バーデンで最も壮麗と謳われる聖光教会の大聖堂。その最上階にある「謁見の間」は、下々の者たちの想像を絶するほどに豪華絢爛だった。
床は大理石。
それも、一枚岩から切り出したかのような継ぎ目のない乳白色の鏡面仕上げ。壁には天地創造の神話を描いた巨大なステンドグラスが嵌め込まれ、そこから差し込む光が部屋中に七色の粒子を散らしている。
天井から吊るされたシャンデリアには無数の魔力を持つ石――『光明石』が埋め込まれ、それ自体が淡く発光していた。
うわっ、なんだこれ。
成金趣味にもほどがあるでしょ。
わたしの秘密工房の売り上げ、全部つぎ込んでも天井のシャンデリア一つ買えなさそう。
大聖堂の入り口で、わたしたちの護衛として同行していたグオークさんとルスカーさんは、神官たちに武器の取り上げを要求されていた。
「神聖なる謁見の間に、武器の持ち込みは許されません」
「我らはアリス様の護衛だ! 武器を外すなど……!」
グオークさんの怒声と、神官たちの冷たい拒絶が響き合う。一触即発の空気を、わたしはひらひらと手を振って制止した。
「大丈夫です、グオークさん、ルスカーさん。ここは神聖な教会の中ですもの。お預けしてください」
わたしの笑顔(猫かぶりだけど)に、騎士たちは不満そうにしながらも、渋々剣を預けるしかなかった。
そんなわけで、無駄にきらびやかな謁見の間に通されたのは、わたしと、わたしの背後に控えるレオル先生。
そして、固唾を飲んで成り行きを見守るセーラ。
彼女の傍らには、眠り続ける妹ちゃんを乗せた簡易的な寝台が静かに置かれている。グオークさんとルスカーさんは、丸腰のまま、扉のすぐ内側に控えていた。
お母様は、というと、まさに今日のこの時間に合わせて王都から重要な客人が訪れることになり、どうしても席を外せないと、出立の際に本気で残念がっていた。
その時、お母様がレオル先生の手に縋るようにして「アリスを、あの子をよろしくお願いしますね」と託していたのを、わたしはこっそり見ていた。
そのせいか、今のレオル先生は、いつもより少しだけ背筋が伸びすぎている。手のひらにじっとりと汗をかいているのが、わたしの位置からでもわかった。
こっちまで緊張するじゃんか、もう。
ゲオルグ大司教。
それが、今日の交渉相手の名前。
レオル先生が事前に集めてくれた情報によれば、極度の秘密主義者で、滅多に人前に姿を現さないらしい。
そんな大物が、なぜ一介のメイドの妹のために、わざわざ密会を?
答えは簡単。わたしたちが差し出す「寄付金」という名の蜜の味に、抗えなかっただけ。
やがて、謁見の間の奥にある、金細工の施された巨大な扉が、ぎぃ、と重い音を立てて開かれた。
ぞろぞろと、同じ意匠の法衣をまとった高位の神官たちを引き連れて、現れた「それ」を前に、わたしは思わず息を呑んだ。
人、というより、山。
肉の、山だった。
豪華な法衣に包まれたその身体は、異常なまでに肥え太っている。左右に控える屈強な司教たちに両脇を支えられなければ、自らの体重で崩れ落ちてしまいそうだ。たるんだ顎の肉は幾重にも重なり、小さな豚のような目が、いやらしい光を浮かべてこちらを値踏みしている。
あれが、ゲオルグ大司教。
うわぁ……。生理的に無理なタイプだ。
「――して、クライネルト家のご令嬢が、わたくしに何の御用かな?」
特注であろう巨大な椅子にその巨体を沈めると、ゲオルグは芝居がかった、ねっとりとした声で言った。
事前に書簡でやり取りしていた通り、これは最終確認の場。わたしが寄付金を支払い、彼が奇跡を行う。ただ、それだけの話のはずだった。
「ふむ。寄付の申し出、誠にありがたい」
ゲオルグは、指にはめられた宝石だらけの指輪を弄びながら、尊大に頷く。
だが、次の瞬間、その豚のような目をいやらしく細めた。
「だがのぅ……。書簡では金貨千枚で合意したが、よくよく考えてみれば、『無貌の魔女』の呪いを解くには、ちと、足りんなあ」
来た。
レオル先生の息を呑む気配がする。
わたしは内心、想定内!とドヤ顔を決め込みながらも、顔では「まあ、大変!」と驚いてみせる。
「大司教様。わたし、そのようなこともあろうかと、特別な贈り物をご用意いたしましたの」
わたしはセーラに合図し、用意していた桐の箱を差し出させた。中に入っているのは、祝祭では売らなかった、わたし特製の限定モデルの万華鏡だ。
「これは『カレイドスコープ』と申しまして……」
わたしが説明を終える前に、ゲオルグはその万華鏡をひったくると、ろくに中を覗きもせず、背後に控えていた神官の一人にぽいと放り投げた。
神官は慌ててそれを受け取ろうとしたが、無慈悲にも手から滑り落ち、大理石の床でガシャン!と虚しい音を立てて砕け散った。
「ふん、下らん玩具じゃ。子供の遊びに付き合う暇はない」
ゲオルグは、砕けた万華鏡の残骸を、その法衣の隙間から覗く革靴で無慈悲に踏みつけた。
せっかく用意したプレゼントを足蹴にされ、わたしのこめかみにピキリと青筋が浮かぶ。
レオル先生の肩が、抑えきれない怒りで震えているのがわかった。扉の近くに立つグオークさんたちの殺気が、部屋の温度を数度下げた気がする。
気持ちはわかるけど、ここは我慢すべきときだ。なんせ妹ちゃんの命がかかってるんだから。
「……金貨二千枚。それ以下では、話にならんのう」
足元を見てきやがった。
わたしは一瞬だけ悔しそうに唇を噛むフリをしてから、ここは我慢と自分を言い聞かせながら、深く頷いた。
「……承知いたしました。金貨二千枚、寄付させていただきます」
「よかろう」
わたしの返事に、ゲオルグは満足げに鼻を鳴らすと、面倒くさそうに寝台にその巨体を近づけた。
そして、彼は、その肥え太った指先を、少女の額に置いた。
すると、彼の指先から、まばゆいばかりの神聖な光が溢れ出す。それは、まるで太陽の欠片。
光が少女の身体を包み込むと、肌に浮かび上がっていた禍々しい青い紋様が、みるみるうちに消え去っていく。その様は、あまりにもあっけなく、まるで汚れを拭い去るかのようだった。
「ああ……!」
セーラの口から、歓喜の声が漏れる。
妹の顔から苦悶の色が消え、呪いの紋様は完全に消えた。
よかった、と誰もが安堵した、その瞬間だった。
「クカカカッ!」
ゲオルグの、下品な笑い声が謁見の間に響き渡る。
次の瞬間、妹の身体が激しく痙攣を始めた。
「うっ……ぁ……があああっ!!」
そして、その白い肌に、先ほどよりも遥かに濃く、禍々しい呪いの紋様が、ミミズ腫れのように浮かび上がってきたのだ!
「え……!? どうして!」
セーラが悲鳴を上げる。
「大司教様! これは一体……!」
レオル先生の詰問に、ゲオルグはゆっくりとこちらに振り返ると、心の底から楽しそうに、その分厚い唇を歪めた。
「見たか、小娘! 伯爵家ごときが、わたくしと対等に交渉できるなどと思うたか!」
嘲笑が、聖なるはずの空間に響き渡る。周りの神官たちも、下品な笑い声を上げていた。
「この力は神の神聖な力。選ばれた者にしか使うことは許されん。それを下民のために使えだと! クカカカッ、随分と舐められたものだな!」
ゲオルグは、苦しむ少女を一瞥し、そして、わたしに向かって言い放った。
「あの小娘を本当に治してほしくば……あの玩具の権利と、製造方法。そのすべてを、このわたくしに譲渡せよ」
「なっ……!」
わたしは、愕然とした。
金貨二千枚どころか、虎の子の事業そのものを奪い取る気だ。
わたしの努力。わたしの計画。そのすべてが、目の前の豚に踏みにじられていく。
妹の苦しみは、人質そのもの。
ここで逆らえば、妹は殺されるかもしれない。
「き、貴様ぁ……!」
レオル先生が、怒りに我を忘れ、丸腰ながら一歩踏み出そうとする。
それを、わたしは小さな手で、強く制した。
「レオル先生、お静かに」
「しかし、アリス様!」
わたしは、唇を強く、強く噛みしめた。血の味がする。
我慢だ。我慢しろ、わたし。
妹ちゃんを助けるまで。ここでキレたら、すべてが終わる。
わたしは、震える膝を叱咤し、ゆっくりとスカートの裾をつまんだ。
「……わかりました」
わたしの声は、悔しさで震えていた。
謁見の間の笑い声が、ぴたりと止む。
レオル先生とセーラが、信じられないという顔でわたしを見た。
「万華鏡の権利も、製造方法も、すべて大司教様にお渡しいたします」
わたしは、深々と頭を下げた。
レオル先生たちが息を呑むのがわかったけど、構わない。
内心では、冷静に計算していた。
正直な話、あんなもん、構造は鏡三枚。この世界の職人なら、一日あれば解析できる。模倣品はすぐにでも出回るだろう。ブームなんて、しょせんは水物。熱狂している今だからこそ価値があるだけで、大量生産されればあっという間に価値は暴落する。
権利なんて渡したところで、わたしはもう十分すぎるほど稼いだ。戦略的には、大した痛手じゃない。
この豚には、価値が暴落したゴミの権利でも抱えて、喜んでいればいいんだ。
そう。頭では、わかってる。
合理的に考えれば、妹ちゃんの命を救うための取引材料としては、むしろ安いくらいだ。
だけど。
だけど、それでも――!
屈辱だった。
このわたしが、最強のゲーマー【ミライ】であるわたしが!
目の前の、こんな下品な豚野郎の脅しに屈して、頭を下げさせられている!
わたしのプライドが、目の前の豚にズタズタに引き裂かれていく。
腸が煮え繰り返る。
だけど、今は、我慢だ。我慢しろ、わたし……!
「ほう……」
ゲオルグは、わたしの完全な屈服を見て、満足げにその巨体を揺らした。
彼は、勝ち誇ったようにわたしを見下ろし、そして、そのいやらしい視線を、わたしの後ろで震えるセーラに向けた。
「ククク、よかろう。契約成立じゃ。……ああ、そうだ。そこのメイド」
ゲオルグが、セーラを太い指で指差す。
セーラの身体が、びくりと跳ねた。
「お前、なかなかの上玉じゃのう。権利譲渡の契約が終わったら、お前もわたくしの部屋に来い。今宵の『慰みもの』にしてやろう」
その、言葉を、聞いた、瞬間。
わたしの頭の中で、張り詰めていた最後の糸が、ブチリと、音を立てて切れた。
我慢?
計算?
――知るか。
込み上げてきたのは、灼熱のマグマのような、純粋な怒り。
わたしは、ゆっくりと顔を上げた。
わたしの顔は、きっと、怒りと屈辱で真っ赤になっていたに違いない。
目の端に、涙がじわりと滲む。
それは、悲しみの涙じゃない。
怒りの、涙だ。
「――ふっざけんなッッ!! 舐めんのも大概にしろッッ!!」
こちとらユニコーンなんだよ!!
六歳の少女の喉から絞り出されたとは思えないほどの、絶叫だった。
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次回……!! ついに?