月曜日がダンス、火曜日は刺繍。
正直、どっちもわたしにとっては、ただ時間を浪費するだけの非生産的な拷問でしかない!
「まあ、アリス様。なんて可愛らしい色合いなのでしょう」
刺繍の先生であるミリアム先生は、マダム・エレオノーラとは正反対の、ふくよかで人の良さそうなおばあちゃん先生だ。
わたしがぐちゃぐちゃの塊みたいな刺繍をしたとしても、手放しで褒めてくれる。
……いや、これを褒めるのは流石に無理があるでしょ。
内心でツッコミを入れながらも、わたしは「えへへ」と可愛らしく笑って見せた。
ちく、ちく、と小さな針を布に通していく。
指先に何度も針を刺してしまいそうになり、そのたびに隣に控えるセーラが「お気をつけください」と心配そうに声をかけてくれた。
というか、なんでこんなことしなきゃいけないんだよ……!
ダンスレッスンと同じ、焦りと苛立ちが胸の中で渦を巻く。
「セーラは本当に筋がいいですわね。まるで、アリスちゃんのお母様の若い頃を見ているようですわ」
ミリアム先生が感心したように言う。
視線を隣に向けると、セーラは寸分の狂いもない正確さで、布に見事な花の模様を縫い上げていた。その手つきには一切の無駄がなく、芸術品でも作っているかのようだ。
刺繍でさえ、そつなくこなすんだ。
本当に、この人は何をやらせても完璧だ。
ここ数日、わたしはセーラのことを注意深く観察し続けていた。
彼女は、ただ言われた仕事をこなすだけじゃない。常に先を読み、わたしや両親が何を求めているかを察知して、完璧に準備を整える。
先日、お母様が急な来客に慌てた時もそうだ。
お母様が指示を出すより先に、セーラは客間に最高級の茶葉と、お客様の好みに合わせたお茶菓子を用意していた。
お母様が「どうしてわかったの?」と驚くと、セーラは涼しい顔で「先日、旦那様とその方のお話を小耳に挟みましたので」とだけ答えた。
その完璧な仕事ぶりは、お母様の絶大な信頼を勝ち取っている。
問題は、わたしに自由が許されていないこと。
この多すぎる習い事も、わたしが「やりたくない」なんて言おうものなら、ただの子供のわがままとしか思われないだろう。六歳のわたしに、自分の人生を決める権利なんて、どこにもないのだ。
だったら、どうするか。
答えは一つ。わたしの行動を一番近くで管理している、この完璧なメイドを説得……いや、『攻略』するしかない。
その時、ふと、昔やり込んだあるフルダイブ型VR恋愛シミュレーションゲームの記憶が、脳裏をよぎった。
タイトルは『繚乱プリンセス花吹雪アカデミア』。
普段ならこの手のゲームをわたしはあんまりやらない。
わたしが手を出した理由はキャラクターデザインを担当したイラストレーターの大ファンだったからだ。
舞台は貴族の通う学園で、個性の違う五人のヒロインを攻略する、というのが基本的な流れ。
だけど、このゲームが「超リアル」と謳われる所以は、その異常なまでのパラメータ設定にあった。
学力や運動神経はもちろん、「カリスマ」「品性」「ユーモア」「共感力」なんてものまで数値化されている。
それだけじゃない。
「視線の動かし方」「会話中の相槌のタイミング」「声のトーン」「瞬きの回数」「プレゼントに添えるリボンの結び方」……冗談みたいだけど、そんな些細な行動の一つ一つが、ヒロインの好感度に影響するんだ。
もちろん、そんなハチャメチャな設定だから、攻略は簡単じゃない。
自由度が高いことでも有名で、ヒロインを口説き落とす以外にも、金をひたすら貢いだり、ライバルを陥れたり、果ては脅迫や催眠なんていう犯罪まがいの外道な戦略まで用意されていた。
当然、そんなことをすれば好感度はマイナスに振り切れ、破滅的なバッドエンドへ真っ逆さまだ。
最初はファンだから、という理由だけで始めたのに、わたしはそのあまりの自由度の高さに、いつの間にかどっぷりハマってしまっていた。
どれくらいハマったかというと、このゲームの
わたしが見つけたのは、それまで誰も気づかなかった革新的な攻略法。それによって、当時の世界記録を五分以上も縮めてみせたんだ。
まあ、三日後には、海外のガチ勢にわたしのルートを完全にトレースされた上で、コンマ数秒だけ早い記録を更新されちゃったけど。あのときは、マジでムカついたなー。
わたしが使った、革新的な方法。
それは、五人いるヒロインのうちの一人、真面目な風紀委員長の『弱み』に徹底的に付け込んで、無理やり言うことを聞かせるという『クズ男ムーブ』だった。
この攻略法を公開した時、プチ炎上したっけ。
「主人公の心を捨てるな」「こんなの正規の方法じゃない」なんて言われたけど、運営が出した「想定外のプレイスタイルですが、バグではありません」っていう公式声明で、全部黙らせたんだ。わたしの勝ち! 勝てばよかろうなのだ!
今の状況、あのゲームに少し似ているかもしれない。
目の前には、セーラという攻略対象がいる。
そして、わたしはその対象の『弱み』を、握っているんだから。
わたしは刺繍針をそっと置くと、隣に座るセーラに、子猫がじゃれるみたいにすり寄った。
「セーラ、すごーい! とってもきれい!」
「ありがとうございます、お嬢様。ですが、自分の手をとめてなりませんよ」
セーラは冷静にわたしをいさめる。
だけど、わたしはお構いなしだ。
この一週間、わたしは徹底的に、『無垢で懐っこい幼女』ムーブを叩き込んできた。
廊下を歩くときは必ず手を繋ぎ、食事の時も隣に座らせ、暇さえあれば「セーラ、セーラ」と後をついて回る。
お母様にも、「本当にアリスはセーラが好きなのね」と、微笑ましそうに言われるくらい、その懐きっぷりをアピールしてきた。
セーラも最初は戸惑っていたけど、最近ではわたしのわがままに、少しだけ諦めの混じった笑みを浮かべるようになってきている。よしよし、チョロい。確実に絆されてきてる!
わたしはセーラの腕にしがみついたまま、上目遣いで尋ねた。
「ねえ、セーラ。セーラは、いつもどこでおやすみしてるの?」
「……わたくし、ですか?」
突然の質問に、セーラの完璧なポーカーフェイスが、ほんの少しだけ揺らぐ。
メイドは、主人のすぐそばに控えられるよう、屋敷の屋根裏や地下にある、窓もないような狭い小部屋で何人かと一緒に寝起きするのが普通だ。プライベートなんて、ほとんどない。
「わたくしは、東棟のメイド部屋で……」
「そっかぁ。ねえ、わたし、今夜はセーラと一緒におやすみしたいな!」
わたしは、とびっきりの笑顔で、とんでもないわがままを言った。
セーラの翠色の瞳が、困惑に見開かれる。
伯爵令嬢が、メイドと一緒に寝るなんて前代未聞だ。絶対に許されるはずがない。
「……お嬢様。お戯れが過ぎます」
かろうじて絞り出したような声。いつも冷静な彼女にしては珍しく、その声には戸惑いの色が滲んでいた。
「わたくしのような一介のメイドが、アリス様の神聖なお休みを妨げるなど、あってはならないことです」
「どうしてダメなの? わたし、セーラのことが大好きなのに……」
アリスちゃん、大女優モード、オン!
潤んだ瞳でセーラを見上げ、スカートの裾をぎゅっと握りしめる。これ以上ないくらい、か弱く、純粋な子供を演じるんだ。
うわ、わたしかわいすぎか。
「セーラは……アリスのこと、嫌いなの……?」
「そ、そのようなことは……!」
さすがのセーラも、この追撃には狼狽を隠せないようだ。
そうだ。彼女は今、「完璧なメイド」と「六歳の子供の無邪気な願いを拒絶する冷たい大人」という二つの役割の間で板挟みになっている。
だけど、これだけではまだ足りない。最後の一押しが必要だ。
ちょうどその時、まるで計ったかのようなタイミングで、客間の扉が開いた。
「まあ、アリス。まだ寝る準備をしていないの?」
入ってきたのは、お母様だった。
わたしは、このチャンスを逃さない。
セーラの手を振りほどき、お母様の元へ駆け寄ると、そのドレスに顔をうずめて、わざとらしくしゃくり上げてみせた。
「うっ……うぇ……お母様ぁ……」
「まあ! どうしたのアリス、泣いたりして。セーラ、何があったの?」
お母様の視線が、困惑するセーラへと突き刺さる。
セーラは慌てて膝を折り、深く頭を下げた。
「申し訳ございません、奥様。わたくしの不徳の致すところでございます」
「違うの、お母様! わたしがね、今夜、セーラと一緒に寝たいって言ったの。そしたら、ダメだって……。セーラは、わたしのことが嫌いなんだ……!」
完璧な濡れ衣だ。
もちろん、セーラは「嫌い」だなんて一言も言っていない。だけど、六歳の娘が物事も大げさに語ることなんてよくあることだしね。うん、いけるいける!
「まあ、セーラったら。そんなことで、この子を泣かせてしまったの?」
お母様は、くすくすと楽しそうに笑った。
よしキター! 完全に、子供の可愛らしいわがままだと思っている。わたし演技の天才か!
「いいじゃないの、一晩くらい。この子がそれほどあなたに懐いているということ、わたしも嬉しく思うわ。許してあげるから、今夜はアリスの部屋で、一緒に寝てあげなさい」
「……しかし、奥様。そのような前例は……」
「わたくしがいいと言っているのよ。それとも、わたしの言うことが聞けないのかしら?」
その一言は、絶対的な決定権を持っていた。
そこまで言われたら、セーラも観念したかのように頭を下げた。
「……かしこまりました。奥様の、仰せのままに」
わたしは、お母様のドレスの影から、そっとセーラの顔を盗み見た。
その表情は、能面のように感情が抜け落ちていたけれど、瞳の奥には、諦めと、ほんのわずかな警戒の色が浮かんでいた。
よし、第一段階はクリア。
自室に戻る道すがら、わたしは内心で「うひょー」と勝利のガッツポーズを決める。
あの時、セーラが落とした革袋。あの中身がお金であることは、あの重い音からして間違いない。そして、平民出身のメイドが持つには、あまりに不釣り合いな大金。
だけど、あれは状況証拠でしかない。
ただ「重そうな袋を持っていた」というだけでは、彼女を問い詰めるには弱すぎる。「親の形見だ」「給金を貯めたものだ」と言い逃れされたら、それまでだ。
脅迫や交渉は、相手が絶対に「ノー」と言えない、動かぬ証拠を突きつけて初めて成立する。
中途半端な揺さぶりをかければ、逆に警戒されて、証拠を隠されてしまうだろう。それでは本末転倒だ。
わたしに必要なのは、交渉のテーブルに彼女を引きずり出すための、完璧な『物証』。
その物証は、どこにある?
おそらく、彼女が肌身離さず持っているか、あるいは彼女の私物が保管されている場所に隠されているはずだ。
メイド部屋は複数人での共同生活。プライバシーは無いに等しい。そんな場所に、大事な秘密を隠すとは思えない。
となると、やはり彼女自身が常に持ち歩いている可能性が高い。
だから、わたしはセーラを『わたしの部屋』に、それも一晩中、拘束する必要があったのだ。
彼女が眠りに落ち、最も無防備になる瞬間。その時こそ、わたしが彼女の全てを暴く、絶好のチャンスになる。
夜、わたしの部屋には、来客用の簡易的な寝台が運び込まれた。
セーラは、黙々とその寝台にシーツを敷き、眠るための準備を整えている。
「セーラ、ありがとう! 嬉しい!」
わたしはベッドの中から、満面の笑みで彼女に手を振る。
その笑顔の下で、歴戦のゲーマーとしての冷静な思考が、これからのミッションプランを緻密に組み立てていた。
さあ、セーラの攻略RTA、はっじまるよー!
わたしは、セーラに背を向けて、寝たふりを始める。
部屋の明かりが消え、静寂が訪れる。
あとは、ターゲットが完全に沈黙するのを待つだけだ。