六月十一日――――
炭治郎はこの日、入院着を脱ぎ、見慣れた隊服に袖を通していた。黒地に緑の市松模様の羽織を重ね、背には木箱。その中に、私と禰豆子が身を縮めて入っている。
箱の中で、禰豆子はずっとご機嫌だった。小さくなった私の背中に腕を回し、まるで離れないと言わんばかりに、ニコニコと笑いながら抱きついてくる。二人で炭治郎の背に収まるのは久しぶりで、その温もりが胸の奥に、少し懐かしい感覚を呼び覚ました。
今日は、煉獄さんのお家へお礼を言いに行く日だ。
善逸と伊之助が訓練を再開してから、一週間が経っていた。
二人が“全集中・常中”を身につけるまでにかかったのは、六日間。
本当は、二人の修行を待たなくても、もっと早くお礼に行くことはできた。けれど藤の家の滞在中に、善逸と伊之助が常中を身につけるまで修行に付き合えなかったことを、私はずっと悔いていた。最後まで面倒を見きれなかった後悔と、炭治郎が「二人がやりきるまで、ちゃんと一緒にいたい」と言った気持ちが重なり、私たちは少しだけ足並みを揃えることにした。
煉獄さんの予定。竹雄と私の任務。蝶屋敷の都合―――
それらをひとつずつ調整した結果、当初より数日、時間が過ぎてしまったわけだ。
門の前で炭治郎が足を止めると、程なくして一人の少年が近づいてくる気配がした――――煉獄さんの弟、千寿郎だろう。
炭治郎が会釈をし、門をくぐる。その動きが箱越しにも伝わってくる。
玄関扉の開く音が続く。
その向こうに立つ人物の気配は迷いようがなかった――竹雄だ。玄関の奥、邸宅の中から太陽の匂いが流れ込んでくる。私には少し眩しいほどの、真っ直ぐな光だった。
千寿郎の気配は、張り詰めた緊張で固く閉じている。
対して竹雄は、抑えきれない嬉しさが弾むように広がっていた。
千寿郎が先に歩き出し、竹雄と炭治郎がその後に続く。邸の中へ進むにつれ、足音が柔らかく廊下に吸い込まれていく。
やがて――竹雄の気配が、廊下の途中でふっと別の方向へ離れた。
来客用の和室へ通され、炭治郎が荷を下ろす音がする。それを合図に、私と禰豆子は木箱から外へ出た。廊下と反対側の障子は、陽射しを避けるためか、あらかじめ閉められている。その気遣いがありがたかった。室内には、静かで落ち着いた空気が満ちていた。
私たちと千寿郎は、向かい合うように腰を下ろした。
畳の匂いと、どこか乾いた空気。武家の家というより、長い時間を積み重ねてきた
千寿郎は、煉獄さんと瓜二つで、金髪に所々炎のような赤を差した髪色をしていた。同じ形の眉は、兄とは違って下がっていて、柔らかな印象を与える。声を掛ければ、すぐに相手を思いやる言葉が返ってきそうな――そんな面立ちだった。
「兄は、もうすぐこちらに来るはずです。お待たせしてしまって、すみません」
「いえ、とんでもありません!」
炭治郎が少し身を乗り出し、首と手を振る。
「今日は、お礼をお伝えしに来ました。それに千寿郎さんにも、直接ご挨拶したかったんです」
千寿郎は一瞬、言葉の意味を測るように大きな瞳をぱちりと瞬かせた。
不思議そうだが、それでも拒む気配はない。
「竹雄がこちらでお世話になっていると聞きました。本当にありがとうございます」
そこで一度、炭治郎は呼吸を整えるように息を置いた。
「千寿郎さんがいてくれて……竹雄も、助かっていると思います」
ありがとうございます、と深く頭を下げる。
その後ろで私も続き、禰豆子もそれを見て真似るように頭を下げた。楽しげな様子を見るに、意味よりも仕草そのものが気に入ったのだろう。
千寿郎は慌てたように姿勢を正し、「こちらこそ」と小さく言葉を返そうとした――その時だった。
すっと障子が開く音。顔を向けるより先に、足音と気配で竹雄だと分かる。
人数分のお茶と茶菓子を載せた盆を両手で支え、部屋に入ってくる。動きにはまだぎこちなさが残るが、視線は落ち着いていた。
「失礼します」
短く告げ、盆を下ろす。それを合図に、千寿郎がすぐに立ち上がった。
「ありがとうございます。あとは任せてください」
千寿郎が盆を受け取り、私たちの前へお茶を配っていく。竹雄は一歩退き、部屋の端に控える形でその様子を見守っていた。
鬼である私と禰豆子は、その湯気に触れるだけで十分だった。口にはできない。それでも、最初から人数に含められていることが、胸の奥にじんわりと広がるほど嬉しかった。
湯気の立つ茶碗を前に、そっと手を膝の上で重ねる。湯気が、畳の上で緩やかに解けていく。
千寿郎の所作は落ち着いていて、無駄がない。それがこの家では自然なことなのだと、動きの端々から伝わってくる。
炭治郎がお茶を一口含み、軽く息を吐いた。その直後、僅かに表情を緩めてから――
「……すみません。お手洗いを、お借りしてもいいですか」
声を少し落とし、炭治郎が千寿郎へ視線を向ける。
千寿郎はすぐに立ち上がろうとしたが、その動きより先に、竹雄が一歩前に出た。自分が案内すると短く申し出る声には、遠慮とこの家に馴染んだ気配が滲んでいる。
「ありがとう、竹雄。助かるよ」
炭治郎の礼に、竹雄は簡潔に応えて踵を返す。
二人の足音が、畳から廊下へと移っていく。引き戸が開き、閉じる音が重なり、その気配は次第に遠ざかっていった。
***
用を足し終えて障子を閉めると、廊下の空気がすっと冷たく感じられた。
足を踏み出すたび、畳とは異なる硬さが足裏に伝わる。柱と柱の間隔は広く、天井も高い。炭治郎は思わず視線を上げた。
(――大きな家だな)
歩きながら、自然と息を潜めてしまう。音がよく響く気がして、無意識に歩幅を揃える。
前を行く竹雄は迷いなく廊下を曲がり、次の角へ向かう。この家に慣れている足取りだった。ここを一人で歩けと言われたら、きっと戻れなくなるだろう。
「広いなー!竹雄がいなかったら、迷子になってたと思うよ」
声を掛けると、竹雄は軽く振り返り、小さく笑った。
「そっか、兄ちゃんもか。最初は俺もよく迷ったよ」
それだけ言って、また前を向く。その背中を見ながら、炭治郎は弟がこの家で過ごしてきた時間の長さを思った。客としてではなく、日常の一部としてこの廊下を何度も行き来してきたのだろう。
しばらく歩いたところで、ふと空気が変わった。
炭治郎の鼻に、微かに刺すような匂いが混じる。怒りに近い、荒れた感情の匂いだった。強くはないが、それでもはっきりと分かる。
前を行く竹雄の歩調が、若干鈍る。
「?」
炭治郎も、釣られて足を緩めた。
「どうした、竹雄?」
「……」
返事はない。竹雄はそのまま、曲がり角の手前で足を止めた。
一瞬踏み出しかけて、止まる。その背中から迷いが伝わってくる、困惑と躊躇い。どう動くべきか測りかねている匂い。そして遠くから近づく別の匂い――この先に、誰かいる。
そう察した瞬間、炭治郎は立ち止まるより先に、一歩前へ出ていた。ひょいと、角から顔を覗かせる。
「あっ……ちょっと待って、兄ちゃん――」
竹雄の制止は、半拍遅れて届いた。
廊下の奥から、壮年の男がゆっくりと歩いてくる。左手には大きな酒瓶。“酒”と大書された文字が目に入る。上体は揺れているが、足取りは意外なほど確かだった。酔ってはいるが、崩れてはいない。
炭治郎は一目で悟る。
煉獄さんと千寿郎と、同じ色の髪。似たような骨格。血の繋がりを感じる匂いの質。
浴衣を着崩し、無精髭を伸ばした顔は険しい。眉と目は鋭く吊り上がり、その奥に燻った感情が重く沈んでいる。空気がザラつく。
(……この人は)
――――二人の血縁者だ。間違いない。
炭治郎は迷いなく、一歩前に出た。
「こんにちは!お邪魔しています!俺は鬼殺隊で――」
「……何だ、お前は」
不機嫌そうな低く荒れた声が、廊下に落ちた。
「誰だ。余所者を、うちに入れたのは」
男はここでようやく炭治郎を正面から見据える。鋭い視線が炭治郎に突き刺さった。
次の瞬間――
「! その耳飾り………」
空気が、張り詰めた。男の表情が強張る。
「そうか……お前が………」
「え?」
男は、苦々しく何かを呑み込むように言葉を落とす。
炭治郎は戸惑い、目を見開いた。その横で、竹雄が一歩前に出る。声に焦りが滲む。
「す、すみません……槇寿郎さん!俺の兄の炭治郎です!今日は挨拶に来てくれて……」
言いながら、竹雄の匂いが揺れる。しまった、という後悔。合わせてはいけない相手を、合わせてしまったという自覚が、炭治郎にはっきりと伝わってくる。
槇寿郎はその場で足を止め、炭治郎を凝視した。何かを測るように――思い出すように。
そして、大きく舌打ちする。酒を一口煽り、乱暴に瓶を下ろすと、炭治郎の右隣へと無造作に指を向けた。
「……竹雄」
低く、重い声。
「二度と、そいつの面を俺の前に見せるな」
それだけ言い捨てると、槇寿郎は踵を返し、廊下の奥へ消えていった。足音が遠ざかり、空気だけが重く残る。
炭治郎は首を傾げたまま、その場に立ち尽くしていた。
(……挨拶、しただけなんだけどな)
理由は分からない。ただ、はっきりと拒まれた感覚だけが残る。
隣で竹雄が項を垂れていた。言葉はないが、弟の仕草が全てを物語っていた。
***
「千寿郎さん、お手間を取らせてすみません」
私は軽く頭を下げる。
千寿郎はパチリと目を瞬かせ、少し頬を染めたように見えた。
「いえ、こちらこそ……お二人をこうしてお迎えできて、嬉しいです」
私は小さく息を吐き、言葉を継ぐ。
「竹雄は、こちらで随分と頼もしくなりました。千寿郎さんがそばで見ていてくださったおかげだと思います」
千寿郎は目を細め、照れたように頷いた。
「そ、そうですか……ありがとうございます。竹雄君はよく頑張っていましたから。僕は……そばで見守ることしか、できませんでしたが」
三人だけの部屋に、穏やかな空気が流れていた。
鬼が二人いる空間でありながら、千寿郎からは負の感情がまるで感じられない。竹雄の家族として向き合おうとする心だけが、真っ直ぐに伝わってくる。どうしてそこまで至れたのか、正確には分からない。それでも――今ここで向けられている想いは、本物だった。
彼を取り巻く環境が、決して安らかなものではないことを私は知っている。だからこそ、その在り方が一層胸に響いた。
それからしばらくして、炭治郎と竹雄が戻ってきた。
二人が部屋に入った瞬間、私は小さな違和感を覚える。様子は一見すると、出て行った時と殆ど変わらない。
けれど兄弟の間に、言葉にしきれない思いが薄く滲んでいた。気まずさというより、呑み込まれたままの感情がそのまま残っているような空気。
二人は何も言わず、元の位置に腰を下ろす。私が声を掛けるより早く、炭治郎が遠慮がちに口を開いた。
「さっき廊下で会った男の人……すごく怒っている匂いがしたんだ」
炭治郎は竹雄へ視線を向ける。責める色はなく、ただ純粋な疑問だけが浮かんでいた。
「俺、何か気に障ることしたかな。挨拶しようとしただけだったんだけど……」
言い終え、少し困ったように笑う。その表情に悪意も計算もない。だからこそ、その問いは真っ直ぐに竹雄へ届く。
「それは……」
竹雄は一瞬、言葉を探すように視線を落とした。
「父に、会ったんですね」
千寿郎の言葉だった。
炭治郎は一瞬、きょとんとした表情を浮かべる。廊下で出会った男の姿と、千寿郎や煉獄さんから感じる
けれど、隣の竹雄は気まずそうに視線を落としたまま、否定する様子はない。
「俺はてっきり……」
言いかけて、炭治郎は言葉を止める。
千寿郎はその先を察したように、困ったように微笑んだ。
「仰りたいことは、分かります」
部屋の空気が少しだけ沈むが、沈黙を破ったのは竹雄だった。
「慎寿郎さんが怒ったのは、兄ちゃんが“日の呼吸”の使い手だと思ったからだと思う」
竹雄は真剣な顔で、言葉を切る。
一瞬の間。
「……火の呼吸?」
「炭治郎が想像してるのとは違うと思うよ。お日様の
私の訂正に、竹雄が頷いた。
「でも、俺が使うのは水の呼吸と“ヒノカミ神楽”だよ?」
「俺はそうだって分かってるよ。でも……慎寿郎さんは、ヒノカミ神楽を日の呼吸だと考えてるんだ」
「それって―――」
炭治郎が言葉を継ごうとした、その瞬間だった。部屋の空気が、ぴたりと止まる。
そして障子が、バンッ!と勢いよく開いた。炭治郎の「どういうことだ?」という呟きは、その音にかき消される。
現れたのは、炎のように揺れる金髪と、目を引く力強い気配。
煉獄杏寿郎が――――堂々と立っていた。
「すまん!!少々遅れた!!」
朗らかな声が響いた瞬間、張りつめかけていた空気が一息に塗り替えられた。