9月前半、トレセン学園のトレーニング室。
ランニングマシンのモーター音と、鉄製器具のぶつかる音が静かに響いていた。
俺はマチカネタンホイザの横に立ち、少し緊張しながら声をかける。
「タンホイザ、次は神戸新聞杯に出てみないか?」
タンホイザはタオルで汗を拭いながら、ぱっと目を輝かせた。
「神戸新聞杯……ですか? 菊花賞の前哨戦になるんですね!」
俺は頷く。
「距離も菊花賞より短いが、合宿後の調整にはちょうどいい。それに、ミホノブルボンの代わりと言っちゃあなんだけど、シニア級のウマ娘たちを相手に戦うなら絶好の機会だ。ここで力を試しておけば、菊花賞に向けても万全だろう」
タンホイザは胸を軽く叩き、顔を輝かせる。
「……はいっ! 観客さん、私、頑張りますっ!」
その瞳には、夏合宿で培った“普通の力”――安定したフォームと差し脚のリズムが、確かな自信として宿っていた。
ミホノブルボンに「お互い全力を尽くしましょう」と言ってもらえました!と元気にいっぱいに教えてくれたのだ。
まだ鮮やかに残っているんだろう。
あの言葉が、彼女の背中を押していたようだ。
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俺がトレーニング室で当たり前の様に入れるのはともかく、レース提案までしてしまっているのは、もう「根回しされていた」としか言いようがない。
ただアドバイスをしてほしいとそれまで止まりのはずだったはずたったのだが……。
いつの間にかマチカネタンホイザのトレーナーが、トレセン学園のあの小さい理事長に直接交渉していたらしい。
曰く、
「ウマ娘を指導できる能力があるのに放っておくのは惜しい。どうにか認めてもらえないか」
……とのこと。
普通なら、そんな話が通るはずもない。
確かにアプリ版では、理事長がタンホイザのことを気にかけているというか期待してた描写はあったのだが――なぜかその話が通ってしまった。
もっとも、正式な“トレーナー”は難しいとのことで、俺は「マチカネタンホイザのサブトレーナーとして、担当トレーナーの下で学んでいく」という形に落ち着いた。
その決定が下されたのは、つい昨日のことだ。
その昨日、トレーナーに上手いこと連れて行かれたのが、よりによってあの理事長室。
「歓迎!」と張りのある声で出迎えられた瞬間、もう嫌な予感しかしなかった。
案の定、その後トレーナーは「一般人に自分の担当をほぼ任せっきりにしてしまった責任」を問われ、俺は「トレーナーとウマ娘の成長方針を勝手に変えてしまったこと」を怒られた。そりゃそうだ。
だがその流れで、理事長が得意げに扇子を広げて叫んだ。
「提案!」
――その結果が、サブトレーナー就任というわけだ。
もう流れに任せるしかなかった。
……俺の転生特典って、ご都合主義にもほどがあるんじゃないか?
俺は観客として、ただ傍観者としてこの世界を生きていくつもりだった。
だが、もう無理だろう。
――あんなにも、彼女の走りに魅せられてしまったのだから。
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神戸新聞杯当日。
阪神レース場の芝は朝露に濡れ、光を浴びてきらめいていた。
ゲートが開く。
マチカネタンホイザは夏合宿で鍛えた接地感覚とフォームの安定を意識し、自然に差し脚を使い分けながら前へ前へと進む。
不安定な芝でも体の芯から力を伝え、一歩一歩を精密に積み上げていく。
「……すごい!……よしっ、見ててくださいね~! 夏の成果を、観客さんが褒めてくれた私の走りを!」
その姿はまさに、努力の結晶だった。
タンホイザはクラシック級だけでなく、シニア級のウマ娘たちをも次々と差し抜き、ラストスパートでは全身の力を解き放つようにゴールへと飛び込んだ。
結果――大差で1位。
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ゴール後、汗に濡れた髪を耳にかけ、胸を上下させながら観客席へと振り返るタンホイザ。
「はぁ……はぁ……っ〜〜!やったー!!」
(ワァアアアアッ!)
「私、マチカネタンホイザがあんなに凄いと思わなかった!」「そら皐月賞と日本ダービーで2位だったんだぜ?それにあんな親しみやすい子が頑張る姿は応援したくなるってもんだ!」「おねーさんすごーい!!」
周囲の観客たちが口々に歓声を上げる。
かつて“上位は無理だ”と噂されていた彼女が、今こうして賞賛されている。
その光景に、自然と口角が上がってしまう。
気付けば――タンホイザが観客席の手前まで来ていた。
「観客の皆さん! 見ていてくれましたかっ?」
頬を赤くしながらも、瞳はまっすぐに俺を捉えている。
俺も笑って言葉を返した。
「すごかったぞ! ありがとう、タンホイザ!」
ーーマチカネタンホイザ視点ーー
タンホイザの胸に、何かが火を灯した。
それは勝利の喜びだけではない。
観客さんの声を聞いた瞬間、他の声援がすべて遠ざかった。
自分の全力を褒めてもらえた。
見てもらえた。
ただそれだけで、胸の奥が満たされ、じんわりと温かくなる。
小さく息を吸い、頬に手を当てる。
体の震え、速くなる鼓動、胸の奥のぎゅっと締め付けられる感覚。
――その時、ようやく気づいた。
尊敬や憧れではない。
もっと見てほしい。もっと傍にいてほしい。
その想いが、確かに心の中で芽生えていた。
拳を胸に当て、心に誓う。
「次の菊花賞でも、絶対に観客さんに喜んでもらえるように、私っ! 全力で頑張っちゃいますっ! だから――これからが楽しみじゃなくて、これからも楽しみにしててくださいっ!」
(ワァアアアアッ!)
秋の空の下、多くの観客が見守る中で宣言したタンホイザの瞳は、勝利の余韻と新たな想いで輝いていた。
その時、観客の一人がぽつりと呟いた。
「まるで誰かへの告白みたいだったな……」
ウマ耳がそれを拾ってしまう。
「ひん。こっぱずか〜……!」
先ほどまで堂々としていた姿が嘘のように、タンホイザは真っ赤な顔で足早に去っていった。
しばらくの間、彼女の頬の熱は冷めなかった――。
ーーー
神戸新聞杯から数日後。
夕暮れのトレーニングコースには、薄橙の光が射していた。
走り終えたタンホイザは、クールダウンのために外周をゆっくりと歩いていた。
汗が乾く前の風は少しひんやりしていて、秋の匂いがした。
ふと、遠くの坂道コースから――
リズムの狂わない、けれど力強い足音が聞こえてきた。
(……あれ、誰だろ? まだ走ってる娘がいるのかな)
視線を向けた瞬間、胸の奥がぎゅっと熱くなった。
泥にまみれた姿で、何度も何度も坂を駆け上がっていく――
ライスシャワーだった。
長い黒髪が跳ね、靴の泥が飛び散る。
その足取りはすでに限界に近いはずなのに、彼女は止まらない。
トレーナーの姿も、誰かの掛け声もない。
ただ、自分の呼吸と鼓動だけを頼りに、ひたすら走っていた。
(……すごい)
胸の奥がざわついた。
何度も見てきた光景だった。
ライスシャワーが誰もいない時間に一人で走っている姿を、前から何度も目にしていた。
でも、今日の彼女は――違っていた。
泥だらけのシューズ。
それでも動きを止めない足。
顔に張りついた髪の隙間から覗く瞳は、ただまっすぐ前だけを見ていた。
「……ライスさん……」
声をかけようとして、やめた。
この光景を壊すのが、もったいなかった。
(きっと、ライスさんは……怖いほどまっすぐなんだ)
ずっと、彼女のことを密かに尊敬していた。
勝てない日も、評価されない日も――
泣かずに走り続ける背中を、何度も見てきたから。
彼女はいつも、誰かの目に映らないところで努力していた。
そんな姿に、勇気を貰い何度救われただろう。
けれど、そんなライスシャワーの“憧れ”を、“闘志”に変えた。
拳をぎゅっと握る。
爪が手のひらに食い込むほど、強く。
(私だって……絶対、負けないんだから)
ライスシャワーがもう一度坂を登る。
その足跡が、泥の中で深く刻まれる。
それを目に焼き付けながら、タンホイザは静かに背を向けた。
胸の奥で、何かが燃えはじめていた。
負けたくない。
あんな風に、自分を信じて走れるようになりたい。
憧れを自分の力に変えて。
そう強く思いながら、私はトレーニングコースを歩き出した。
夕焼けの光が長く伸び、泥にまみれたライスの姿を照らしていた。
ーーー
次第に、その光景が――
私の中で、菊花賞へと続く炎になっていった。