馬を降り、鬱蒼とした『黒の森』の入り口に立ったわたしは、ごくりと生唾を飲み込んだ。
屋敷の庭とは比べ物にならないほど、濃密な生命の匂いがする。湿った土と、腐葉土の匂い。そして、どこか獣臭い、未知の気配。
「いいですか、お嬢様。ここから先は、本物の『戦場』です」
ルスカーさんが、さっきまでの飄々とした態度を消し、真剣な眼差しで腰の剣の柄に手をかけた。
「旦那様との約束だ。絶対に、お嬢様とセーラさんを危険な目には遭わせやせん。ですが、何が起きるかわからねえ。セーラさんはお嬢様のそばを片時も離れず、俺は常に一歩前を行く。いいですね?」
「はい、承知いたしました」
セーラも、いつものメイド服ではない村娘の格好だというのに、その立ち姿には一分の隙もない。彼女もまた、この森の危険性を肌で感じ取っているんだろう。
うんうん、二人とも頼りになるなー。
わたしは「わかった!」と元気に返事をしながらも、内心はまったく別のことで盛り上がっていた。
モンスター! モンスター! 経験値っ! 経験値っ!
あのクソデブ(を倒した時の、レベル33アップの暴力的な快感。
あれを、もう一度……!
あ、ダメダメ、よだれが。
いい、アリスちゃん、わたしはあくまで、このデスゲームを終わらせるために強くならなきゃいけない、健気な救世主様なんだから!
すべてはみんなのため! うん!
わたしが完璧な自己正当化にドヤ顔を決めていると、森の茂みが、ガサリ、と音を立てた。
「――ッ! 来ます!」
ルスカーさんの警告と同時。
茂みから飛び出してきたのは、わたしがずっと会いたかった――
「ゴブリンだ!」
わぁ! 本物だ!
背丈はわたしより少し低いくらい。人間の子供をそのまま醜く歪ませたような、緑がかった褐色の肌。ぼろきれを腰に巻き付けただけで、手には錆びた棍棒を持っている。
よだれが出そうなほど、美味しそうな経験値にしか見えない!
「キシャアアアッ!」
下品な奇声を上げ、よだれを垂らしながら、ゴブリンがこちらに気づいて突進してくる。 わくわく! 初めてのモンスター!
「お嬢様、下がっていてください!」
ルスカーさんがわたしの前に立ちはだかり、ゴブリンを牽制する。
だけど、ゴブリンは一匹じゃなかった。
茂みから、ぞろぞろと、同じようなゴブリンが三匹、四匹と現れる。
「チッ、四匹か。……いいですか、お嬢様。よく見てなさい」
ルスカーさんは剣を抜き放つことなく、冷静にゴブリンの群れを見据えている。
「あれがゴブリン。この森じゃ一番格下ですが、知能は獣より上で、道具も使う。そして何より、厄介なのが、あの卑劣さです」
「ひれつさ?」
「ええ。あいつらは、必ず集団で行動し、自分より弱いと見た相手しか襲わねえ。見てください、あの一番後ろにいるやつを」
ルスカーさんが顎でしゃくった先。
他のゴブリンより一回り小さいゴブリンが、仲間の陰に隠れながら、何かを投げる素振りを見せている。
「石礫です。戦闘中、ああやって横から石を投げて、こちらの集中を乱してくる。真正面から戦えば騎士団の訓練生でも勝てますが、こういう小細工に不慣れな新米冒険者が、足をすくわれて命を落とす。連中も、それを知っててやってるんすよ」
「へえー、なるほどー」
わたしは感心したように頷く。
ふんふん、つまり、経験値が四匹分ってことね! じゅるり!
「まあ、この俺にかかれば、こんな雑魚――」
ルスカーさんは、ついに剣の柄に手をかけ、一歩前に出た。
「まずは、騎士の戦い方ってやつを、じっくりと――」
お手本を見せてくれるらしい。
うん、見なきゃ。見なきゃいけないのは、わかってる。
ルスカーさんの騎士としての戦い方、きっと参考になるはず 。
レベル上げは、その後で……。
――でも。
目の前に、四つも並んだ、美味しそうな経験値。
今、まさに、ルスカーさんに食べられようとしている。
ああ、ダメ。
ダメダメダメ。
我慢、できるわけないじゃん!!!!
「――しゅばばっ!」
「え?」
ルスカーさんが「お手本を」と言い終わる、コンマ数秒前。
わたしは、地を蹴っていた。
レベル33、敏捷45。
神の加護(大嘘)を得たわたしの身体は、ルスカーさんの視界から一瞬で消え去る。
「キシャ!?」
一番近くにいたゴブリンが、目の前に瞬間移動してきたわたしの姿に、驚愕の声を上げる。
遅い。
わたしは、ルスカーさんから「護身用に」と渡されていた本物の短剣を、その醜い喉元に、何の躊躇もなく突き立てた。
ザシュッ。
生々しい手応え。
ゲオルグの時とは比べ物にならないほど、あっけない。
ゴブリンは悲鳴すら上げられず、その場に崩れ落ちる。
……シーン。
何も、起きない。
脳内に響くはずの、『レベルがアップしました』というあの高揚感を伴うシステムメッセージが、まったく聞こえてこない。
「…………え?」
わたしは、短剣を突き立てたまま、固まった。
うそ。
なんで?
ゲオルグの時の、脳が焼き切れるかと思ったほどの暴力的な多幸感が、ない。
あの、全身がとろけるような快感が、どこにもない。
ただ、生臭い血の手応えだけが生々しく残った。
「キシャアアアアッ!?」
仲間が一瞬で殺されたのを見て、残りの三匹が、ようやくわたしという脅威を認識した。
「二匹目っ!」
わたしの意識は、絶望から怒りへと切り替わる。
一匹がダメなら、数!
わたしは即座に地を蹴り、棍棒を振りかぶった二匹目の懐へと潜り込む。
「遅い!」
レベル33のわたしの目には、ゴブリンの動きなんて、まるで止まって見えた。
振り下ろされる棍棒を紙一重でくぐり抜け、すれ違いざまに、その脇腹から心臓にかけて、短剣を深々と突き刺す。
ザシュッ!
……やっぱり、何も起きない。無音。
――うぎぎぎぎぎ!
ダメ! 全然感じない!
まるで、最高級の霜降り肉を期待して口を開けていたら、乾燥したパンの耳を突っ込まれたみたいな!
この、圧倒的なガッカリ感!
「ギッ!?」
三匹目。あの、小賢しい石礫ゴブリンが、ようやく石を投げつけてきた。わたしは、その石を、飛んできた軌道のまま、左手で鷲掴みにする。
「……ギャ?」
ゴブリンの方が、ぽかん、と口を開けた。
わたしは、掴んだ石を、そのまま倍の速度で投げ返した。
ゴッ!
鈍い音。
石は、ゴブリンの眉間にめり込み、そいつは白目を剥いて、あっけなくひっくり返った。
……あ。
もしかしたら、もしかしたら気を失っただけでまだ生きているかも。
わたしは慌てて駆け寄り、まだ痙攣しているゴブリンの首筋に、短剣を突き立ててとどめを刺す。
……やっぱり、無音。
……もう、泣きそう。
わたしのワクワクを返してよ!
「キ……シャ……」
残るは、最後の一匹。
そいつは、仲間三匹が一瞬で惨殺された光景を見て、完全に戦意を喪失していた。
腰を抜かし、泡を吹きながら、みっともなく後ずさる。
「あ、待ってよ。経験値」
「ヒィイイイ!」
ゴブリンが、森の奥へと逃げ出そうと背中を向けた。
――逃がさない。
わたしは、追撃のために地を蹴ろうと――
カキン!
わたしの耳元を、凄まじい速度の何かが通り過ぎた。
それは、ルスカーさんが投げた短剣だった。
短剣は、逃げるゴブリンの背中に深々と突き刺さり、ゴブリンは前のめりに倒れて動かなくなった。
「…………あ」
わたしの、経験値が……。
シン、と静まり返った森の入り口。
わたしは、四つのゴブリンの亡骸の真ん中で、ただ、呆然と立ち尽くしていた。
全身にこびりついていた、あの快感の残り香を呼び覚まそうとしたのに、得られたのは、不快な焦燥感だけ。
全然足りない。
あのクソデブがフルコースディナーだったとしたら、今のは、その皿に残ったパセリの欠片だ。
なんにも食べた気がしない。
「……お嬢様」
わたしが振り返ると、そこにはわたしをじっと睨む二人の姿があった。
ルスカーさんは、明らかに怒っていた。その眉間には深いシワが刻まれ、「お手本を見せると言っただろうが」と顔全体で語っている。
一方、セーラは、わたしの常識外れな強さと、その容赦のない行動に、もはや驚きを通り越して……若干、引いていた。その顔は、心配と非難が混じった複雑な色を浮かべて固まっている。
あ。
やばい。
お手本見せてもらう前に、全部倒しちゃった。
わたしは、短剣についた血を近くの葉っぱで適当に拭うと、二人にずいっと向き直り、えへへっ、と頬をかいた。
最高の「ごめんちゃい」スマイル。アリスちゃんはかわいいから仕方がないよね。
「えへへっ、アリスちゃん、ついうっかりー」
わたしは小首をこてんと傾げ、にこーっと効果音がつきそうな笑顔を振りまいた。
どうよ! この健気でかわいいうっかりさんに、本気で怒れる人間なんてこの世にいるわけがないよね!
「……お嬢様」
ルスカーさんの声が、さっきよりさらに低くなった。
「その可愛い顔で誤魔化すのは、やめてください」
ぴしゃり。一刀両断に切り捨てられた。
やべっ、バレてる!?
わたしのあざといスマイルが、一瞬で引きつる。わたしの最強スキル「アリスちゃんスマイル(Lv.MAX)」が効かない人間がこの世にいるだと!?
「……ご、ごめんなさい」
わたしはしゅん、と効果音がつきそうなくらい分かりやすく肩を落とし、素直に頭を下げた。だって、我慢できなかったんだもん……。
わたしの素直な謝罪を見て、ルスカーさんは、はぁー、と天を仰ぐように深いため息をついた。
その顔には、怒りよりも、もはや諦めが浮かんでいる。
「……まあ、わかってはいましたがね。お嬢様なら、ゴブリン程度、簡単に倒せることは」
彼はがしがしと乱暴に頭をかくと、わたしの足元に転がるゴブリンの亡骸を一瞥するのだった。
「まあ、いきなりモンスターを容赦なく殺せるのは、流石に驚きましたが……」
えーと、これって褒められてるのかな?
とりあえず、えへへーと笑っておこう。いやー、照れるな―。
「いや、褒めてませんよ」
「……(真顔)」