山の中の道は、善逸と別れてからもなお鬱蒼と木々が連なり、頭上から足元まで、無数の蜘蛛の巣が行く手を塞いでいた。糸は風に揺れることなく、まるで待ち構えていたかのように静止している。
私を先頭に、伊之助、炭治郎の順で歩を進める。爪や刀を走らせ、足元に絡みつく蜘蛛の糸を断ち切りながら、隊士たちのもとへ辿り着く前に、状況の最終確認をする。
「ひとつだけ……少し手前に、強く輝いている魂がある。それ以外は弱い。視えるのは、全部で六つ」
離脱した隊士が告げていた数と合致すれば、すでに三人は命を落としている。生と死の境目が、輪郭を持ってはっきりと分かれている感覚に、背筋が張り詰めた。短く呼吸を整え、判断を固める。
「手前の隊士と合流したら、私とその人で操られている隊士たちを止めて、治療する。伊之助は鬼の居場所を突き止めて。炭治郎と二人で、その鬼を倒してくれる?」
「俺に指図するんじゃねえ!」
荒々しい声とは裏腹に、伊之助の目は冴え切っている。その視線に迷いはない。私は思わず、口元をわずかに緩めた。彼の性格は分かっている。あれは反発ではなく、闘志と――信頼の裏返しだ。
伊之助の威嚇を気にも留めず、炭治郎は素直に頷いた。 そして、ふと何かに気づいたように、遠慮のない口調で問いかけてくる。
「分かった。俺と伊之助が鬼を斬る……そういえば、山に入る前に会ったあの人の怪我は、どうして治さなかったんだ?」
率直で、核心を外さない問い。炭治郎らしい正義感が、そのまま言葉になっている。
「あれはね……あの人の怪我を治したら、敵前逃亡したみたいに思われるかもしれないから」
私は歩みを止めずに続ける。
「鬼殺隊に、新選組みたいな士道不覚悟の御法度があるかは分からないけど、悪鬼滅殺を本分とする隊士に見られたら、非難は免れない……だから、さっきは治療できなかった」
炭治郎は短く、「そっか」と頷いた。私の判断を、きちんと自分の中で咀嚼してくれたらしい。
しかし理由はそれだけではない。炭治郎には言わなかったが――この山の中には、あの人よりも遥かに酷い怪我を負った隊士が残されている。
さらにその先には、下弦の鬼と、四体の鬼。そのうち一体は善逸に任せたとはいえ、油断できる数ではなかった。
力を、温存する必要があった。
(……識別救急。あるいは、トリアージ)
傷病者が多発する状況で、緊急度と重症度によって、救う順を決める。合理的で、冷酷に見える判断。
この時代には、概念すら日本に伝わっていない。それでも原理は同じ――生き残るための選択だ。
拳を握りしめ、心の奥でもう一度覚悟を確かめる。
冷静であること。それだけが、この山で生き残る鍵だった。
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茂みの中に身を屈め、息を潜めている――唯一、まだ元気があると分かる魂を、視界の端に捉えた。血と土埃にまみれてはいるが、怪我の血の匂いはしない。隊服の背に刻まれた“滅”の文字だけが、月明かりを受けて虚しく浮かび上がっている。
炭治郎がそっと後ろから手を差し出した瞬間、男はびくりと体を震わせ、弾かれたように振り返った。
「ヒッ……!」
「大丈夫です。応援に来ました。階級・
「み、癸……?癸……!?」
炭治郎の言葉を理解した途端、男の顔から血の気が引いていく。
鬼殺隊の階級は基本的に十段階。最下位が癸、最上位に甲がいる。柱を入れたら十一階級になる。
「なんで……柱じゃないんだ……!!癸なんて何人来ても同じだ……!意味が無い!!」
追い詰められた声は怒気を帯び、半ば悲鳴のようだった。
伊之助が思わず拳を振り上げる。
「なんで止めんだ!こいつを殴らせろ!!」
「しっ……騒がない」
低く制すると、伊之助は舌打ちしつつも動きを止める。
炭治郎は小さく息を整え、先輩隊士へ向き直った。
「山の入り口で怪我をした隊員から話を聞きました。十人の隊員が、突然、斬り合いを始めたそうです。糸で操られていたように見えたと」
男の肩が、ぴくりと跳ねる。
「操っている鬼は、俺と伊之助で探して斬ります。だから――えっと……お名前は……」
「村田だ!………高橋……よかった、生きてたのか……」
安堵と混乱が入り混じった声だった。
「村田さん。では村田さんと一緒に、」
そこまで言ったところで、私は気配の変化を捉えた。
「炭治郎。場所、もうバレてる。手筈通りに伊之助と先に行って」
林の奥から、キリキリと糸が張り詰める音が響く。
次いで、人形のように不自然な動きで、操られた隊士が姿を現した。刀は握られているが、生気はない。足だけが意志を持つように、こちらへと近づいてくる。
「――っ!伊之助、頼む!!鬼の位置を探ってくれ!!」
「分かってるっつうの!子分と
伊之助が二本の日輪刀を地面へ突き刺す。
――“獣の呼吸 漆ノ型 空間識覚”!!!
全身を獣のように低く構え、気配を極限まで研ぎ澄ませる。空気の微かな揺らぎ、木々の間に張り巡らされた糸の振動、そして、その奥に潜む“意思ある存在”を捉える技。
伊之助の感覚が、確実に“鬼”を捉え始めていた。
最初の隊士に続き、もう一人――また一人と、虚ろな表情を浮かべた隊士が姿を現す。血を吐き、腕が不自然な方向へ折れ曲がったまま、それでも歩いてくる。
合計、五人。
炭治郎と村田さんの表情が、同時に歪んだ。
生気のない瞳。糸に引かれ、意思なく動く体――それでも。
(まだ、生きている人が二人いる)
人としての魂が、確かに残っている。私の目には、それがはっきりと視えていた。
「糸で操られてるって言ってたよな……!その糸を斬ればいいのか!?」
「その必要はありません、村田さん」
言い切ると同時に、私は地を蹴った。枝へと跳び乗り、幹に足をかけて体を安定させる。
迫り来る隊士たちを見下ろしながら、拳に力を込めた。
――どう止めるか。
計算が整うにつれ、心は静まっていく。
「は!?いや待て!!」
村田さんが慌てて叫ぶ。
「今気づいたが、狐面はどうして日輪刀を持ってないんだ!?それに隊服も着ていない!!」
「姉ちゃんが鬼だからです!」
炭治郎が即座に答える。
「でも人を襲わないで、俺たちと一緒に戦ってくれます!!」
「それを先に言えよ!?……まじかよ!全然気づかなかったわ……!!」
混乱しながらも、村田さんは炭治郎と、索敵に集中する伊之助を庇うように前へ出る。
操られた隊士たちは、糸に吊られ、引かれ、じりじりと距離を詰めてくる。
私は、その糸の
炭治郎は、迷いなく私を信じている。ならば――姉として、応えなければならない。
拳を、勢いよく開いた。血が弾け、夜気に散る。飛び散った血の雫は、空中で形を変え、茨の
――“血鬼術 茨ノ連”
藤紫色の茨が、瞬く間に繁茂する。蜘蛛の糸を覆い、伝い、薔薇の棘のような鋭い突起が、繋ぎ目を探るように伸びていく。
「うわっ!?俺の腕にも棘が――!」
「……違う!」
炭治郎が叫ぶ。
「蜘蛛だ!!小さな蜘蛛が、操り糸を繋いでいたんだ!!」
村田さんの肩へ噛みつこうとしていた蜘蛛。炭治郎たちの影に忍び寄っていた蜘蛛。
そこへ、さらに血の雫が飛ぶ。紫の棘が、蜘蛛の体を貫いた。痺れにも似た毒が走り、蜘蛛たちは一斉に震える。
隊士に取り憑いていた蜘蛛は、そのまま塵のように消滅する。周囲に潜んでいた無数の蜘蛛も、脚を震わせたまま、動きを止めた。
糸が弛み、張り詰めていた空気が、わずかに軋む。
森が、
「――――お前……今、一体何をした?」
ぞくり、と背筋を撫でる声。
顔を上げた瞬間、満月を背に、糸の上に立つ少年の鬼がこちらを見下ろしていた。
木々の葉を繋ぐ細い糸を足場にしているせいで、まるで夜空に浮かんでいるように見える。
那田蜘蛛山を支配する鬼――十二鬼月・下弦の伍、累。
その瞳に宿るのは、冷たさか。それとも、歪みきった執着か。
鬼とは何度か対峙してきた。だが、この鬼は違う。ぞっとするほどの幼さと、背筋を凍らせる残酷さが、不自然なほど同居している。危険度が――桁違いだ。
だが累は、次の瞬間には表情を整えた。先ほどの敵意など、最初から存在しなかったかのように。
「僕たちの家族の、静かな暮らしを邪魔するな。お前らなんて、すぐに
吐き捨てるように言い放ち、興味を失った玩具を見るような目で背を向ける。
私は、追わない。
累の魂は異常なほど歪んでいる。だが、そのすぐ後ろで――まだ救えるかもしれない人間の魂が、か細く揺らいでいる。
鬼を斬るより先に、人を守る。それが、私が選び取った戦い方だ。
「オラァ!!」
伊之助が、木の幹を蹴って飛びかかる。だが、届かない。
累は振り向きもしない。まるで、相手にする価値すらないとでも言うように。
「くっそォ!!どこ行きやがるテメェ!!勝負しろ、勝負!!―――何のために出てきたん、だうっ!!」
受け身も取らず、伊之助は背中から地面へ叩きつけられた。
「伊之助!!」
炭治郎の声に、伊之助は即座に跳ね起きる。無鉄砲で粗雑、だが強靭だ。
私は枝から地へと降り、伊之助の隣に立った。
「操り糸の鬼は、見つかった?」
「見つけたぞ!!お前が言ってた鬼は、あっちだ!ビンビンに感じるぜ!!」
伊之助が刀で指し示す先を、魂視でなぞる。累ほどではないが、確かに鬼の魂が蠢いている。そしてその手前には――第二軍の、操られた隊士たちがいた。
「見つけたのか!凄いぞ、伊之助!」
炭治郎の声が、夜に力強く響く。
「よし……今のうちに、伊之助と炭治郎は鬼の元へ向かって。途中で操られた隊士がいても、気づかれないように迂回して。必ず、
「俺はこの女鬼の援護に回る!」
村田さんが、震えを押し殺すように前へ出る。
「情けないところを見せたが……俺も鬼殺隊の剣士だ!!だから、二人は鬼を斬ってくれ!!」
「小便漏らしが何言ってんだ!」
「誰が漏らしたクソ猪!!テメェに話しかけてねぇわ!!」
反射的な言い合いが、張り詰めた空気を一瞬だけ緩める。
炭治郎の赤い瞳が、真っ直ぐに私を映した。疑いのない、揺るぎない信頼。鬼である私に向けられる、その光を――絶対に、裏切ってはいけない。
「まずテメェを一発殴ってからな!!誰がクソ猪だ!!………おい!離せ、紋次郎!!」
「炭治郎だ!!行くぞ、伊之助!」
振り返り、叫ぶ。
「――村田さん、姉ちゃん!後は頼みます!!」
二人の背中が、闇の奥へと消えていく。
その先で待つのは、十二鬼月の巣窟。どれほど苛烈な戦いになるか、想像はつく。
だからこそ、ここで踏ん張る。
――人を守り、彼らの背を支えるために。