鼓屋敷回はカット。
那田蜘蛛山編は年末年始スペシャルで毎日投稿です!
10.ひと月の逗留
次の任務――鼓屋敷にて、元・十二鬼月を討伐した炭治郎は、同期の雷の呼吸の使い手・我妻善逸と、屋敷で遭遇した我流の獣の呼吸の使い手・嘴平伊之助と共に、しばらくの間“藤の家”に身を寄せることになった。
任務の最中に負った傷に加え、任務後、互いの警戒心がぶつかった末に起きた小競り合い――その後始末も兼ねて、身体を休める必要があったからだ。
“藤の家”とは、藤の花の家紋を掲げる一族で、かつて鬼に命を救われたという由来を持つ。鬼殺隊に対し、医師の手配から衣食住の提供までを無償で担う、なくてはならない存在だ。
――――私と禰豆子が木箱から外に出ることになったのは、炭治郎たちが湯浴みを終え、食事を済ませ、ようやく布団に入ろうとしていた頃だった。
暗闇の中、ペチペチと頬を叩かれる感触に、意識が引き戻される。重たい瞼を持ち上げると、猫のように光る大きな瞳がすぐ目の前にあった。
禰豆子だ。
私が目を覚ましたのを確認すると、彼女は今度は扉をカリカリと引っかく。外に出たい、という分かりやすい意思表示だった。
もう夜中らしい。近くには炭治郎の気配と、炭治郎と同じように呼吸を使う、強い人間の気配が二つ。ぼんやりとした頭で思う。禰豆子は、もっと早く外に出たかっただろうに、私が起きるまで待っていてくれたのだ。
「外に出ていいよ」
私がそう促すと、禰豆子は静かに、けれど少し弾むような動きで箱を押し開けていく。
――直後。
「出たぁぁぁぁぁぁ!!」
一人分の甲高い悲鳴が夜気を切り裂いた。
続けて、ドタドタと走り回る音と襖が乱暴に開かれる音。
「禰豆子!」
炭治郎の声。その直後、「は?」という、間の抜けた声が重なる。
禰豆子が外に出て体を元の大きさに戻していくと同時に、私も箱から顔を出した。
「姉ちゃん!」
炭治郎がそう呼ぶ、その背後で――金髪の少年が、浴衣姿のまま雷に打たれたような顔で固まっている。布団の列に視線をやれば、左端では猪頭――嘴平伊之助が、何事もなかったかのように豪快ないびきをかいていた。
「姉ちゃんと禰豆子は俺の、」
炭治郎が紹介しようとした、その瞬間。
「炭治郎……」
低く、ドスのきいた声。
「お前、いいご身分だな」
「善逸?」
「こんな……こんな可愛い女の子たちを連れてたのか……!?毎日毎日……ウキウキ気分で旅してたのかぁぁ!!……俺の!俺の流した血を返せよぉぉぉ!!!」
悔しさを滲ませた叫びと共に、善逸は涙を飛ばす。
「俺はな!!俺はな!!お前がアハハのウフフで女の子たちとイチャつくために頑張ったわけじゃない!!変な猪にボコボコに殴られたんじゃねぇ!!」
「善逸、落ち着け!急に……どうしたんだ!」
必死に宥める炭治郎をよそに、善逸は近くに置いていた自分の刀を掴み――抜いた。
「それになぁぁ!!小さい女の子を
――覚悟ぉぉぉ!!
完全に暴走した善逸が、炭治郎に突撃する。
「………………収まるまで、箱の中に避難しておこう」
「ムー……」
不満げな声を漏らす禰豆子を連れ、私は再び箱の中へ退避した。
家中に響き渡る善逸の怒声。炭治郎の悲鳴。そして、ひたすら続くドタバタ音。
――翌日の夕方。
ようやく目を覚ました炭治郎の話によると、二人は疲労と怪我の痛みが限界に達し、ほぼ同時に意識を失ったらしい。そこから先の記憶は、きれいさっぱり無いとのことだった。
・
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そして、改めて――新たな仲間となった二人と自己紹介をすることになった。
私は顔に付けていた狐の面を、少しだけ持ち上げて頭へとずらす。
「……え、音もそうだけど、人間と変わらないよ!?」
「なんだその牙!鬼だろ!……かかってこい!ぶった斬ってやるぜ!!」
大げさな反応が同時に返ってきて、思わず肩の力が抜けた。騒がしくて、正直で、落ち着きがない。まるで弟が二人増えたみたいで、少し面白い。
「炭治郎のお姉さん!?」
炭治郎の血の繋がった姉だという昨夜の声は、どうやら耳に入っていなかったらしい。
初めて知った、という顔で驚く善逸は、尋常小学生よりも小さな私を年上のように呼ぶのが気まずいのか、禰豆子と同じく「灯麻希ちゃん」と呼んだ。
ちゃん付け、という予想外の呼び方に、思わず苦笑が漏れる。
続いて禰豆子のことを炭治郎が紹介すると、善逸の表情が一気に崩れた。分かりやすく、だらしない顔だ。
「昨日のことはどうも、すみませんでした!お
突然の呼び名に、炭治郎はどう返すべきか分からず、完全に言葉を失っている。
「お前ら、俺の子分になれ!そして、親分と呼べ!」
開口一番、こちらを
禰豆子は意味が分からないまま、こてんと首を傾げていた。
「よろしく、伊之助くん」
私はそう言って、ただ笑う。
すると彼は、拍子抜けしたように、きょとんとした顔をしていた。
そして、炭治郎たちは三人揃って肋骨を折っていた。
炭治郎が一本。
善逸が二本。
伊之助に至っては、四本。
触診と呼吸の乱れで、おおよその状態は分かる。私は迷わず、“癒血”で治すことを提案した――けれど。
炭治郎は、即座に首を横に振った。
「俺は一番軽い怪我だから。姉ちゃんを無理させるわけにはいかない」
……嗅覚で、私の消耗を正確に感じ取っているのだろう。心配をかけてしまったことが、胸の奥でちくりと痛んだ。
続いて、善逸。
「治ったら休養なくなるから嫌だ!!」
全力の拒否に、(……そう言うと思ったよ)と心の中でため息をつく。
私は「半分だけ治す」という妥協案を提示し、結局は休養が必要になることを丁寧に説明した。
善逸はしばらく唸った末、ようやく観念する。
そして、伊之助。彼も同じく拒否をした。
「俺は強いからいらねえ!すぐ治せる!!」
胸を張って言い切る彼に、私は感情を挟まず、事実だけを淡々と並べた。
「自然治癒なら、一ヶ月は動けないよ。
炭治郎は二週間以内に回復するだろうから、その分、修行も任務も多くこなせる……伊之助くんは、その姿を布団の中で眺めることになるね」
「鬼がいる!」
思わず、善逸が真実を口にする。
伊之助は「ぐぬぬ……」と歯を食いしばり、悔しそうに眉を寄せたあと、渋々、私の血鬼術を受け入れた。
こうして、善逸と伊之助は
休養期間は、炭治郎が二週間。善逸と伊之助が三週間弱。
けれど、十日も経たぬうちに――炭治郎は、もう修行場に立っていた。
「俺も、ヒノカミ神楽を……使えるようになりたい」
静かな夕暮れの庭先。日が差し込まないよう戸は閉められているが、虫の声と、ひんやりとした空気の匂いが、確かに刻の移ろいを告げていた。
汗を拭いながらこちらを見る炭治郎の瞳は、焚き火のような熱を宿している。戦いの中で、自分が強くなったと実感し――さらに先を求めている目だ。
「そうだね。肺も筋力も、前より確実に強くなってる……次の段階に入ろうか」
私は自然と頷いていた。弟の言葉は、こちらが用意していた指導の段階と、ぴたりと重なっていたからだ。
「よし。まずは――“全集中の呼吸”を、常にできるようになろう」
「え………」
一瞬、炭治郎の顔に、素っ頓狂なほどの戸惑いが浮かぶ。
「朝から夜まで。寝ている間も、ずっと“全集中の呼吸”を続けるんだよ」
「そんなこと、できるの……!?少し使うだけでも、かなりきついのに……それを四六時中……!」
「必ずできるようになる。今の身体なら、死にはしないから」
炭治郎は言葉を失い、目を丸くした。前の自分なら、死んでいた――そう突きつけられたような顔だ。
その表情を見て、私は狭霧山で修行していた頃の、鱗滝さんとの会話を思い出す。“常中”という概念を話したとき、彼は険しい顔で首を振った。
――そんな真似を、人間に強いてはならん。肺を壊し、下手をすれば命を落とす――
鱗滝さんの戦い方には、常中は必要なかった。人間には到底不可能だと考えていたのだろう。
実際、常中は強靭な肺と持久力がなければ成立しない。呼吸が未熟な者が無理に試みれば、過呼吸や失神に直結する。私が短期間で身につけられたのは、鬼の身体だったからだ。
けれど――人間でも、不可能ではない。
柱の全員、そして炭治郎の同期である栗花落カナヲは、すでにこの領域に至っている。極めて危険で、無謀と隣り合わせ。だが、突破できれば身体能力は飛躍的に向上する。“常中”ができなければ、十二鬼月の下弦ですら、頸には届かない。
そして炭治郎は、次の任務で、その下弦と相対する。約一ヶ月後の、緊急指令までに――どうしても、身につけてもらわなければならないのだ。
「……分かった。絶対に、習得してみせる!」
炭治郎は、ぐっと拳を握った。その真っ直ぐな声に、胸の奥が、ほんのりと熱くなる。
私は安堵して、にこりと笑った。
「今は戦闘中じゃないから小さいけど……私の呼吸を、よく聞いてごらん」
意識的に“呼吸”を整える。肺の奥から生まれたリズムが、波紋のように広がり、隣にいる炭治郎へと伝わっていく。彼の呼吸が、少しずつ――私の拍動に寄り添ってくるのが分かった。
「昼間は、私が考えた修行をこなしてもらう。ヒノカミ神楽以外の時間は、“全集中の呼吸”を維持する。寝ている間は、禰豆子が私の代わりに見張ってくれる」
私は、静かに告げる。
「――だから、頑張ろう」
炭治郎は、大きく頷いた。
その瞳の奥に、熱い覚悟が宿ったのを、はっきりと感じた。
・
・
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昼間、炭治郎は私の考えた修行を、黙々と続けた。
朝は走り込みと息止め、素振りに筋を痛めそうなほどの鍛錬で体を追い込み、午後にはヒノカミ神楽を全集中の呼吸と重ねて舞う。動きはまだぎこちなく、息も乱れがちだったが、炭治郎は諦めず、同じ軌道を何度もなぞり続けた。春の風が汗を冷やし、落ちた雫が畳や地面を濡らしていく。
夜になると、夕餉と入浴を済ませた炭治郎は寝床で、静かに瞑想で呼吸を整える。私はその隣で、うとうとと眠ることが多かった。けれど、ふと目を覚ますと、炭治郎が私の前で、呼吸を使わずに型を一巡していることもある。指摘すると、彼は深く頷き、再び舞った。
一巡を終えると、炭治郎は息を整えながら、その日の動きを振り返る。反省点や改善点を語る声に耳を傾け、必要な指示を送るのが、私の役目だった。その間も、胸の奥には小さな申し訳なさが疼く。禰豆子が夜中の見張り役を務め、黙々と炭治郎を支えてくれていた。
三週間も経つ頃には、善逸と伊之助も修行に加わった。
常中の鍛錬は長く続けられず、すぐ音を上げてしまう二人だったが、模擬戦にはそれなりに熱が入り、少しずつ体も動くようになっていた。愚痴をこぼす善逸や、力任せに振る舞う伊之助の姿に、思わず小さく笑みが零れることもあった。
私自身は、その一ヶ月のあいだ、眠ってばかりだった。
けれど夢の中では、絶えず戦っていた。
下弦から上弦、やがて無惨へと続く、終わりのない悪夢の連戦。何度斃れても立ち上がり、ヒノカミ神楽と血を振り絞り、影の鬼殺隊士たちに“癒血”を放ち続ける。敗北ばかりで最後は死ぬ夢のはずなのに、繰り返すうちに血の扱いは研ぎ澄まされ、ある夜の眠りの中、ついに新たな血鬼術が発現した。
外の私は、ただ眠っていただけにすぎない。けれど内側では、長く、戦い続けていたのだった。
指令が届く数日前、私は目を開け、布団の中でそっと掌を掲げる。
巡る血に応じて、小さな茨が連なり合い、静かに華を咲かせた。
その二日後――炭治郎は、ついに“全集中の呼吸・常中”を会得した。
***
煉獄邸――
武家屋敷のように広い敷地の一角、その道場では、竈門竹雄が鬼殺隊の“炎柱”煉獄杏寿郎から指南を受けていた。
柱である杏寿郎は多忙を極める身だが、今日は担当区域の夜の見回りのみ。昼の時間を、継子である竹雄の修行に充てている。煉獄邸での生活も一年半を超え、竹雄にとってこの日常は、もはや特別ではなくなっていた。
夕方の柔らかな光が道場に差し込み、床板に長い影を落とす。
竹雄は大きく息を吐き、汗に濡れた額を手の甲で拭った。全身に、心地よい疲労が満ちている。稽古を終えたばかりの体はまだ熱を帯び、静まり返った空間には、彼の呼吸の音だけが残っていた。
「よし、今日はここまでだ!!」
背後から張りのある声が響く。
振り返ると、杏寿郎は稽古後の爽やかさをそのまま残した表情で、満足そうに頷いていた。
「はい……!ありがとうございました!」
竹雄は頭を下げ、呼吸を整えながら応える。木刀を握っていない腕はまだわずかに震え、汗で張り付いた髪を払う。
「剣の捌きも鋭くなってきたな。反応速度も悪くない!」
その言葉に、竹雄は小さく頷いた。胸の内では、まだ足りない点がいくつも思い浮かんでいる。それでも、師の評価には、抑えきれない誇らしさが混じった。
しばし、静かな間が流れる。
やがて杏寿郎が、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば――お前の兄も、先日の最終選別を突破したそうだ。共に任務に就く日も、いずれ来るだろう!その日が楽しみだ!!」
竹雄の心臓が、ひとつ大きく跳ねた。
「……兄ちゃんが?」
「うむ!立派なことだ!だが最終選別は、あくまで入口にすぎん。これからが正念場だな!」
驚きと安堵が入り混じり、思わず息が漏れる。無事に鬼殺隊士となった兄の姿を思い浮かべると、胸の奥がじんわりと温かくなった。
だが、その温もりはすぐに、胸の内で別の熱へと変わった。競争心――それは、竹雄にとってごく自然な感情だった。
自分の方がひと足早く最終選別を突破したとはいえ、受ける時期は人それぞれだ。早い、遅いは、強さの証ではない。
だからこそ、負けられない。
兄が隊士になったのなら、自分はさらに先へ進まなければならない。
竹雄は拳を軽く握り、視線を正面に据えた。夕暮れの光が髪を赤橙色に染め、その輪郭を、決意を刻むように包み込んでいた。
稽古を終え、竹雄は道場を後にする。廊下には夕日の名残が差し込み、朱色の光が床に長い影を落としていた。
「槇寿郎さんに、御膳を持っていきますね!」
竹雄が弾んだ声で告げる。
杏寿郎と、その弟・千寿郎が並ぶ食卓から立ち上がった。
千寿郎はまだ十一歳ほどの少年だ。剣の才能には恵まれなかったが、屋敷の雑事や食事の支度を手伝っている。今日も女中の老婆と並び、手際よく御膳を整えていた。
「……頼んだ!」
杏寿郎の明るい声が背中を押す。その隣で、千寿郎はどこか所在なさそうに視線を伏せ、膝の上で手をきゅっと握りしめたまま、何も言えずに、その背中を見送っていた。
竹雄はその様子を横目に収めながら、御膳を手に廊下へと歩み出す。
やがて目的の部屋の前で足を止め、ひとつ深呼吸をした。
「失礼します」
返事はない。沈黙が、ほんの一拍ぶん続く。それでもためらわず、竹雄は障子を開けた。
布団に横たわる槇寿郎は背を向けたまま、こちらを見ようとしない。最初の頃は物を投げつけられ、追い返された。だが今は――何も言われない。
竹雄はそれを、拒絶ではなく、変化だと受け取っていた。
「夕餉をお持ちしました!山菜の天ぷらと、わらびのおひたしが今日の一押しだそうです!」
いつもの調子で声をかけ、御膳を布団の脇に置く。
すると、槇寿郎が唸るような、けれど確かに返事めいた音を喉の奥から漏らした。
そのわずかな気配に、竹雄の顔がぱっと明るくなる。
「……失礼しました!」
嬉しさを抑えきれないまま一礼し、静かに部屋を後にした。
夕暮れが注ぐ廊下を、ゆっくりと食卓へ戻っていく。
その背中には、煉獄杏寿郎の“継子”であるという肩書きだけでなく――煉獄家に、確かに新しい風を吹き込む存在としての息遣いが、宿っていた。