『断罪の海にて、声を拾う』   作:ぼくの友達

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夕暮れの公園は、薄紅色の空に包まれていた。
彼女は仕事帰りの足を少し緩め、舗道を歩いていた。
ベンチのひとつに、ひとりの女性が座っていた。
肩を落とし、空を見上げている。
その横には、折りたたまれた手紙が何通も並べられていた。
まるで、誰かに届かぬまま積もった思いのように。
風が吹いた。
一枚の手紙が、ふわりと舞い上がる。
彼女は反射的にそれを拾い、女性のもとへ歩み寄る。
手渡すと、女性は小さく頷いた。
「……ありがとう」
その声は、壊れかけたガラスのように、かすかに震えていた。
彼女は何も言わず、ただ静かにその場を離れた。
背後で、女性が手紙を握りしめて泣いている気配がした。
声は聞こえない。 けれど、空気が、涙の重さを含んでいた。
帰宅後。部屋の灯りをつけることなく、彼女はスマホを手に取った。SNSの画面に、冷たい言葉が並んでいた。
「人殺しメンヘラ、まだ生きてるの?」
指が、無意識に動く。
「同情する価値もない。自業自得」
その言葉を打ち込んだ瞬間、彼女の胸に何かが沈んだ。公園で見た女性の横顔が、ふと脳裏に浮かぶ。
あの震える声。あの手紙の重み。
彼女は、画面を見つめたまま、指を止めた。送信ボタンは、そこにある。
赦しとは、誰に向けられるべきものなのか。痛みとは、誰が測れるものなのか。彼女はスマホを伏せ、静かに目を閉じた。
夜の静けさが、彼女の心に問いかける。


『沈黙の手紙は、届かない』

――「人殺しメンヘラ、まだ生きてるの?」

 

 

ポストの中には、今日も何も届いていなかった。彼女は、ゆっくりと蓋を閉じると、アパートの階段を上がった。足音は、静かで、どこかためらいがちだった。手には、昨日書いたまま出せなかった手紙が握られている。

便箋は、少しだけ折れ曲がっていた。角が擦れて、紙の繊維がわずかにほつれていた。何度も開いては閉じ、書いては破り、書き直してはまた黙った。その繰り返しの中で、言葉はどんどん削られていった。

 

最初は、怒りだった。次に、悲しみだった。そして、最後には、ただ「伝えたい」という思いだけが残った。けれど、その思いを言葉にするたびに、何かがこぼれ落ちていった。

「ごめんね」「ありがとう」「さようなら」

どの言葉も、彼女の喉を通らなかった。声にしようとすると、胸の奥で何かが詰まった。だから、彼女は手紙を書いた。けれど、それすらも、投函できなかった。

便箋は、机の上で何度も折れ曲がった。書いては破り、書き直しては黙った。その繰り返しの中で、言葉は少しずつ削られていった。最後に残ったのは、宛名と、空白だけだった。

 

彼の死から、もう三年が経つ。彼女は、いまだにその理由を知らない。遺書はなかった。最後のLINEは、既読になったままだった。

その「既読」は、彼女にとって永遠の沈黙だった。返事のない問い。届かない声。そして、答えを求めることすら、彼女にはできなかった。

彼が何を思っていたのか。何に苦しんでいたのか。彼女が何を見落としていたのか。

そのすべてが、手紙の余白に沈んでいた。そして、ポストの前で立ち尽くす彼女の手の中に、今も残っていた。

 

彼女は、彼の部屋に残された本の間から、自分が書いた手紙を見つけた。それは、彼に渡すつもりだった。けれど、言葉にする勇気が出なかった。タイミングを逃し、封を切られぬまま、彼の本棚に紛れ込んだままだった。

便箋の折り目は、少しだけ擦れていた。インクは、ところどころ滲んでいた。「あなたがいなくなったら、私はどうなるんだろう」その一文から始める手紙が、彼の死後に見つかったことが、彼女を壊した。

まるで、自分の言葉が彼を追い詰めたかのように思えた。まるで、その問いが、答えを強いたかのように感じられた。

 

SNSでは、彼の死の原因を探す声が飛び交った。

「彼女が病んでたらしい」「重すぎて、逃げたんだろ」「メンヘラに捕まった男の末路」

それらの言葉は、彼女の名前を知らず、顔も知らず、ただ憶測と悪意で綴られていた。けれど、その言葉は、彼女の胸に突き刺さった。まるで、彼の死を「誰かのせい」にしなければ気が済まないかのように。まるで、沈黙している者にこそ、最も重い責任があるかのように。

 

彼女は、何も言わなかった。言えば、すべてが「言い訳」になる気がした。「違う」と言うことも、「そんなつもりじゃなかった」と言うことも、どれも彼の死を利用しているように思えた。

言葉を持たないことでしか、自分を守れなかった。けれど、その沈黙は、彼を殺したと断じられた。

「助けられなかったくせに、悲劇のヒロインぶるな」「お前が追い詰めたんだろ」

SNSのコメント欄に並ぶ言葉は、彼女の沈黙を「罪」として扱った。語らないことは、隠していること。泣くことは、演技。

彼女は、画面を閉じた。けれど、言葉は閉じられなかった。それらは、彼女の中に染み込み、皮膚の内側で疼き続けた。

彼の死の理由を、彼女は知らない。けれど、誰かの「物語」の中で、彼女はすでに犯人にされていた。沈黙は、彼女を守らなかった。それでも、彼女は語らなかった。

 

彼女は、今も精神科に通っている。診察室の時計の針は、いつもゆっくりと回っていた。薬の副作用で、朝がうまく起きられない。目覚ましの音は、遠くで鳴っているように聞こえる。身体は重く、夢と現実の境界が曖昧になる。

夜になると、彼の声が聞こえる気がする。

「大丈夫だよ」「君のせいじゃない」

その声は、優しくて、静かだった。まるで、彼が隣に座っているかのように。まるで、彼がまだ生きているかのように。

けれど、その声が本当に彼のものだったのか、もう確かめる術はない。彼は、もういない。遺書も残さず、最後のLINEは既読のまま。彼女の問いは、誰にも届かなかった。

その声は、彼女の記憶が生み出したものかもしれない。あるいは、罪悪感が形を変えて囁いているのかもしれない。それでも、彼女はその声にすがるしかなかった。

「君のせいじゃない」その言葉だけが、彼女を今日へと繋ぎとめていた。それが幻でも、嘘でも、彼女にとっては、唯一の救いだった。

 

彼女は、今日もまた手紙を書く。宛先のない手紙。封筒には名前も住所も書かれていない。それでも、彼女は書かずにはいられなかった。

「ごめんね」「ありがとう」「さようなら」

そのどれもが、声にはならなかった。だから、彼女は紙に託した。便箋は、何度も折り直され、インクの跡が重なっていた。届かないことを知りながら、それでも書く。それは、祈りでもなく、償いでもなく、ただ「生きている証」だった。

そして、今日もまた、コメント欄に新しい言葉が書き込まれる。

 

 

彼と初めて会ったのは、図書館だった。午後の光が、窓辺の机を静かに照らしていた。彼女が借りようとした本を、彼が先に手に取った。その瞬間、彼女は一歩引いた。いつものように、誰かに先を越されることに慣れていたから。

けれど、彼は本を手にしたまま、彼女の方を見た。「読みたかったんですか?」

その問いに、彼女は少しだけ戸惑って、そして答えた。「……いえ、どうぞ」

彼は、ほんの少し微笑んで、本を差し出した。「じゃあ、次に借ります」

そのやりとりが、彼女にとっては奇跡のようだった。誰かに譲られることも、誰かに気づかれることも、彼女の人生にはほとんどなかった。

彼の声は、静かで、あたたかかった。その一言が、彼女の中に小さな灯をともした。それは、誰かと世界を分かち合えるかもしれないという希望だった。

彼女は、その本を手に取りながら、ページの重みよりも、言葉の余韻を感じていた。それが、彼との始まりだった。

 

彼は、静かな人だった。話すときは、少しだけ間を置いた。言葉を選ぶようにしていた。その沈黙は、空白ではなく、思考の余白だった。彼女は、その間に、責めではなく配慮を感じた。

誰かといて、黙っていても責められないこと。それは、彼女にとって初めての体験だった。これまでの沈黙は、気まずさか、拒絶か、無関心の証だった。けれど、彼の沈黙は違った。それは、彼女の存在を認めたうえで、言葉を急がない優しさだった。

彼女は、彼の隣で静かに座ることができた。何も話さなくても、何かが通じている気がした。その時間は、言葉よりも深く、彼女の心に染み込んでいった。

彼の声は、少ない。けれど、その少なさが、彼女には心地よかった。それは、彼女の沈黙を責めない人の声だった。そして、彼女の沈黙に寄り添う人の気配だった。

 

彼は、アイドルだった彼女のことを「特別」とは言わなかった。ファンのように熱狂することもなく、憧れのように距離を置くこともなかった。ただ、彼は静かに言った。

「君は、よく笑うね」「でも、目が笑ってないときがある」

その言葉に、彼女は泣いた。誰にも気づかれなかった仮面の裏。ステージの上で、完璧な笑顔を貼りつけていた日々。「笑っていれば、傷つかない」と信じていた自分。

彼だけが、それを見抜いた。彼だけが、彼女の沈黙に耳を澄ませた。

交際は、静かに始まった。告白もなかった。約束もなかった。ただ、彼女が彼の隣に座り、彼がそれを受け入れた。

静かに続いた日々。言葉は少なく、沈黙は多かった。けれど、その沈黙は、彼女にとって安心だった。誰かといて、黙っていても責められないこと。それは、彼女にとって初めての体験だった。

 

彼女は、彼にだけ手紙を書いた。それは、誰にも見せない、誰にも渡さない、彼だけに向けた言葉だった。「あなたがいると、世界が少しだけ優しく見える」「私が壊れても、あなたは見捨てない気がする」

その言葉は、彼女の中で何度も書き直され、何度もためらわれた。けれど、最終的に封をして、彼に渡した。彼は、手紙を読んで、何も言わなかった。返事も、感想も、慰めもなかった。

けれど、次に会ったとき、彼は彼女の手を握った。言葉ではなく、温度で応えた。その手の温度が、彼女の心を繋ぎ止めていた。

それは、「わかっているよ」という沈黙だった。それは、「ここにいるよ」という証だった。彼女は、涙を流さなかった。けれど、胸の奥で何かがほどけていくのを感じた。

彼の沈黙は、拒絶ではなかった。それは、彼女の言葉を受け止めた者だけが持つ静けさだった。そして、彼女の「壊れそうな部分」に触れても、壊さない人の手だった。

 

けれど、彼には誰にも言えない苦しみがあった。妹の存在。家庭の重圧。「妹の成功が、いつか僕を潰す」

そう言った夜、彼は泣いた。声を殺して、肩を震わせて、彼女の前で初めて、仮面を外した。

彼女は、何も言えなかった。慰めの言葉も、共感の言葉も、どれも彼を壊してしまう気がした。

彼の痛みは、言葉にすれば崩れてしまうほど繊細だった。触れれば砕ける硝子のように、彼の沈黙は、彼女にとって祈りのように尊かった。

だから彼女は、ただ隣にいた。手を伸ばすこともなく、目を逸らすこともなく、彼の沈黙に耳を澄ませていた。

家族という名の期待。「優秀な妹」と「比較される兄」。その構造の中で、彼はずっと自分を見失っていた。

彼女は、彼の涙を忘れなかった。それは、彼が初めて見せた「壊れそうな部分」だった。そして、彼女が初めて「守りたい」と思ったものだった。

 

彼が死んだのは、春の終わりだった。街路樹の若葉が、風に揺れていた。遺書はなかった。彼女は、最後に送った手紙を、彼の部屋で見つけた。

「あなたがいなくなったら、私はどうなるんだろう」

その一文は、彼女の心の奥から絞り出されたものだった。不安と依存と、微かな祈りが混ざった言葉。それは、彼に届いた。けれど、彼がそれにどう応えたのか、彼女にはわからなかった。

彼の死後、その手紙は「証拠」として扱われた。重い内容の手紙が、彼の死の理由だと断じられた。SNSでは、彼女が原因だと騒がれた。

「重すぎたんだろ」「メンヘラに捕まった男の末路」「依存されて逃げられなかったんだな」

その言葉は、彼女の名前も知らず、顔も知らず、ただ憶測と悪意で綴られていた。けれど、それらは確かに彼女に届いた。まるで、彼の死を「誰かのせい」にしなければ気が済まないかのように。まるで、沈黙している者にこそ、最も重い責任があるかのように。

彼女は、何も言わなかった。

 

沈黙は、彼女の最後の愛だった。語らないことで、彼の痛みを守ろうとした。けれど、その沈黙は、断罪された。

「人殺しメンヘラ」「まだ生きてるの?」

彼女は、今日も手紙を書く。宛先のない手紙。封筒には名前も住所も書かれていない。それでも、彼女は書かずにはいられなかった。

それは、彼への赦しではなかった。彼女自身への問いかけだった。「私は、あなたを壊したの?」

その問いは、便箋の余白に沈んでいた。誰にも見せられず、誰にも読まれず、それでも、彼女の手の中で確かに息をしていた。

その問いに、誰も答えてくれない。彼はもういない。彼の家族は沈黙している。友人たちは距離を置いた。SNSは、断罪の言葉で埋め尽くされた。

だから、彼女は沈黙する。語れば、すべてが「言い訳」になる。泣けば、「演技」と言われる。謝れば、「罪の告白」とされる。

沈黙は、彼女に残された唯一の誠実だった。それは、彼の沈黙に寄り添うための選択だった。彼が何も言わずに去ったように、彼女もまた、何も言わずに残ることを選んだ。

 

 

その日、彼女は駅前の書店に立ち寄った。手紙を書くための便箋を探していた。棚の隅に、淡い青の封筒が並んでいた。光を吸い込むような、静かな色だった。

彼女がそれを手に取った瞬間、隣に立つ女性の視線を感じた。肩あたりに整えられた髪。控えめな服装。けれど、その横顔には、どこか見覚えがあった。

テレビの中で見たことがある気がした。あるいは、ニュースの見出しで。画面越しの表情。沈黙の中で語られる誰かの過去。

彼女は、封筒を握ったまま、そっと視線を逸らした。その女性は、何も言わなかった。ただ、棚の便箋を見つめていた。

二人の間には、言葉はなかった。けれど、沈黙の気配が、何かを共有していた。痛みかもしれない。喪失かもしれない。

 

彼女は、視線を落とし、淡い青の封筒をレジに持っていった。

背後で、女性は動かなかった。棚の便箋を見つめたまま、静かに立っていた。二人の間には、言葉はなかった。けれど、沈黙の気配だけが、確かにそこにあった。

 

 

帰宅後、彼女はスマホを開いた。SNSには、見覚えのある名前が並んでいた。「元アイドル、地方で目撃情報」「過去の炎上、今も尾を引く」

その見出しは、彼女の存在を「話題」として消費していた。彼女の過去は、誰かの娯楽になっていた。そして、コメント欄には、罵倒が並んでいた。

「疫病神」「消えたと思ったら、まだ生きてたのか」「誰も望んでないのに、また出てきた」

 

彼女は、その名前を見つめた。そして、ふと記憶が蘇った。彼の部屋で見つけた、妹の写真。「妹もアイドルなんだ」「すごく頑張ってる」

彼は、妹のことを誇りに思っていた。けれど、その誇りが、彼を追い詰めていたことも、彼女は知っていた。

 

彼女は、スマホの画面に指を伸ばした。コメント欄に、何かを書こうとした。けれど、指は止まった。その言葉が、誰かを守ることになるのか。それとも、誰かを傷つけることになるのか。

彼女は、画面を閉じた。沈黙を選んだ。

それは、逃げではなかった。彼女にとって、沈黙は「語られなかった愛」の形だった。彼の死を、誰かの責任にしないための、最後の誠実だった。

 

 

夜、彼女は手紙を書いた。「今日、あなたの妹の柚希さんを見かけました」「何も言えなかったけれど、あなたが守ろうとしたものが、そこにありました」「私は、まだ生きています」「それが、あなたへの答えになるかは、わからないけれど」

その言葉は、誰にも届かない。けれど、彼女自身の中では、確かに響いていた。それは、赦しではなく、報告でもなく、ただ「生きていること」を記すための手紙だった。

彼女は、その手紙を封筒に入れ、机の引き出しにしまった。投函するつもりはなかった。それは、彼女自身のための手紙だった。誰にも読まれないまま、彼女の沈黙を支える言葉だった。

そして、今日もまた、コメント欄に新しい言葉が書き込まれる。

――「人殺しメンヘラ、まだ生きてるの?」

彼女は、その言葉を見つめた。画面の光が、彼女の顔を照らしていた。

その言葉は、誰が言い始めたのか知る由もない。けれど、断罪だけは、確かに届いた。




ここまで読んでくださりありがとうございます。
人に優しく、ブルーハーツを思い出します。
歌唱や文章、デザインや映像、様々な媒体で想いを伝える。
伝わるように表現できる方々を心底尊敬します。

読んでくださる方が何かしら得られるものがあるような、そんな文章を目指したいです。
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