田中リリス(582歳) 作:オクタマ共和国宣伝省
高度三万フィート、専用装備なしで上がってこれる最高高度。ここから見ると、彼方の水平線が僅かに弧を描いていることが分かる。そう、地球は丸いのだ。
ここは静かだ。音がしないという意味ではない。地球の肌を撫でるように吹き続ける偏西風は、常に唸るような響きを立てている。両足のジェットも喧しいことこの上ない。音以外にも肌を刺す寒さや、突き刺さる強烈な紫外線があって、五感への刺激は地上よりも激しいくらいだ。
けれど、ここには俺以外には誰もいない。ここは真の孤独の世界だった。空の高みにいる時だけが、心の安らぐ時間だった。
常よりも少しだけ近づいた太陽の光を浴びながら、ただぼんやりする。浮かんでくる思考を気まぐれに追いかけながら、ただ時間が過ぎるのに身をゆだねる。それが、ここでのいつもの過ごし方だ。
……不意に「一体なんでこんなことをしているんだったっけ?」という問いが脳裏を過ぎった。決まってる、仕事が面倒くさくなったからだろう。ただのサボりだ。いや、そうじゃない、もっと深いところの話だ。空にいる理由、空を目指す理由、それがあったはずだ。ここで安らぐ理由が。それについて考えたい。
スリル? 冒険心? 違う。それは後から見つけたんだ。この思いと憧れはどこからやってきた? 始まりはどこにある?
思考を追いかけ続ける内に、脳裏に一つのビジョンが浮かび上がってくる。それは幼い頃の記憶。両親が死んで、葬式を済ませて、何日か経った頃、縁側に座り込んでボケーっと庭園を見つめていた時の記憶だ。
確か、父さんが最期に言っていたことの意味が分からなくて、頭を捻っていたような気がする。
「ゼフ君。なにをしてるの?」
リリス様の声だ。そうだ、この時はリリス様がいた。
「……分からないです。分かりたいです」
そうだ、確かそんな風に聞かれて、そんな風に返した。そしてこんな風に聞いたはずだ。庭園を見つめたまま。
「リリス様は知っていますか? 父さんと母さんが、どこにいったのか? もう一月も帰ってないんです」
「……ゼフ君。二人はね、天国に行ったんだよ。だから、もう帰ってこないんだ」
「天国ってどこにありますか? 早く迎えに行かなきゃいけないんです。だってセリメは、まだ赤ちゃんで、一人じゃ寝れないから。今は僕が母さんの代わりに一緒の部屋で寝てあげてるけど、僕はもう一人で眠れるから、一人で寝ないといけないんです」
沈黙がしばらく続いた。
「天国はね、空の、とってもとっても、高いところにあるんだよ。だから、行けないんだ」
「僕の羽じゃ、そこまで飛べませんか? リリス様、向こうの木、見えるでしょ? ほら、あの大きな木です。この間ね、僕あの木よりも高く飛んだんです。お父さんもお母さんもたくさん褒めてくれました。すごいでしょ? これでも、届きませんか?」
また、沈黙が続いた。何か呟くような声が聞こえて、でも聞き取れなくて。リリス様の声がする方を振り返ったら、リリス様はゆっくりとしゃがんで、僕の体に腕を回しました。そして抱きしめられたまま、優しく頭を撫でられました。
「ごめんね……ごめんね……。そうだね、羽が、あるんだもんね。でも、届かないよ。届かないの。誰も……」
リリス様の声は震えていました。
「大丈夫だよ、リリス様。それなら僕は、誰よりも高く飛べるようになるから」
リリス様の腕の力が強くなりました。しばらくそうして抱きしめられたまま過ごして、やがてリリス様が使用人たちに促されて帰っていって、気づいたら夜になって、僕はベッドに入りました。
向かいの壁際にベビーベッドがあって、そこに赤ん坊のセリメがいます。その隣にはメイドが一人いて、セリメを見守っていました。僕はなかなか寝付けなくて、寝返りを打った拍子に、薄く開いた瞼の向こうに、薄明りの下で静かな寝息を立てているセリメの顔が見えました。
その夜、僕は父さんと母さんが死んでから、初めて声をあげて泣きました。
……そうだ。そんなことがあったんだった。
そんなことがあったから、僕は、いや俺は、空を目指したんだ。空に近づいた時だけは、死と、誰かの気配を、風鳴りの向こう側に感じることができたから。
「……」
俺は、静かに息を吸って、吐いた。
「……隊長、雲の上で宇宙線浴も結構ですが、そろそろ仕事に戻ってください」
その時、風鳴りの音に満たされた高空の沈黙を、誰かの声が打ち破った。女の声だ。
声の主は俺を飛び越えて、空へと向けられた俺の視線を遮るように宙に浮かぶ。スツルルカだ。
「ルル、後五分だ」
「まだサボる気ですか? リリス様に言いつけてしまいますよ?」
「だからなんだ。ババアが何言おうが知ったこっちゃねぇよ」
スツルルカは「はー全く」とため息を吐く。俺を働かせたいってんなら、そんな安いセリフじゃ足りないぜ?
「ではこうしましょう。今すぐに降下して作戦に参加しないと、キラウ様に言いつけてしまいますよ」
「……そりゃあ怖ぇな」
「昨日もお城の厨房でつまみ食いをして「国賓の分際で乞食のような真似をするでない戯け者が! 恥を掻くのはわらわなのじゃぞ!」と怒らせてたじゃないですか。二日連続となったら、何を言われるか分かったもんじゃありませんよ」
「おお似てる似てる。今度ウナの前でやってみろよ、多分めっちゃウケるぜアイツ」
「隊長!」
ご立腹のスツルルカに「分かった分かった」と返しながら、俺は背面のまま急降下を開始する。雲を突き抜け、気圧の変化が耳元と目元に違和感を生じさせた。安らいだ世界を離れて、俺は地上世界の”空”へと舞い戻る。
「で、状況は?」
後方のスツルルカに問う。
「いつもの追い込み漁ですが、平均よりやや大柄な個体です。キルゾーン上空への誘導は完了しましたが、翼膜の破壊に失敗。部隊の全員を安全高度まで退避させました。対象はまだ元気に飛んでいます」
「なんだ弾切れかよ。予備弾倉ぐらい持ってけ」
「水平飛行で振り切れない敵を相手にしてるんです。少しでも軽くしたいじゃないですか。それに、そもそも隊長がサボらなければもう終わってましたよ」
「へいへい、んじゃ手早く片付けるとすっかね」
見下ろす世界には針葉樹の森が広がっている。軽く視線を巡らせて走査すると、赤黒い点が不規則に揺れているのが見えた。目を凝らす。羽の生えた恐竜の親戚のようなシルエットを確認。30メートル級のドラゴンだ。
「見つけた」
俺は高度三万フィートからの勢いそのまま、僅かに翼の角度を変えて進路を修正する。35ミリ砲を構え、照準輪の上方に赤黒い点を置いた。標的の側面に潜り込むラグパーシュート機動。見る見るうちに赤黒い点は大きくなり、地面も激しい圧と共に迫りくる。翼を広げて首を上げ、緩やかな旋回円に沿って引き起こしを始める。標的を照準輪より下方へ、リードパーシュートを維持。射撃開始。
交差の後、標的はすぐさま背後に過ぎ去っていく。三秒間の射撃を終え水平飛行に移り、身をひるがえして後方を確認すると、翼を引きちぎられたドラゴンが地表に墜落していく姿が見えた。
「よし、これで俺の仕事は終わりだな。後は見物と洒落込もうじゃねぇか」
言う間に、ドラゴンが大地に叩きつけられた。結構な高度から落ちたはずだが、奴は何でもないことのように起き上がってくる。空に向かって忌々し気に咆哮する姿を悠々と眺めていれば、地上で待機していたカイナ大公国の騎士たちが素早くドラゴンを包囲していくのが見えた。
「相変わらず無茶な飛び方をしますね、隊長。引き起こしなんて地上スレスレじゃないですか、いつかぶつかって死にますよ?」
「地面効果を知らねぇのか。見た目より揚力には余裕があんだよ。……それより見ろ、地べたの上じゃ大捕物だぜ?」
やっと追いついてきた鈍間な部下に講釈してやりながら、高見の見物を続ける。
ドラゴンが攻撃する度、騎士たちはバッタのように飛び去って紙一重でそれを躱していく。聞けば、マントに魔法で吹かした風を受けて凧の要領で飛んでいるらしい。器用な奴らだ。
遠方からでも巨大に見えるドラゴンが、ここからでは米粒のようにしか見えない人間に手玉に取られ、翻弄されている。やがてドラゴンも頭に血が上ってきたのか、その動きは激しく、大ぶりなものへと変わっていった。再び咆哮し、気に入らない羽虫を噛み殺そうと、頭から騎士の一人へと突っ込んでいった。
「おおっ、すげぇ!」
その騎士はドラゴンの牙をあっさりと躱し、素早くその懐に飛び込んだ。そして携えていた剣を喉元へ一突き。瞬間、ドラゴンの首から上が爆散する。
パイロブレード。先史時代に強化人間用に開発された対ミュータント用白兵戦装備だ。刀身の内部に空洞があり、ここに柄に装填した火薬の炸裂ガスを流し込んで、刀身表面の穴から一気に噴出させることでミュータントを内側から爆発四散させるという代物である。企画した奴も設計した奴も使ってる奴も全員狂ってるんじゃねぇかと思う。
「いやぁお見事お見事、いつ見ても大したもんだぜ? お前らのドラゴン狩り」
俺は地上に降り立ち、ドラゴンにとどめを刺した騎士の肩を叩く。
「全く以て困ったものだ。とどめを私たちに任せずにお前たちで殺す所まで処理することはできないのか? 毎度あんな化け物の相手をさせられるこっちの身にもなってくれ。命がいくつあっても足りやしない」
騎士は兜を外した。現れた顔は見慣れた公女様の騎士、ウナである。こいつも気楽になったもので、最初の頃とは違って口調も雑なら表情もいら立ちを隠していなかった。俺は思わず笑いながら返す。
「こっちだって大変なんだぜ? 水平飛行で振り切れねぇから、降下で相対速度を稼いで飛ばなきゃいけねぇ。すると交差する一瞬しか攻撃できねぇから、正確な照準ができなくなる。そもそも35ミリですら頭蓋骨を抜けねぇんだ。致命傷が狙えないなら、デカい的の翼だけを狙って叩き落して、とどめはそっちに任せんのが合理的なんだよ」
「正確な照準ができないのなら、敵が死ぬまでひたすら反復攻撃し続ければいいだろう。ショボいボディーブローでも1000発叩き込めば殺せる。それはドラゴンとて同じだ」
「生憎ウチの台所事情もそんなに余裕がなくってね、何せ日本列島を征服しちまったもんだから、どこの部隊も弾が足りねぇんだ。プラントはフル稼働してるらしいが、いつまで経っても届きゃしねぇ。でも弾が無かろうがドラゴンの駆除任務は続行しなきゃならねぇ。すると、お前らに頼るしかなくなっちまう訳だ。ほら、”それ”なら使ってもなくならねぇだろ?」
ウナは呆れたように眉を吊り上げた。
「情けない宗主国様だな。植民地人を働かせて恥ずかしくないのか?」
「正直メチャクチャ恥ずかしい。悪ぃな、征服した癖に守ってやれなくて」
やがてお互いに肩を竦め合い、苦笑が零れた。
斯くして今日の狩りは成功裏に終わった。が、北海道の地からドラゴンを駆逐するにはまだ時間が必要である。俺のカイナ大公国滞在は、もうしばらく続きそうだ。