翌朝、わたしは小鳥のさえずりと、カーテンの隙間から差し込む柔らかな光で目を覚ました。
……というのは嘘で、実際にはメイドのセーラが優しく身体を揺さぶる感触で、強制的に覚醒させられた。まだ寝てたいのにー。
「アリスお嬢様、朝でございますよ」
耳元で囁かれる、鈴を転がすような声。
ぼんやりとした意識のまま瞼を開けると、心配そうにこちらを覗き込むセーラの顔が間近にあった。
「よくお眠りになれましたか?」
「……うん、おはよ、セーラ」
自分でも思ったより、甘ったるく幼い声が出た。
精神は歴戦のゲーマーだというのに、この身体から発せられる声とのギャップに、思わず背筋がぞわぞわする。少し気恥ずかしいな、これ。
内心の動揺を隠しながら身を起こすと、セーラは手際よくわたしをベッドから降ろし、朝の支度を始めていく。
なされるがまま。
自分で服を着ることさえ許されない。それがこの世界の貴族令嬢の作法らしい。
現実世界では、脱ぎ散らかした服の山から、適当なものをつまんで着るだけだったのに。今はまるで、着せ替え人形のようだ。
セーラが用意してくれたのは、昨日着ていたものとは違う、淡い水色のワンピースだった。フリルは控えめだが、胸元には繊細な花の刺繍が施されている。
着替えを終え、髪を梳かしてもらっている間、わたしは鏡に映る自分――アリス・フォン・クライネルトの顔をじっと見つめた。
人形のように整ってはいるが、どう見ても非力な子供だ。
この身体で、本当にこのデスゲームを生き残れるのだろうか。
不安が胸をよぎるが、すぐに思考を切り替える。弱音を吐いてもステータスは上がらない。今は、この与えられたキャラクターでやれることをやるだけだ。
「さあ、旦那様と奥様が食堂でお待ちですよ」
セーラに手を引かれ、長い廊下を歩いて食堂へと向かう。
磨き上げられた床には朝日が反射して輝き、壁には歴代のクライネルト家当主であろう人物たちの肖像画がずらりと並んでいた。どれもこれも、いかにも「貴族」といった威厳のある顔つきだ。
食堂の扉を開けると、そこにはすでに両親が席に着いていた。
「おはよう、アリス。昨夜はよく眠れたかい?」
母親のリザベラが、聖母のような微笑みでわたしを迎える。
「おはようございます、お母様、お父様」
転生以前のこの体の記憶を掘り起こしては、わたしはスカートの裾をちょこんとつまんで、淑女の
よかった、及第点のようだ。
こういう貴族特有の挨拶はとっても面倒だけど、従順な娘ムーブをしない理由もないしね……。
子供用の椅子にちょこんと腰を下ろすと、わたしは目の前の空の皿を見つめた。メイドたちが控えているが、まだ料理は運ばれてこない。
父親のライナーネルが、わたしと母親の顔を順に見やり、厳かに口を開いた。
「――日々の糧を与え給う、
その言葉を合図に、わたしはダウンロードされた記憶に従って、慌てて自然と胸の前で指を組んだ。母親も、隣に控えるセーラも、同じように祈りの姿勢をとっている。
うわ、なにこの沈黙の時間。ソワソワするー! スキップできるなら、スキップしたいなー。
「豊かなる食卓に祝福を。我らが魂に安寧を」
短い祈りが終わると、お父様が「よろしい」と小さく頷いた。
それを合図に、控えていたメイドたちが一斉に動き出し、音を立てずに朝食を配膳していく。
目の前に置かれたのは、ほかほかと湯気の立つ一皿。
メニューはシンプルだが、素材の良さが一目でわかるものだった。
まず、ふっくらと焼き上げられた白パン。
隣には、黄金色のバターが添えられている。
そして、メインの皿には、半熟のポーチドエッグと、香ばしく焼かれた厚切りのベーコン。
さらに、彩り豊かな温野菜のサラダ。湯通しされた瑞々しい緑の葉物野菜の上に、柔らかく煮込まれた真っ赤なパプリカ、鮮やかな黄色のカボチャ、そして小さな緑色の豆が散らされている。
飲み物は、搾りたてであろう新鮮なミルクだ。
わたしは小さなフォークを手に取り、まずは温野菜を口に運んだ。
シャキ、とした葉野菜の歯ごたえと、カボチャの優しい甘みが口の中に広がる。味付けは、上質な岩塩と、おそらくはハーブを混ぜ込んだオイルだけ。シンプルだからこそ、野菜本来の味が引き立っていた。
……うん、美味しい。
ゲームの世界だというのに、味覚も完全に再現されている。まあ、今どきのフルダイブ型のゲームじゃこの程度、珍しくはないんだけどね。
もぐもぐと口を動かしながら、わたしは改めて自分の置かれた状況を分析する。
六歳児という身体は、ステータスが示す通り、戦闘においては致命的なデバフだ。そこは間違いない。
だけど、こうして何不自由ない食事を与えられ、安全な屋敷で眠り、忠実なメイドにかしずかれている。
クライネルト伯爵令嬢という立場は、ゲームの初期設定としては、破格の好待遇なんだろうな。
情報、金、権力。この世界でレベルを上げていく上で、これほど恵まれた環境なんてないと断言できる。
これは、初期装備がやたらと豪華なゲームと同じだ。
問題は、この恵まれた装備を、わたしがどう使いこなすか。
そんなことを考えていると、向かいに座る父親が、控えていた執事らしき壮年の男性から一枚の羊皮紙を受け取り、食事中にもかかわらず目を通し始めた。
「あなた、お行儀が悪いですよ」
母親がやんわりと咎めるが、父親は気にした様子もなく、ベーコンにナイフを入れながら低い声で呟く。
「……ふむ。南のボーデレア領から、鉄鉱石の関税について陳情か。足元を見てくれる」
その言葉は、わたしに向けられたものではない。完全に独り言だ。
母親もそれ以上は何も言わず、カップを手に取り、優雅に紅茶を一口含んだ。そして、ふと思い出したように、傍らの使用人に尋ねる。
「そういえば、ガルフレッドとエリアは?」
「はい、奥様。ガルフレッド様とエリア様は、先ほど乳母と一緒に子供部屋でお食事を済まされました。今は、お二人で絵本を読んでいらっしゃいます」
ガルフレッドと、エリア。
その名を聞いた瞬間、またしてもダウンロードされた情報が、わたしの脳を駆け巡った。
そうだ。この家には、わたし以外にも子供がいる。
三歳になる弟のガルフレッド。クライネルト家の嫡男だ。
そして、ガルフレッドの双子の妹、エリア。
二人ともまだ幼すぎるため、昨日の王都からの長旅には帯同せず、この屋敷で留守番をしていたのだ。
やがて、食事が終わる。
父親は「書斎に行く」と一言だけ残して席を立ち、母親も「わたくしは来客の準備をしますわ」と、足早に食堂を後にしていく。貴族の朝は、思った以上に慌ただしいらしい。
残されたわたしは、セーラに手を引かれて自室へと戻った。
部屋に戻るなり、セーラはにこやかな笑顔でわたしに向き直る。
「さて、アリスお嬢様。本日からのご予定ですが」
そう言って、彼女はわたしの「いつもの一日」を教えてくれた。
まず午前中は、勉学の時間。これまでは母親が自ら本を読んでくれたりしていたが、今日からは新しい家庭教師が来ることになっている。
昼食を挟んで、午後は芸術のお稽古。月曜と水曜はダンス、火曜と金曜は刺繍、木曜はハープの練習。
それが終われば、夕食までのわずかな時間が、お庭を散策したりできる自由時間。
「……そんなにやることあるの?」
「はい。旦那様も奥様も、お嬢様が退屈なさらないように、と……。さ、そろそろ家庭教師の先生がお見えになる頃です。お部屋でお迎えしましょう」
スケジュールを聞いただけで、わたしは内心で深いため息をついた。
なんてことだ。
まるで鳥かごの中の鳥じゃないか。これでは、モンスターを一体倒すどころか、レベル上げの「レ」の字もおぼつかない。
だけど、今は従うしかない。
それに、どんなクソゲーにも、必ず攻略の糸口というものは存在する。
まずは、今日から始まる「家庭教師」という新しいイベント。
そこで、この世界の知識を手に入れてみせようではないか。
わたしは静かに闘志を燃やしながら、セーラに連れられて、客間として使われている部屋のソファに、ちょこんと腰を下ろし待つことにした。