「善良な鬼と悪い鬼の区別もつかないなら、柱なんてやめてしまえ!!」
「てめェェ……ぶっ殺してやる!!」
言葉が宙に残るより先に、鈍い衝撃音が庭に響いた。
風柱――不死川実弥の体が大きく仰け反り、砂利の上へと崩れ落ちる。赤い血が、鼻先から多量に滴った。
炭治郎が、不死川の所業を前に理性を失い、突っ込んだのだ。一拍遅れて、不死川は怒気を噴き上げ、剥き出しの殺意を叩きつけるように叫ぶ。
竹雄は、その一連を瞬きもせず見ていた。
遅れて柱裁判の場に現れた男。無造作に抱えられた、二人の鬼の姉が入った箱。鬼が人を守るはずがないと断じ、躊躇なく日輪刀を突き立てた、あの瞬間――
箱ごと貫かれた刃を見た途端、炭治郎の顔から理性が消えた。止める間もなく、彼は前へ飛び出し、頭突きを叩き込んだのだ。
怒号と殺気が庭を満たし、今にも血が流れかねないその刹那。幼い子どもたちの、澄み切った声が割って入った。
「お館様のお成りです」
空気が、音を立てて張り詰める。怒りも、殺意も、言葉さえも、その一言で凍りついた。
広縁に面した座敷の奥。ゆったりとした足取りで、ひとりの男性が姿を現す。
「よく来たね。私の可愛い
襖を開けた二人の白髪の少女に体を支えられながら、静かに縁側へと歩み出る。
上品な着物に包まれたその身は細く、穏やかな佇まいとは裏腹に、顔の上半分を覆う薄紫色の爛れが、否応なく視線を引いた。美丈夫な面差しを覆い隠すその痕こそが、彼の宿命。
――“お館様”。鬼殺隊当主・産屋敷耀哉。
「お早う、みんな。今日はとてもいい天気だね。空は青いのかな?半年に一度の“柱合会議”を、こうして変わらぬ顔ぶれで迎えられて嬉しく思うよ」
その柔らかな声に、整列し張り詰めていた柱たちの表情が、僅かに緩んだ。
一方で、炭治郎だけが状況を呑み込めず、呆然と立ち尽くしていた。不死川が苛立ち混じりにその頭を押さえつけ、無理やり平伏させる。
竹雄もまた、遅れて事態を理解する。煉獄から送られた小さな手の合図に従い、慌てて膝をつき、他の柱たちと同じように頭を垂れた。
(この人が、裁定を下す)
庭を覆っていた混沌は、たった一人の存在によって完全に封じ込められた。
ここから先は、感情ではなく――審判の時間だ。
不死川が、代表するように挨拶を述べる。
「――畏れながら柱合会議の前に、この竈門炭治郎なる鬼を連れた隊士と、報告を怠った竈門竹雄両名について。その真意とご判断を、お聞かせ願いたく存じます」
先ほどまでの粗暴さは影を潜め、その声音には最上位の敬意だけが込められていた。炭治郎と竹雄は、その急激な口調の変化に思わず目を見開く。
産屋敷耀哉は、静かに微笑んだ。
「そうだね。驚かせてしまって、すまなかった」
穏やかな声が、庭に柔らかく落ちる。
「炭治郎と竹雄、そして灯麻希と禰豆子のことは――私が容認していた。そして私は、皆にもそれを認めてほしいと思っている」
沈黙が降りた。
それぞれの胸に、異なる種類の衝撃が走る。賛同派の柱たちは言葉少なに、しかし確かに頷いた。
「俺は派手に同意する。使える奴は使う。それが合理的だ」
「僕はどちらでも……すぐ忘れるので」
宇髄は堂々と主張し、時透は相変わらず虚空を見つめたまま、気のない声を落とす。
一方で、否定派――悲鳴嶼、伊黒、そして新たに加わった不死川は、はっきりと首を振った。
「信用しない。信用しない。そもそも、鬼は大嫌いだ」
「鬼を滅殺してこその鬼殺隊。竈門
空気が、目に見えて冷え込んだ。お館様の言葉を受けてもなお、変化しない意思。
竹雄はその光景をただ見つめ、唇を噛みしめる。どうすれば、この人たちを納得させられるのか――答えは、まだ見えない。
(それにしても……)
竹雄の意識が、ふと
産屋敷耀哉の声音には、不思議な響きがあった。柔らかく、波のように寄せては返す調子。聞いているだけで、胸の奥に溜まっていたざわめきが、自然と鎮まっていく。風のささやきや、雨音に似ている。意識せずとも、心に染み込んでくる音。
竹雄は直感する。鬼殺隊という苛烈な組織を束ねているのは、恐怖でも、力でもない。この
「では、手紙を」
「はい」
お館様が、左隣に控える少女――ひなきへと穏やかに視線を向けた。
「こちらの手紙は、
ひなきは一礼し、文面に目を落とす。張り詰めた庭に、澄んだ声が響いた。
『――炭治郎、竹雄が鬼の姉妹と共にあることを、どうか御許しください。
二人は強靭な精神力で、人としての理性を保っています。飢餓状態にあっても人を喰らわず、そのまま二年以上の歳月が経過致しました。
俄かには信じ難い状況ですが、紛れもない事実です。
もしも灯麻希と禰豆子が人に襲いかかった場合は、竈門炭治郎、竈門竹雄、及び――
鱗滝左近次、冨岡義勇が腹を切ってお詫び致します』
(じいちゃん……冨岡さん……!)
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
鬼殺隊という組織は、炭治郎と竹雄が想像していた以上に、鬼への敵意と憎悪を根深く抱えている。下の階級の隊士を率いる柱たちは、なおさら顕著だ。
家族が無惨に惨殺され、灯麻希と禰豆子が鬼にされた、あの日――
もし、冨岡義勇以外の隊士があの場に現れていたなら。四人そろって今日という日を迎えることは、決して叶わなかっただろう。
冨岡が信じ、鱗滝へと繋いでくれたからこそ、今がある。
そして鱗滝左近次という老剣士は――「鬼は必ず滅すべし」という従来の常識に固執せず、水のように柔らかな思考で、命を懸けて最後まで寄り添ってくれた。竹雄が師事した期間は、わずか三ヶ月にすぎない。それでも、その献身と覚悟は胸の奥に深く刻まれている。
炭治郎は堪えきれず、ぽろりと涙をこぼした。竹雄は、言葉を失ったまま息を呑む。
ただ一人、冨岡の表情だけは、水面のように
不死川は舌打ちしかけたが、ひなきが次の書状を取り出すのを見て、乱暴に言葉を飲み込んだ。
「続いて、炎柱・煉獄杏寿郎様からの書状を一部抜粋して読み上げます」
その名が告げられた瞬間、煉獄以外の柱たちの視線が、一斉に彼へと注がれた。驚愕。困惑。そして――畏れ。だが当の本人は、何事もないように背筋を伸ばしたまま、微動だにしない。ただ、正面を見据えている。
鱗滝の手紙と変わらぬ声調で、ひなきの声が庭に響いた。
『――竈門竹雄は、鬼殺隊にふさわしき隊士にございます。ならば、その兄・炭治郎もまた、同じ志を抱く者と信じます。
もしも、鬼を連れた竈門炭治郎少年、並びに鬼の姉妹が公に認められぬのであれば――
私、煉獄杏寿郎もまた、その責を負い、命をもって償う所存にございます』
寸秒。場を支配したのは、音のない沈黙だった。それを破ったのは、不死川の怒声である。
「……煉獄ゥ!てめェまで何言ってやがる!!」
鼻息荒く一歩踏み出し、煉獄を睨み据える。
「元水柱や冨岡が勝手に腹を切るって話なら好きにしろとなるがなァ!お前は決断が早すぎだろぉぉ!!そんなもん、保証にも抑止にもなりゃしねぇんだよ!!」
「……煉獄が継子とその家族を庇うことは、予想していた」
低く、しかし重みのある声が続く。
「だが……ここまでの覚悟を、この場で示すとは……」
悲鳴嶼は数珠を強く握りしめ、祈るように呟いた。その声音には、確かな驚愕と――わずかな敬意が滲んでいた。
他の柱たちもまた、否応なくその言葉を受け止めていた。己の命を賭した言葉の前では、いかなる理屈も色褪せる。
竹雄の胸の奥で、熱が弾けた。
(……師匠……!!……そこまで、俺たちのことを……!!)
堪えきれず、熱いものが溢れ出す。涙となって、頬を伝った。煉獄の手紙は、形式ばった文面でありながら、竹雄には、彼がすぐ傍らで真っ直ぐに語りかけているかのように聞こえた。
それは「人を襲うか否か」という結果に命を賭したものではない。
信じた自分の判断に、責任を取るために命を賭ける――その覚悟が、竹雄の胸を灼いた。
煉獄は、当初から一貫して「竹雄は掟を破っていない」と考えていた。
竈門家の事情を知る彼にとって、兄弟が鬼殺隊に加われた事実は――お館様の承認があったからこそ、成立しているものだった。今日の柱合会議まで説明がなかったのは、あえて隊の内情を見極めるため。その意図を察していた煉獄は、いずれ炭治郎が“鬼を連れていること”を理由に糾弾されると読んでいた。だからこそ――いざという時のために、己の覚悟をあらかじめ手紙に残したのだ。
竹雄は、その全てを理解できたわけではない。だが、煉獄が自分たちを信じ、命を懸けて支えようとしている――その事実だけが、痛いほどに胸に刻まれていた。
竹雄の頬を伝う涙を見て、炭治郎は弟と煉獄の間に確かな絆が結ばれているのを感じ取った。
およそ二年前。炎の呼吸の使い手を頼り、弟が旅立ったその先――そこにいたのが、炎柱・煉獄杏寿郎だった。その縁が、今この場で弟を守っている。
炭治郎は大きく息を吸い込み、胸の内で決意を固めた。
(この裁判を無事に終えられたなら――必ず、あの人に会いに行こう。竹雄を支えてくれたことを、きちんとお礼を伝えなければならない)
「……証拠がありません。
伊黒の冷ややかな反論が、張り詰めかけていた会議の空気を再び硬直させた。その正論に、即座に
だが、お館様は微笑を崩さぬまま、緩やかに頷いた。
「確かにそうだね。人を襲わないという証明は、できない。けれど――人を襲うという証明もまた、できはしない」
声音は柔らかい。しかし、その言葉は冷徹な論理で組み立てられていた。
二年以上、灯麻希と禰豆子が人を喰っていないという事実。そして、その事実を信じると決めた炭治郎、竹雄、鱗滝、冨岡、煉獄――五人の命を賭した誓約。
「これを否定するためには、否定する側もそれ以上のものを差し出さなければならない」
理屈だけを見れば、どこか詭弁めいている。けれどそれが“主”の言葉として放たれた瞬間、その場の意味は変わった。
処分派の柱たちは低く唸り、互いに視線を交わす。反論は喉まで込み上げている――だが、誰も踏み出せない。
やがてお館様は、淀みなく次の札を切った。
「それに炭治郎は、鬼舞辻と遭遇している」
その名が告げられた刹那、空気が爆ぜた。
「なんだと……鬼舞辻に遭っただと!?」
「どんな姿だった!? 能力は!? 居場所は!?」
「
質問と怒声が入り乱れ、庭は一気に騒然となる。竹雄は、兄が状況に飲まれて完全に目を回しているのを見た。
「おい、答えろ!!」
不死川が、敷かれた炭治郎の髪を乱暴に掴み上げる。
「黙れ!!俺が先に聞いてんだ!!鬼舞辻の能力を話せ!!」
その喧騒のただ中で――お館様は、静かに指を口元へと添えた。
たったそれだけの仕草で、場の音が全て消える。
「鬼舞辻はね、炭治郎に追っ手を放っているんだよ」
穏やかな声。だが、そこには微かな熱が宿っていた。
「その理由は、単なる口封じかもしれない。けれど私は、初めて鬼舞辻が見せた尻尾を、掴んで離したくない」
虚空を映すその瞳の奥に、まるで天から垂れた一本の糸が見えているようだった。
「恐らくは……灯麻希と禰豆子に、鬼舞辻にとって
いつもと変わらぬ柔らかな面差し。だが、その僅かな変化を、柱たちは敏感に察していた。
沈黙が、重く落ちる。
だが、ただ一人――歯を噛みしめる音だけが、その静寂を引き裂いていた。
「わかりません、お館様……人間ならば生かしておいてもいいが、鬼は駄目です。承知できない」
その声には、単なる怒りではないものが滲んでいた。積み重ねられた死と後悔が凝固した、血のように濃い執念。不死川は歯を食いしばり、やがてその歯茎から血を滲ませる。
次の瞬間、彼は躊躇なく刀を抜いた。
刃が閃く。
その軌跡は、敵ではなく――自らの右腕を深々と裂いていた。
「――ッ!?」
あまりにも唐突で、理解の追いつかない行動。竹雄と炭治郎は、同時に息を呑む。
(……な、何をする気なんだ……!?)
地に落ちた血が、重い音を立てて弾ける。
「お館様……!証明しますよ、俺が。鬼というものの、醜さを!!」
「実弥……」
産屋敷の制止の声を、不死川は聞かなかった。
「オイ、鬼共!!――飯の時間だぞ。喰らいつけ!!」
血潮が噴き上がり、真紅の滴が宙に散る。その血は、やがて――不死川と炭治郎の傍らに置かれた木箱へと落ちていった。
箱の中にいるのは、灯麻希と禰豆子。不死川は、己の血を餌に、二人を誘い出そうとしている。
竹雄の喉が、ひゅっと鳴った。頭の奥で、警鐘のような音が鳴り続けている。
――やめろ。
――それだけは、やめてくれ。
竈門兄弟が反射的に動こうとした、その一瞬。
「不死川。日なたでは駄目だ。日陰に移せ」
伊黒が低く、冷ややかに告げた。
「お館様。失礼、仕る」
不死川は木箱を抱え上げると、そのまま跳躍した。小石が弾け、風が巻き起こる。
座敷の奥、日陰へと着地。刃を構え、箱を前に据え――
「「姉ちゃん!!禰豆子ォ!!やめろ――――っ!!!」」
炭治郎の叫びに、竹雄の声が重なる。必死な制止は、空気を切り裂くように響いた。
「出てこい鬼ィィ!!お前らの大好きな、人間の血だァ!!」
・
・
・
「どうしたのかな?」
お館様の穏やかな問いに、ひなきは振り向いたまま、微笑をたたえて報告した。
「鬼の姉妹は……目の前に血塗れの腕を突き出されても、噛みつきませんでした。そして、姉の鬼には刺し傷がありますが、妹の方には外傷が見られません。不死川様による三度の刺突は――すべて、姉が庇ったものと思われます」
その言葉が落ちた瞬間、場の空気がわずかに震えた。
伊黒は眉をひそめ、彼を押さえていた冨岡も視線を揺らす。縄を引き千切り踊り場へ駆け寄った炭治郎は、肩で息をしながら、その光景を呆然と見つめていた。
煉獄と甘露寺に押さえ込まれていた竹雄も、思わず息を呑む。
他の柱たちもまた、それぞれに動揺を隠せない様子だった。
灯麻希は刺し傷から血を流しながらも、禰豆子を庇うように腕へ抱き寄せている。禰豆子は姉の傷を案じるように眉を下げ、そっと顔を上げた。
灯麻希はその頭を軽く撫でて落ち着かせると、扉を失った木箱の縁を跨ぎ、不死川の方へ一歩進んだ。
数人の柱が、息を潜める。
――喰らいつくか。
そんな期待にも似た緊張が走ったが、次の行動で、その予想はあっさりと裏切られた。
灯麻希は帯から、鱗滝から渡された止血剤と包帯を取り出す。慣れた手つきで、不死川の裂けた腕に触れた。
不死川は、目を見開いたまま言葉を失っていた。
「今は余裕がないので、簡易的な処置しかできませんが……無闇に自傷するのは、やめてください」
「なっ……」
迷惑そうとも取れる、声音。 だがそこにあったのは、紛れもない本気の忠告だった。
本来の灯麻希の力であれば、不死川の傷など一瞬で癒せる。しかし、那田蜘蛛山での消耗に加え、新たに受けた刺し傷――血鬼術・“癒血”を使う余裕は、どこにもなかった。服の下には、滲むような汗が浮かんでいる。
この状態を正確に理解しているのは、炭治郎と禰豆子だけだ。他の者は、何も知らない。
故に彼らの目には、灯麻希は――傷つけられながらも血肉を求めず、むしろ人と同じように献身的に手当てをする、
なにより、その手当を受けている不死川本人でさえ、戸惑いを隠せていない。
竹雄は、張り詰めていたものが全てほどけるように、全身の力が抜けていくのを感じた。
気丈に振る舞う一番上の姉も。離れていた時間など、なかったかのように寄り添う、もう一人の姉も。
――鬼になっても。姿形が変わっても。
灯麻希と禰豆子は、あの頃から何ひとつ変わらないままだった。
「ではこれで、二人が人を襲わないことの証明ができたね」
お館様は、あくまで穏やかな声音のまま、炭治郎と竹雄へと視線を向けられた。その眼差しは裁く者のものではなく、行く先を示す者のそれだった。
「炭治郎、竹雄。それでもまだ、灯麻希と禰豆子の存在を快く思わない者はいるだろう。だからこそ――これからも、証明し続けなければならない。四人が鬼殺隊として戦い、力となり、役に立てるということを」
その言葉に、炭治郎は一歩前へ出るように背筋を伸ばした。
「俺は……俺たちは、鬼舞辻無惨を倒します!!俺たちが必ず!!悲しみの連鎖を断ち切る刃を振るう!!」
胸を張って放たれた宣言は、あまりにも真っ直ぐで、あまりにも大きかった。
――いや、まずは上弦の鬼からだろ……
どこからともなく、抑えきれなかったような小さな呟きが漏れる。
その瞬間、炭治郎へ向けられる視線が微妙に変わった。
胡蝶、宇髄、甘露寺、煉獄――数名の柱たちは、どこか生温かく、見守るような眼差しを向ける。不死川と伊黒に至っては、哀れむような、諦めにも似た目だった。
炭治郎は、その空気を一身に浴びて、みるみるうちに頬を赤く染めていく。
灯麻希と禰豆子は、そんな
一方、竹雄は――
この空気の中で何か言葉を挟む蛮勇は微塵もなく、そっと口を閉じた。
審判は下った。
そして同時に、四人の