あの日から、俺はトレセン学園の観客席に通うようになった。
休みの日の朝は新聞売り場で公表されている模擬レースのスケジュールを確認し、昼にはグッズショップを回る。
財布の中身が寂しくなっても、ガチャより健全だと自分に言い聞かせた。
やはり結果がそうさせるのか、グッズ関連は少ない。それでも、彼女のストラップやタオルを買うたびに胸が弾む。
「……タンホイザ、今日も出走するのか」
モニターの出走表に名前を見つけるたびに、心がざわつく。
まるで前世の推し活が、そのまま現実になったようだった。
レースの日は、観客席で彼女の姿を探す。
真剣な眼差し、走る前に深呼吸して肩を回す仕草。
それらの一つ一つが愛おしかった。
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前だけを見て、静かに、確かに立っている。
彼女の周りには、同じチームのウマ娘たちとトレーナーの姿があった。
――あぁ、やっぱり。
彼女には、ちゃんと支えてくれる人がいるんだな。
胸の奥に小さな痛みが走った。
それが醜い嫉妬なのか、羨望なのか、自分でもわからない。
ただ、俺は観客席という“遠い場所”から見ていることしかできない現実を、改めて思い知らされた。
その中で、トレーナーらしき青年がチームに笑顔で何かを話している。
タンホイザも笑顔でしっかりとメモを取っている。しかし、その笑顔の裏にどこか影のようなものがある。
前世でアプリをプレイしていたからこそ分かる。
彼女が“普通のウマ娘”として幾度も挫折し、それでも「えい、えい、むんっ!」と自分を鼓舞して立ち上がり、持ち前の前向きな姿勢で多くの人々の胸を打ったことを。
だからこそ、記憶の中の彼女と現実に存在する彼女の姿の重なりを見ると、胸の奥がきゅっと痛くなった。
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「……俺は、また見てるだけなんだな」
呟きが漏れる。
気がついたらレースが終わっていた。
走り終えた彼女は、笑顔のままインタビューに応じていた。
結果は七着。
それでも「なんのっ、まだまだぁ!」と無邪気に笑う姿に、
俺は思わず胸を押さえた。
――この世界の彼女は、もう俺の手の届かない場所にいる。
それでもいい。
彼女が元気でいられるなら。
そう思うことで、自分を保っていた。
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そんな風に思っていたある日の夕方。
トレセン学園の外周を歩いていると、遠くから聞き覚えのある声がかすかに聞こえてきた。
「うぅぅ〜……どうしてうまくいかないんだろ〜……」
小さく、かすれた声。風にかき消されそうな声。
立ち止まり、耳を澄ませる。特徴的な声。聞き覚えのある――いや、知っている声だった。
視線を向けると、フェンスの向こうに見覚えのある後ろ姿があった。
淡い栗毛のセミロングの髪が夕陽に染まって輝く。
右耳には濃い色に変化する流星メッシュがあり、小さな球状のシンプルなアクセサリーが2つ揺れて光を反射している。
頭には一般的な帽子を被っているが、頭頂部にざっくり開けられた穴から右耳を通しており、背中側には帽子に付いた長いリボンが風に揺れてなびく。
白い制服の襟がそよ風に揺れ、柔らかくも凛とした佇まいを作っていた。
――マチカネタンホイザ。
思わず息を呑む。
この世界に来てから、何度も彼女を見かけてきたが、至近距離で、しかもこんな自然な姿で目の前に立つのは初めてだった。
彼女はフェンス越しの芝生に腰を下ろし、膝を抱えてうつむいていた。
その小さな肩がわずかに震えている。
練習の疲労なのか、心の迷いなのか――両方が入り混じっているように映った。
「トレーニングメモ…とらないと…でも今日はもう…い、いやいや、ちゃんとやらなきゃ…。はっ!!」
足音に気づいたのか、ぱっと顔を上げる。
ひまわり色の瞳がこちらを捉えた瞬間、胸がざわついた。
「……はうあっ!ご、ごめんなさいっ!ここ立ち入り禁止ですよね!?すぐ出ますっ!」
慌てて立ち上がる彼女の動作が、やけに可愛らしい。
思わず俺は笑ってしまった。
「いや、俺も通りがかっただけで……。立ち入り禁止じゃないと思う」
「そ、そうなんですか? よかったぁ……うぅぅ」
胸に手を当ててほっとするその仕草が、まさにアプリで見た彼女そのままだった。
ふんわりと柔らかく揺れる髪の間から、リボンが風にそよぎ、まるで空気の流れに反応するかのようだった。
少し沈黙が落ちる。
芝生の匂い、風の匂い、遠くで鳥がさえずる音――すべてがこの時間の間に沈殿しているように思えた。
彼女は足元の芝を見つめ、幾分か溜めて小さく息を吐く。
「……また、ダメだったんです」
「ダメ?」
自然と口に出る。
「走っても走っても、思うように前に出られなくて……。
差しのタイミングもずれちゃって、後ろから抜けないんです……」
その声には普段の明るさがなかった。
自分を責めるように震えるその響きが、胸に刺さる。
「やっぱり普通の私じゃダメなのかなって、ちょっと思っちゃいました…えへへ」
俯く横顔に夕陽の赤が差し込み、睫毛が芝生に影を落とす。
その影の揺れまで、まるで彼女の心の小さな波紋のようだった。
俺の胸が、ずしんと重くなる。
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「……そんなこと、ないと思うけどな」
自分でも驚くほど自然に言葉が出た。
「え?」と彼女が顔を上げる。
「たぶん、タイミングの問題じゃない。
差しってのは、勢いよりも“流れ”なんだ。前が詰まるときもあるし、脚質次第で抜け出せないこともある。
でも、タンホイザは長距離も中距離も得意だ。スタミナがあるから、最後の直線で力を発揮できる。
短距離の瞬発力だけじゃなく、流れに乗るタイプだから、焦らずに風を読むんだ。君なら必ず抜け出せる」
俺の言葉に、タンホイザは少し驚いた顔で目をぱちぱちさせる。
「……長距離も中距離も……差しも……私、そんなにですか?」
「ああ。持久力があって、最後まで粘れる。前が詰まることがあっても、脚質を活かして抜けるタイミングを覚えれば、君の力はもっと出せる」
彼女の目に小さな光が戻る。
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「……はっ!もしかして、トレーナーさんですか?」
「いや、違う。俺はただの観客だよ」
「観客、さん……」
その言葉を口にしたとき、彼女の表情が少しだけ柔らかくなる。
普段の騒がしい性格とは違う、ほんの一瞬だけ見せる弱さ。
俺はその一瞬に、彼女の努力や迷い、そして純粋な心が垣間見えた気がした。
「なんだか不思議です。見てくれる人に励まされるって……」
「たまたま、そういう話を知ってただけさ。こういう応援の仕方だってあるんだよ」
「……ありがとうございます!普通な私ですけども、声援には普通にちゃんと応えたいなーなんて……思ったりもするのです。えへ」
照れくさそうに頭を下げるその仕草が、丁寧で、しかし自然だった。
髪の隙間から光が差し込み、リボンが風にそよぐ。
俺は思わずその背中のラインに視線を落とす。
「じゃあ、せっかく頂いたアドバイス!次のレースで試してみますねっ!えい、えい……むんっ!」
小さく拳を突き上げる。
その“むんっ”の声が夕暮れの空に柔らかく響き、芝生に溶けていった。
そのままお礼を言って、立ち去っていく後ろ姿を見送る。
「頑張りますよー!応援してくれてる人、私にだっていますからねっ!」
背中のリボンが揺れ、髪の先端が夕陽を受けて光る。
出会った時と大きく変わって元気に走り去っていく姿を見送ってからも、俺はしばらく立ち尽くしていた。
胸が熱い。
ただ応援しているだけじゃ届かない、何かが確かにそこにあった。
「……本当に、現実なんだな」
風に揺れる芝を見下ろしながら、俺は自分の手を見つめる。
彼女の“むんっ”の勢いの余韻。
俺は笑った。
観客席の外で、初めて推しと会話をした。
それだけのことなのに、世界が少しだけ鮮やかに見えた。
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若駒ステークス当日。
冬の冷たい空気が、京都のグラウンドの芝を凍らせていた。
立ち上る息が白くなり、ゲートの前に並ぶウマ娘たちの体が、寒さの中でわずかに震えている。
マチカネタンホイザもその中にいた。
彼女の顔には緊張が張りついている。
――それでも、逃げないで立っている。
あの日に見た少女が、今は戦う目をしていた。
その姿に、俺は無意識に拳を握っていた。
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ゲートが開く。
スタンドが揺れる。
「スタートしましたっ!」
実況の声が響く中、マチカネタンホイザはスムーズに飛び出した。
中団の外側、無理のない位置取り。
その動きは以前よりずっと安定していた。
――落ち着いてる。
俺の胸が高鳴る。
まるで自分が一緒に走っているような感覚。
風が頬を打つたびに、鼓動が速くなる。
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最終コーナー。
外から回る彼女の脚が伸びる。
「マ、マチカネタンホイザ! 外から一気に上がってきた!」
観客席がどよめいた。
彼女の動きはまるで流れる風。
力強く、それでいてしなやか。
直線に入った瞬間、俺は叫んでいた。
「行けぇぇぇっ!」
目の前の空気が震えたように感じた。
彼女の髪が陽光を受けて輝く。
そして――
ゴール。
写真判定。
結果は……二着。
けれど、ほんの僅かの差だった。
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結果が出た瞬間、俺は笑っていた。
不思議と悔しさはなかった。
ただ、胸の奥があたたかかった。
そして視線の先――
彼女もまた、笑っていた。
汗で頬が光り、呼吸は荒いのに、心の底から笑っていた。
その顔を見たとき、ふと涙が滲んだ。
――誰かの努力を、心から美しいと思える瞬間が、こんなにも胸を揺さぶるなんて。
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レース後、観客席を出ようとした時、声が飛んできた。
「観客さんっ!」
息を切らしながら駆け寄ってくるタンホイザ。
彼女の顔には、全力を出し切った者だけが浮かべる笑顔があった。
「見てくれました!? もうちょっとで勝てたんですよ!」
「見てたよ。すごかった」
「ほんとですか!? えへへ……!」
頬を赤らめ、目を細めるその顔に、思わず息を呑んだ。
レース中の凛とした彼女とは違う。
素の、心から嬉しそうな顔。
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「あの、観客さん」
「ん?」
「私、怖かったんです。
でも、走ってる途中で思い出したんです。
あなたに教えてもらったこと……脚を溜めて流れを読むこと。それを思い出したら、体が勝手に動いたんです」
「……そうか」
「だから、ありがとうございます!
観客さんがいなかったら、たぶん今日も怖くて立ち止まってました」
俺は何も言えなかった。
ただ、うなずいた。
彼女の言葉が、まっすぐ胸に刺さる。
そして同時に思う。
――支えているつもりで、支えられているのは俺の方なんじゃないか、と。
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「今度は、勝ちますから!よぉ~し!もうちょっと、もうちょっと!」
「信じてるよ」
「えへ、約束です!」
タンホイザは両手を腰に当てて胸を張る。
「えい、えい、むんっ!」
その声に、心が震えた。
まるで夏の風が、胸の奥まで吹き抜けるようだった。
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彼女が去った後。
俺は観客席にもう一度戻り、空を見上げた。
そこには、彼女が走り抜けたコースの先に残る風の道。
白い雲の切れ間から射す光が、芝に筋を描いている。
――風の向こうに、彼女がいる。
そんな当たり前の事実が、
なぜだか涙が出るほど嬉しかった。