【コソコソ裏話】
サイコロステーキ先輩の苗字は“才目”というらしい
現代では、かなり珍しい苗字なのだとか
吹き飛ばされた炭治郎は、地を転がり、咄嗟に手をついて体勢を立て直した。
視線を上げた先に――待ち受けていたのは、見覚えのある顔立ちをした二人の鬼だった。
どこか似通った面差しの少年と少女。
少年の鬼は白い指先で糸を操り、まるで遊戯のように静かにあやとりを繰り返している。その足元では、少女の鬼がうずくまり、頬に刻まれた深い切り傷から血を流しながら、声を殺して涙をこぼしていた。
「何してるんだ……!!」
思わず、叫びが口を衝いて出た。
「仲間じゃないのか!!」
その瞬間、少年――累の指先が止まる。張り詰めた糸が、ぴん、と空気を切った。
「仲間?」
低く、氷のように冷えた声。累はゆっくりと顔を上げ、感情の読めない瞳で炭治郎を射抜いた。
「そんな薄っぺらなものと、一緒にするな」
夜気が、ひやりと震える。
「僕たちは“家族”だ。強い絆で結ばれている。それに、これは僕と姉さんの問題だよ。余計な口出しをするなら――刻むから」
刃のような言葉が、静かに突き刺さった。
「違う……!」
炭治郎は一歩、前に踏み出す。
「家族も仲間も、強い絆で結ばれていれば、どちらも同じように尊い!血の繋がりがなければ薄っぺらいなんて、そんなことはない!!」
鼻腔を刺す、濃く淀んだ匂い。恐怖、憎しみ、歪んだ執着――胸の奥を圧迫するような禍々しさが、炭治郎を包み込む。
思い違いをしていた。あの巨躯の鬼ではない。この山を覆っていた、空気を震わせるほどの重圧の正体は。
(この鬼だ)
目の前の少年。彼こそが、本物の十二鬼月だ。
炭治郎は奥歯を噛み締め、足に力を込める。震えを叱咤するように身体を奮い立たせ、刀に手をかけた。
「それに……強い絆で結ばれている者からは、信頼の匂いがする!」
はっきりと、言い切る。
「だけど、お前たちから漂ってくるのは……恐怖と、憎しみと、嫌悪の匂いだけだ!こんなものを絆とは言わない!!」
刃を構え、真っ直ぐに累を見据える。
「紛い物………偽物だ!!」
その言葉に、うずくまっていた少女の鬼がびくりと肩を震わせた。青ざめた顔で唇を噛み締め、縋るように累を見上げる。
そのとき、累たちの背後の茂みががさりと揺れた。
枝葉を押し分け、ひとりの人間が姿を現す。前髪を短く切り揃えた、流行りの髪型をした鬼殺隊の青年。年若いが、どこか場違いなほど落ち着いた足取りだった。
「お、丁度いいくらいの鬼がいるじゃねぇか」
「誰だ!」
炭治郎が声を張るよりも早く、青年は鬼へと歩み出ていた。
二体の鬼を前にしてなお、刀を抜かない。警戒もなく、間合いへとずかずか踏み込み、汗一つ浮かべずに。
「お前はひっこんでろ」
炭治郎を一瞥し、吐き捨てるように言う。
「俺は、安全に出世したいんだよ」
そう言って、ようやく鞘から刀を抜いた。
――その瞬間。炭治郎の鼻孔に、青年の匂いが流れ込む。
(無理だ)
一瞬で、理解してしまった。技量も、覚悟も、感覚も――あまりにも、差がありすぎる。
(この人は……分かっていない)
自分が何を前にしているのか。どれほどの存在を踏み越えようとしているのか。
無謀すぎる。
「だめだ、寄せ!!君では………!」
叫びは、届かなかった。
青年は炭治郎を無視し、さらに一歩、前へ踏み出す。
「隊は殆ど全滅状態だが……とりあえず俺は、そこそこの鬼一匹倒して下山するぜ」
その言葉が、終わるより早く。
糸が、閃いた。累は振り返りもしない。ただ後方へ、蜘蛛の巣のような糸を放つ。瞬き一つ分の間もない。
「………………は?」
青年の視界に映ったのは、自分と鬼との間に、割り込むように立つ炭治郎の背中だった。
直後、背後の木々が、まとめて薙ぎ倒される。
全集中――水の呼吸が生む、鋭く澄んだ音が空気を裂く。
だが、完全には防ぎきれない。無数の糸が炭治郎の身体を掠め、皮膚を裂き、幾筋もの赤を散らした。青年を守り抜くことはできた。しかし、すべてを無効化できなかった。
「………何て言った?」
累の声が、低く、冷たく響く。
「お前……今、何て言ったの?」
次の瞬間、空気が一変した。
重く、粘つく殺意が四方から押し寄せ、炭治郎たちの身体を圧し潰す。赤黒い瞳が、獲物を定めるように細められる。青年は刀を取り落とし、膝から力が抜けたように、地面へと崩れ落ちた。
その場を切り裂いたのは、炭治郎の声だった。
「何度でも言ってやる……!!」
震えを押し殺し、まっすぐに累を睨み据える。
「お前の“絆”は、偽物だ!!」
炭治郎は、背後に気配を残したまま戦意を喪失した青年に叫んだ。
「早く、この場から離れるんだ!!次は……君を守りきれない!!」
声は切迫し、鋭さを帯びていた。
だが青年の耳には、それは警告ではなく――死の宣告として届いた。刀を取り落としたまま、青年は目を見開き、喉の奥から掠れた悲鳴を漏らす。
「ひ、ひぃいいっ!」
返事代わりの絶叫を上げ、木立の間を掻き分ける。我先に、ただ己の命を守るためだけに――身一つで駆け出した。
背中が闇に溶けていくのを一瞬だけ見送り、炭治郎は奥歯を噛み締める。
(……これでいい。せめて彼だけでも――)
その思考を、圧倒的な気配が押し潰した。累の纏う空気が――明確な殺意へと変わる。
「お前は一息では殺さないからね。うんとズタズタにした後で、刻んでやる」
広範囲から、無数の鋼線のような糸が放たれた。
地を這い、空を裂き、木々の間に蜘蛛の巣のように張り巡らされる。逃げ場を、意図的に封じる布陣。
炭治郎は一歩踏み込み、即座に構えを変えた。
――“水の呼吸 参ノ型 流流舞い”!
地を蹴り、身体を滑らせる。流れる水のように身を翻し、斜めに走る糸を潜り、背後から迫る刃を反転して弾く。攻撃と回避を同時に織り交ぜながら、絶え間なく降り注ぐ糸を切り裂き、舞い続ける。
だが――累は一歩も動かない。ただ、その場に立ったまま、糸を織り続ける。
「でも、
声は低く、冷たい。放たれる糸に、揺らぎは一切なかった。
炭治郎は全神経を研ぎ澄まし、呼吸で肺を満たし続ける。殺意の網を、紙一重で潜り抜けながら。
(刺激臭が……薄まってきた。糸の匂いが、はっきり分かる……!)
空気の流れと糸が震える、その一瞬。
(動きが、読める!)
二条の糸が交差し、逃げ道を塞ぐように迫る。狙いは、首。
炭治郎は踏み込み、迷いなく刀を振り抜いた。
“水の呼吸 壱ノ型 水面斬り”――!!
弧を描く刃が、交差する糸を断ち割る。切断された細線が、空中で弾け飛んだ。
「取り消さない!!」
血の匂いと汗の熱気を纏いながら、炭治郎は真っ向から言葉を叩きつける。
「俺の言ったことは間違ってない!!……間違っているのは、お前だ!!」
(――恐怖に怯まない。ならば……)
累は右手をひらりと掲げ、指先に絡めた糸を引き絞った。
瞬間、空中から降り注ぐのは――蜘蛛の巣状に展開された無数の糸。先ほど青年隊士を切り裂いた網の、倍はあろうかという密度と鋭さだった。
炭治郎は息を吸い、踏み込む。
――“水の呼吸 弐ノ型・改 横水車”
横回転しながら放たれる斬撃。身体を極限まで薄く見せ、迫り来る糸の壁を斬り裂きながら前へ出る。水流が渦を巻き、瞬きの間に距離が縮まった。
(このまま、一気に頸を斬る!!)
“水の呼吸――――”
刀が迫る。だが、累の口元が、かすかに歪んだ。
「ねぇ」
その声は、やけに冷ややかだった。
両手がじわりと朱に染まり、赤黒い糸が――空間そのものを覆い尽くす。
「――糸の強度は、これが限界だと思ってるの?」
“血鬼術・刻糸牢”
張り巡らされた糸は禍々しい光を帯び、空気ごと切り裂く圧を放つ。
鼻腔を突くのは、これまでとは桁違いの重苦しい匂い。直感が、叫ぶ――――斬れない、と。
そして、炭治郎の呼吸の音が、明確に変わった。肺の奥で、火が灯る。身体の内側から、熱が奔り出す。
――“ヒノカミ神楽 円舞”
燃え立つ炎の刃が、弧を描いて振り下ろされる。赤黒い糸が、音を立てて弾け飛んだ。
累の瞳に、はっきりとした動揺が宿る。
(……炎?水じゃない……これは……何だ?)
だが、糸は尽きない。断ち切られたはずの壁は、瞬く間に再生し、再び炭治郎の前に立ちはだかる。
(連続で使えば、身体が持たない……!それでも……!)
炭治郎は、歯を食いしばった。
(次の型で……糸ごと、斬り伏せる!!)
――“ヒノカミ神楽
炎が、二度閃く。
一撃目が、累を守る糸を引き裂き。
二撃目が――確かに、その頸へと届いた。
――――ドンッ!!
衝撃音と共に、視界の先で累の首が宙を舞う。
確かな手応え。炭治郎の瞳に、一瞬だけ勝利の光が宿った。
(斬れた!!)
その後――全身を襲ったのは、凄絶な代償だった。
肺が焼けるように熱く、血管が内側から裂けそうなほど圧迫される。筋肉は悲鳴を上げ、四肢が痙攣する。汗が滲み、視界は赤黒く歪んで揺らいだ。
炭治郎は、その場に膝をつき、荒い呼吸を何度も、何度も繰り返す。
――だが。
頸を斬ったはずなのに、匂いが変わらない。
鬼が滅びる時の灰のような気配が、どこにもない。血の匂いが、濃いままだ。
(……!!呼吸を整えろ!まだ、鬼を倒せていない!!)
その瞬間。
「――――僕に勝てたと思ったの?」
背後から、冷え切った声が落ちた。
炭治郎が振り向く。赤黒く光る瞳が、そこにあった。
飛んだはずの頭部は、繋がっている。刃が届く寸前、自らの糸で断面を切り捨て、死そのものを回避していたのだ。
空気が、音もなく凍りつく。
「可哀想に」
淡々とした声音。そこに怒りも嘲笑もない。
「哀れな妄想で、少しは幸せになれた?」
事実を告げるだけの、冷酷な声。
「もういいよ」
言葉が、断頭台の刃のように落ちる。
「――さよなら」
瞬間。空間いっぱいに、死の鋼糸が張り巡らされた。
(よけきれない………っ!!)
足に力を込める。だが、身体が命令に応えない。
迫る、無数の閃光。逃げ場は、ない。
その刹那――――
鮮血が、夜空に散った。
「――――禰豆子!!」
炭治郎の叫びと共に、妹の姿が視界へと映り込んでいた。
・
・
・
禰豆子は、両腕を大きく広げるようにして炭治郎の胸へ倒れ込んだ。断たれた髪の一房が宙を舞い、混じる血の匂いが夜気に溶けていく。
炭治郎は妹の体を抱き留めると、反射的に身を翻し、木陰へと駆けた。追撃を避けるためでもあったが、それ以上に――この小さな体を、これ以上傷つけさせまいという衝動に突き動かされていた。
累と、そのすぐ傍らに寄り添っていた姉役の鬼が、二人をじっと見据えている。姉鬼の視線には迷いがなかった。炭治郎たちは、ただ排除すべき邪魔者でしかない。
だが、累の目は違った。
箱から現れた少女の気配。兄に縋るように倒れ込むその姿。そして、必死に妹を抱え走る少年の背が深く映る。
累の瞳に――閃光のようなものが走った。
「禰豆子……禰豆子!兄ちゃんをかばって………ごめんな……」
炭治郎の声は、いつもの張りを失い、震えを帯びていた。その声色は、鬼殺隊の剣士としてではなく、ただの兄としてのものだった。
小さな体を必死に守ろうとするその姿に、累の指先が、かすかに震える。示すように、差し出される。
「……兄妹か?」
低く、冷たい問い。だが答えは、もはや必要なかった。
禰豆子の左手首は、糸によって深く裂かれ、千切れかけた肉が不自然に腫れている。炭治郎はその手をそっと支え、指先で包み込むようにして――ただ、塞がれと、癒えろと、心の中で繰り返し念じていた。
その光景を前に、累の表情が歪む。それは嫌悪ではない。理解でもない。
羨望と、渇望。
囁くように、しかし確かな熱を孕んだ声が漏れた。
「妹は……兄を庇った……身を挺して……」
言葉が、次第に昂る。
「本物の“絆”だ……!!欲しい……!!」
姉鬼が、はっとして累に縋りつく。震える声で、自分こそが“姉”であると、必死に訴えた。
だが――累の手が振り上げられる。
次の瞬間、姉鬼の頸と右腕は、無造作に切り離された。糸が空を裂き、林の一角が引き千切られるような音を立てて崩れ落ちる。残されたのは、切断の余韻と、耳を打つ静寂。
炭治郎の体が、反射的に強張った。
累の口元に浮かぶのは、冷ややかな嘲り。そして、命令。
「――今、山の中をチョロチョロしている奴らを殺して来い」
淡々と、告げる。
「そうしたら……
それは約束ですらなかった。ただの餌だ。
姉鬼は、涙を流しながら、それを受け入れるしかない。炭治郎が視線を向けるより早く、彼女は背を向け、失態を取り繕うための殺戮へと消えていった。
その背を――累は、一瞥もしなかった。
やがて、累は体勢を立て直し、ゆっくりと炭治郎の前へ歩み寄ってきた。
先ほどまでの昂りは影を潜め、声色は不自然なほど柔らかい。語りかけるように紡がれる言葉は、一見すると穏やかで――だが、その実、毒にも似た欺瞞を孕んでいた。
「坊や、話をしよう」
穏やかな呼びかけ。しかし、その距離感は捕食者のそれだった。
「僕はね……感動したんだよ。君たちの“絆”を見て、体が震えた。この気持ちを表す言葉なんて、この世にないと思う」
感嘆を装った声。だが、その奥にあるのは共感ではない――所有欲だ。
累は、当然のことのように続ける。
「だから、取引をしよう。君の命だけは助けてあげる。その代わり――君の妹を、僕に頂戴」
あまりにも自然に告げられたその言葉に、空気が凍りつく。
「………何を言ってるのかわからない」
「君の妹には僕の妹になってもらう、今日から」
炭治郎は即座に刀を握り直した。
怒りが、全身を灼く。
「そんなことを承知するはずがないだろう!!」
声が、夜に響く。
「それに禰豆子は物じゃない!!自分の想いも、意思もあるんだ!!お前の妹になんて、なりはしない!!」
正面からの拒絶。怒りと信念を、言葉に乗せて叩きつける。
だが、累は――折れない。薄く笑みを浮かべたまま、首を傾げる。
「大丈夫だよ。心配はいらない」
その声音は、どこまでも優しい。
「“絆”はね、繋げばいいんだ。僕の方が強い。だから、君よりずっと上手くやれる」
そして、決定的な言葉が落ちる。
「恐怖の“絆”だよ。逆らったらどうなるか、ちゃんと教えてあげる」
炭治郎は叫ぶ。恐怖を“絆”と呼び、人を縛り付けるその論理を――断じて否定する。
だが、言葉はもう届かない。対話は交渉に至らず、理解にも辿り着かず。ただ、決裂だけが残された。
「いいよ。別に」
累の声から、感情が消える。
「殺して、奪るから」
「俺が先にお前を倒す」
短い応酬。それで、すべてが終わった。
累は静かに前髪をかき上げる。左の瞳に刻まれた文字が、月光を受けて閃いた。
――下弦の伍
十二鬼月の位階の提示は、宣告だった。言葉の無力さを、力そのもので示す合図。
空気が、一瞬で戦場へと変貌する。
炭治郎の刀が夜気を切り裂き、累の放つ糸が、獲物を縛るため鋭く宙を走る。もはや語る余地はない。
そこにあるのは――ただ、刃と糸の衝突だけだった。
(ヒノカミ神楽を使えるのは……あと一度きり……!!
あの子の頸は、糸よりも硬い。ヒノカミ神楽じゃなければ、斬り落とせない!!)
一ヶ月に及ぶ修行の果て――
炭治郎はついに、戦闘の最中でヒノカミ神楽を繰り出せる段階に至っていた。
だが、それは“切り札”であるがゆえに、制約もまた苛烈だった。使用できる回数は限られ、連続発動は不可能。
先ほど無理に技を重ねた代償で、全身の筋肉は悲鳴を上げ、呼吸のたびに肺が軋んでいる。
最大で――三回。
姉からも「今の炭治郎では、それ以上は命を削る」と釘を刺されていた。そして、その三回のうち――すでに二度を使ってしまっている。
(強度を増した糸も……今は、水の呼吸で斬るしかない!!)
累は、そんな炭治郎を見下ろしていた。
彼にとって“生きる価値”があるのは、自らの定めた役割を理解し、従う者だけ。
炭治郎の役割は、妹を差し出し、そして消えること。それができないなら――死を選ぶ以外にないと、当然のように断じている。
「……嫌な目をするね」
累は薄く笑う。その視線は、燃え盛る炎を眺めるようでいて、理解しようとはしていない。
「メラメラと燃えて……愚かだな」
指先が、ひらりと動いた。糸が音もなく展開する。
「もしかして――――勝つつもりなのかな!!」
次の瞬間、白刃のような糸が四方八方から空気を切り裂き、炭治郎へ襲いかかった。
(落ち着け……!呼吸に集中しろ……!最も精度の高い――最後の型を繰り出せ!!)
ヒュゥゥゥ――
肺の奥深くまで息を送り込み、炭治郎は全身の痛みをねじ伏せる。
――“全集中・水の呼吸 拾ノ型 生生流転”!!
踏み込みと同時に、刀身が唸りを上げた。渦を巻くような回転が生まれ、刃は龍のごとく躍動する。
一撃目――風を裂く音とともに、糸が断たれる。
二撃目――その威力はさらに増し、束ねられた糸をまとめて斬り払う。
三撃目――回転が加速し、龍が牙を剥くように、糸を噛み砕く。
四撃目、五撃目――回転を重ねるたび、斬撃は指数関数的に膨れ上がった。
糸の束が引き裂かれる刹那、青白き龍の顎が喰らいつく幻影が、確かに走る。
――ザンッ!!
爆ぜるような衝撃音。累の張り巡らせた糸の渦は、次々と引き裂かれ、残響だけが山の空気を震わせていた。
(回転するごとに……威力が増している……!!まずい――!!)
累は朱に染まった両手を、突き出すように掲げた。指先から溢れ出した糸は、瞬く間に空間を侵食し、絡み合い、渦を巻く。
赤黒い糸が咆哮を上げるように回転し、やがて――暴風の竜巻と化した。
“血鬼術 刻糸輪転”――――
視界いっぱいに迫り来るのは、禍々しい糸の嵐。
水流の奔流を裂き進んでいた炭治郎の進路を、正面から塞ぐ。
(っ……!!まだ、強度を上げられたのか!?)
糸から漂う匂いが、残酷な事実を告げていた。いかに回転を重ねた“生生流転”であっても――この“最硬度”の糸は、断てない。
一瞬、炭治郎の思考が凍りつく。だが、逡巡はほんの刹那だった。
(……やるしかない!!)
全身から迸る熱。肺の奥で、呼吸が――切り替わる。
“ヒノカミ神楽――
その瞬間、水流の龍は炎を纏い、灼熱の咆哮を上げた。
円を描いて舞う軌跡が、渦巻く最硬度の糸へと噛みつく。火焔が走るたび、累の防御網は裂け、焼き切られ、白熱の破片となって弾け飛んだ。
燃え立つ龍神が、糸の嵐を食い破っていく。
だが、それは――――――
累の狙い通りだった。
(あの
累は、冷静にそう判断していた。
二段階目の糸を断ち、己の頸すらも、再び断ちかねない――あの灼熱の斬撃。
だが、同時に理解している。
あの炎を放った直後、炭治郎は必ず崩れ落ちる。水の技のように、連ね、回し、積み上げることはできない。
(……なら)
思考は冷徹に、残酷に結論へ至る。
(脅威となる技は、先に吐き出させればいい)
そして今。炎の龍を放った炭治郎は、再び累の眼前へと迫っていた。
二度目の隙を突かれた糸が、まるで意思を持つ生き物のように蠢き、炭治郎の眼前へと張り出される――腕だけなら、頸へ届く距離。
荒れ狂う呼吸に、肺が焼ける。血管が内側から裂けるように膨張し、腕は痺れ、感覚を失いかけていた。握る刀は鉛の塊のように重く、足は地に沈む。
それでも――止まれない。
(今やらなければ……禰豆子を、守れない!!たとえ……相打ちになったとしても!!)
限界を超えた肉体に、さらに命を叩き込む。相打ちでも構わない。この一太刀に、自分のすべてを賭けるしかなかった。
刹那、胸の奥を灼き尽くすような熱が貫いた。
炭治郎の眼差しは揺らがない。そこに宿るのは、恐怖ではなく――覚悟のみ。
“ヒノカミ神楽――炎舞”!!
累の瞳が、冷ややかに炭治郎を捉える。瞬間、殺意を宿した糸が、一直線に伸びた。
だが――――その糸は、燃え切れた。
(馬鹿な…………!?)
林の縁で、禰豆子が身を躍らせていた。
滴る血が糸に触れ、炎となって一気に燃え広がる。血を媒介に、糸を焼く――姉の姿を真似た、禰豆子自身の“意志”だった。
灼熱の血炎が糸を炙り、燃え落ちる音が、耳を裂く。
空気は熱を帯び、刀の刃先は血の熱をまとい、まるで炭治郎の速度そのものを吸い込むかのように――加速する。
炭治郎は、喉が裂けるほどの覚悟を叩きつけ、炎舞へと身を預けた。振り抜かれる刃先。
累の頸を守る、最後の一本に――僅かな“隙”。
――ギンッ!!
刀身が弾かれ、柄が悲鳴を上げる。
刃は、折れた。
それでも――残った刃先は、なおも前へ進む。
血の熱を帯びた糸を、燃えさしを躍らせながら――食い裂いて。
「俺たちの絆は、誰にも引き裂けない!!」
―――スパッ
空気を切り裂く、乾いた断音。
赤黒い糸の結い目が崩れ、累の頸は――血の炎と炭治郎の一閃の狭間で、ついに、弾かれるように宙を舞った。
・
・
・
炭治郎の視界の前で、累の体は赤黒い糸の痕を残しながら、掌から徐々に崩れ落ち始めた。
(か、勝てた…………勝てたんだ、禰豆子……)
折れた刀を握ったまま、炭治郎は膝から崩れ落ちる。倒れる寸前、珠世から預かっていた採血用の短刀を投げることも忘れなかった。
視界は霞み、耳鳴りが耳を突き抜ける。全身の痛みが血管の隅々まで響き渡り、まるで自分の体が限界の淵にあることを告げているようだった。それでも炭治郎は呼吸を整えようと必死に胸を開く。体がどうあれ、すぐに回復しなければならない。
伊之助を、すぐに助けに行かなくては――――
反転した視界に、累の赤黒い瞳が血飛沫の向こうから炭治郎を睨む。
(くそっ!くそっ……殺す……あの兄妹は、必ず…………)
だが、頸が地面に落ちる瞬間、累の視界に映ったのは、駆け寄り抱き締める禰豆子と、その腕に温かく応える炭治郎の姿だった。
「禰豆子……ありがとう。また助けてくれたんだな……」
疲れ切った体の奥から、小さく安堵の笑みがこぼれる。
その光景に、累の胸は押し潰されるように、記憶の奔流に飲み込まれた。
(――――そうだ……俺は……毎日、毎日……父と母が恋しくて、たまらなかった……)
人間だった頃の温もり。無惨との出会い、鬼となった過去――そして、自分の手で両親を失わせてしまった後悔。
孤独と恐怖に縛られ、誰かに縋らずにはいられなかった記憶が、体中に波紋のように広がる。
(偽りの家族を作っても、虚しさは消えない……結局、俺が一番強いから、誰も俺を守れない……庇えない……強くなるほど、人間の記憶も感情も薄れていく……俺は、何を求めていたんだ……?どんなに手を伸ばしても、届かない絆を、なぜ……)
そして累の胴体は、兄妹のそばで、静かに地面へと崩れ落ちた。
小さな体から放たれるのは、抱えきれないほどの深い悲しみの匂い。炭治郎の瞳から、自然と涙が溢れそうになる。
そして、そっと手を差し伸べた。幼子をあやすように、ゆっくりと――――
その手は陽光のように温かく、累の胸に眠る、最も純粋な願い――両親への謝罪を思い出させる。
(………謝りたかったんだ。全部、僕が悪かった……両親に、ただ謝りたかっただけなんだ)
小さな呟きが夜気に消える。
累の頭部と体は、最後の光を帯びて、静かにこの世から消え去った。
人としての姿を取り戻した累は、穏やかな静寂とともに、もう二度とこの世に戻らなかった。