町の外れは、昼の名残を僅かに引きずったまま、ひっそりと息を潜めていた。
湿った土を踏みしめながら歩を進め、竹雄は背に負った木箱の重みを確かめるように肩に力を入れる。
炭焼きの家で過ごしていた頃も、炎柱の元で剣を振るっていた日々も、ただ誰かの背中を追っていればよかった。だが――今は違う。ここに立っているのは、一人の鬼殺隊士として任務を受けた自分だ。
先導していた鎹鴉の端清が、不意に高度を上げて円を描く。
――“そこで待て”。
そう言われたような気がして、竹雄は足を止めた。
この町では、山沿いの川で行方不明者が相次いでいる。
端清から聞かされた任務は、その原因を調べることだけだった。鬼の仕業の可能性が高いという。さらに、道中で別の隊士と合流するよう指示されていた。
背後から、乾いた足音が近づいた。振り返るより先に、空気がしばし張り詰める。
視界に入ったのは、一人の鬼殺隊士だった。黒髪に、暗い緑の瞳。隊服に身を包み、背には日輪刀。そして首元には、青い勾玉。
特徴的なその佇まいを前に、竹雄は無意識に背筋を伸ばす。
(――この人が、合流相手かな?)
「合流の隊士か」
短い声だった。問いというより、ただ確認するような響き。
「はい。竈門竹雄です!階級は
竹雄が名乗ると、男は若干顎を引いた。
「獪岳だ。階級は
それだけ告げて、獪岳の視線が竹雄の背へ流れる。
背負った木箱を、ほんの一瞬だけ確かめるように見た。
「お前……あの問題になった隊士の弟の方か。本当に鬼を連れてるんだな」
「はい。姉が鬼です。今は日が出ているので、箱の中ですが」
竹雄が答えると、獪岳は小さく鼻を鳴らした。
「ふん」
それだけだった。否定でも、同情でもない。ただ事実を確認しただけの声音。
(……悪い人ではなさそうだけど、随分無愛想な人だ)
それ以上は何も言わず、獪岳は川へ向かう山道へ踵を返す。躊躇いのない足取りで、そのまま歩き出した。
「あ、あの……!」
慌てて竹雄は後を追う。
道は広く、緩やかに山を登っていく。川のせせらぎが近づいたり遠ざかったりし、湿った風が肌を撫でた。少し前を歩く獪岳の背中は揺れない。一定の歩幅で進みながら、その呼吸だけが竹雄の耳に届く。擦れるような、張り詰めた息遣い。
――雷の呼吸。
竹雄はそう判断した。
「念のため、確認してもいいですか」
「何をだ」
歩みは止まらない。
「使う呼吸です。連携の――」
「いらねぇな」
獪岳は即座に遮った。
「どうせ炎だろ。お前」
ちらりと視線だけが向く。竹雄は小さく頷いた。
「……はい。炎の呼吸です」
「なら問題ない」
日が傾き始め、二人は山の奥へ踏み込んでいく。
草木の香りと川音が満ちているだけで、まだ鬼の気配はない。夜に動く存在なら、さらに奥だろう。
竹雄は歩きながら、言葉を選んだ。
「初めて組む任務なので、鬼が出た場合の立ち回りだけでも――」
「必要ねえ」
獪岳が足を止める。初めて振り返り、真正面から竹雄を見据えた。
常に眉間に皺を寄せているのか、不機嫌そうな表情は変わらない。だが会話の途中でそれが緩む気配もなく――どうやら、この顔が彼の平常なのだろう。
「鬼の頸は、俺が斬る。お前は俺に合わせろ。それだけだ」
断定だった。そこには相談という選択肢が、最初から存在していない。
「……………分かりました」
竹雄はそう答えるしかなかった。
背の木箱が僅かに軋む。だが姉は何も言わない。
獪岳はそれ以上振り返らず、再び前を向くと川沿いの道を歩き出した。その背中を見つめながら、竹雄は胸の奥に小さな違和感を覚える。
ここで獪岳に突っかかり、関係を拗らせるのは得策ではない。今はそれが、最も正しい判断だと自分でも分かっている。
彼は強く、速い。雷の呼吸の使い手らしく、動きに迷いがない。
けれど――それだけで、本当に足りるのだろうか。
川面を渡る風が、ひやりと頬を撫でた。
・
・
・
木箱の中で、灯麻希は息を潜め、音を立てずに思考を巡らせていた。
同行者は――予定どおり、獪岳。この配置は偶然ではない。それは、お館様とのやり取りを思い返せば明らかだった。獪岳という隊士の在り方を案じるような含みをもって、お館様は言葉を選んでいた。
今なら、その意味がはっきりと分かる。
獪岳の足音、呼吸の刻み、周囲への意識の向け方、任務に臨む姿勢。剣士として有能で、力量は確かだ。強さを誇示せず、判断も速い。
だが、他者と足並みを揃える意識は薄い。独りで戦うことに、慣れすぎている。
鬼を連れている竹雄に対して、獪岳の魂の色で視ても、憎悪や嫌悪といった強い感情は見えなかった。しかし竹雄が階級を告げた瞬間、獪岳の意識は明確に距離を取った。
隊律を破るような問題行動はない。それでも一般隊士からの評判が芳しくないという話は、灯麻希も知っている。
階級秩序そのものは理解している。だが、下位階級や凡庸と判断した隊士に、期待を寄せることはない。それが、獪岳という剣士の現在地だった。
そして灯麻希は――もう一歩だけ思考を進めた。
この在り方は、平時の任務では問題にならない。力量差が明確で短期決戦で終わる任務なら、むしろ効率がいい。
だが、もし判断を誤ったとき。あるいは、仲間の失策が致命傷になり得る局面に立たされたとき――――
獪岳は、誰を守るだろう。否。誰を
彼は合理的だ。自分が生き残るために、最も確率の高い選択を取る。それ自体は、間違いではない。
だが――鬼殺隊は、一人で完結する戦場ではない。
連携を拒み、他者の力量を信じない剣は、いつか必ず仲間の命と衝突する。その瞬間が訪れたとき――獪岳の選択は、取り返しのつかない綻びとなり、自身の命を蝕むだろう。
もちろん、竹雄を盾にするつもりはない。
だが灯麻希は、弟がどこまで動けるのかを、まだ正確には測れていなかった。二年前に別れたあの日から、竹雄の身体も精神も、大きく変わっている。ここで必要以上に手を差し伸べれば、それは助力ではなく、成長の機会を奪う行為になる。それだけは避けたい。
そして、獪岳。
この任務で、彼がどこまで他者を受け入れられるのか。連携という選択肢を、自らの中に残せるのか。
灯麻希はその可能性を、まだ手放したくはなかった。
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竹雄と獪岳が山道を上がっていると、二人の少年が下ってきた。
年の近い兄弟だろう。片方は丸刈り、もう一人は少し短く刈り込んだ髪をしている。着物は質素だ。どちらもよく動く子どものようで、裾や袖には土がついていた。
どこか慌てた気配が混ざっている。
「あの、山奥に行くつもりですか?」
丸刈りの少年が、遠慮がちに声を掛けてきた。
「……」
獪岳は答えない。視線を向けることすらなく、そのまま歩みを緩めもしない。
竹雄は一瞬だけ迷い、それから少年へ向き直った。
「そのつもりです」
その返事を聞くと、短髪の少年が丸刈りの少年の肩を掴み、どこか落ち着かない様子で口を挟んだ。
「やめた方がいいよ。最近、夜になるとこの山で人がよくいなくなるから。きっと賊がいるんだ」
丸刈りの少年が、ちらりと竹雄の腰元へ視線を落とす。
隊服の裾から覗く日輪刀。それを見た瞬間、少年の目が僅かに細くなった。
竹雄は少年の視線の意味を察した――ただの旅人ではないと、気づかれていることを。
「今、お前らはその山から降りてきたが」
獪岳が初めて口を開いた。立ち止まって少年たちを見据えている。低い声だった。その一言だけで、空気が若干張り詰める。短髪の少年が言葉を詰まらせた。
「それは……」
「まあいいじゃないか」
丸刈りの少年が、すぐに言葉を継いだ。どこか諦めたように肩を竦める。
「この人たちの様子だと、俺たちが何を言っても止める気はないだろ」
「兄ちゃん……」
少年は少し迷うように視線を落とし、懐から笹の包みを取り出した。それを竹雄へ差し出す。
「昼の残りで悪いけど、よかったら食べて下さい。俺たちは山の下にすぐ家があるんで」
思いがけない申し出に、竹雄は一瞬だけ目を瞬かせた。
少年の素直な善意が、手のひらにそっと置かれたような気がした。竹雄はその包みを受け取る。
「ありがとう」
自然と、言葉が柔らかくなる。
その間に、短髪の少年はすでに山道を下り始めていた。
「兄ちゃん、早く!母ちゃんが待ってるよ――!」
木立の間に、弟の声が弾む。
「今行くから、ちょっと待ってろ!」
丸刈りの少年が苦笑しながら答えた。
「あいつ、昔から怖がりでさ」
もう一度ぺこりと頭を下げると、弟の後を追って山を下っていく。二人の足音が、湿った土を踏む音とともに遠ざかっていった。やがて、その背は木立の向こうに消える。
竹雄は手の中の笹包みを見下ろした。まだほんのりと温かかった。
少年たちの足音が完全に遠ざかると――
「余計なモン貰ったな」
歩き出した獪岳の低い声が、風に混じって落ちてきた。視線すら寄越さない。
「そういうこと言うなら……」
竹雄は手の中の笹包みを軽く持ち直す。
「後で欲しくなっても、獪岳さんにはあげませんよ」
「欲しくなるわけねぇだろ」
獪岳は皮肉げに笑う。
「情けで貰った飯なんざ、腹の足しにもならねぇ」
獪岳の冷たさとは裏腹に、笹の包みは温かさが残っている。少年が差し出した時の気持ちまで、そこに残っている気がした。
竹雄はそれを確かめるように、指先でそっと包みを押さえた。
日が完全に沈むと同時に、川辺の周辺の空気が変わった。
それまで山を包んでいた夕暮れの気配が、すっと引いていく。代わりに、冷えた湿気が肌を撫でた。川の水は、いつの間にか濁っている。先刻まで澄んでいた流れが、墨を溶かしたように暗く沈んでいた。
風が吹く。その風に乗って、生臭い匂いが鼻を刺した。血とも、腐臭ともつかない匂いだった。
獪岳の足が、僅かに止まる。だが次の瞬間には、何事もなかったように歩き出していた。竹雄は、足元を確かめるように一歩踏み出す。
河原の土は水を吸い、ぬかるんでいる。踏み込むたび、ぐずりと嫌な感触が足裏に絡みついた。
ここから先は――鬼の支配する領域だと、周囲の気配が物語っていた。
竹雄は周囲を見渡した。
川沿いには、争った痕跡が点々と残っている。折れた枝。踏み荒らされた草。そして――土の上に、何かを引きずったような跡があった。血は草陰に微かに残るだけで、目を凝らしてようやく分かるほどだ。
だが、その跡だけが不自然だった。人の足跡は途中でぷつりと途切れ、先は川へ向かって消えている。
その先は――川だ。まるで、そこから先を流れが呑み込んでしまったかのように、痕跡は水際で消えていた。水音だけが、やけに大きく聞こえた。
「範囲が広い」
竹雄は小さく呟いた。鬼の気配は確かにある。だが、姿は見えない。
この川沿い一帯を、縄張りにしているのだろう。
「二手に分かれて探したほうが……」
慎重に言葉を選びながら、竹雄が言いかける。
「そんな面倒なことはしねえ」
獪岳が吐き捨てるように遮った。
竹雄が顔を上げると、獪岳はすでに川へ向き直っていた。
「水の中か。なら――」
迷いはない。躊躇もない。
そのまま、ぬかるんだ河原へ一歩踏み込む。水面が揺れた。
「これで誘き出す!」
言葉と同時に、雷の呼吸が解き放たれた。
――“雷の呼吸 弐ノ型 稲魂”!!
閃光が走り、刃が半円を描く。高速の五連撃が川面へ叩き込まれ、稲妻が地を這うように走った。空気が震え、耳鳴りが残る。
次の瞬間――水面が、歪んだ。泡立ち、逆巻く流れの奥から、ぬめった腕が河原を叩きつける。跳ね上がる水飛沫に混じって、怒気を孕んだ気配が一気に広がった。
「――!」
竹雄の喉が、思わず息を呑む。
水中に潜んでいた
水面が、ぐらりと歪む。下から押し上げられるように、沼水が盛り上がった。生温い湿気が肌にまとわりつき、腐った苔の匂いが鼻を刺す。苔を溶かしたような沼水がまとまり、蛙とも泡ともつかない異形が這い出し、二人へ襲い掛かった。
斬れば崩れる。だが、崩れた瞬間が最悪だった。飛び散った粘膜が刃に絡み、重さを増す。振り抜いたはずの刀が、次の動きに移れない。
――“雷の呼吸 参ノ型 聚蚊成雷”!
獪岳が標的の周囲を駆け抜け、回転しながら波状の斬撃を叩き込む。幾重にも重なる雷光が異形の身体を裂いた。
だが、斬り落としたはずの部位はすぐに粘膜で覆われ、刃が滑る。
――ぐちゅり。
潰れた肉が擦れるような音が、足元から響いた。裂けた肉の奥で、泡のような喉が膨らむ。
「……ゲコ」
湿った声が、川面に広がった。
獪岳の踏み込みは速い。速いが、息が短い。一息ごとに雷が弾け、その分だけ呼吸が削られていく。
「っ、粘りやがる……!」
竹雄が一歩、前へ出た。
燃え上がる火のような呼吸音が、夜気を震わせる。
荒れていない。熱を孕みながらも、一定の拍を刻んでいる。
――“炎の呼吸 肆ノ型 盛炎のうねり”!!
渦巻く炎が前方を薙ぎ払い、蛙鬼の舌と水撃を弾き返す。広がった炎が、壁のように獪岳の隙を覆った。
だが――地に足をつけた瞬間、ぬかるんだ地面の奥から長い舌が伸びる。
「「!」」
二人は同時に跳んだ。近くの木の枝へと身を移す。
その下――水面が不気味に揺れていた。水面下で、巨大な何かが蠢いている。
滑る。絡みつく。引きずり込もうとする。
水の動きが、まるで意志を持っている。理解した瞬間、背筋が冷えた。
(……水の動きが、生き物みたいだ)
いや、違う。この川そのものが、鬼だ。
「……援護なんざ、いらねぇんだよ!!」
怒鳴るような声だった。拒絶というより――焦りに近い。
獪岳の肩が僅かに上下し、呼吸は荒い。
「テメェは離れて、自分の鬼の面倒でも見てろ!!」
雷光が再び走る。弐ノ型。参ノ型――連続で叩き込まれる斬撃。
だが、獪岳の呼吸はみるみる荒れていく。短く、浅く。雷を吐くたびに、削られていく。
一方で――背後の炎は、まだ揺らいでいなかった。
川底から、嗄れた笑い声が響いた。
「ゲゲゲ……疲れてきたみてぇだなァ?」
水面が盛り上がる。
瞬間――大岩ほどの水塊が、空を裂いて飛んだ。
「対策してんだよ、雷はなァ」
ぬらりとした声。粘つく水が渦を巻き、空中で球を成す。
“血鬼術 粘濘水檻”
濁った水が粘膜をまとい、巨大な牢のように膨れ上がる。
「二人いるはずなのに、一人しかいねェみたいで楽でいいよ……ケケケ」
――油断。いや、そうではない。
竹雄は木の上で、刀を握り直した。獪岳の雷撃は確かに速い。だが、粘膜を含んだ水に触れた瞬間、威力が鈍る。鬼はそれを熟知している。
(理屈は分からない。でも――)
竹雄の呼吸が、深く沈む。炎の拍が、判然と整う。
(今なら、届く!!)
――“炎の呼吸 伍ノ型”
一瞬、夜が静まり返った。
そして。
――“炎虎”!!
刀を大きく振り抜いた瞬間、猛炎が爆ぜた。炎が奔流となって走る。その中心から、巨大な虎が姿を現した。咆哮。灼熱の猛虎が川へと躍り込み、粘膜を纏った水塊を噛み砕く。
蒸発し、爆ぜる水。白い蒸気が一気に吹き上がる。炎は止まらない。虎はそのまま川面を抉り、地面ごと叩き割った。轟音と熱風が巻き起こる。
川が、消えた。直径十数メートルの水が一瞬で蒸発し、川底がむき出しになる。
「水が燃えるの……変だと思ったんだ!」
足首が濡れる程度まで浅くなった川の中央に、竹雄は立っていた。白い蒸気が立ちのぼり、熱で空気が揺らぐ。
獪岳は、言葉を失っていた。木箱の中で、灯麻希も密かに息を呑む。
干上がった川底を見て、蛙鬼は慌てて空へ跳んだ。
(余所見しやがって――!馬鹿が!)
全身の深い火傷に内心で舌打ちする。骨も所々むき出しだ。
だが――こんな火傷、どうでもいい。粘膜さえ残っていれば、すぐに戻る。
干上がった川底に立つ炎の剣士を睨みつけた。あの炎は厄介だ。距離を取った今のうちに仕留める。飛び込んでくるなら、空中で舌を絡め取ればいい――そう思った。
視界の端で、閃光が走った。鬼の背筋が粟立つ――殺気が刺さる。
しかしすでに遅い。雷が地を裂いた。
「…………チッ!」
――“雷の呼吸 陸ノ型 電轟雷轟”!!
叩きつけるような一文字。閃光が走る。雷撃は空中の蛙鬼を捉え、その身体を撃ち落とすように地へ叩き返した。雷に弾かれた瞬間、鬼の動きは止まる。
その落下を――竹雄は待っていた。炎が、川底を蹴った。
――“炎の呼吸 壱ノ型 不知火”!!
烈火を引き連れ、間合いを一気に詰める。踏み込みと同時に刃が唸る。袈裟に振り下ろされた一太刀が――頸を捉えた。
その刹那。炎が炸裂する。粘膜をまとっていた蛙鬼の身体は、断面から一気に火を噴いた。逃げ場を失った熱が、内側から焼き尽くす。水分を含んだ肉が、弾けるような音を立てて焦げる。
落ちるはずだった頸は、地に触れる前に炭と化し、崩れ落ちた。
川に残ったのは――じゅう、と鈍い音。そして、立ちのぼる白い湯気だけ。
夜の川は、嘘のように静まり返った。
・
・
・
焦げた匂いが、夜気にゆっくりと溶けていく。
川面に立ちのぼっていた湯気が薄れ、闇が本来の落ち着きを取り戻す。その中で、獪岳は無言のまま刀を収めた。
そして、竹雄を見る――ほんの一瞬だけ。
苦いものを噛み潰したような表情を浮かべ、その視線はすぐに逸らされた。獪岳は何も言わず、踵を返す。
「あ…………」
竹雄は思わず声を漏らした。呼び止めるべきか、迷う。けれど、言葉が出てこない。
自分が鬼の頸を落とした事実と、獪岳の背中が遠ざかっていく現実が、上手く結びつかなかった。
その時――背の木箱が、微かに軋んだ。蓋が開き、灯麻希が音もなく地に降り立つ。
一度だけ空気を吸い込み、去っていく雷の剣士の背を見据えた。
「待って」
呼びかけは、短く静かだった。
獪岳は立ち止まらない。だが、その歩調が僅かに乱れる。気配が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「私は灯麻希」
灯麻希はそれ以上踏み込まず、ただ名を告げる。
「これから、よろしく」
返事はない。獪岳の姿は、木々の影へと溶けるように消えていった。
灯麻希はそれを追わず、竹雄の隣へ戻ると、そっと肩に手を置いた。
「――見て」
促されるまま、竹雄は川へ視線を落とす。水位はすでに戻り、濁りも引き始めていた。
だが、側面の岩肌には、流されきれなかった人骨がいくつも突き刺さっている。
川底には、頭蓋骨。朽ちた衣の切れ端。使い古された持ち物。
ここで、誰もが引きずり込まれ――戻らなかった。
竹雄は息を詰め、灯麻希と並んで手を合わせる。
川は何事もなかったかのように流れ続けている。
夜は、深かった。
今回の獪岳は、自分なりの解釈をベースに描いています。単純に善悪で割り切れない部分があるのが面白いキャラだと思っていて、その辺りを意識しました。
この解釈が合うかどうかも含めて、読んでどう感じたか気になりますね。