「あれ!?灯真希ちゃんが、綺麗なお姉さんになってる!?」
朝、一番遅く目を覚ました善逸が、驚きと照れの入り混じった声を上げた。
私は炭治郎と並んで、布団の片付けをしているところだった。抱えていた敷布団を押し入れに収める。
伊之助は相変わらずで、「飯ィー!」と叫びながら部屋中を走り回っている。
この一ヶ月ですっかり見慣れた、いつもの朝の光景だ。
「お陰様でね。ようやく体調が元に戻ったんだ」
「善逸も起きたのか。姉ちゃんの本来の姿だよ」
炭治郎が、いつもと変わらない調子で付け足す。
「いやいや!炭治郎が落ち着いてるのは弟だから分かるけどさぁ!伊之助まで、なんで平気なの!?昨日まで一番ちっちゃかった女の子が、俺たちの誰よりも背が高い、綺麗なお姉さんになってたら、普通は驚くでしょ!」
「寝ぼすけ子分その一がデカくなっただけだろうが!朝からうるせぇぞ、紋逸!」
「だから俺は善逸だってば!それに朝から走り回ってるお前の方が、よっぽどうるさいよ!」
軽口の応酬を聞き流しながら、私は苦笑する。
――昨日まで、私は四、五歳ほどの幼子の姿だった。
今はほぼ
「あっ、禰豆子ちゃん!今日は早起きだね!昨日ね、綺麗なお花を見つけたんだ。あとで摘んでくるから!」
布団をすべて片付け終え、炭治郎とひささんが用意してくれた朝食を、部屋へ運ぶ。
藤の家の家主であるひささんは、この一ヶ月、私たちを献身的に支えてくれた。私と禰豆子の正体に、とうに気づいていたはずだ。それでも炭治郎たちと何一つ変わらぬ態度で、自然に接してくれる。
魂を視れば分かる。彼女は、私たちを鬼と知ってなお、そこに恐れも嫌悪も抱いていない。穏やかで、広く、揺るがない心――ご尊老と呼ぶにふさわしい人だ。
今朝も、いきなり成長した私を目にして、特別に驚く様子はなかった。その精神の在り方を、いつか私も身に付けたいと思う。
朝食の席では、伊之助が相変わらず騒がしく、時折、炭治郎のおかずに手を伸ばしている。けれど、素手でご飯を掴んでいた頃に比べれば、随分と変わった。箸を使い、食事をする。
荒々しいながらも、その所作は少しずつ、人の形へと近づいていた。
朝食を終え、鍛錬の準備に取りかかろうとした、その時だった。
炭治郎の鎹烏――松右衛門が、勢いよく部屋に飛び込んでくる。
「複数ノ隊士ガァァ!消息不明ィ!!一刻モ早ク、向カエェェ!!カァァ!」
空気が、一瞬で張り詰めた。緊急の指令。三人揃って、那田蜘蛛山へ向かうことが決まった。
善逸は、初めての緊急任務に顔色を変え、半ば怯えたまま荷をまとめ始める。
炭治郎と伊之助も、余計な言葉は交わさず、静かに隊服へと袖を通した。
――――ついに、この時が来た。
十二鬼月・下弦の伍と、その“家族”が巣食う場所。
“知識”で知っている未来が、脳裏をかすめる。
多くの隊士が命を落とし、柱の到着がほんの僅かでも遅れていれば、炭治郎たちは全滅していた。疑いようもなく、極めて危険な任務だ。
この一ヶ月は、まさに今日のための時間だった。
炭治郎は“常中”を会得し、想定通りの、いや、それ以上の成長を見せている。
善逸と伊之助は、途中で度々サボっていたため“常中”には至っていないが、連携と体力は確実に向上していた。本音を言えば、理想には届かない。しかしこれは自分の不手際でもある。私自身、ほとんどを寝て過ごしてしまい、二人の監督は十分とは言えなかった。だが、それも織り込み済みだ。最低限の成長は果たしている。
それでもなお、生存率が上がったに過ぎない。安心できる状況など、どこにもない。
けれど――血鬼術 “
新たに発現したこの力によって、私の支援の幅は格段に広がった。この力が戦局に与える意味は、きっと小さくない。
私は拳をぎゅっと握りしめ、胸の奥で、静かに覚悟を確かめた。
守る。一人でも多く助け、無為に失わせはしない。
最後に面を顔へと当て、禰豆子と共に身体を縮める。木箱の中へと収まると、外の音が、少しだけ遠ざかった。
不安がないわけではない。けれど、それは既に、覚悟という名の静けさに覆われている。
夜の任務。そして、その先に待つ戦いへ向けて。
私は心を引き締めたまま、浅い眠りへと身を委ねた――
・
・
・
那田蜘蛛山を目指し、炭治郎たちは幾時間も走り続けた。
日が沈み、空が完全に闇へ沈んだ頃、私は箱から出て三人と歩き出し、その足で山の麓へと辿り着く。
――空気が、重い。
湿り気を帯びた土の匂い。夜気に混じる、かすかな血と恐怖の残滓。
「待ってくれ!ちょっと待ってくれないか!!」
入山しようと足を踏み出した、その瞬間だった。
背後から、善逸の悲鳴にも似た声が響く。
「どうしたんだ、善逸」
炭治郎が立ち止まり振り返ると、善逸はすでに地面に座り込み、体育座りのまま肩を震わせていた。
「怖いんだ!!目的地が近づいてきて、とても怖い!!」
「……何座ってんだ、こいつ。気持ち悪い奴だな」
「お前に言われたくねーよ、猪頭!!」
伊之助も足を止め、善逸を見下ろしている。
けれど、私は歩みを止めなかった。
――この先。
炭治郎たちの“記憶”に刻まれている、あの気配を確かめるように。私は静かに、しかし迷いなく山へと近づく。
「気持ち悪くなんてない!!普通だ!!俺が普通で、お前らが異常だ!!
……って、灯真希ちゃん!?一人で行くのは危険だよぉぉぉ!!」
その声を背に受けながら、一歩、踏み込んだ瞬間。
――いた。
山の入り口。隊服と刀を携えた青年が、地面に倒れている。
私は一気に距離を詰め、膝をついた。胴体には、細く不気味な糸が幾重にも絡みついている。
「……たす……助けて…………」
わずかに顔を上げた青年の声は、掠れていた。暗闇でも、鬼の目にははっきりと見える。私は爪を尖らせ、糸を一息に断ち切る。
「――っ!」
糸が切れた瞬間、青年の身体から力が抜けた。そのまま抱き上げ、危険域から離れる。
「俺にも……糸が……!あ……ありがとう……!」
涙を滲ませながら、青年は面をつけた私に向かって、必死にお礼の言葉を吐く。応えるように頷くと、安堵したように大きく息を吐いた。
「姉ちゃん! その人は大丈夫か!?」
「怪我はしているけど、命に別状はないよ。話を聞くためにも、善逸くんのところへ戻ろう」
追いついてきた二人にそう告げ、私たちは来た道を引き返した。
道端に取り残されていた善逸は、子鹿のように震えながら変わらず座り込んでいた。
「良かったぁぁ……!置き去りにされるかと思ったよぉぉ……!」
「置いてなんか行かないよ。それより――山の中で、何があったのか……話せますか?」
問いかけると、怪我をした隊士は顔を伏せ、震える声で語り始めた。
「ああ……指令を受けて、十人で山に入った……でも、少し進んだところで……突然、隊員同士が斬り合いを始めたんだ」
言葉を詰まらせ、拳を握りしめる。
「おかしくなったんじゃない……糸で、操られてた……!俺は……仲間を止められなくて……逃げることしかできなかった……」
懺悔するような声と共に、涙が地面へと落ちた。
「……生きて戻ってくれて良かった」
私は優しく言葉をかける。
「あなたは撤退するか、増援が来たら状況を伝えてください。ここから先は、私たちが引き受けます」
「俺たちが必ず仲間を助けて、鬼の頸を斬ります。あなたの情報があったから、対策ができます!」
炭治郎も力強く頷き、真正面からその目を見て告げた。
「……本当に、すまない……!頼む……!!」
隊士は傷を抱えながらも、草むらへ身を隠していった。
私は炭治郎、伊之助と共に、再び山を見据える。
善逸はまだ震えているが、その瞳には、逃げ出さない覚悟が宿り始めていた。
「……怖いのは、皆同じ。でも、私たちが行かなければ、隊士たちは全滅してしまう。善逸くんの力が、必要なんだ」
「善逸……」
「俺は怖くねぇ!!伊之助様が先頭だ!!お前らはガクガク震えながら後ろについて来い!!」
「…………わかったよぉ!すごく怖いけど!!山から強い鬼の音しかしないけど!!俺も………………行く!」
善逸が、ついに立ち上がった。
「腹が減るぜ!!」
「腕が鳴るだろ!……うぅうう………」
伊之助、炭治郎、私、善逸。
四人は、その順で――那田蜘蛛山へと足を踏み入れた。
山の中は鬱蒼とした木々に覆われ、進む先々に蜘蛛の巣が絡みついていた。
払っても、払っても、次の枝にまた張られている。虫の声も、鳥の羽音もない。聞こえるのは、自分たちの足音と、風が枝を揺らす低い音だけだ。とても不自然だ。沈黙の奥に、じわじわと鬼の気配が満ちている。
伊之助が舌打ちし、鬱陶しそうに糸を斬り払いながら先へ進む。
やがて、視界の端に“異変”が映った。
二つに分かれて揺れる、人間の魂の光の塊。
そして、左奥に滲む――歪で、濁った鬼の魂。
私は足を止め、静かに息を整えた。
「何か見つけたのか、姉ちゃん」
炭治郎の問いに、小さく頷く。
「左の奥に鬼が一人。右には、隊士たちの魂が視えてる――ここから、二手に別れよう」
「俺が左だ!鬼を斬るのは、この俺だぜ!!」
伊之助が即座に名乗り出る。けれど、私は首を横に振った。
「駄目。まず助けるべきは、操られている隊士たち。鬼を斬る剣士と、隊士を守る者で人手がいる――二人は必要だから」
「なんだと!?」
「それに……左奥の鬼は、操り役じゃない」
私は山の起伏を指先でなぞるように視線を走らせる。
「地形からして、本命は右の奥。左は斜面も浅く、魂も一つだけ――別の鬼だと見て、間違いない」
炭治郎に目を向ける。
「匂いでは、分からない?」
「……ごめん。山に入ってから鬼の匂いが強すぎて、全部かき消されてるんだ。奥に進むほど、変な匂いも混ざってきて……」
「そう……」
納得して頷く。
「入口の隊士に絡みついていた糸と、山全体に漂う気配……似ているけど、同じじゃない。少なくとも――右の奥には、二人の鬼がいるってことだ」
言葉が途切れ、沈黙が落ちる。山の静けさが、重くのしかかった。
「だから、左にいる鬼は――」
「俺が……行くしか、ない……んだな」
善逸の声が、震えていた。
魂を視ずとも分かる。恐怖と同時に、自分が最適任だと理解してしまった声だ。
善逸の電光石火の“抜刀術”は、単体で潜む鬼を討つのに最も適している。
左奥にいる鬼は、炭治郎が言う“変な匂い”の正体。私の“知識”では、それは強烈な刺激臭を放つ鬼だ。炭治郎の嗅覚では、戦う前に行動不能に陥るだろう。
一方、伊之助の強みは触覚で察知する異常な勘と、豪胆な連携力を持つ。嗅覚を封じられた今、右奥で待つ鬼に挑むには、伊之助が不可欠だった。
「……うん。そうなるね」
私は、逃げ道を与えずに告げる。
「酷だけど、一人で行ってもらうしかない」
「行くよ……行くしかないよ……女の子の頼みは断れないし……禰豆子ちゃんは箱の中だし……お、お願い!最後に結婚してくれえぇぇぇ!!」
一瞬、言葉を失った私の前に、炭治郎が素早く割って入る。
「善逸!落ち着け!!姉ちゃんは結婚なんて断ってるだろ!それに、今はそんな場合じゃない!!」
炭治郎の説得により、不承不承ながらも、善逸は左手へ向かう覚悟を固めたようだった。
振り返った瞳には、恐怖と、同じ分だけの勇気が宿っている。
別れ際、私は一つだけ助言を送る。
「ここまでの道は、蜘蛛がいない糸ばかりだった。でも
「……分かったぁ」
弱々しい返事を残し、善逸は闇の中へ消えていく。
その背を見送り、伊之助が鼻を鳴らした。
「弱味噌のあいつで、大丈夫かよ」
「善逸は強い。ただ、自分でそれを認められないだけなんだ」
炭治郎の言葉に、私は同意するように頷いた。
そして――私たちは、右手の奥へと歩を進める。