次の瞬間、彼の息を呑む音が、静かな客間に響いた。
「こ、これは……!?」
驚きのあまり、彼の身体が硬直する。わたしは構わず、悪戯っぽく微笑みかけた。
「先生、その筒を、ゆっくりと回してみてください」
言われるがままに、レオル先生がそろそろと筒を回転させる。
すると、彼の口から、もはや言葉にならない感嘆の声が漏れた。
「な、なんと……! 光の宝石が、花のように咲いては……形を変えていく……! 二度として、同じ模様にはならない……! アリス様、これは一体、どのような高位の幻惑魔術ですか!?」
興奮のあまり、彼は筒から目を離せずに叫んだ。無理もない。彼が見ているのは、色ガラスの破片が、たった三枚の鏡に無限に反射して生まれる、光の芸術なのだから。
ふふん、チョロいな!
昔、異世界転生モノにハマっていたとき、現代知識で無双する妄想をしておいて本当によかったー!
あのときに、この万華鏡なら簡単に作れるし、これなら世界をとれる! って思ってたんだよね。
現代知識チートの前では、家庭教師だろうがなんだろうが赤子同然よ! ふははっ。
「魔術ではありません。わたしの部屋にあった、手鏡を三枚、こうして三角柱の形に組み合わせただけ。先端には、庭師さんにお願いして貰った、硝子工房の綺麗なクズを少し入れていますの」
わたしがこともなげに言うと、レオル先生ははっとしたように筒から顔を離し、信じられないものを見る目で、その単純な構造とわたしの顔を交互に見つめた。
――万華鏡。
たしか19世紀初頭のイギリスで発明されて、またたく間にヨーロッパ中の大人たちの間で大流行したんだっけ。
最初は科学的なおもちゃだったのに、その美しさから芸術品として扱われ、ロンドンだけで3ヶ月で20万本も売れたっていう記録があったはず。単純な構造だから模倣品もすぐに出回ったけど、それすらもブームを加速させた。
この世界の技術レベルや貴族の娯楽の乏しさを考えれば、再現性は百パーセントどころか、二百パーセントよ!
「わたしはこれを『カレイドスコープ』と名付けました。退屈している貴族の婦人方や、お子様たちへの贈り物として、これほど喜ばれるものはありません。何より、『二度と同じ景色は見られない』のです。まるで、人の一生のようだと思いませんか?」
わたしは、呆然とする先生に、畳みかける。
「材料は安いです。鏡と綺麗なガラスの破片だけ。この金貨があれば、数え切れないほど作れます。そして、これを王都の宝石商や玩具商に持ち込めば、貴族の方々は芸術品として喜んで金貨を支払うでしょう。ですが、わたし一人では、腕のいい職人さんを見つけることも、作る場所を確保することもできません」
わたしはソファから降りると、レオル先生の前に立ち、深く、深く頭を下げた。
「先生の、お力が必要なんです。この『カレイドスコープ』を、わたしと一緒に、この国で一番の芸術品にしてください! どうか、わたしに、力を貸してください!」
必死の訴えに、レオル先生ははっと我に返った。
彼は目の前の魔法の筒と、わたしの顔を何度も見比べ、やがて、ごくりと喉を鳴らした。
その表情は、もはや家庭教師が生徒に向けるものではない。未知の、計り知れない鉱脈を前にした探鉱家のような、畏怖と興奮が入り混じったものだった。
「……恐れ入りました、アリス様。まさか、鏡を組み合わせるだけでこのような……。面白い。実に面白い計画です。家庭教師の務めを少し超えることになりそうですが、構いません」
彼はわたしの前で恭しく片膝をつくと、真っ直ぐな瞳でわたしを見上げた。
「このレオル、あなた様のその素晴らしい知恵と商才に、ぜひ協力させてください。必ずや、この商売を成功へと導きましょう」
その翠色の瞳には、未知への探求心に満ちた熱い光が宿っていた。