空想鬼譚   作:庵non

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16.一難去ってまた一難

 

 

 

 

「人を喰った鬼に、情けをかけるな。子供の姿をしていようと関係ない。何十年、何百年と生きている――醜い化け物だ」

 

 冷え切った声音が、静まり返った森に落ちた。まるで月光そのものが言葉を発したかのように、感情の温度を持たない声だった。

 炭治郎は荒く上下する胸を押さえ、震える指で懐の短刀をしまい込む。

 視線を上げると、月明かりの下――そこに、冨岡義勇が立っていた。斬り伏せられ、崩れ落ちた累の亡骸の着物を、義勇の足が無造作に踏みつけている。

 胸の奥が、ずきりと痛んだ。それは疲労でも傷でもない。もっと深いところ――心を直接えぐられるような痛みだった。

 

「殺された人たちの無念を晴らすため……これ以上、被害者を出さないため……」

 

 炭治郎は言葉を絞り出す。声は掠れていたが、揺れてはいなかった。

 

「俺は、容赦なく鬼の頸に刃を振るいます。だけど――」

 

 累の着物に触れていた掌に、ぎゅっと力がこもる。

 

「鬼であることに苦しみ、自分の行いを悔いている者を……俺は踏みつけにはしない」

 

 炭治郎は、まっすぐに義勇を見上げた。

 

「鬼は人間だったんだから。俺と同じ、人間だったんだから………足をどけてください。醜い化け物なんかじゃない。鬼は――虚しい生き物だ。悲しい、生き物です」

 

 義勇が何かを返すよりも早く、森の奥から荒い息づかいが迫ってきた。

 

「ハァ、ハァ……追いついたぜ!早足野郎!!……鬼はどこだ!!」

 

 豪快な声と共に、伊之助が飛び出してくる。その腕には、小さな体となった灯麻希がしっかりと抱えられていた。

 

「伊之助!!」

 

 堪えていたものが、堰を切ったように溢れる。炭治郎の目尻から、涙が零れ落ちた。

 

「無事でよかった……!!ごめんな、助けに行けなくて……!!」

 

 義勇は一瞬だけ伊之助に視線を向け、淡々と告げる。

 

「炭治郎が、十二鬼月の――下弦の鬼の頸を斬った」

「なにーー!豚太郎が!?」

 

 伊之助は目を見開き、すぐに吠えた。

 

「だがな!俺もあの硬ェデカブツの頸を斬ったぜ!!――お前はボロボロで地面に転がってる!俺はまだ立ってる!俺の勝ちだな!!」

 

 猪頭の奥から荒々しい鼻息。誇らしげな態度。だが肩は大きく上下し、全身が傷だらけなのは誰の目にも明らかだった。

 炭治郎は、かすかに笑う。

 

「はは……お前だって、人のこと言えないじゃないか」

 

 そして、伊之助の腕の中の存在へ視線を向ける。

 

「姉ちゃんを……連れてきてくれて、ありがとう」

 

 伊之助の体に残る血の匂い。そして灯麻希の術の残り香。小さくなって、眠るように目を閉じた彼女の姿。

 ――ああ、姉が命を繋いでくれたんだ。

 炭治郎は、そう感じ取っていた。

 

「てめェ――」

 

 伊之助が言い返そうとした、その瞬間。

 ぞくり、と空気が震えた。

 義勇が即座に動く。伊之助を地面に押し倒し、同時に炭治郎の前へと踏み出す。

 

 ――ガキィイン!!

 

 夜気を裂く、鋭い金属音。義勇の刀が、目にも留まらぬ速さで迫った刃を受け止めていた。

 

「……!」

 

 炭治郎は息を呑む。

 空中でひらりと舞い、軽やかに着地した女の剣士。涼やかに細められた瞳。その唇には、見えない毒を含んだ微笑が浮かんでいる。

 

「あら?どうして邪魔をなさるんですか、冨岡さん」

 

 “蟲柱”――胡蝶しのぶ。

 蝶の羽織を翻し、静かに、しかし確実に鬼へ死を運ぶ存在。

 

 その殺意が、針のように鋭く――灯麻希と、禰豆子へと向けられる。

 その瞬間だった。

 灯麻希の瞼が――ぱちり、と弾かれるように開かれた。

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 意識が浮上したとき、私は伊之助の腕の中にいた。地面に伏せられた体勢のまま、まず視線だけを動かし、状況を拾い上げる。

 正面には、屈み込んだ義勇さん。

 その背後で、うつ伏せになった炭治郎が身を投げ出すようにして禰豆子を庇っている。彼の腕の中で、禰豆子は眠っていた。

 

 ――なるほど。

 

 体を動かす前に、頭の中で状況が繋がる。累との戦いが終わった直後だ。炭治郎たちの前に義勇さんと伊之助が合流した――そんな流れだろう。

 

「鬼とは仲良くできないって言ってたくせに……何なんでしょうか。そんなだから皆に嫌われるんですよ」

 

 義勇さんの正面奥。軽やかで、それでいて毒を含んだ声音が聞こえる。視界の端を、毛先に紫を帯びた髪が掠める。

 胡蝶しのぶ――気配と殺意が一致している。柱だ。しかも、容赦なく“鬼を殺す側”の。

 

 (……炭治郎たちが生きている)

 

 それだけで、胸の奥がふっと軽くなった。誰が累の頸を斬ったのかは重要じゃない。

 この場に、炭治郎と禰豆子がいる――それが答えだ。

 

「さぁ、冨岡さん。どいてくださいね」

「俺は嫌われてない」

「あぁ、それ……すみません。嫌われている自覚がなかったんですね。余計なことを言ってしまって、申し訳ないです」

 

 妙な空気を孕んだやり取り。刃のない言葉なのに、空気がひりつく。

 私は身動きの取れないまま、次の一手を思案する。

 

「坊やたち」

「はいっ」

「坊やたちって誰のことだ!俺は坊やじゃねぇ!!」

 

 炭治郎は反射的に返事をし、伊之助は即座に噛みつく。

 小さく、しかしはっきりと、彼女は告げた。

 

「お二人が庇っているのは鬼ですよ。危ないですから、離れてください」

 

 伊之助の気配が、目に見えるほど揺れる。(……何言ってんだ、こいつ)と思っているだろう感情が、こちらにまで伝わってくる。

 

「ち、違います!!……いや、違わないけど!!あの!!俺の、姉と妹なんです!!それでっ!!」

 

 炭治郎は必死に言葉を繋ぐ。けれど疲労と焦燥で呼吸が乱れ、説明は形を成さない。

 

「まぁ……そうなのですか。可哀想に」

 

 その声は、どこまでも優しかった。

 

「では――」

 

 金属音が、空気を裂く。

 

「苦しまないよう、優しい毒で殺してあげましょうね」

 

 微笑みと共に溢れ出す殺意。そこに、交渉の余地はない。

 

「動けるか――動けなくても、根性で動け」

 

 低く、短い義勇さんの声。

 

「お前たちは、二人を連れて逃げろ」

 

 炭治郎が、はっと顔を上げる。

 

「……冨岡さん……!すみません!!ありがとうございます!!」

 

 禰豆子を抱き上げる炭治郎。私を支える伊之助の腕に、力が込められる。

 二人は、同時に駆け出した。

 

 

 

 ・

 ・

 ・

 

 

 

 森の中、炭治郎は木の根元に隠していた箱を掴み上げ、伊之助と並んで坂を駆け下りる。

 闇に紛れてもなお、足音は重く、呼吸は乱れていた。炭治郎は全集中の呼吸を維持しているとはいえ、怪我と疲労は隠せない。二人の胸は激しく上下し、顔には痛みを噛み殺すような苦悶の色が張りついている。

 私は伊之助の左脇に抱えられたまま、炭治郎の横顔を見つめていた。

 

 弟の魂が、視える。赤ではない。怒りでもない。青と鼠色が絡み合い、そこに滲むような悲しみと不安が溶け込んでいる。

 伊之助の魂は、炭治郎ほど複雑ではない。一直線で、荒々しく、獣のようだ。だが彼の体は、癒血で塞がりかけていた傷口が再び開き、赤い血が滲み始めていた。

 

(……私たちの問題に、負傷した伊之助まで巻き込んでしまった)

 

 罪悪感が胸を締め付ける。そして、担がれたまま何もできない自分の無力さが、さらにそれを押し広げた。

 

「伊之助……」

 

 炭治郎が、わずかに口を開く。

 

「ごめん……巻き込んでしまった」

 

 息を詰めるような声だった。

 

「……頼む!姉ちゃんを、俺に渡してくれ!!」

 

 その言葉に、伊之助が噛みつくように吠える。

 

「何でだよ!!……ボロボロのデコ太郎が、コイツら抱えて逃げ切れるわけねぇだろ!!」

 

 怒気が飛ぶ。荒い呼吸の隙間から、互いに譲れない意志がぶつかり合い、森の空気まで震えたように感じた。

 

「お願いだ……言うことを聞いてくれ!!伊之助まで……これ以上、巻き込みたくないんだ!!」

 

 必死な声。それは命令でも懇願でもなく、恐怖そのものだった。

 

「イヤだね!!」

 

 即答。

 

「俺は狐子分に借りがある!!それに、子分を守るのが親分の務めだろうが!!」

 

 伊之助の叫びに、炭治郎は言葉を失った。返す言葉が、もう見つからない。

 そして――弟の灰青色だった魂が、内側からじんわりと変わっていく。若草色。そこに、かすかな朱の光が差し込むような、柔らかな色。覚悟と、受容と、感謝。

 炭治郎の顔が歪む。

 涙をこらえるように、唇を噛みしめた表情へと変わった。

 

 その時。背後――頭上から、鋭い視線が突き刺さった。反射的に顔を上げ、振り向く。

 

「あっ……」

 

 視界に捉えた瞬間には、すでに遅かった。

 その影は最も近い枝を蹴り、高く宙へ舞い上がる。

 

「――がっ!」

 

 声が震えるよりも早く、木の上から飛び降りた彼女は、炭治郎めがけて容赦なく踏みつけた。その反動を利用するように、右手の刀がこちらへと振り抜かれる。

 狙いは――首。

 伊之助が即座に右へ大きく跳ぶ。

 斬撃は首筋をかすめ、空を裂く音だけを残して通り過ぎた。

 

 (……今のは、危なかった)

 

 かすかな熱とともに、首に細い一線が走る。遅れて、ひやりとした感触が肌を撫でた。

 

 (ナイス、伊之助くん!)

 

 折れた刀を握り直し、伊之助が応戦に転じようと踏み出す。だが――カナヲは、追ってこなかった。

 次の瞬間、彼女は方向を変え、地面に投げ出されていた禰豆子の上へ、跨るように着地する。

 大きく、ためのない一太刀が振り下ろされる。

 

 ―――グンッ!!

 

 (炭治郎!)

 

 倒れていた炭治郎が、咄嗟にカナヲの羽織を掴み、後方へ引いた。重心が崩れ、刀の軌道が大きく逸れる。地面に刻まれたのは、禰豆子の頭部に沿うような、浅い傷跡だけだった。

 伊之助が駆け出そうとする。

 だが、その刹那――ほんの紙一枚ほどの隙間をこじ開けるように、炭治郎が叫んだ。

 

「禰豆子は、逃げろ!!伊之助も、そのまま逃げろ!!」

 

 叫びが、耳を打つ。

 伊之助の足が、一瞬だけ止まった。

 

「……お願い!炭治郎の言うとおり、逃げて!!」

「クソッ……!!分かったよ!!」

 

 歯を食いしばる音とともに、伊之助は方向を変える。

 体を大きく揺らし、地を蹴って走り出した。

 

 視界の端で――炭治郎がカナヲに踵を叩き落とされ、地面へと崩れ落ちる。

 

 

 

 ・

 ・

 ・

 

 

 

 伊之助が私を抱え、森の中を疾走する。視界は緑に溶け、木々が線となって流れていった。耳に届くのは、彼の荒い呼吸と、足元で草を踏み裂く音だけ。

 追手は――“知識”どおり、栗花落カナヲ一人のみ。

 炭治郎と禰豆子の命が奪われないことも、自分と妹が持つ朧気な“記憶”から、私は把握している。頭は睡魔に沈みかけ、思考は鈍い。それでも、残された理性が告げていた――分かれて逃げても、問題はない、と。

 だが、伊之助はそんなことを知らない。もっと“知識”を上手く使えていれば、穏便な選択肢もあったはずだ。それでも現実は、彼を巻き込み、私という“荷物”を抱えさせての逃亡劇になっている。

 

 情けなさが胸を刺す。せめて――彼の選択が間違っていないことだけは、伝えなければ。

 

「二人とも、きっと大丈夫だから……伊之助くんの選択は、間違ってないよ」

「お前も炭治郎も、俺に対して細やかな気遣いをすんじゃねぇ!」

 

 フン、と鼻を鳴らす音。汗に濡れた体と、猪頭の奥で光る眼差しが、一瞬だけ獣の鋭さを帯びた。

 

「お前らに言われたからじゃねぇ!隊員同士で斬り合うなんざ御法度だろうが!勘が言ってんだ。ここで暴れたら、全部ぶっ壊れる!……だから、今は引いただけだ!!」

 

 吐き捨てるような言葉。それは強がりにも、不安を打ち消すための叫びにも聞こえた。けれど、その奥には確かに――伊之助なりの“理由”があった。

 

 伊之助は、自分のやり方で。戦わないという選択を、はっきりと選び取ったのだ。

 

 その“勇気”が、胸に残っていた罪悪感を、すうっと溶かしていく。

 学んだ御法度を、こんなにも真っ直ぐに、愚直なほど守ろうとする姿が――場違いにも、少しだけ微笑ましく思えた。

 

「そっかぁ……戦略的撤退、だったんだね。ふふっ」

「あぁそうだ!…………何がおかしい!!」

「ごめん。何だか可笑しくて……あと、ちょっと可愛いなーって……」

「はぁ!?」

 

 私は鬼だ。 彼は鬼を斬るための組織の隊員で、その彼が鬼を庇った――明確な隊律違反。

 それでもなお、御法度を気にかけているという、その一点が、どうしようもなく可笑しくて。堪えきれず、私は笑ってしまった。

 

「だから、ごめんって言ってるでしょう。

 ……って、伊之助くん……!前!!」

 

 視線の先。

 黒衣に身を包んだ人影が、いくつも森の中に立っていた。

 “隠”――戦闘後の処理と救護を担う、鬼殺隊の後方支援部隊。本来ならば、同じ組織に属する“仲間”のはずの存在。

 けれど今の私たちにとって、その立場は意味をなさない。彼らは――新たな追手と、何ら変わらなかった。

 

「おい!猪がこっちに来るぞ!!」

 

 一人の隠が伊之助に気づき、声を張り上げる。その一言を合図に、周囲がざわついた。慌てて後ずさる者、震える手で小刀を抜き構える者。

 

「あれは……猪の鬼か!?」

「いや、猪の顔を被った人間だ!」

「鬼を連れてるぞ!!」

 

 声は次第に、恐怖と警戒を帯びていく。彼らの多くは、剣技の才に恵まれなかった者たちだ。

 つまり――戦えない。不測の事態に混乱するのも、無理はなかった。

 

「チッ……面倒くせぇ!!」

 

 伊之助が舌打ちし、踵を返そうとした――その瞬間。

 

「――伝令!!伝令!!」

 

 鎹鴉の甲高い声が、森を鋭く切り裂いた。

 空気が、ぴたりと凍りつく。

 

「伝令アリ!!

 炭治郎・禰豆子・灯麻希ノ三名ヲ拘束、本部ヘ連レテ帰ルベシ!!炭治郎、額ニ傷アリ!竹ヲ噛ンダ鬼、禰豆子!面ヲツケタ鬼、灯麻希!!――猪頭ハ、灯麻希ヲ“隠”ニ引キ渡スベシ!!」

 

 判決のような声が、頭上から突き刺さった。

 私は、わずかに目を細める。逃げ場は、ここで完全に断たれた。

 次に待つのは、審問。裁かれる場だ。

 それでも、不思議と心は静かだった――来るべき時が、来ただけだ。

 

 

 

 その後、私たちは“隠”に捕らえられ、箱へと詰められた。中では、禰豆子がすでに深い眠りに落ちている。

 伊之助は手当を頑なに拒み、最後まで暴れ続けていたが――途中で限界が来たのだろう。糸が切れたように、ぴたりと動かなくなった。

 

「何だコイツ……?大怪我してるくせに、抵抗しすぎだろ………」

「……まさか、イノシシを追い回すことになるとは思わなかった…………つ、疲れた」

 

 

 

 

 

 

 

 

 




那田蜘蛛山編これにて終了。
無事に山を踏破することができました!

善逸の活躍は控えめになってしまいましたが、蝶屋敷編以降で、彼なりの見せ場が待っています(多分)。
また冨岡義勇の戦闘シーンは、原作より一段成長した炭治郎と伊之助の活躍により、今回は描写を割愛する形になりました。
後輩の盾になるのも柱の役目、ということで……どうか広い心で受け取っていただけたら嬉しいです。

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