「ーーくくく。
まこと、憐れは家畜どもよ」
なにが可笑しい、と睨みつける俺に……アジョラはその両腕を広げてみせた。
血のごとき紅の天からは、今にも滴り落ちそうな赤光が注ぐ。
「この時代ではーーグレバドス教と伝わるか。
……唱える神の御名は聖天使アルテマ。
そして。神の御子の名は、聖アジョラ。
ーーこの私だ」
吸収した鮮血を、ふたたびその掌中へと浮き上がらせ。
その赤い泉の先ーーほんの一撫でで、大地で血に塗れる俺たちへと視線を移して。ニヤリと笑う。
「実に滑稽だな。
……お前たち、家畜どもがずっと崇めていた神の正体とはーーその偉大なる復活に。
他でもない、お前たち家畜どもの絶望と悲憤……そして血涙の大海こそを、贄として必要としていた。
そして神の御子たる私もーーその身、その血肉、その器を捧げる家畜だけを。求めていたのだ」
みな。祭りの日に捧げられる、祭壇の羊に過ぎぬ。
ゆえに。お前たちは生贄であって、信者ではない。
アジョラは笑みを深めーーその結論を口にした。
「お前たち家畜に……神はいない」
その通告はーーもはや疑いようもない、明白な現実でしかなかった。
酸鼻な戦場へ、沈黙が降りる。
もはや苦痛の呻きすら漏れずーー復活を遂げた神の御子より、まざまざと眼前へ突きつけられた真実に……信仰の対象を失い、また信仰そのものを剥奪された民たちは。
返す言葉もなく、ただ放心する。
その虚ろな瞳を埋め尽くしているのはーー圧倒的なまでの無為。そして徒労。
ただ、それだけだった。
「……師匠……」
再び立ち上がる気力を失ったティータが、すがるような瞳を向けてくる。
俺は。
同意ではなくーー否定の頷きを、ひとつだけ返した。
膝をつき傷を押さえるまま、聖アジョラへと向き直る。
「……いや。
家畜にーー神はいる」
静かな俺の反駁は、信仰なき静寂へ響き渡った。
……まさか反論があるとは思わなかったのだろう。
アルマの顔で可笑しげに片眉を上げ、聖人は下問する。
「ほう。ーーなんだ?
もしや……大勢を死の運命から救った、お前こそが。
家畜どもの神だとでもーー名乗るつもりか?」
アジョラは愉快そうな顔で、眼下に転がる生贄たちーー俺が死の運命をねじ曲げた人々を見下ろす。
……こいつ。
『狭間』から俺の動きを見ていやがったな。
「違う。ーー俺はそこまで傲慢じゃない」
俺は神様なんかじゃない。
ただ自身の生存を願う、ごくありふれた人間に過ぎない。
未来を知り、大勢の人の運命を変えながら。
それでも神を名乗らない俺をーーアジョラは訳知り顔で眺めている。
「ほう。人の子は神を名乗らぬか。
まこと謙虚で結構なことだ。それでこそ、取るに足らぬ人の身の分を弁えているというものよ。
ーーしかしそれではどうする?
どうやって、家畜の神の存在を証明するのだ?」
アジョラが口にしているのはーーいわゆる悪魔の証明だ。
いないものは証明できない。
存在を証明したければ……この場に連れてくるしかない。
しかしそれは不可能である。
「神はいる。
ーー単にお前が、知らないだけさ」
その俺の返答に、とうとうアジョラは笑い出した。
「ーーふふ。ふはははははッ!
神を知り!その神との合一を果たした!この私が言っているのだぞ!?
私が永く身を置いた、この世ならざる『狭間』にさえ!お前たち人間に味方しようという、物好きな神はただの一柱も居らぬのだ!
もう一度断言しよう! 家畜に神はいないッ!」
神と崇めていたものの正体はすべてルカヴィだと。
人を自身の復活の糧としか思わぬ悪魔しか存在せぬと。
そう、聖アジョラは保証する。
「いいやーー家畜に神はいる」
しかし。言下に否定した俺をーーアジョラはもはや、可哀想な相手へ向ける目で見やる。
「……ほお。なるほど。つまりそれは……お前の妄想の産物だな?
お前が『こんな優しい神様が居たらいい、居て欲しい』。そう願うだけのーー架空の存在ということだな?」
救世主願望に取り憑かれた、頭のおかしくなった信仰者気取り。
その。狂人とみなす目をーー俺は真っ向から見返す。
「違う。俺の妄想でも架空でもない。
その家畜の神の名はーー世の全ての人が知っている」
「なに……?」
今や、場を埋め尽くす沈黙はーー放心の絶望ばかりではない。
眉を上げるアジョラへと。俺はさらに言い募る。
「そして。
その神の御名はーー唱えるだけで力を与えてくれる」
「……は……?」
今度こそ理解できないといった顔で、アジョラは俺を見た。
「…………」
背後から漂う雰囲気も、もはや困惑の一色だ。
聖者に神を否定され。信仰を否定され。浮世の家畜扱いしかされていない現実を突きつけられ。その絶望の中で、それでも神はいると。もはや到底信じられぬ事を言われ。さらにその神の名は皆が知っていると言われ。神の名を唱えるだけで力が得られると言われ。
もう何者も信じられなくなっていることだろう。
俺が何を言っているのか誰一人解らないだろう。
ーーしかし。
この場の皆が。俺の言葉へ……耳を傾けている。
「ーーふ。ふは、ふはははははッ!
ならば教えてみよ! その皆が知る、神の名をッ!
そして唱えてみよ! 御力を賜れる、神の名をッ!」
アジョラは水平に腕を振り抜き、その解を求めた。
俺は背後……階段下に倒れる仲間たちへ振り向き。
ーーひとつだけ、お願いをする。
「ーーみんな。
これから、俺が。……その神様の名前を言うから。
神様の名前を思い出したらーーどうか皆も呼んでくれ」
神の名を。
……皆からの返答は待たず。
俺は、階段上のアジョラへと顔を戻し。
痛む身体に、大きく息を吸い込んで。
ーーその『神名』を口にする。
* * *
「ーー畜生ォォォォォォォォォォッ!!」
* * *
王宮前を風が吹き過ぎる。
は……?
理解不能といったアジョラの呟きが通り過ぎた後は、再び沈黙が落ちた。
誰もーー何も、動かなかった。
しかし。……しばらく経ってから、ぷっ。と吹き出す音がする。
あの声はーーダイスダーグか。
堪える笑いに嗚咽しながら、息を吸い込む音が続く。
「ーーチクショオオオオオオオォッ!!」
笑い混じりのその絶叫が響いてからはーー皆の反応は早かった。
「ちくしょおおおおおおおおぉッ!!」
「チックショオオオオオオオォッ!!」
「畜生ふざけんなあああああぁッ!!」
「畜生なめやがってええええぇッ!!」
「バカにしてんじゃねえええぇッ!!」
「この化け物めええええええぇッ!!」
「何が神だああああああああぁッ!!」
ーーさっきまでの意気阻喪はどこへやら。
思い思いに叫び始めた人間どもを、アジョラは信じられない様子で見つめている。
そして首を振る。
「いやーーいや。違うだろう?
これは、神の名などではない。断じてない」
「ーーみなが知っている神の名だ。
その証拠に……」
俺は背後を指し示す。
階段下では。怒りに任せ吠え散らかした戦士たちが、ふたたびーー次々と立ち上がっている。
「……この通り。
神の御名を唱えただけでーーみなが力を取り戻している」
「違う! こんなものは神ではない!
神とは、もっとーーそう! この私だ!
この私こそが!唯一絶対の!神なのだッ!」
神の定義を認めぬ悪魔が、他者の信仰を否定する。
俺はあきれ、教えてやる。
「……わかってないな。
神様ッてのはーー御利益(ごりやく)があるモンだろう?」
「なにィーー!?」
皆が親しくその名を口にでき。
その名を唱えるだけで、再び元気が湧いてくる。
けして人を犠牲になんてしない。
「そういうのを神様っていうんだよッ!
つまり!聖天使アルテマ!ーーお前は、神じゃないッ!」
「ッーー!?」
俺の指弾にたじろいだアジョラを前に。
神様の御利益があることを、俺も証明してみせる。
全身の痛みをこらえーーゆっくりと立ち上がる。
片手でも使えそうな武器ーー衛兵のものか、足元に転がる自動弓を拾い上げる。
胸いっぱいに息を吸い込んで、……その運命へ否を唱える。
「……松野ォォォォォォォォォォッ!」
俺の咆哮に……アジョラはたたらを踏み。
"えっ自分松野じゃないです"みたいな顔をした。
その時ーー俺とティータの間を、誰かが走り抜けていった。
傷ついた身体に巻く包帯を赤く滲ませ……今にも崩れ落ちそうな身体を持ち上げ。
階段を舐めるように低姿勢で走るその後ろ姿はーー背のマントの赤獅子紋で知れた。
聖騎士ザルバッグーー北天騎士団長だ。
「……ザルバッグ様!?」
騎士団公邸で重傷に倒れているはずの男はーーずっとこの機を伺っていたのか。
「ーーうおおおおおおおッ!!」
凶行の主たる妹へと走り寄り。驚きの表情から反射的に放たれる黒羽根の猛射を浴び、なお止まらず。勢いのまま階段上へ身を投げ出すと。
そのまま兄はーー灰髪金瞳、有翼の異人に変じた妹へと……抱きついた。
「……なっ!? 何をするっ!?」
長身のザルバッグはそのまま妹より長い手足を絡め、一切の動きを封じてしまう。
背の黒翼が迷うように揺れる。脆弱な己が身を巻き込むために、もう黒羽根も撃ち込めない。
血まみれの顔を。彼方の俺へ振り向けてーー北天騎士団長ザルバッグは叫んだ。
「構わんッ! やれッ!
ーーアルガスッ!」
その言葉とともに。ーー俺の時間は、停止する。
脳裏に時間は巻き戻る。人質を盾にした賊が叫ぶ、雪降る岬ーージークデン砦に。
ーー幾度となく、その命に従うさまを、見過ごしてきた光景だった。
アルガスは忠実に、与えられた命を果たし続けてきた。
そして今またーー命が下された。
「ッ…………!!」
兄は妹の凶行の責任を取り。自分ごと撃てとーー命じているのだ。
“ここまで変異してしまってはーーこれだけの事態を起こしては。
アルマはもう、助からない”
脳裏に計算高い誰かがささやく。
“ザルバッグは兄としてーーその責任を。
その結末を、受け入れている”
自動弓を握る人差し指に力が籠もる。
諦めて受け入れ、ジークデンの悲劇を今一度再現しようとする腕を……俺は止める。
ーーだが。本当にいいのか?
ーーここで撃ってしまっては、今までと何も変わらないじゃないか?
ーーけれど。それなら、俺はどうすればいい?
ーー多を救うため少を切り捨てる。やらなければ、次に犠牲になるのは俺たちだ。
ーーそれができないのなら。やはり俺も、ラムザのように……
その俺の逡巡は……一瞬だけで済んでくれた。
「ーーアルガス」
背後から。
戦場にありながら一切の感情を感じさせぬーーその平板な声が響き。
俺が振り返ると同時に……回転して飛来した何かが。
握りしめる自動弓を弾き飛ばしーーそして、俺の手中に収まった。
軽い身頃。光る刀身。その反り刃の大剣を受け取って、俺は数歩よろめく。
左肩へ深い傷を負う今の俺。右手一本では、とても扱えない剣だった。
「ーー師匠」
満身創痍だったはずのティータが立ち上がり。その俺の傷を庇うように左側から寄り添うと、その小さな手を添えた。
俺の手とティータの手。二本の手が握りしめる白銀の刃はーーもはや、微塵の震えもない。
ーー俺はけして、神ではないけれど。
ーー俺が死から逃がし得た人たちが……俺を助けてくれるんだ。
俺はティータと頷き交わしーー彼方の北天騎士団長へ、命令承諾を告げる。
「ーーハッ!!」
……傷ついた足で、同時に石段を蹴り。
……俺たちは大階段の直上目掛け、飛び出してゆく。
「やーーやめろ……! その剣は……ッ!」
……驚愕の表情の聖女と。その抱擁を求める聖騎士が。ぐんと視界に迫る。
……もはや一片の躊躇いもなくーー俺たちは、握りしめた刃を突き立てる。
「「ーーはああああああああッ!!」」
突き出した刃はーー易々とザルバッグの背を貫き。
そして抱きしめる聖アジョラの心臓をも、ごくあっさりと貫き通した。
勢い余って少女の背より飛び出す白銀の刃はーー灰色の後髪を割って飛び出す。
その刃先には……何かが貫かれているのが見えた。
「うあああああああああッ!?」
その甲高い悲鳴は、アジョラ一人のもの。
全身に走る衝撃に大きくのけぞって……そして力を失うアルマの身体。
白銀の刃ーー斬魔刀の先に、貫通されたそれは。
少女の髪の灰色を吸うように凝集し、少女の瞳の金色を持ち去るように呑み込んで……
……やがて宙に。もがくような灰色の人影を一瞬残すとーー破魔の光にかき消えた。
“モット……チカラ……ヲ……”
最後に響いた言葉は。
ーー何も信じぬ、己しか信じぬ、神ゆえの言葉か。
頭上に赤く渦巻く雲は消え、空が青さを取り戻してゆく。
木々のざわめき、草々の息吹が甦ってゆく。
破壊された王宮前にーーふたたび空から光が差し込む。
ウオオオオオーー!!!
ーーごくちっぽけな人の子の、勝利を確信し。
歓声に沸き返る階段下から……二人の勇者が駆け上がってくる。
「アルマ様ッ!」「アルマッ! 兄さんッ!」
俺は……力を失う手を苦労して引き剥がし、二人を貫くままの聖刃をようやく引き抜いた。
ーー斬魔刀は、悪しきもののみ貫く刃。
抱き合ったまま気を失う二人には。胴体を刺し貫くも、傷ひとつつけてはいない。
ラムザとディリータが駆け寄って、ザルバッグとアルマへ重なるように抱きついた。
……これでようやく倒れられる。
意識のない二人を支え続けていた俺とティータは、そのままずるずるとへたりこむ。
その時。ぐらり、と視界が傾く。
ここまでの無理に加え、肩の重傷。ーー俺ももう限界だったらしい。
あ、れ……。
意識、が……もう……。
霞む視界。
俺の胸に縋りつき、大粒の涙を浮かべながら、ティータが震え声で喚き散らす。
「ーーいやぁッ! 師匠ッ! ダメですよッ!
集めた聖石、全部使って!ーーわたしに結婚指輪つくるって!
約束してッ! 下さいよぉッ!」
「……おまえ指12本あるの……?」
……多指症なの……?
続く言葉は。遠ざかる意識の闇にーー霞んで消えた。
* * *
ーーあれから数十年が過ぎた。
無事にシナリオを。そして、聖者アジョラとの最終決戦までもを生き延びた俺は。
アルガス・サダルファスとしての余生を生きーーそして天寿を全うした。
ーーそのはず、だった。
「おや……? ここは……?」
末期の床に、思い残すことなく安心して目を瞑ったはずが。
瞼の奥に弾ける光にーーふたたび、もう二度と開くはずのない目を開いてみる。
……そこはほの暗い地下室だった。
目の前の書き物机には、じりじりと油煙をあげる燈明。
傍らの筆写台へ広げられているのは、古い羊皮紙。
そして机の上にはーーまっさらな原稿が、書き込まれる文字を今か今かと待っていた。
インク壺にささる羽ペンを、俺は指で弾く。
そして筆写台の羊皮紙……長い長い巻物の、その表紙に記された題名を覗いてみて。
「……はっはぁ〜ん」
改めて自分の背格好を見下ろしーー俺は、深く納得した。
机上の羽ペンを取り。原稿にインクを派手に飛び散らせつつ。猛然と、書き始める。
ーーどうやら。
俺には、最後のおつとめがーーまだ残っていたらしい。