投稿はなにせ初めてですので……よしなに。
目を開けた瞬間、風の匂いが違っていた。
草の香り。少し湿った土の匂い。そして遠くから響く、蹄の音。
夢だろう、と思った。
……けれど、頬を撫でる風の冷たさも、観客席のざわめきも、すべてがあまりに“本物”だった。
「――ここ、まさか……」
実況の声が耳に届く。聞き慣れたテンション、ウマ娘たちの名前。
そう、俺は――ウマ娘プリティーダービーの世界に来ていた。
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前世の記憶ははっきりしている。
どこにでもいるサラリーマン。仕事に追われ、残業に潰され、休日は布団の上でスマホを握る生活。
唯一の癒やしがウマ娘だった。
アプリで推しを育て、ガチャでサポカの天井を踏み越え、推しウマ娘――マチカネタンホイザをUAランク以上にさせた。
彼女の笑顔に、どれだけ救われたかわからない。
けれど今、目の前にあるのは二次元じゃない。
現実として存在する「トレセン学園」。
あの白い校舎。走るウマ娘たちの汗。トレーナーたちの指示。観客の歓声。
息を呑んだ。
こんな夢のような世界、本来なら大喜びするはずだ。
……なのに、胸の奥には奇妙な重さがあった。
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「そこの君! 見学者か? それともトレーナー志望かな?」
声をかけられて振り向くと、トレセンの職員らしき人が立っていた。
「はい……その、見学というか……」
「トレーナー志望の説明なら手続きはこちらで――」
「いえ、俺は……」
口をついて出た言葉は、自分でも驚くほど淡々としていた。
「俺は、トレーナーにはなれません」
職員は少し首を傾げ、そのまま去っていった。
その背を見送りながら、心の中で自嘲した。
俺は、こういうときいつも“諦める側”の人間だった。
会社で昇進のチャンスを逃しても、「まぁいいや」で済ませた。
夢を掴む勇気もなく、ただ安全な場所に留まる。
――きっと、ここでも同じだ。
トレーナーという立場に立てる自信も知識もない。
この世界で生きるなら、せいぜい「観客席の一人」で十分だ。
幸いにもご都合主義が働いてくれて、転生したにも関わらずこの世界で同じサラリーマンをしている記憶もあるし、家も全く同じ住所。
ただ、トレセン学園がご近所と職場の近くになっていることを除けば大体同じ。
競馬関係が消失し、トレセン学園やウマ娘の存在が新たに組み込まれた世界になっているようだ。
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それからの日々、俺は仕事の休みの日や、トレセン学園が近いことを利用して、休憩時間中にトレセン学園のレースを観戦することにした。
この世界では、トレセン学園の校舎や寮に入ることは禁じられているが、トラック内を観客席で見学することは許されているようだ。
この優しさは、この世界ならではのものなのだろうか。
前世の街並みと比べると、ゴミひとつ落ちておらず、人々は皆、丁寧に他者と環境に配慮している。
善意が空気のように溢れている。
――おかげで、トレーナーでもない俺がここで観戦できる。
それだけでも、ありがたい。
観客席にはちらほらと一般人の姿があり、取材に来たであろう記者も数名いる。
皆、目の前で繰り広げられるウマ娘たちの熱戦に釘付けになっていた。
俺もその一人だ。
トレーナーたちは、彼女たちの能力を引き出すために奔走し、ウマ娘たちは夢に向かって全力で走る。
その姿を観客として見守ることしかできない――そんな自分に、少しもどかしさを覚えながらも、胸が熱くなる。
まるで夢の中で夢を見ているような感覚だ。
アプリの中でもアニメの中でもなく、ここにウマ娘が立っている――その事実が、信じられないほど鮮やかに心を揺さぶる。
そんな思考に浸っている中、ひときわ目を引くウマ娘がいた。
――マチカネタンホイザ。
淡い栗毛のセミロングの髪をふわりと揺らし、右耳には濃い色に変化する流星メッシュが差し込む。
小さな球状のシンプルなアクセサリーが光を反射し、頭には青いキャスケットを被っていて、頭頂部の穴から右耳を通している。
帽子に付いた長いリボンが背中側で風に揺れる。
ひまわり色の瞳が、どこか優しげに光っている。
セーラー服風の衣装に、赤いピンがきらりと光り、笑顔はまぶしいほど柔らかい。
まさに、前世で何度も画面越しに見たあの“推し”だ。
――俺の“推し”だ。
何度も育成し、出来る限りの努力を注いだ彼女が、今ここに生きている。
しかし、今の俺は彼女のトレーナーではない。
あの子にはちゃんとトレーナーがいて、二人三脚、もしくはチーム内で努力している。
俺はその輪の外にいる。
ただの傍観者、観客。
それでも――胸が高鳴る。
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その日はクラシック級の新シーズン模擬レース。
彼女は笑顔でゲートに立っていた。
実況の声が響く――
「マチカネタンホイザ、ゲートイン完了!」
俺の胸が強く打たれる。
まるで自分が走るかのように、鼓動が高まる。
ゲートが開く音、歓声、風の唸り。
芝の匂いが鼻腔をくすぐり、木々のざわめきが周囲を包む。
そのすべてが、リアルな競技場の息遣いだ。
だが、レースは思うように進まなかった。
コーナーで他のウマ娘に塞がれ、進路を取れず、最後の直線で脚を使い切ってしまう。
結果は七着。
彼女の顔には笑顔が貼り付いていたが、肩の揺れがそれを裏切っていた。
息が荒く、しかし決して諦めない目。
長距離・中距離で培った持久力は明らかで、差しの動きも無駄ではない。
流れを読む力、脚質を活かすタイミング――前世の俺がアプリで何度もスキル計算し、育成したデータが、目の前の走りを間違ってないと肯定する。
タンホイザがしようとしていたことは観客席から見れた。
ただ、うまく噛み合えなかっただけだ。
――彼女は間違いなく“持っている”。
俺は心の中で、静かに声をかけた。
「タンホイザ……最後まで諦めるな……流れを読むんだ……」
レースを見守る観客のざわめきに混ざって、俺の小さな声は風に消えていった。
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観戦を続ける日々。
俺は休みのたびに、時間を作ってはトレセン学園へ足を運んだ。
レースの合間には、ウマ娘たちの仕草や走り方を観察し、持ち味や傾向をノートに書き留める。
――前世の知識を活かせる瞬間が、こんな形で訪れるとは思わなかった。
タンホイザの走りを見ていると、彼女の特徴が自然に理解できる。
長距離ではスタミナを活かして最後まで粘れる。
中距離では脚を溜め、適切なタイミングで差し込む。
差し脚質としての長所は、前が塞がれることを恐れず、瞬間の判断で流れに乗ることができる点だ。
俺は自然と、彼女にアドバイスするように心の中で言葉を紡ぐ。
「焦るな、タンホイザ。君なら必ず抜けられる。脚を溜めて……風の向きを読め……」
それはもはや観客としての声ではなく、心からの応援だった。
観客席から見ていると、彼女の小さな仕草も目に入る。
頭をかしげる動作、肩の力の抜き方、芝を踏む足の微妙な角度。
すべてが走りに直結している。
俺は知らず知らずのうちに、分析者の目線で彼女を見つめていた。
そして、少しずつ理解していく。
――マチカネタンホイザは、ただ明るく笑うだけのウマ娘ではない。
自らを“普通”と称しながら、他のウマ娘が驚くほどの努力を黙々と積み重ねる。
その積み重ねが、結果として差し脚質の強さ、長距離・中距離の持久力に直結しているのだ。
俺は静かに拳を握った。
――もし俺に出来ることがあるとするなら、それは傍観者であっても、応援することしかない。
けれど、その声が届くかもしれない。
届かなくても、俺の心は彼女の走りと同じ速度で熱くなる。
「頑張れ……タンホイザ……!」
小さな声は風に溶け、観客席のざわめきに紛れる。
それでも、俺は信じていた。
この世界で、彼女に少しでも力を与えられると。