「竹雄しか姿が見えなくて、兄ちゃん、ちょっと、焦ったよ……」
「禰豆子姉ちゃんが穴を掘ったんだ!モグラみたいに!」
陽が高く昇った頃。家を出発して半刻が過ぎた道中、炭治郎と竹雄は洞穴の前でせっせと竹籠の修復をしていた。私はその様子を、地面に掘った穴から顔を出してぼんやり眺めていた。横で同じようにひょっこり顔を出している禰豆子は、日差しに顔をしかめている。
……
太陽の光が肌を焼くように痛く感じられるのだ。
違うか、“焼く”というより――魂を蝕む炎のような感覚。昼の光が、まるで夜の闇よりも怖ろしいものに思えるなんて、そんな感覚は初めてだった。私は長女なので表情には出したりはしない。
「籠、作ってくれてありがとうね」
そう口にすると、二人はまるで気にも留めていないように笑った。
「よし、直った!うん、これで大丈夫だ!」
「姉ちゃん達の体より、ちょっと小さいけど……入れる?」
「大丈夫。ほら……こうすれば」
私は穴からするりと抜け出し、体をぐっと縮めてみせた。鬼となったこの身は、意志ひとつで自在に形を変えられるのだ。
それを見た禰豆子も、私の真似をして不格好ながら体を小さく縮め、竹籠の中へ潜り込む。
「おおー!入った!」と竹雄が嬉しそうに声を上げ、私と炭治郎も「えらいね、禰豆子」と頭を撫でてやった。
禰豆子はまだぼんやりしながらも、どこか誇らしげに胸を張っていた。
私を収めた籠は炭治郎が、禰豆子を収めた籠は竹雄が背負い、再び歩き出す。
籠には布が幾重にも巻かれ、ひと筋の光も差し込まぬよう工夫されていた。
暗く揺れる籠の中で、私は隣にいる禰豆子の魂の気配を見つめる。その灯は静かに揺れている――まだ少し不安定ではあるけれど、芯には確かな温もりが宿っていた。
「やっぱり、揺れちゃうか?姉ちゃん、大丈夫?」
外から炭治郎の声が届く。彼の鼻は人の体調の変化さえも嗅ぎ取る。私のわずかな揺らぎに気づいたのだろう。
「窮屈じゃない?禰豆子姉ちゃんも、平気?」
竹雄のやわらかな声も重なる。
「ううん、大丈夫……揺れは気にならないよ。禰豆子も平気そう。ただ、ちょっと眠いだけ」
「そっか……無理しなくていい。眠ってていいよ。俺、ちゃんと運ぶから」
炭治郎の声音は、張りつめていた糸がふっと緩んだように優しかった。
私もまた、その響きに誘われるように、まぶたがゆるやかに重くなっていった。
・
・
・
炭治郎が道の先に古びたお堂を見つけたのは、日が沈み、居待月が空に浮かぶ頃だった。
朱色から深青へと移った空の下、かすかに漏れる灯りが影を揺らす。誰かが中にいるような気配が、風に乗ってひそやかに伝わってくる。
籠から降りた私と禰豆子も彼らと一緒に歩いていたが、まだ眠気が残る私と、少し疲れた表情の竹雄を見ると、炭治郎は自然と歩調を落とした。
「……っ!血の匂いがする!
この山は道が険しいから、誰か怪我をしたんだ!」
竹雄の手を握り、炭治郎は慌てて駆け出そうとした。
「炭治郎、待って」
私の声で、彼は足を止めた。
鼻腔を掠める生臭く重たい血の匂い。その奥に、もっと異様で禍々しい気配が潜んでいる。
風に流れる樹のざわめきまで、まるでその気配に引き寄せられるかのようだった。
「――――鬼がいる」
炭治郎の体がピタリと止まり、片手に斧を構える。竹雄も即座に斧を握りしめ、背筋をぴんと伸ばした。禰豆子の小さな呼吸の波が、繋ぐ掌から伝わってくる。
「気をつけて。
………竹雄は、禰豆子と一緒に後ろから付いてきて」
音を立てぬよう慎重に、お堂へ近づく。森のざわめきと自分たちの呼吸だけが静かに響く。
私が戸に手をかけ、隣には炭治郎。禰豆子と竹雄は背後で身を潜める。
ぎぃ、と軋む音とともに戸が開き、薄暗い室内の気配が静かに外に漏れ出た。
―――途端に鼻を突く、濃密な血の匂い。
お堂の中には、三人の人間の亡骸が散乱していた。
壁は飛び散った血で赤く染まり、腕は無造作に引きちぎられ、床に無残に転がっている。血の臭いが重く、空気そのものを厚く押し潰していた。
その傍らで、口を真っ赤に染めた男の鬼が女の腕をむさぼっている。
ぬらり、と顔をこちらに向ける瞬間、視線が鋭く刺さった。
「なんだぁ?……おい。ここは俺の縄張りだぞ?俺の餌場を荒らす気かぁ?」
血の匂いが喉を焼く。
渇き、飢え。焼けつくような感覚が体中を這う。汗が滲み、視界の輪郭がわずかに揺れる。心臓の鼓動が耳を打つ。苦しい――だが、私は表情を変えず、足を踏みとどめた。
「…………んん?妙な感じがするな……」
炭治郎がもう片方の扉を勢いよく開ける。風圧のような動きが僅かに空気を震わせた。
鬼は私たちを見回し、細めた目に光が宿る。
「お前ら……人間か?」
喰らう前に問いかけるその声は、本能か、戯れか。だが、口を開くより早く――鬼がこちらに跳躍してきた。
空気が裂けるように動き、全身が緊張で硬直する。
血の匂いと緊迫感が混ざり、視界の端に薄く揺れる影が迫る。
「!?」
炭治郎めがけて鬼が飛びかかってきた――その瞬間、私の体が反応した。
蹴り上げた脚が鬼の胴を勢いよく吹き飛ばす。衝撃で鬼は地面に転がり、ぎょっとした顔を晒す。攻撃されるとは思わなかったのだろう。
……ただ、思ったより効いていない。飢餓のせいで力が十分に出せなかった。でも、今止めなければ――。
踊り場の床を蹴って勢いをつけ、鬼に飛びかかり体を押さえつける。
「お前ぇ!やっぱり鬼なのかよぉお!気持ち悪ぃ気配をさせやがってぇえ!
なんで鬼と人間がつるんでるんだぁぁ!!腹減ってるツラしてんのによぉぉお!!」
鬼は私の拘束から逃れようと牙を剥く。その牙が私に届く――直前のことだった。
ボンッ!!!
鈍い音とともに、鬼の顔面が後方に跳ね飛んだ。禰豆子だ。後ろから飛び出し、思いきりかかとを叩き込んだのだ。
「鬼の………頭が!!」
竹雄が思わず叫ぶ。
――――――今だ!
衝撃で力の抜けた鬼の胴体を、私は咄嗟に林の奥へと投げ飛ばす。
しかし――――――
「まだ鬼がいたのかよぉぉおおぉ!!てめぇえらああぁああ!!よくもやってくれたなぁあああ!!」
頸と胴体になっても別々に動く異形の姿。
そのどちらも、まだ終わりではない。空気が震え、地面が軋む。呼吸は荒く、汗が滴る。目の端に映る影はさらに速く、不規則に揺れていた。
「体の方は私が追う!炭治郎達は………頭をお願い!!」
「わ、分かった!!」
私は地を踏みしめ、湿った林の奥へと駆けた。
足元には落ち葉と小枝が散らばり、蹴るたびに乾いた音が響く。
木々の間から差し込む月の光が、地面を明るく照らす。
鬼の胴体もこちらに向かって迫り、無造作に枝をかき分ける音がこだまする。
林の先は崖になっていることを、鬼の残した“魂の記憶”で知っていた。
視界の奥には薄暗い影が揺れ、風がざわめき、葉の香りに混じって血の匂いが鼻を刺す。
私は鬼の身体と衝突し、枝を弾き、落ち葉を蹴散らしながら徐々に崖へと追い詰めた。
鬼の魂は灰色に濁り、輪郭はぼやけ、うごめくように揺れていた。
その奥に視える――小さな人間の子供の姿。細く震える手、泣き叫ぶ声――これは鬼になる前……いや、それよりも前。誰かに捨てられ、誰にも触れてもらえなかった孤独の記憶だった。
始めからひとりだった鬼の過去が、胸の奥にずしりと重くのしかかる。
ほんの一瞬、腕の力が緩んだ。
林の湿気と風、遠くに響く鳥の声までもが、胸の痛みと共鳴するように感じられた――――
「ねえちゃーん!!」
後方から竹雄の声が鋭く響き、背中を押す。
振り向けば、彼は枝葉を掻き分け必死に駆けて来ていた。呼吸は荒く、汗と埃が光を反射してきらめている。
家族を守る。もう誰も、喪わせない――――
私は一歩踏み込み、力の限り鬼の胴体を蹴り飛ばす。
衝撃が体を伝い、風を切る音と共に、崖下へ吸い込まれていく鬼の姿を見送った。
落ち葉が舞い、林は静寂を取り戻した。
私は竹雄の手を引きながら、林を抜けてお堂へと戻ってきた。
冷たい風が枝を揺らし、落ち葉が足元でささやくように転がる。薄暗い林の奥から差す月明かりが、私たちの影を長く伸ばした。
目に入ったのは――斧の柄と木の間に挟まれ、身動きの取れなくなった手の生えた鬼の頭。
血の匂いがまだ鼻を刺す。炭治郎がその目前に立ち、小刀を構えている。禰豆子は背後に控え、疲れた目でぼんやりと状況を窺っていた。
「姉ちゃん…」
炭治郎が私に気づき、声をかける。汗に濡れた顔は緊張でこわばり、呼吸も浅い。
「鬼が、急に動かなくなったんだ。今まで喚いてたのに…ぴたりと」
「……崖下に胴体を落としたから、衝撃と痛みで気を失ったんだと思う」
私は静かに答えた。
林を渡る風が枝や落ち葉を揺らし、遠くで梢が微かに軋む音がする。
炭治郎はわずかに眉を寄せ、小刀を握る手にぐっと力を込めた――その手の微かな震えさえも、月明かりが映し出す。
鬼を殺す。それは今の彼にとって、やらねばならぬ使命でありながら、心の奥で踏み越えたくない一線でもあるのだろう。その魂から伝わるのは、覚悟と迷いが入り混じった揺らめく光のようなものだった。
私は一歩前に出て、「代わろうか?」と声をかけようとした――――だが、やめた。
これは炭治郎自身が決めるべきことだ。
そして、木々の陰から足音を殺して近づく濃い気配。
視線の鋭さと気配の重さで、ただ者ではないと瞬時に分かる。
(――――天狗の面)
私が心の中で呼んだ直後、低く響く声が割り込んできた。
「そんなものでは止めは刺せんぞ」
「えっ……!?」
戸惑いながらも炭治郎が問いかける。
「どうしたら止めを刺せますか…?」
老人――鱗滝左近次は、低く力強く言い放つ。
「人に聞くな。自分の頭で考えられないのか」
その厳しい言葉の裏に、かすかな温かさが滲むのを私は感じた。炭治郎は唇を噛み、視線を落としたまましばらく動かない。
夜の冷気が背中に染みる。
その様子を見届け、私は竹雄の方へ視線を向けた。
「夜が明ける前に、遺体を埋めよう……手伝ってくれる?」
「うん」
私たちは慎重に被害者の亡骸を運び出し、冷たい外気に晒された土を掘り始める。
冬の土は凍てつき、指先の感覚が徐々に失われていく。小石が手のひらを突き、手首に微かな痛みが走る。それでも手を止めるわけにはいかなかった。
しばらくして、私たちの隣にもう一人の影が加わる。
無言で道具を手にし、共に穴を掘り始めた鱗滝の背中には、長い年月と重責を背負った者の圧があった。月明かりに浮かぶその姿は、頼もしさと畏怖を同時に感じさせた。
***
達筆ながらもどこか急ぎ足のような筆跡で綴られた手紙を、鱗滝は目を細めて読み込む。
『略啓 鱗滝左近次殿
鬼殺の剣士になりたいという兄弟をそちらに向かわせました。身内が鬼により惨殺され、生き残った姉妹は鬼に変貌していますが、人間を襲わないと判断致しました。
特に姉の方は理性が残り、鬼に変化した直後の飢餓状態でも、喰人に強い忌避感を示しました。
――――この四きょうだいには何か“違うもの”を感じます。
長女は、生まれながらにして魂を視る力を持ち、長男の方は貴殿と同じように鼻が利くとのこと――――
手前勝手な頼みと承知しておりますが、何卒御容赦を。
ご自愛専一にて精励くださいますよう、お願い申し上げます。
怱々 冨岡義勇』
最後の一文には、ぎこちないながらも義勇なりの敬意と願いが滲んでいた。
(魂を視る、だと……?)
半世紀にわたり鬼狩りとして生きてきた鱗滝にとっても、耳慣れぬ異能だった。だがそれ以上に、手紙で語られた“鬼となった姉妹”が人を喰っていないという事実が、どうしても頭から離れない。
月明かりの下、林の隙間を抜ける冷たい風が枝を揺らし、落ち葉をかすかに舞わせる。
鱗滝の視界には、炭治郎と鬼となった妹の禰豆子――そして同じく鬼となった姉、灯麻希の姿が映った。竹雄という末弟も、崩れた遺体の傍らで黙々と穴を掘っている。
灯麻希は涼しい顔で土を掘っているが、鱗滝の鼻は、彼女の体温の微かな乱れと抑え込まれた飢餓の臭いを敏感に捉えた。汗は滲むが涎は垂れていない。目の奥に鬼としての爛れた苦しさが残るが、鬼の本能に呑まれてはいない。
(…………理性を保っている)
鱗滝は一歩、灯麻希に近づく。無言で掘り続ける彼女の横で、長年の経験と重みを背負った声を低く響かせる。
「苦しいのなら、この場を離れろ。残りの埋葬は、儂とお前の弟で行う」
掘りかけの土に手を置いたまま、灯麻希は顔を上げた。月明かりに照らされた汗で光る額、微かに震える指先――それでも瞳は揺らがない。
「離れません」
即答だった。声に迷いはなく、強く、揺るぎない意思が伝わってくる。
「何故だ」
鱗滝の問いに、灯麻希は一拍の沈黙を置き、静かに答えた。
「弟たちが頑張ってるからです。
……姉の私が休むわけにはいきません」
その言葉の端々に、鬼としての衝動を押さえ込みながら、意志を振り絞っていることが滲む。
「………鬼に殺された人たちが、鬼である私に供養されることを望まないなら……そのときは止めますが」
言い終えた瞬間、灯麻希の汗はぴたりと止まり、呼吸が整う。鬼としての飢えを、己の理性で押さえ込んだのだ。
(これほどの意思を、鬼が持てるのか?)
鱗滝は言葉を失いかけた。
胸の奥で、かすかな痛みが弾ける。
鬼に堕ちた者たちが皆、飢えに呑まれ、人を喰らいながら消えていった光景を、幾度も見てきた。
だが――目の前の娘は、その定めに抗い、なお人であろうとしている。
その姿は、長く閉ざしてきた鱗滝の心を、ほんの一瞬だけ揺らした。
血の匂いと冷たい空気が漂う中、人を食らうことなく己を律する。その背後に、鬼としての本能と葛藤する静かな炎を感じる。目の前の存在は鬼に違いない。だが――鬼であろうとせず、人であり続けようとする強い意思を抱いていた。
「鬼でありながら、お前は――――人でありたいと、そう思っているのか」
その問いに、灯麻希は僅かに目を細め、口元に静かな笑みを浮かべた。月光に照らされたその顔は、鬼としての冷たさと人としての温かさが交錯している。
「禰豆子もそうですよ。鬼になっても、人を助ける心は忘れていません」
三人分の遺体の前、灯麻希は短くも真剣な面持ちで手を合わせ、静かに黙祷を捧げた。
その後、傍らに転がっていた二つの籠と布を手に取り、鱗滝に向かって一礼する。
「お先に失礼します」
言葉少なに告げた灯麻希は竹雄のもとへ歩み寄り、柔らかく抱きしめた。
「助けようと来てくれて、ありがとう。怖かったよね……よく頑張った」
竹雄の体温が徐々に安らぎを帯び、恐怖に染まった匂いも薄れ、彼の瞳にはうっすらと涙が滲む。
灯麻希はそっとその背を撫で、禰豆子の手を引いてお堂の中へ踏み入れた。朝の光が差し込むその前に、家族の身を守るため――――――
(次回予告?)
炭・竹
天狗<判断が遅い!
天狗<判断が遅い!
主
天狗<迷いが多い
鼠
天狗ノ スカッ <逃げるな