謁見の間が、シン、と静まり返った。
ゲオルグも、神官たちも、レオル先生も、護衛の二人も、全員が凍り付いていた。
それでも、わたしはとまらない。目の前の肉の山を指差して、言ってやる。
「この……クソデブがッッ!!!!」
わたしは、もう我慢しなかった。
「薄汚い、人間のクズ!!! 神様の名前を盾にしてるだけの、ただのゴミ溜め豚野郎ッッ!!!! アンタみたいなのが聖職者とか、神様も終わってんな!!!!」
「……な、なんじゃと?」
ゲオルグの顔から笑みが消え、その小さな目が、殺意に満ちた冷たい光を宿した。
だが、わたしの怒りは、もう止まらなかった。
「セーラに手ぇ出してみろ! その前に、アンタのその汚い脂肪、全部削ぎ落として、二度と動けないようにしてやるからなぁああああっ!!!」
わたしの絶叫は、静まり返った謁見の間に、いやというほど響き渡った。
一瞬の静寂の後、ゲオルグの肉の山が、わなわなと震え始めた。
「き、貴様ぁ……! このわたくしを……このゲオルグ大司教を、誰だと思っておるかぁあああっ!!」
地響きのような怒号と共に、凄まじい威圧感が部屋全体を圧迫する。
ステンドグラスがビリビリと震え、シャンデリアが激しく揺れた。
おかげで冷静になるわたし。
やべー。なんか、めっちゃ怒ってるんだけど……!?
「……なーんて、今のぜーんぶ冗談ですよー、ぴっくりしましたー?」
わたしは、さっきまでの怒号とは打って変わって今度は愛想笑いを浮かべてみる。
「なにをしておる!? その小娘を捕らえよ! 今すぐ、その汚い舌を引きずり出してやれ!」
ダメだ。わたしの言い訳、聞こえてすらいないみたい!
ゲオルグ大司教は怒りのままに叫んでいた。そして、周り神官たちが一斉にわたしへと殺到してくる!
「アリス様!」
「お嬢様!」
レオル先生と、扉の前にいたグオークさん、ルスカーさんが、わたしを守ろうと瞬時に動いた。
だが、丸腰の騎士たちも、元冒険者とはいえ多勢に無勢。神官たちがその手に神聖な光を宿すのを見て、誰もが絶望的な状況を悟った。
しかし――
「――いや、待て」
その、地獄の底から響くような低い声に、神官たちの動きがぴたりと止まった。
ゲオルグが、ゆっくりと巨体を椅子から持ち上げる。
その顔は、怒りのあまり紫芋みたいに変色していた。
「この小娘は……わたくしが、直々に教育してやる。神官どもは下がっておれ。手出しは一切無用じゃ」
ゲオルグは、脂汗を浮かべながら、ねっとりとした視線でわたしを嬲るように見つめた。
「ククク……小娘。お前は、わたくしが考えつく限り、最も残忍で、最も苦痛に満ちた方法で、ゆっくりと殺してやることに決めた。感謝するがよい」
ゲオルグはそう言うと、肥え太った片手をゆっくりと掲げた。
「――『
彼がそう唱えると、まばゆい光の壁が、わたしとゲオルグの周囲に瞬時に展開された!
「ぐあっ!」
「アリス様!」
レオル先生も、グオークさんも、ルスカーさんも、そしてセーラと妹ちゃんも……わたし以外の全員が、光の壁によって無慈悲に謁見の間の外へと弾き飛ばされていく。
ドン!という重い音と共に扉が閉ざされ、この豪華絢爛な謁見の間は、わたしと、目の前の怒り狂う肉の山――ゲオルグ大司教の二人だけが閉じ込められた、密室の闘技場へと変貌した。
「これなら、なにをしても誰にも見られまい!」
ゲオルグは、ぜえぜえと荒い息をつきながら、わたしを睨みつける。その豚のような目が、もはや理性の光を失っていた。
「わたくしのレベルは53! 貴様のような小娘ごときが、指先ひとつで塵すら残さず消し去ることができるんだよ!」
レベル53。
英雄級とされるレベル50を超える数値。
その事実を突きつけられた瞬間、わたしの頭は、サーッと急速に冷えていった。
ま、まずいなー。
こんなことになるなら、怒りに任せて、ブチギレなきゃよかった! わたしの悪い癖なんだよなー。
最強のゲーマー【ミライ】としての冷静な判断力はどこへやら。
これは、どう考えても……詰みかも。
「ククク……フフフ……!」
ゲオルグは、怒りで震えていた巨体を、今度は下品な笑いで揺らし始めた。
その豚のような目が、獲物を嬲る肉食獣のように、いやらしく細められる。
「よい、よいぞ、小娘! その絶望に染まった顔!」
ゲオルグは、一歩、また一歩と、大理石の床を軋ませながら近づいてくる。
レベル53。
わたし、レベル1。
まずいまずいまずいまずい。どう考えても無理ゲーじゃん! これはもう来世に期待するしかないやつ!?
わたしは絶望のままパニックに陥っていた。
――まあ、嘘なんですけど。
いやー、よく考えたら、わたしって数々の無理ゲーを攻略してきた、最強にして天才のゲーマー【ミライ】様だったわ。
わたしの脳裏に、過去の栄光がキラキラと蘇る。
そうだ、レベル差なんてプレイヤースキルで覆すのがこの世の常識!
レベル1だろうが、このわたしにかかれば、目の前のデブなんてチュートリアルのボス同然よ!
「ふふんっ」
わたしは、さっきまでの絶望顔から一転、不敵な笑みを浮かべた。
見てなさいよ、クソデブ。
レベル1のこのわたしが、アンタのそのふざけたドヤ顔を、絶望の涙でぐちゃぐちゃにしてやるんだから!
余裕、余裕!
なんたって、アリスちゃんは大天才だからね! ドヤァ!
「なに、案ずることはない。本気を出せば、お前のような赤子は一瞬で蒸発してしまうからのう。それでは面白くない。いかに手を抜き、いかに苦痛を与え、その美しい顔を絶叫に歪ませるか……。じっくり、ねぶりつくように、楽しんでやろうぞ!」
その言葉と同時に、ゲオルグが肥え太った指先を、わたしに向けた。
「まずは挨拶代わりじゃ。――『
指先から、眩い光の槍が、音もなく射出された!
わたしは天才ゲーマーとしての完璧な回避軌道を脳内に描き、華麗にステップを踏もうと……した。
「うわっ、この体おもっ!? 使いづらっ!」
ドンッ!
イメージと現実のギャップ!
レベル1の身体スペックは、わたしの神がかったプレイヤースキルにまったく追いついてくれない!
華麗な回避どころか、ドレスの裾を踏んづけて、わたしは床をみっともなくゴロゴロと転がった。
わたしが今さっきまで立っていた場所の床が、光の槍に貫かれ、粉々に砕け散る。
あ、危なっ! 今の、直撃したら即死だったんだけど!?
「ほう? 今のを避けるか。虫けらにしては、勘がよいのう」
ゲオルグが、感心したように、こっちを見ていた。
やばい! ドヤ顔とかしている場合じゃなかった!
その時、わたしの視界の端に、強烈な違和感が飛び込んできた。
部屋のど真ん中。
明らか、魔法陣とはまた違う左右対称の光の模様があった。
ダイヤのような光が5つ横に並んでいる。しかも、一番端の光だけ徐々に明るさが消えかかっていた。
それを見て、すぐに察しがつく。
あの5つのダイヤの光すべてが消えたら、この結界はなくなる。
まさにこれって、時間制限ありのイベント!
つまり、逃げ続けてさえいれば、いずれ助かる!
「どこを見ておる! 『
って、今度は、目にも留まらぬ速度の光線が、わたしを薙ぎ払おうとする!
「うぎゃあああっ!」
わたしは再び床を転がる! 今度はもう、プライドも何もない! ただの芋虫みたいに必死に転がる!
わたしの銀髪が数本、光線に触れてチリチリと焦げた。
うわあああん! わたしの綺麗な髪が!
「そんなのじゃ、逃げきれんぞ。『
またビームが襲ってくる。
わたしは床に転がっていた万華鏡の残骸――木製の筒を掴むと、それを盾にするように構えた。
もちろん、気休めにしかならない。光線は筒ごとわたしの腕を消し飛ばす勢いで直撃――
しなかった。
光線は、木っ端微塵になった筒の破片を散らしただけで、わたしの身体に届く直前で、ふっと霧散した。
……あ。
こいつ、やっぱり「手を抜いて」やがる。
殺すんじゃなくて、わたしの心を折るために、じわじわと恐怖を与えてるんだ。
「こんなの、無理だよ……」
わたしは、わざと絶望したように呟き、その場にへたり込んでみせた。
レベル1の身体は、もう息が上がってる。手足はガクガク震えて、言うことを聞かない。
このままじゃ、制限時間まで逃げ切るなんて、土台無理な話だ。
諦める?
そんなわけないじゃん。
だって、わたしは天才ゲーマー【ミライ】だ。
脳裏に、過去の栄光が蘇る。
――超高難易度VRMMOアクションゲーム『アビスゲイト・オンライン』。
その昔、ハマっていたゲームのひとつ。
わたしはレベル1の斥候職で、レベル80のレイドボス『奈落の古竜』にソロで挑んだ。ステータス差は絶望的。竜のブレス一発で即死。
だけど、わたしは勝った。
三日三晩、死に続けながら観察し、竜の首が動く角度、ブレスを吐く前の瞳孔の収縮、尻尾を振るう予備動作の筋肉の動き、そのすべてを0.01秒単位で解析した。
そして、たった一箇所だけ存在する鱗の隙間に、毒の塗られたナイフを、たった一撃、叩き込んだんだ。
あの時のわたしは、最強だった!
それに比べたら、眼の前の状況はチュートリアルのようなもん。
「ククク、どうした? もう終わりか? つまらんのう」
ゲオルグが、勝利を確信し、ゆっくりと近づいてくる。
その、瞬間だった。
ぜえ、ぜえ、と。
ゲオルグの口から、荒い息遣いが漏れた。
その巨体は、たった数発の奇跡を使っただけで、限界を迎えようとしていた。
そうか、ステータスが恵まれていても、肥満によるデバフはなかったことにできない。
それが、こいつの最大の弱点!
それに、さっきから動きを観察しているけど、ステータスにおける敏捷や筋力がとてもレベル53のものとは思えない。
神官だから、その手の数値が低いのか、もしくは肥満で台無しにしているかわからない。けど、見かけよりもこいつは大したことがない。
――いける!
わたしは、勝機を見た。
わたしは、ドレスの太ももに隠していたガーターベルトを探る。
屋敷を出る前、万が一に備えて忍ばせておいた、一本の小さな護身用の短剣があった。
このゲームは……レベル差が絶対じゃない!
他のVRMMORPGなら、こうはいかない。
『耐久力』のステータスが高ければ、低レベルの攻撃なんてノーダメージになるゲーム。『敏捷性』が高ければ、脳の思考を加速できるせいで、圧倒的なレベルで殴ることができるゲーム。レベル差があれば、攻撃がすべて『MISS』になる理不尽なクソゲーだってあった。
でも、この『Gnosis Online』は違う!
さっきの回避、ちゃんと動きを予想すれば、レベル1でも避けることができた。
この世界は、極めてリアルな物理法則に則っている!
レベルやステータスは、あくまで身体能力の「補助」。筋肉が強くなったり、足が早くなったりはするだろう。だけど、物理法則そのものを捻じ曲げるわけじゃない!
だったら!
このゲームのステータスに『耐久力』と概念がない以上、レベル1だろうが、この短剣の刃は肉を抉ることができる。
わたしは、泣きじゃくるフリをしながら、ゲオルグの動きを完璧に読み切る。
デブだから、重心が常に不安定。右足を引きずる癖がある。
攻撃は、神聖力を使ったビーム系が主体。発動に平均1.8秒。
息継ぎのタイミングは、攻撃直後の約0.8秒。その瞬間、必ず全身に一瞬の硬直が走る!
最強のゲーマー【ミライ】の『神眼』は、レベル53の動きすら、完全に見切ることができるんだよ。
「さあ、小娘。最後の苦痛を味わうがよい! 『
ゲオルグが、最大級の奇跡を放とうと、両腕を振り上げる。
最大の攻撃は、最大の隙!
――今!!
わたしは、泣き顔から一転、獰猛な笑みを浮かべると、床を蹴った。
レベル1の全力疾走。
ゲオルグの攻撃が、わたしの頭上を通り過ぎ、背後の壁を粉砕する。
わたしは、その爆風を背に受けながら、硬直したゲオルグの懐に、ゼロ距離まで潜り込んでいた。
「なっ!?」
驚愕に見開かれた、豚の目。
わたしは、隠し持っていた短剣を逆手に握りしめ、その無防備に晒された――
右目に向かって、突き立てた。
「ぶぎゃあああああああっっ!!!!」
この世のものとは思えない絶叫が、結界に閉ざされた謁見の間に木霊した。
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