鬼刃奇譚(旧 空想鬼譚)   作:庵non

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28.二子の山が連なる俊岳 五合目

 

 

 

 

 

 白い服は、思ったよりも重かった。

 村の倉庫の隅に積まれていた予備の装束。その一着を拝借し、竹雄は頭から肩までを完全に覆う。布越しに触れる空気は湿り気を帯び、土と古木の匂いが薄く染みついていた。使い回された痕跡が、触れた瞬間に分かる。

 腰には刀を忍ばせている。布の内側で紐に固定し、外からは形が分からないように。歩くたび、鞘が腿に当たる感触が、かえって意識を地に繋ぎ止めた。

 

 (―――大丈夫だ。上手く馴染めてる)

 

 自分に言い聞かせながら、竹雄は列の最後尾に紛れ込む。

 前を行くのは、同じ白装束を着た子どもたちだった。背丈は自分より少し低い者が多い。年の頃は、二年前の自分と、喪った妹・花子の歳の間ほど。

 

 誰も振り返らず、誰も隣を見ない。泣き声も嗚咽も、震える気配もない。

 ただ、足音だけが一定の間隔で続いていた。草を踏む音、砂利の擦れる音。それらが揃いすぎていて、逆に耳に残る。

 恐怖はあるはずだった。それなのに、それは外へ漏れていない。内側に押し込められ、固められたまま沈んでいる。

 

 (怖い、はずなのに……)

 

 竹雄は、拳を強く握った。

 追い詰められた人間は乱れる。呼吸は崩れ、足取りは揺れ、どこかで必ず綻ぶ。だが、この列にはそれがない。あるのは、繰り返し慣らされた動きだけだった。

 まるで、最初から()()()()()()として組み込まれているかのように。

 

 松明の光が前方を揺らす。白布に落ちる炎の影が歪み、人の形をしているはずのものが、どこか別のものに見えた。山へ続く道は暗い。村の灯りはすでに背後へ沈み、代わりに太鼓と笛の音が、遠くから追いかけてくる。祭りの音は祝いのための響きであるはずなのに、どこか呼吸の速い拍子を刻んでいた。

 

 ――――祝われる場所と、連れて行かれる場所。

 

 同じ夜のはずなのに、その差だけが異様に際立っている。竹雄は奥歯を噛みしめた。

 列は止まらない。誰も指示を出していない。だが、全員が同じ速度で歩いている。

 導く大人の姿はないのに、迷いはない。行き先を知っている者の歩き方だ――そのことが、何よりも異様だった。竹雄は白布の下で息を吐く。

 

 (――姉ちゃん……全員、守れるよな)

 

 声には出さない。ただ、確かに思う。この先にあるのは、単なる鬼の気配ではない。

 闇の奥で待つのは、人間が長い時間をかけて形にしてきた――――“何か”だ。

 

 

 

 

 ・

 ・

 ・

 

 

 

 

 白装束の列が、闇の奥へと飲み込まれていくのを見届けてから、灯麻希は密やかに息を整えた。

 竹雄の魂は、まだ近い。少しの揺れはあるが、折れてはいない。列の最後尾――約束通りの位置だ。その気配を確かめ、灯麻希は視線を前に戻す。

 

 村の中央の広場では、祭典の音が再び鳴り始めていた。

 先ほど途切れていた静寂が嘘のように、太鼓と笛が整った調子で夜を満たしていく。火光に照らされた人々の顔は穏やかで、表情だけを切り取れば、ただの祝いの場にしか見えない。

 

 だが、それは表で()()()()()()()に過ぎなかった。

 

 灯麻希の視界には、別の層が重なっている。

 魂の色は揃っていない。むしろ、同じ方向に寄せられた痕跡のように、歪な均質さを帯びていた。恐怖ではなく、悲嘆でもない。もっと曖昧で、抜け落ちたような感情――納得と諦め、そして責任の所在を外へ逃がす後ろめたさで満ちていた。

 

「見事に揃ってやがる」

 

 隣で、獪岳が低く吐き捨てた。

 村の人間を睨んでいるが、声には苛立ちよりも冷えた理解が滲んでいる。

 

「誰かが死ねば済むって顔だな。反吐が出るぜ」

「全員が……そう信じているわけじゃないよ」

 

 灯麻希は静かに返す。その視線は、すでに村人たちへ向いていた。

 

「祭りに否定的な人もいる。色の揺れ方が違う。声をかけるなら……そういう人がいい」

 

 二人は家々の影を縫うように進み、広場へと近づいていく。太鼓の音、灯り、準備に追われる人の流れ。その中へ、灯麻希は視る感覚を滑らせた。そしてその中で、一瞬だけ引っかかるものがあった。

 ――若い男だった。

 後ろで髪を短く結び、祭りの準備に加わっている一人。太鼓の縁に手を置いたまま、視線を伏せている。

 他と変わらない。最初はそう見える。魂の色も、周囲に溶け込んでいた。

 だが、底だけが違っていた。奥のさらに奥――塗りつぶされた色の下に、細い亀裂のような揺らぎが走っている。迷いと恐れ。そして、“それでも違う”と、押し殺された抵抗だけが、かろうじて残っていた。

 

「――あの人だ」

 

 灯麻希が小さく告げる。

 

「どっちが声をかける?」

 

 獪岳は一瞬だけ男の方を見やり、一笑に付した。

 

「愚問だな。俺しかいねぇだろ」

 

 そのまま、獪岳は歩き出す。外から輪の中へ入る時ほど、堂々としていた方が不審に思われない。足取りは自然で、躊躇がなかった。まるで最初から、そこにいるべき人間のように。

 灯麻希もまた、僅かに距離を保ちながら後に続いた。

 

「少しいいか」

 

 男は声をかけられた瞬間、灯麻希たちの存在にも気づいた。

 ほんの一瞬、肩が強張る。その反応を獪岳は見逃さない。首を微かに傾け、逃がさない距離で続けた。

 

「俺たちは鬼殺隊だ。今夜、お前らが何を差し出すか。俺たちはもう知ってる。それで――今夜差し出す人数は、()()で全部か?」

 

 男の視線が、獪岳の腰の刀に落ちる。喉が鳴り、言葉が遅れて零れた。

 

「鬼狩り…………」

 

 獪岳は、それだけで十分だと判断した。この村は、知っている。鬼も――鬼殺隊も。

 

「知ってんなら話は早い。この村が祀ってるについて……全部吐け」

 

 その一言で、空気が変わった。

 広場のあちこちから視線が集まり、囁きが波のように広がっていく。予定外の存在が入り込んだことへの、遅れてくる理解と動揺だった。

 

「…………差し出す子どもたちは……あの十二人のみです」

 

 男は唇を噛んで目を伏せたまま、泣きそうな声で言葉を絞り出す。

 

「お願いします………どうか―――」

 

 だが、その声は途中で断ち切られた。

 続けようとしたその時――男の声を、鋭く遮る叫びが走った。

 

「やめろ!何も言うな!!」

「これで村は護られるんだ!!」

「外の人間が、まだ残っていたのか……!」

 

 人の輪がざわめき、割れるように動く。

 そこから一人の老人が進み出た。背は曲がり、声は震えている。それでも見開いた目だけは、必死に獪岳を見据えていた。

 

「鬼狩り様よ……頼む……“あの方”を討たないでくれ」

 

 続いて、壮年の女が前に出る。日に焼けた手を握りしめ、声を絞り出した。

 

「あれは災いじゃないんです……お願いします、今夜だけは、手を出さないでください…………」

 

 深く頭が下げられる。それは抗議ではなく、祈りに近い形だった。周囲の村人たちもまた、否定ではなく沈黙でそれに続く。同意とも懇願ともつかない視線だけが、重く二人に積み重なっていく。

 灯麻希の胸の奥が、僅かに冷える。

 

 (この村は……ずっと、自分たちで選んできたんだ)

 

 獪岳は何も言わない。女を見据えたまま、表情を動かさない。

 沈黙を破ったのは、灯麻希だった。

 

「理由を聞かせて」

 

 感情を削ぎ落とした声が、広場の空気を裂く。

 女はしばらく唇を噛み、やがて諦めるように口を開いた。

 

「……あの方は、村を守ってくれてるんです。この村の“守り神”です。冬の終わりに山が荒れた年も……川が暴れた年も……決まって、あの方が()()()()()くれた」

 

 獪岳の視線が、女を射抜く。

 

「――それで?続きがある筈だろ」

 

 短い問い。女は一瞬だけ詰まり、すぐに頷いた。

 

「………差し出すだけだ。人間の方が、数が多いから」

 

 誰かが小さく付け足した。その瞬間、広場の空気が割れる。目を伏せる者。拳を握る者。肯定する者。そこにあったのは、恐怖でも信仰でもない。もう戻れなくなった後に残る、維持の形だった。

 獪岳は、その意味を理解してしまう。

 生き延びるために、続けるために、誰かを差し出すという選択――――だが、それでも。それは救いではない。差し出す側が納得するための構造にすぎない。

 獪岳が、鼻で笑う。

 

「随分都合のいい話だな。で、その肩代わりの代償がガキ共か」

 

 誰も答えない。

 代わりに、別の老人が一歩前へ出る。魂は濁りきっていた。疑うことをやめたまま固まった色だった。

 

「我々は、選んできたのです。ずっと」

 

 それは言い訳ではない。ただの事実として、口にされた言葉だった。

 その直後。地の奥から、鈍い圧が伝わる。揺れではない。だが確かに、大地が呼吸した。

 魂の感覚のさらに奥で、竹雄の気配が山の深部へ沈んでいく。時間が――ない。

 

「分かった」

 

 獪岳の言葉に、数人がはっと顔を上げる。

 

「――――お前らの言い分は、な」

 

 獪岳は刀に手を掛けないまま、背を向ける。

 

「俺らは俺らの仕事をする。邪魔する奴は斬る。それだけだ」

「守り神様の場所は、脅されても絶対に言わねぇぞ!」

「馬鹿が」

 

 獪岳が吐き捨てる。

 

「初めから、知ってる」

 

 

 

 

 ・

 ・

 ・

 

 

 

 

 竹雄が最後尾の列とともに足を止めたのは、山肌に口を開けた黒い裂け目の前だった。

 

 洞窟と呼ぶには形が整いすぎた入り口は、岩が崩れた跡はない。内側から押し広げられたように、滑らかな歪みを残した“穴”だった。湿った土と、獣の匂い。そして、その奥に微かに混じる鉄の匂いが漂う。風が吸い込まれるように裂け目へ流れ込み、まるで山そのものが、そこから脈動しているかのようだった。

 

 数秒の停滞ののち、列は何事もなかったように動き出す。誰も言葉を発しない。視線は揃って地面に落ちたまま、ためらいもなく中へと入っていく。竹雄もまた、最後尾としてその流れに続いた。

 

 内部はすぐに狭まった。

 大人が一人通れるほどの幅しかない通路が、先へ先へと続いている。天井は低く、所々で自然に身を屈めなければならない。足元は不安定で、土と岩が混ざり合い、踏み違えればすぐに崩れそうだった。

 進むたびに、道は()()()()()()から遠ざかっていく。枝分かれし、重なり、また合流する。道というより、掘られ続けた痕跡そのものだった。

 壁には裂いたような痕が残っている。爪とも刃ともつかない深い傷が、何層にも重なっていた。足元に、白く乾いた骨が転がっていた。崩れたのではなく、放置されたまま時間だけが過ぎた痕跡だ。

 

 それでも列は止まらない。泣き声も変わらずなく、抵抗もない。ただ足音だけが、規則正しく奥へ吸い込まれていく。竹雄はその最後尾で、呼吸を殺したまま周囲を見ていた。白装束の下、刀の温度だけが現実としてそこにある。

 

 奥へ進むほど、空気は変質していく。湿り気は重くなり、音は反響せず、全てが飲み込まれるように消えていく。代わりに、自分の心臓の音だけがやけに鮮明だった。

 

 ここは、人が生きるための場所ではない。

 

 気づけば、もう戻れない場所まで来ていた。

 

 

 

 

 狭い通路を抜けた瞬間、視界が開けた。

 

 天井が一気に跳ね上がる。思わず顔を上げてしまうほどの高さだった。二階建ての家屋がそのまま収まるほどの空間が、暗闇の中に広がっている。洞窟というより、大広間だった。

 円形に近いその空間は、かつて人の手で整えられた痕跡を残している。だが今は原型を失い、壁は削られ、床には踏み固められた跡が重なっていた。

 壁際には最低限の松明が吊られている。揺れる炎が届く範囲だけが、かろうじて形を保っていた。

 そして正面奥に、穴が二つ。並んで口を開けたそれは、同じ大きさでありながら、どこまでも奥行きが見えない。闇がそのまま続いているように、底が知れなかった。その縁を形作っているのは、白いものだった。

 

 ―――骨だ。

 

 人の骨が積み重なり、半円の輪郭のように穴を縁取っている。飾りではない。積み重ねられた年月が、そのまま輪郭になっていた。

 さらに右奥には、もう一つの通路があった。細く、壁に穿たれたような裂け目。こちらもまた、奥は完全な闇に沈んでいる。

 

 広間の前方には、石の構造物が並んでいた。人ひとりが横たわれるほどの長さ。段差を持ち、等間隔に並ぶ石。かつては蓋があったのだろうが、今は全て外され、砕けた破片だけが周囲に残っている。

 墓だったのだ、と理解するより先に、空気がそれを否定していた。とうに、弔いの場所ではない。意味だけが剥ぎ取られ、形だけが残された空間だった。

 

 子どもの列はその場に入ると、自然に配置を変えられていく。前方から順に中央へ寄せられ、整列していく。誰かに指示されたわけでもないのに、当然のように。

 竹雄だけが、その列から外れた。最後尾の一列、僅かに空いた位置へ押し込まれるように立ち止まった。

 

 視線が、自然と動く。

 逃げ道。通路の角度。松明の間隔。奥行きの歪み――身体が勝手に、空間を測っていた。広間にいるのは竹雄を含めて、十三人。子どもたちだけだ。その数を再び確認した瞬間、奥の穴の向こうから、空気が揺れる。

 

 闇の奥で、複数の()()()が息を潜めていた。

 

 (――――まずい……!)

 

 それらはゆっくりと、しかし確実にこちらへ近づいてくる。だがまだ、姿は見えない。正面の穴の奥に、留まったままだった。

 竹雄の喉が、無意識に鳴る。片手の人数なら守りながら戦える。だが、子どもたち全員を守りながら戦うのは不可能に近い。

 

 (ここが終点だ……!迷路のような洞窟の行き止まり!彼らを逃がすなら今しかない……!!)

 

 竹雄は前にいる少年へ、身をかがめるようにして顔を寄せた。穴の奥にいる何かへ気取られないよう、子どもたちだけに届く声量で。

 

 ――ここから逃げろ、と呼びかける。

 

 声は極限まで落とされていた。返事はない。もう一度言おうとして、竹雄は違和感に気づく。

 少年たちは、誰一人こちらを見ていない。下を向いたまま、微動だにしない。不安で俯いている、という空気でもなかった。それにしては、静かすぎた。

 竹雄は、目の前の少年の肩にそっと手を置いた。軽く叩くようにして、もう一度呼びかける。

 

「おい、どうした……?まさかもう、鬼に操られてるのか……?」

 

 ようやく、少年が反応した。ゆっくりと顔を上げる。

 その表情は、空白だった。虚ろな目。焦点の合わない視線。半開きの口。到底、意識がそこにあるようには見えなかった。

 

 (……鬼の仕業じゃない!!これは……いや、まさか――!?)

 

 竹雄は、言葉を失った。

 この子どもたちは、自分の意思でここまで来たわけではない。何かを飲まされたのか。あるいは別の手段か。理由は分からない。だが、正常な状態ではないことだけは確かだった。

 

 その時だった。どこかで、石を引きずるような音がした。乾いた爪が岩を掻く、不規則な擦過音。複数の足音。

 竹雄が顔を上げるより先に、影が動いた。松明の揺らぎに引き伸ばされ、壁面に、歪な輪郭が滲み出す。石造りの区画の縁。崩れた寝台の陰。先程まで何もなかった場所から、黒い染みが滲み出すように広がっていく。

 

 (想像以上の数だ……!)

 

 低い唸りが、石の空間を這うように広がった。湿った呼気が重なり合い、どこから発せられているのか判別できない。獣の声に似ている。だが、揃いすぎている。同じ高さ、同じ間隔で、同じ調子――動物が自然に発するには、あまりにも整いすぎていた。

 松明の光が揺れるたび、壁際や石区画の陰に、影が滲む。四肢を持つ影は地に伏せた姿勢のまま、ゆっくりと輪郭を得ていった。

 野犬、猪、猿、鹿、狐――――それぞれの姿を土台にしながら、どれも本来の形から歪められている。骨張った背中には不自然な角度の関節が突き出し、肢は地面を這うように折れ曲がっている。眼だけが異様に冴え、光を反射しながら、闇の中で数を増やしていった。

 把握できる範囲で、七体。だが、それで終わりではなかった。

 

 (まだ、穴の奥にいる)

 

 本体である“鬼”の気配は、姿となって現れていない。

 竹雄は日輪刀を抜き、子どもたちの前に立つ。

 

 奥の二つの穴。そこから、同じ唸りと湿った呼気が、絶え間なく吐き出される。新たな影が、ゆっくりと姿を現した。一体、また一体。獣のように腹を低くし、石の床を擦るように前へ出てくる。

 それらは、まだ飛びかかって来ない。獲物を囲む獣のように左右へ散り、距離を保ったまま、じりじりと包囲を狭めてくる。

 

 一歩。また一歩。

 

 (……俺たちを囲う気だ!!)

 

 逃げ道は、真後ろの通路だけ。

 だが子どもたちは、自我を奪われたまま、言葉にも反応せず佇んでいる。

 完全に囲まれる前に逃がしたい。そう思っても、今はそれが叶わない。

 

 その時――空気が、僅かに沈んだ。

 片目が潰れ、右腕を三本生やした異形の猿が、ぐらりと首を揺らして口を開いた。

 

「鬼狩リが態々喰ワレに来よぅタ」

 

 嗄れた声が、洞窟に滲む。

 

「ここヲ突き止メたのハ褒めテやル」

「供物ニ紛れ込ンだナ」

 

 同じ声色、同じ調子。別々の口から放たれているはずなのに、ひとつの獣が喚いているようだった。

 

「鬼狩リノ童は生きのイイ肉にナル……主モ喜ぶ!」

 

 下卑た唸りが、笑いともつかぬ音に変わる。

 

「ソノ刀は邪魔ダ。手足ヲ喰ィ千切レェェ!!」

 

 

 ―――最初に動いたのは、左手側にいた個体だった。

 鹿に似た輪郭。だが角は異様に太く、関節の向きが歪んでいる。ソレは吼えもせず、蹄を石床に打ちつけながら音もなく距離を詰めた。

 

 (来る――!)

 

 竹雄が息を詰めた瞬間、鹿は跳んだ。

 直線ではなく、斜めに滑るような軌道。角を低く構え、列の側面を抉るように迫る。

 竹雄は一歩前へ出た。日輪刀が閃き、角の先端を弾き落とす。火花が散り、硬質な音が石壁へ反響した。反動を殺し、すぐに次の動きへ移る。

 

 だが鹿は怯まない。深追いもせず、距離を測るように円の外縁へ戻っていく。

 

 それを合図にしたかのように、他の影が動き出した。猪が低く突進し、猿が跳び、狐が横へ回る。

 どれも決定打を狙わない。ただ、竹雄の体力と立ち位置を少しずつ削っていく。

 

「くっ……!」

 

 竹雄は下がれない。背後には、動けない子どもたちがいる。

 斬る。払う。弾く。致命傷を避け、踏み込みを止めるためだけの刀。

 呼吸が少しずつ荒くなる。それでも、型は崩れない。しかし頬を掠めて腕を裂き、浅い傷が増えていく。

 

 異形動物たちは、どこか楽しげだった。

 唸り声は揃い、動きは連動している。それでも、一斉に襲いかかることはない。主が来る前座であり、戯れだ。その認識が、竹雄の背を冷たく撫でた。

 

 (……っ、数が減らない)

 

 こちらへ向かってくるたび、確かに刃は届いている。

 浅くはない刺傷を刻んでいるはずなのに、効いている素振りは一切ない。鬼の血を与えられているのか、裂けた肉は瞬く間に塞がり、傷そのものが消えていく。

 

 一体を退ければ、別の影が距離を詰める。円は、確実に狭まっていた。

 鹿と猿、猪が複数と束になって再び跳ぶ。今度は高く――竹雄の視線を奪う軌道。その一瞬、猪が低く滑り込んだ。狙いは、背後の子どもたち。

 

「――っ!」

 

 (背後へ滑り込む殺意を、まとめて焼き払う!!)

 

 “炎の呼吸 伍ノ型

 

 ――――“炎虎”!!

 

 竹雄は大きく踏み込み、刀を振りかぶった。

 烈火の虎を生み出すが如く、日輪刀を振り下ろす。炎が弧を描き、咆哮を伴って空間を裂く。視界が一瞬、白く焼ける。咬みつくかのような一閃が走り、広範囲に奔る火勢が石床を舐め、異形動物たちをまとめて押し返した。

 

 熱風に弾かれ、一瞬だけ獣たちの動きが止まった。遊びの輪が、ほんの一瞬だけ崩れる。だが――熱が引くより早く、異形動物たちは散った。

 

 完全に退いたわけではない。ただ距離を取り直しただけだ。再び輪郭を整えるように、包囲が組み直されていく。

 遊びの輪は、形を変えただけだった。

 

 その時だった。

 床を微かに擦る音。炎虎の余熱に紛れて、低い位置から影が滑り込む。焼け残った一体の野犬が身を伏せたまま、一直線に駆けた。

 狙いは―――竹雄ではない。少し離れた位置。動けずに残された子どもたち。

 

 (……しまった!!)

 

 理解が落ちるより早く、身体が動く。それでも、距離が足りない。踏み込んだ脚は届かない。距離が遠い。刃も、間に合わない。

 

 (守りきれない――!!)

 

 牙が開き、喉元へ跳ぶ。その刹那――――

 

 “ヒノカミ神楽 灼骨炎陽しゃっこつえんよう

 

「ギャッッ!!」

 

 日輪を描くように、円環の軌跡が奔った。水平方向に渦巻く焔の闘気が一閃し、前方一帯を薙ぎ払う。斬撃であり、防壁でもある一太刀。踏み込もうとしていた獣たちの勢いごと、空間が焼き潰される。

 空気が裂ける。血飛沫が弧を描き、野犬の身体が横倒しに叩き落とされた。右前脚が床を跳ねる。次の瞬間、胴体が断たれ崩れ落ちる。竹雄が息を呑む。火焔の向こうで、影が揺れた。

 

「――――竹雄。遅れて、ごめん」

 

 影の中から現れた灯麻希は、指先を鋭く保ったまま周囲を一瞥する。

 冷えた視線が、異形たちの輪郭を切り取る。遊びの輪が、明確に揺らいだ。

 

 そしてその背後――空気が微かに揺れ、愉しげな気配が笑う。

 

 

「随分と、賑やかな余興じゃねえか」

 

 

 役者が、揃った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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