お待たせしました
彼女は、指先から血液をプラスチック製の小さな容器に垂らした。こぼれ落ちた鮮血が容器に満たされ、ゆっくりと容器のとある場所にて広がる。
彼女が体調の変化に気付いたのは、十日位前になる。
実際には、もっと前から肉体の変異は進んでいたのだろう。
その時に対処出来ていたら、そう考えた彼女は首を振る。
何時かはそうなる可能性はある、と最初から覚悟していた事だ。
しかし
「……つっ……」
鏡に写っている自らの姿に、彼女は唇を噛んだ。
身体が食べ物を受け付けず、無理に食べようとして吐き気を催す。
外見的には、目立った変化はない。強いていえば、目が熱っぽく潤んでいて、頬も僅かに火照っている。
ここ数日は微熱が続いており、その影響か身体が少しばかり怠い。
しかし、戦えないという訳ではない。
任務を果たせない訳ではないのだ。まだ、今は。
「大丈夫……」
彼女はそう言いながら、プラスチック製容器のある部分を見た。そこは、今まで見たことのない反応を示している。
本来ならば、直ぐにでも報告が必要なレベルだ。
だが彼女は、何事もなかったかのように、容器をケースに仕舞ってからゴミ箱に捨てた。
報告したら、今の居場所に戻れないと知っているからだ。
「私は……大丈夫です……」
自分に言い聞かせるように呟いてから、彼女は部屋を出た。
まだ、今居る島から離れる訳にはいかない。
何故ならば、彼女はある少年の監視役だからだ。
今はまだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
深夜の海
東京から遥か南に330kmは離れた海上に、一機の大型航空機がゆっくりと降下してきていた。
四基のターボファンエンジンを搭載した巨大な水陸両用機で、湖や海面を利用しての発着が可能な、正式名は飛行艇だ。
全長、翼幅が共に40mを超えるその機体は、民間所有の飛行艇としては規格外に大きい機体だった。
深紅の縁取りが施された機体が、月の光を反射して銀色に輝いている。
その機体の尾翼に描かれているのは、飛龍に牽引された戦車の紋章。
欧州の
海面に着水した飛行艇。ストリクスは、海上に造られた人工の島に近付いていく。
港に近付くストリクスの正面には、一隻の巨大なクルーズ船が停泊している。
こちらのクルーズ船にも、戦王領域を示す紋章が描かれてある。
そのクルーズ船の名前は、オシアナス・グレイヴⅡ。
ディミトリエ・ヴァトラー所有の船である。
ストリクスはオシアナス・グレイヴⅡの真横に停泊。
機体上部のハッチが開き、中から人影が現れた。
浅黒い肌を持つ長身の男で、年齢はよく分からない。顔立ちだけならば若くも見えるが、その身に纏う威厳と落ち着きは、老獪な武将か政治家を彷彿させるだろう。
「…………」
その男はオシアナス・グレイヴⅡを見上げて少し苛立たしそうにため息を吐いた。
そして、潮風に揺られる長い黒髪を抑えながら、掛けられたラダーに一歩足を乗せた直後、光り輝く蛇が大量にその男に降り注ぐ。
並の人間ならば、即死は確定する膨大な魔力の塊。
つまりは、吸血鬼の眷獣だ。
それを見た男は、忌々しげに舌打ち。すると、そんな男の前に8mに届きそうな闇色の大剣が現れて
「……舞え、
と男が声を張り上げると、大剣が素早く動いて蛇を切り裂いた。
二体の強力な眷獣の破壊の魔力に、オシアナス・グレイヴⅡとストリクスの両方から金属の軋む嫌な音が聞こえる。
「……気は済んだか、蛇遣い」
うんざりした様子で男が問い掛けると、オシアナス・グレイヴⅡの甲板にスリーピースのスーツを着た一人の優男。
ディミトリエ・ヴァトラーが居て
「せっかくの再会だというのに、つれないじゃあないか。ヴェレシュ・アラダール」
「俺は、貴様のくだらん趣味に付き合う為に、こんな辺境の島国にまで来た訳ではない」
ヴァトラーの言葉に、ヴェレシュと呼ばれた男は冷たく言い返した。
ヴェレシュは、ヴァトラーと本気で戦える数少ない一人なのだ。だからこそ、ヴァトラーはヴェレシュに礼儀を払うことを厭わなかった。
「では改めて……お待ちしておりました、ヴェレシュ・アラダール戦王領域帝国議会最高議長殿……遥か遠方よりのご光臨を賜り、このヴァトラー。恐悦至極に存じます」
「嫌みのつもりか、ヴァトラー……全ては貴様が仕組んだ事だろう……第四真祖にカインの巫女……おまけに今度は、
ヴァトラーを睨みながら、ヴェレシュは顔を歪めた。
その表情は、厄介事が集まり過ぎて頭が痛い、というものだ。
「それは失敬した、アラダール議長……だけど、君がこの島に来たということは、ようやく議会の元老院達が重い腰を上げた、と思ってもいいのかな?」
「彼らとて、見過ごす訳にはいかないのだろうさ……棺桶の開放と言われたらな」
そこまで会話した時、ハッチから新たな人影が現れた。
小柄な少女なのだが、その長い髪がまるで、風に揺れる焔のように色合いを変える。
その姿を見て、ヴェレシュは
「我らが王の赦しは得た。だが、ヴァトラー……貴様、分かっているのか?
「決まっているじゃないか、アラダール……過去から、僕の願いは変わらない……ボクの望みは、ただ一つだけだ……」
ヴァトラーは獰猛な笑みを浮かべながら、人工島を見つめながら、明白な答えを告げた。
「戦争さ……!」