皐月賞ウィーク・春晴れの数日前
――マチカネタンホイザ視点――
トレセン学園の朝は、空気が透き通っている。
芝の香りと潮風が混じり合い、春の匂いが胸いっぱいに広がった。
坂路コースを駆け抜けた足に、まだ小さな震えが残っている。
心拍数を確かめる。少し高い。でも、それも悪くない。
疲労じゃなく、前に進むための熱だ。
「……できることをやればいいんですよね!普通でも、私らしくっ。
うう、正直ちょっと不安もあったりなかったり…いやいやっ、自分を信じなきゃ!むんっ!」
まだ朝霧の残るトラックに、元気な声が響く。
誰もいないのに、応援してくれているような気がして笑ってしまった。
ノートを開き、びっしり書かれたメニューを指でなぞる。
ラップ、ペース、呼吸、ストライドの幅。
一行ごとに過去の自分と比べて、ほんの少しでも前に進めているか確認する。
〈普通の努力、今日も続ける。〉
そう書かれた一文の下には、いつもの落書き――〈むんっ〉の顔文字。
その顔が、なんだか励ましてくれる気がした。
“普通”を重ねることが、きっと私の走りになる。
そう信じて、またノートを閉じた。
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オリ主視点
トレセン学園の外周から見えるトラックは、朝日で金色に染まっていた。
軽やかに駆ける一人のウマ娘。
その背中を見つけるだけで胸が熱くなる。
「調子、どう?」
声をかけると、彼女がぱっと顔を上げた。
頬には汗が光り、ひまわり色の瞳が弾むように輝く。
「あっ、観客さんっ! うーん……悪くはないです。でも、まだ全然ですね!」
「全然?」
「えへへ、“普通”ですよ。
でも、前より“普通”が強くなった気がします!」
不思議な言葉だった。
“普通が強くなる”って、どういう意味なんだろう。
「うまく言えないけど……普通を続けてるうちに、
ちょっとずつ、自分の普通が変わってく感じがするんですよ!
普通のままでは終われませんっ!」
そう言って、彼女はノートを開いた。
数字の羅列。体重、心拍、ラップ、フォーム修正メモ。
ページの端には何度も消して書き直した跡がある。
努力の跡だ。
それが“普通”と呼ばれているのが、なんだかおかしくて、でも愛しかった。
「ほら、普通でも、積もると山になるんです!」
誇らしげに笑うその顔を見て、言葉が出なかった。
“普通”という言葉が、彼女の中で立派な武器になっている。
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その日のチーム内レース。
観客席の端から見守る俺の前で、タンホイザがゲートに立つ。
「……行っくぞ〜」
小さく呟いた声が風に消えた瞬間、スタート音が鳴った。
彼女の走りは、確かに変わっていた。
フォームが滑らかで、無理がない。
コーナーを抜けるたびにスピードが自然に増していく。
――積み重ねた普通が、形になっている。
ラスト100メートル。
彼女は前を行く二人の背中を捉え、唇を動かした。
「……えいえい、むんっ!」
肩がわずかに上がる。
たったそれだけで、空気が変わった。
俺の胸が、音を立てて鳴った。
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レース後、彼女は息を弾ませながら駆け寄ってきた。
頬にかかる髪が風に舞い、栗毛が陽に透ける。
「どうでした? 普通に走れてました?」
「普通じゃなかったよ。めちゃくちゃ速かった」
「えへへ…いいトコ見せられましたかね?」
照れ笑い。だけど、その目は真剣だった。
「……じゃあ、次は本番で見せちゃいますねっ!
ここまでいい感じだったし、大丈夫ですよねっ。あとは気合いだ~むむ~ん!」
「楽しみにしてる」
「約束、ですからねっ!」
指切りのポーズをして、彼女は走り去った。
風に揺れるリボンが、春の空に伸びていく。
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彼女の落としたノートの切れ端が足元に転がる。
そこには鉛筆の文字でこう書かれていた。
〈普通を信じることが、私の特別になる〉
横には、にこっと笑う〈むんっ〉の落書き。
俺は思わず笑って、空を見上げた。
皐月賞まで、あと三日。
春の空は澄み渡り、雲一つなかった。
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皐月の空は快晴。
だが、中山レース場全体に漂う空気は、まるで嵐の前のように張り詰めていた。
「……やっぱり、緊張してるな」
観客席の手すりを握りながら、彼女の名前を出走表で何度もなぞる。
“挑戦者・マチカネタンホイザ”
その文字が、どうしても目を離せなかった。
誰かが笑っていた。「上位は無理だろ」と。
でも、俺は知っている。
この一週間、彼女がどれだけの“普通”を積み重ねてきたかを。
雨の夜も、朝の坂路も、ひとりきりで「むんっ」と立ち上がる姿を。
スタートゲートが閉じられる。
ひまわり色の瞳が、まっすぐ前を見つめている。
リボンが風に揺れた瞬間、スタートの音が鳴った。
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序盤、彼女は中団の真ん中。
無理に前へ出ず、後ろにも下がらない。
まるで波の間を泳ぐように、一定のリズムで進む。
「落ち着いてるな……」
隣の観客が呟いた。
違う、と思う。落ち着いてるんじゃない。
信じてるんだ。自分の走りを。
中盤、ペースが上がる。
先頭集団が仕掛ける。
場内の歓声が大きくなる中、彼女だけは焦らずにいた。
ラインを守り、呼吸を整え、脚を温存。
“普通”のペース。
でも、その“普通”が、誰よりも強い。
最終コーナー。
彼女は外に持ち出すと、ぐっと腰を沈めた。
「……むんっ!」
息を吸う音が届く気がした。
次の瞬間、風が変わった。
その走りは、確かに特別だった。
リズムも姿勢も、何一つ崩れない。
力強く、美しい差し脚。
淡い栗毛が光を反射し、まるで風そのものになったようだった。
「マチカネタンホイザ! 一気に伸びてきた――ッ!!」
実況の声が響き、観客席が揺れた。
残り100メートル。
差は半馬身。
彼女は焦らず、ただまっすぐ前を見据える。
「行け……!」
俺は拳を握りしめた。
心臓が痛いほどに鳴る。
その鼓動に合わせるように、彼女が地を蹴る。
風を切る音。芝の弾ける匂い。
すべてが一瞬で通り過ぎた。
――二着。
勝てなかった。
でも、観客全員が立ち上がっていた。
誰もが、彼女の走りを見届けていた。
ゴール後、肩で息をしながら空を仰ぐマチカネタンホイザ。
その頬には涙。けれど、笑っていた。
「……へへへ…私、頑張りましたよねっ、むん!」
風が、その言葉を運んでいく。
俺は、ただ頷いた。
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レース後。
出口に向かおうとした俺の背中に、あの声が届く。
「観客さーん!」
振り返ると、彼女が駆けてきた。
まだ汗が光る頬に、笑顔が咲いている。
「見てくれてました?」
「ああ。最高だったよ」
「ふへへ…まだまだ行けちゃうかも!普通のままでは終われませんっ!」
「お前の普通は、もう十分特別だよ」
「……え?」
きょとんとした顔。
そして、ゆっくり笑った。
「……普通を超えた私の走り、見せてあげましょう!ひひっ、な~んちゃってな~」
「楽しみにしてる」
「はいっ!えい、えい――むんっ!」
空に響く彼女の声。
春の陽が、その笑顔を包んでいた。
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その日、俺は確信した。
この世界に来た意味は、
あの笑顔を見るためだったんだ。
“普通”を信じて、夢を掴もうとする少女の背中を――
ずっと見ていたい。
風が吹き抜け、ひまわりのような光が揺れた。