皐月賞が終わってから、マチカネタンホイザは一度も立ち止まらなかった。
結果は二着。
勝利まで、あと半バ身。
だが、彼女は悔しさよりも先に、笑顔でゴール板を見上げていた。
「普通を信じた結果が、ここまで来たんですっ。
でも、もっと“普通”を続けてみたいんです。きっと、まだ伸びる気がします!大事なのは、次ですよ、次!」
それが、あのレースの直後に彼女が言った言葉だ。
記者たちは「天然のポジティブ」と笑った。
けれど、俺は知っていた。
あの言葉の裏には、涙の夜と、噛みしめるような努力が積み重なっていることを。
春の終わり。トレセン学園の坂路には、初夏の風が混じり始めていた。
タンホイザは、朝の光を浴びながら走っていた。
その脚は細く見えても、一本一本が芯のある強さを秘めている。
誰よりも地味で、誰よりも真っ直ぐ。
――そんな彼女が、再び「夢の舞台」に挑もうとしていた。
――マチカネタンホイザ視点――
朝露の残る芝を踏みしめ、タンホイザは深呼吸した。
「ふぅ~……今日も、気持ちいい朝ですなぁ~!」
トレセンの空は高く澄んでいる。
夜明けの光が、白い息のように霧を照らす。
彼女はポーチからノートを取り出した。
角の折れたそのノートには、日付と小さな文字で書き込みが並ぶ。
〈フォーム修正。差し脚の意識、まだ甘い。“普通”のまま、スピードを落とさず繋ぐこと。〉
そのページの隅に、小さな文字で
〈ダービー、夢の舞台。焦らず、丁寧に〉
と書かれていた。
タンホイザは、その一文を指でなぞる。
「丁寧に……。焦らず、焦らず、ですなっ」
その声は静かだったが、風に乗って心地よく響いた。
---
皐月賞のあと、遠慮気味だった彼女の周りの空気は少し変わった。
チームの仲間たちはこぞって声をかけてくる。
「すごかったよタンホイザ!」
「惜しかったね! 次こそ勝てる!」
その輪の中に、ナイスネイチャの姿もあった。
腕を組みながら、少しホッとしたような笑顔で言う。
「タンホイザ、あんた……ホントにやるじゃない。
“普通”って言葉、もうちょっと誇っていいと思うよ?」
「えへへ、ネイチャさんにそう言ってもらえると、なんだか勇気が出ますなぁ~!」
そう言って、タンホイザはいつも通りの笑顔で坂路へ走り出す。
その姿を見て、ナイスネイチャは小さく息を吐いた。
「ほんと……強いよ、あんたは。」
---
皐月賞から数日後の夜。
学園の裏庭、月明かりに照らされたベンチで、タンホイザはひとりノートを抱えていた。
録画した皐月賞の映像を繰り返し見ている。
静かな声で呟いた。
「……もう少し、だったな」
その声は笑っているようで、震えていた。
リプレイの映像に映るのは、最後の直線――
彼女の脚が止まりかけた瞬間。
「差しのタイミング、ほんの少し早かったかも……。
うーん、あそこで我慢できてたら……」
その背後から、ナイスネイチャの声がした。
「……あんた、また見てたの?」
「ネイチャ……!」
「もう、ほどほどにしなよ。二着だって、すごいんだから。あんたの“普通”は、きっと誰かの特別になってるんだよ?」
タンホイザは一瞬言葉に詰まり、それから笑った。
「えへへ、でも“普通”って、まだまだ更新できるかも。
次はもっと、ちゃんと前に届くように――」
「……まったく、真面目なんだから」
ネイチャは微笑みながら、肩を叩いた。
「行きなよ、“普通”のままで。
でも、それが一番難しいってこと、忘れないでね。」
タンホイザは頷き、涙を拭った。
〈日本ダービー。全力で、“普通”の更新!〉
夜空の月が、二人をやわらかく照らしていた。
---
ーーオリ主視点ーー
皐月賞から一ヶ月後の午後。
俺はトレセン学園のトレーニングエリアに立っていた。
タンホイザのトレーナーに頼まれたのだ。
「彼女に、君の視点からのアドバイスを続けてあげてほしい」と。
もちろん、俺はただの一般人だ。
トレーニング方法なんて正確にはわからない。
前世では育成時にボタン一つ押しただけで半月が経ち、ステータスがUPしているのだから。
この現実となった世界ではそんな簡単なものではない。
それでも……マチカネタンホイザの想いだけは知っている。
「悪用はしない。何かあれば自分が責任を負う。彼女のためだけに、頼む」
彼のその真剣な目に、俺は頷くしかなかった。
ーーもう、傍観者では居られない。
---
坂路の直線。
タンホイザが風を切って走っていた。
リズムは一定。脚の回転が以前より速い。
フォームも安定していて、どこにも無理がない。
「やっぱり、すげぇな……」
思わず口に出る。
彼女は“努力の見本”そのものだ。
焦らず、誤魔化さず、ひたすら積み上げる。
その姿勢は見ていて気持ちいいほど清らかだ。
ラスト200メートル。
息が荒くなる中で、彼女が小さく呟いた。
「……頑張るぞっ!」
その一言とともに、脚がさらに伸びた。
まるで風そのものになったように、滑らかに加速する。
ゴールを駆け抜けたあと、彼女は息を弾ませながら俺に手を振る。
「観客さーん!タイム、どうでした!?」
「前回より、0.4秒縮んでる」
「えへへっ、やりましたっ!普通でも進化してますねっ!」
“普通でも進化”
その言葉を、こんなに誇らしげに言える人間を、俺は他に知らなかった。
---
ダービー前日の夕暮れ。
学園の調整場では、静かに影が伸びていた。
タンホイザは汗を拭いている。
それはまるで、儀式のような静けさだった。
「……ダービーって、特別な響きですよね」
俺の声に、彼女はゆっくり頷いた。
「そうですね。皐月賞とは違って、なんだか“夢”って感じがしますっ。
私、ずっと“普通”に走っていくだけでいいと思ってたんですけど……
最近ちょっと違う気もしてて」
「違う?」
「はい。“普通の私”が、誰かの夢になれたらいいなって、思うんです」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
「もう、なってるよ。俺にとってはな」
「えっ……えへへっ……そ、そうですかっ?」
帽子のつばを下げて、少し赤くなった頬を隠す。
その仕草が、どうしようもなく眩しい。
風が吹き、リボンが揺れた。
その光景を見て、俺は確信した。
――この“普通”は、本物だ。
---
ーーオリ主視点ーー
日本ダービー。空は快晴。
東京レース場には、かつてないほどの観客が集まっていた。
芝は春の緑に輝き、風が香る。
それは、夢の舞台にふさわしい天気だった。
七番ゲート。
マチカネタンホイザ。中距離・差し脚質。印は薄い。
だが俺は知っている。
――この“普通”が、どれほど特別かを。
---
スタート前。
タンホイザがこちらに小さく手を振った。
観客席の遥か上からでも、はっきり見えた。
その笑顔は、春の陽射しよりもあたたかかった。
(行け。お前の“普通”を信じろ)
ゲートが開く。
地鳴りのような歓声が、空を震わせた。
スタートは上々。
タンホイザは中団やや後方に位置取る。
ペースが速まっても、焦らない。
淡々と、リズムを刻む。
「7番マチカネタンホイザ、中団待機。皐月賞と同じ位置取りです!5番ナイスネイチャ、すぐ後ろに控えているぞ!」
実況の声が響く。
だが俺には分かる。
これは“我慢”ではなく“確信”だ。
風を感じ、脚をため、呼吸を整える。
タンホイザは、まるで風の一部のように自然に動いていた。
最後のコーナーを抜け、東京の長い直線が広がる。
観客の歓声がひとつに溶ける。
「マチカネタンホイザ、外へ持ち出した!」
その瞬間、彼女の唇が動く。
「えいえい――むんっ!」
風が弾けた。
脚が伸びる。ひとつ、またひとつ、前を抜いていく。
「マチカネタンホイザ、伸びる!伸びるッ!皐月賞二着の意地を見せる――!!」
まっすぐな瞳が前を射抜く。
太陽が芝を照らし、汗が煌めく。
観客席が揺れた。
残り100メートル。
先頭との差、わずか。
俺は拳を握りしめた。
(行け……!)
だが彼女は、ただ静かに笑った。
残り100メートル。
先頭との差はほんのわずか。
「行けぇぇぇ――!!」
観客の叫びが重なる。
タンホイザは唇を結び、まっすぐ前だけを見つめていた。
「普通でも、ここまで来られるんだっ!!」
叫ぶように言い、彼女は最後の一歩を踏み出した。
ナイスネイチャがすぐ後ろに迫っている。
だが、タンホイザは止まらなかった。
ゴール板を、彼女のひまわり色の瞳が見据えた瞬間――
風が弾けた。
---
結果は二着。一位とのその差はアタマ差。
その僅かな差……彼女の“普通”は確かに会場を揺らした。
三着は、ナイスネイチャ。
ゴール後、肩で息をするネイチャが笑う。
「……やるじゃん。いやーまったく追いつけなかったわー」
「えへへ……ネイチャこそ、すっごく速かったっ!
でも、もうちょっとだけ“普通”を続けてみようと思うよ!」
ネイチャは苦笑しながら頭を優しく撫でる。
「ホント、あんたってさ……どこまでも“普通”の天才だよ。」
---
表彰式を終え、ライブの終わったタンホイザが走り寄ってくる。
「観客さん! 見てくれましたっ?」
「ああ。最高だった。
お前の“普通”が、また特別を超えたよ。」
「へへっ……そうですか?
じゃあ、これからも普通を続けなきゃですねっ!」
その後ろでは、ナイスネイチャが軽く手を振っていた。
「次は私が前に行くからね~!」
「えへへっ、負けないぞ〜!むんっ!」
風が吹き抜け、ふたりの笑い声が重なる。
その瞬間、夏の匂いが確かに届いた。
マチカネタンホイザの“普通”は、もう誰よりも強い。
それは、夢を叶えるための力じゃなく、
夢そのものを形にする力だった。
ナイスネイチャもまた、その背中を追いかけていた。
――“普通”という名の、いちばん強い意志を携えて。
ひたむきに、愚直に。
彼女の走りは、確かにこの世界に“希望”を刻んでいた。