灯麻希は一瞬、竹雄の背後へと視線を走らせる。
子どもたちの姿を確かめ、傷がないことを確認してから、軽く息を落とした。
「無事でよかった。子どもたちには傷一つ付いてないよ――よく頑張った」
その言葉に、竹雄の肩から張り詰めていた力が僅かに抜ける。
「はぁはぁ……うん。でも……数が減らなくて。斬ってもすぐに傷が塞がる。多分、鬼の血が入ってるんだと思う」
竹雄が息を整えながら状況を伝える間、獪岳は一切視線を逸らさず、異形動物の動きだけをじっと見ていた。
「斬れば分かるだろ」
獪岳が一歩踏み出す。下半身を断たれ石床に崩れていた野犬の首を、迷いなく刎ねた。
肉が落ちる音はない。崩れた身体は土塊のように形を失い、そのまま塵へと崩れていく。
「鬼の傀儡かよ。面倒くせぇな」
舌打ちと同時に、奥の二つの穴から再び影が滲み出た。湿った呼気と重なり合う足音。残っていた異形――十五体ほど。
そのうちの数体が、明らかに動きを変える。遊びのような間合いが消え、狩りの速度へと切り替わっていた。
「ぞろぞろ出てきやがったか……親玉が出てくる前に、削るぞ」
灯麻希が竹雄へと視線を戻す。
「まだ動ける?」
「大丈夫。これくらいじゃ、へばらないよ」
「……フン」
獪岳が二人を見て、鼻で短く笑った。うんざりしたようでいて、もう慣れた――そんな色が混在していた。
竹雄は息を整え、強く頷く。その背後で、獣たちが一斉に踏み込み、石床を蹴った。
「私は子どもたちを元に戻して、洞窟の外へ避難させる。それまでここを任せるね」
「うん!ここは俺たちに任せて!姉ちゃんが戻ってくるまで、獪岳さんと凌ぐから!!」
言い終わるより早く、鹿型の異形が跳躍する。角が空を裂く。猿が左右から回り込み、猪が低く突っ込んだ。
「いいから、さっさと連れてけ」
獪岳は言い捨て、雷の呼吸で一体を弾き飛ばす。
「―――ガキ共が邪魔だ」
その言葉とは裏腹に、踏み込みの位置は常に子どもたちの前へ立つ線上だった。
灯麻希はそれ以上何も言わない。一度だけ二人の背を見据え、子どもたちへと身を翻した。
残り六体、さらに穴の奥から這い出る異形たち―――――計二十体近い影が、同時に牙を剥いた。
灯麻希は一歩、前へ出た。
左手に“癒血”、右手に“茨ノ連”。
相反する二つの血鬼術を、同時に解き放つ。両腕を大きく薙ぐと、血が弧を描いた。
外へ奔るのは、茨のように絡みつく毒の血。内側――子どもたちのいる円へ降り注ぐのは、淡く温かな癒しの血だった。
突進してきた異形動物たちが、声にならない悲鳴を上げる。関節が絡まり、脚が縺れ、動きが鈍った。その隙を逃さず、灯麻希は踏み込む。
―――ドガッ!!
鋭い蹴りが脇腹を抉り、石床へ叩き落とす。異形は石床を滑り、洞窟の奥へ吹き飛ばされた。
続けざまに二体、三体。石壁へ叩きつけられた獣たちが唸り声を上げながら後退する。
竹雄と獪岳も即座に動いた。
竹雄は子どもたちを背に、最小限の動きで刃を振るう。狙うのは急所ではない。脚、肩、胴――動きを止めるためだけの剣。
獪岳はさらに前へ出る。再生しかけた個体を容赦なく断ち、確実に数を削っていった。
その間にも、内側では変化が起きていた。
癒血を浴びた子どもたちの瞳に、ゆっくりと光が戻る。虚ろだった視線が揺れ、焦点を結ぶ。
喉の奥から咳が漏れた。吐き出すように息を吸い込み、数人が口元を押さえる。舌に残る苦味。鼻腔にこびりついた甘ったるい薬草の匂い―――それらを思い出したように、顔を顰める子どももいた。
「………あれ?」
「ゴホッ………ここ、どこ……?」
ざわり、と小さな声が広がる。
周囲に散らばる異形。血の匂い。獣たちの唸り声。状況を理解した瞬間、恐怖が一気に押し寄せた。
「大丈夫」
灯麻希はすぐにしゃがみ込み、子どもたちと目線を合わせる。
声は大きくない。だが、不思議と耳に届く声だった。
「落ち着いて聞いて。村で祀られていた“神様”はね――物の怪の怪物だったんだ」
子どもたちが息を呑む。周囲の異形を見て、さらに身を縮こまらせた。
「ここは危険な場所なの。だから今から、私が安全な場所まで連れて行く」
一瞬の沈黙。その直後、竹雄の声が重なった。
「姉ちゃんが守る!俺たちが怪物から君たちを守るから、姉ちゃんの言う通りに逃げるんだ!」
泥と爪傷にまみれた顔。それでも必死に叫ぶ竹雄の姿を見て、子どもたちの瞳に浮かぶ色が少しずつ変わっていく。
「ついてきて。絶対に振り返らないで」
灯麻希は立ち上がる。そして子どもたちを庇うように、その最後尾へ回り込んだ。
その瞬間だった。洞窟の奥から、低く濁った唸り声が幾重にも重なって響く。獣たちの気配が、一斉に跳ね上がった。逃がすまいとする意思が露骨に牙を剥く。異形動物たちは間合いを詰め、躊躇なく飛びかかってきた。
だが――――
「させるか!!」
竹雄が踏み込み、刃を振るう。獪岳がその死角を埋めるように動き、雷鳴のような斬撃で跳躍を叩き落とした。
二人の連携に迷いはない。通すべき一撃だけを通し、通してはならない攻撃は全て弾き返す。獣の爪も牙も、少年たちには一つとして届かなかった。
「今だ、行け!!」
その声を合図に、灯麻希は子どもたちの背を押した。
「前だけ見て走って!」
泣き声と荒い呼吸が重なる。灯麻希は最後尾につき、そのまま洞窟の外へ向かって駆け出した。
背後では、刃と獣がぶつかり合う音がさらに激しさを増していく。子どもたちを先に進ませながら、灯麻希は何度も後方へ目を向けた。
迷路のような洞窟だったが、足取りに迷いはない。
岩壁の凹凸、天井の低さ、湿った風の流れ――全てが来た道と一致していた。加えて、獪岳が残していた目印も要所に刻まれている。灯麻希は立ち止まることなく進んだ。
「あそこから、頭を下げて進んで」
合図とともに、一行は狭い通路へ入る。
年長の子が自然と後ろを気にかける。誰かが躓けば、すぐ別の誰かが支えた。恐怖で震えながらも、誰一人取り残されない。
やがて空気が変わった。湿った土の匂いに混じり、夜風が頬を撫でる。
――――出口だ。
最後の曲がり角を抜けた瞬間、視界がぱっと開け、夜の空気が胸に流れ込む。子どもたちは驚き、その場に立ち尽くした。
洞窟の外、闇に沈む森の斜面の先。木々の隙間から、ぽつり、ぽつりと橙色の灯りが見える――村の集落だった。
灯麻希はそこで一度立ち止まり、子どもたちへ合図を送った。
歩みを止めると、そのまま全員の前へ回り込む。もう誰も泣いてはいなかったが、震える指先が必死に前を掴んでいた。
「ここまで来れば、もう平気だよ。怖かったね」
そう言って、ゆっくり膝を折る。子どもたちと目線を合わせる高さまで身を下げ、穏やかな声で続けた。
「異形たちは、この場所までは追ってこられない。ほら、見えるでしょう」
指差した先。木々の隙間に、家々の橙色の灯りが揺れている。
子どもたちは一斉に頷いた。強く、何度も。
「ここから先は、あの灯りを目印に山を下りて。みんなだけで行けるね?」
十二人の少年たちの白い装束は土埃に汚れ、裾も破れている。
それでも誰一人欠けていない。その事実に、灯麻希は胸の奥でそっと息を吐いた。
「……お姉さんは、一緒に来ないの?」
声を上げたのは、黄緑がかった瞳の小さな少年だった。
不安を隠さない問いに、周囲の子どもたちもざわりと揺れる。
灯麻希はすぐには答えなかった。ほんの一瞬だけ、洞窟の方角へ視線を向ける。
「ごめん、行けない。まだ仲間が残っているから」
きっぱりと、しかし柔らかく答えた。
「それに、洞窟の奥には、さっきの動物たちを操っていた
「……神様じゃないの………?じゃあ……一体、なに?」
黒目の少年が恐る恐る尋ねた
「――鬼だよ」
灯麻希ははっきりと告げた。
「人の怖れや願いにつけ込んで、守り神みたいに振る舞っていただけ。でも、本当は違う」
子どもたちの表情が強張る。
「鬼は人を喰べるために嘘をつく。優しいふりも、守るふりもね。
だから、もう誰も襲えないようにする。それが私と仲間の役目なんだ」
小さなざわめきが広がるが、灯麻希は静かに言葉を重ねた。
「村に着いたら大人たちに伝えて。私たちが戻るまで、絶対に山へ近づかないようにって」
子どもたちは互いの袖を掴み合い、小さく頷いた。
「さあ――行って。暗いから足元に気をつけて。転びそうになったら、手を取り合うんだよ」
灯麻希が続けた言葉に、何人かが息を呑んだ。
「あなたたちは、村を守るための生贄なんかじゃない。生きていていいんだから。ここから先は―――生きて帰る道だよ」
恐怖と躊躇いが、少しずつ揺らいでいく。
「だから、前を見て。灯りのほうへ」
一人が走り出した。それにつられるように二人、三人と続く。
やがて十二の影は小さな足音を残しながら、森の下り道へ消えていった。
灯麻希はその背を見届ける。そして踵を返し、再び闇の中へ駆け出した。
***
洞窟の大空間。
最後の二匹となった狐と猪が、牙と爪を剥き、竹雄と獪岳へ同時に跳びかかる。
だが、二人の動きに迷いはなかった。踏み込み、誘い、斬る――呼吸が噛み合うように連なり、刹那の隙間で勝負は終わる。狐は首を落とされ、猪は喉を裂かれたまま地へ落ちる。断末魔すら残らず、崩れるように土へ還った。
床には、土塊と化した残骸が散っていた。獣臭は薄れ、代わりに焼け焦げた血の匂いだけが重く沈む。
竹雄と獪岳の身体には浅い裂傷が走っていたが、動きに支障はない。まだ戦える状態だ。炎と雷の全集中の呼吸が、洞窟に荒い反響を刻む。吸って、吐く。乱れかけた体力を、無理やり引き戻すように。
だが―――本命の鬼は、動かない。
どれだけ手下が減っても、最終的に全てが斬られようとも、深い闇は沈黙を保ったままだった。
「くそっ、暑ィな。泥クズ共が……無駄に手間をかけさせやがって」
獪岳が吐き捨てる。苛立ちはあるが、呼吸は崩れていない。
「手下は全部倒した」
竹雄は奥を睨んだまま、低く言う。
「なのに出てこない……まだ何か残してるのか。それとも……そもそも鬼の術じゃ、ない?」
「どちらでもいい」
獪岳が短く切り捨てる。
「こっちを削るのが目的ってだけだろ」
そういう手は珍しくない。数をぶつけて呼吸を乱し、判断を鈍らせる。鬼が好む“消耗戦”だ。
勝ちに近づいた感触は、まだどこにもない。次の一手を探ろうと、二人が言葉を継ごうとした、その瞬間。
―――――――
洞窟の大空間に、重く湿った肉の塊が地を引きずるような音が響いた。
ヌルリ、と。岩肌を這うその音に、竹雄の心臓が、ひとつ跳ねた。思考より先に呼吸が浅くなる。肺が警鐘を鳴らしていた。
音は―――奥からだ。骸骨で縁取られた左側の穴。洞窟の中でも、最も闇が濃く澱んだ場所。
そこから、紫色の長い爪が岩を掴んだ。ずるり、と。爪に続いて現れた腕は異様に長く、岩肌を抉るように洞窟の縁を掴む。さらに黒髪が溢れるように垂れ落ち、その奥で二つの妖光が揺れた。
「………鬼の方から来やがったか」
獪岳が汗を拭い、口元を歪める。だが、その笑みは余裕ではない。喉の奥に引っかかる不快感を噛み潰すような表情だった。
邪気の質が、これまでとは比べものにならないほど濃かった。肌に粘つくような圧が、重く纏わりつく。
やがて影が前へ出る。
量感のある黒髪が肩から背へ流れ落ちる。古びた着物の隙間から覗く四肢は、老人のものとは思えないほど太く発達し、筋肉が皮膚の下で脈打っていた。
両頬には紫色の三本線。猿を思わせる長い腕。異様に盛り上がった肩と背。人に近い顔立ちは裂けるように歪み、不揃いな牙が覗いている。黒い結膜に縁取られた金色の瞳が、獲物を測るように竹雄と獪岳を捉えた。
狒狒。その名が、自然と脳裏に浮かんだ。
だが、それは単なる獣ではない。その身から溢れる瘴気は、先ほどまで洞窟を埋め尽くしていた異形動物たちと同質だった。
ただし密度が違う。あれらが枝葉ならば、この存在こそが幹。異形を生み、操っていた源そのものだ。
そして――――その瞳に、十二鬼月の文字は
狒狒鬼は、洞窟内をゆっくりと見渡した。
崩れ落ちた手下たちの残骸。土塊となった獣の骸に、視線を落とすでもなく、ただ欠伸を漏らす。
「………煩いから来てみれば、鬼狩りに見つかってしもうたか」
掠れた声が、湿った空気を震わせる。
視線が、竹雄と獪岳へと向いた。金色の瞳孔が細く絞られ、獲物を測るように揺れる。
「畜生共も、無様に散っておるわ」
低く、愉しげな笑い声が漏れた。笑っているのか、嘲っているのか―――その境は曖昧だ。
「………面倒じゃのう。然れど……ふたりとも、おれ好みの風貌をしておる。ヒヒヒ……」
舌を這わせるような声音。口元が吊り上がる。思わず、竹雄の心臓がゾクリと高鳴る。
「足りない分は、また持って来させれば良かろう」
狒狒鬼は独り言のように続ける。
「ああ……しかし、在所が暴かれてもうたからのう。蔵も替え時かえ?」
獪岳の背を、嫌な汗が伝った。
言葉の端々が噛み合わない。古びた語り口と、今風に近い響きが気味の悪い調子で混ざり合っていた。はっきりしているのは――この鬼が、生きてせいぜい百年程度の存在ではない、ということだけだ。
「動くのは、ほんに面倒だのう。腹ばかり減る……ちいと早いが、村の人間も喰わんとな」
そう呟いたかと思うと、金色の目が、ぎらりと光った。
視線が、再び二人を射抜く。
「………………なぁ、鬼狩り?」
狒狒鬼が一歩、踏み出した。それだけだった。だが、空気が変わる。
洞窟を満たしていた湿った空気が重く沈み込み、見えない圧となって押し寄せた。地面がぎしりと軋み、岩肌のどこかで小さく亀裂の走る音がする。
竹雄の喉が鳴った。呼吸を整えていたはずなのに、肺が勝手に空気を求める。
獪岳の足先が、僅かに開く。互いに視線を交わすことはない。それでも分かった。
((――――来る!!))
刹那。狒狒鬼の姿が消えた。次の瞬間には、二人の目前まで迫っている。拳が、下から上へ振り抜かれた。竹雄は反射的に身を捻り、獪岳は地を蹴る。
紙一重で背後を掠めた風が、皮膚を焼くように撫でていく。直撃はしていない。それでも、衝撃が来た。
轟音が遅れて響く。振るわれたのは拳だけだった。それなのに風圧は刃のように洞窟を裂き、岩壁を粉砕する。砕けた石片が弾丸のように飛び散った。
「ヒヒッ……素早いのぉ」
楽しげに狒狒鬼が嗤う。
顔が振り向くより早く、二人は壁を蹴っていた。竹雄は右壁へ。獪岳は左壁へ。互いに反対方向へ跳び、狒狒鬼の背後を取る。
獪岳は舌打ちした。あの図体に腕力。まともに殴り合えば不利だ。しかもこちらは、手下との戦闘で消耗している。
「……長期戦は不利だ!!」
叫びながら呼吸を整える。
「始めから、飛ばすぞ!!」
「了解!!」
竹雄も深く息を吸った。肺いっぱいに空気を満たす。全身の血が、一気に巡る。
足が地を叩く。爆ぜるように地を蹴り、火線が一気に伸びる。遠間から、一気に距離を潰す踏み込み。
―――“炎の呼吸 壱ノ型 不知火”!!
―――“雷の呼吸 肆ノ型 遠雷”!!
ほぼ同時に、獪岳も踏み込む。雷光のような斬撃が幾重にも走り、逃げ場を削り取る。挟撃——鬼の退路を潰すための一手だった。
狒狒鬼が、ぎょろりと目を見開く。二人の刃が届く、その直前―――
“血鬼術 地織荒戯”
鬼の左脚が地を踏み抜いた。
直後。洞窟の床が唸りを上げる。狒狒鬼の背後から岩と土が一気にせり上がり、巨大な土壁が噴き上がるように出現した。
「っ!?」
竹雄の視界が塞がれる。振り下ろした刃は鬼の頸を捉えず、隆起した壁を斜めに断ち斬った。火花と土砂が噴き上がる。
一方、獪岳の遠雷も――奔った斬撃が壁に吸われるように呑み込まれた。届いているが、鬼には届かない。土壁が崩落し、砂煙が視界を覆い尽くした。
「寝覚めの
砂埃の奥から、嗄れた声が漏れた。
視界が晴れる。さっきの踏み込みにより、三人の位置は最初の配置から逆になっていた。
狒狒鬼は入口側。竹雄と獪岳は奥側。両者は、再び正面で噛み合う形になる。
竹雄は即座に距離を取り、叫んだ。
「……違う!!お婆さんなのは見かけだけだ!それと……今の壁、“さっきの奴ら”と気配がまるで違う!」
ずっと感じていた違和感を吐く。
斬りつけた瞬間の
「ヒヒヒ……あたしの異能は、変幻自在なのさ」
狒狒鬼は首を鳴らした。
ゴキ、ゴキ、と骨が軋む音が洞窟に響く。その音を聞きながら、獪岳の視線は鬼から一度も外れない。
「……嘘だな」
低い声。切り捨てるように、しかし確信だけは鋭い。
「手下の泥クズ共は土で出来てたが、動きは妙に出来過ぎてた。あれだけ精密に操れるくせに、さっきの壁は雑すぎる。即席にしてもだ」
狒狒鬼の口元が、僅かに歪む。
獪岳は踏み込むように一歩だけ前へ出た。
「それにもう一つだ———なぜ
「…………」
沈黙。その一瞬で、竹雄の表情が変わる。
「たしかに……!動物たちが倒されたところを見ても、鬼は焦ってなかった……!!」
狒狒鬼の目が細く揺れ、声音が崩れる。
「……聡い男は嫌いじゃのう…………いや、
空気が、
「その反応、図星だな」
獪岳の一言で、狒狒鬼の表情が裂けるように歪んだ。
「煩いのう!!………愚かな男は、とっとと去ね!!」
地面がびくりと跳ね、岩肌に亀裂が走る。洞窟全体が、怒りに応えるように軋み始めた。
「ここは―――おれの独壇場じゃ!!」
“血鬼術 地織荒戯・歪形間”―――
狒狒鬼が太い地響きを立てて踏み鳴らすたび、洞窟そのものが怒りを持った生き物のようにうねり、形を変えていく。
岩柱がせり上がり、流砂が牙を剥き、確固たる足場が瞬時に消失した。
竹雄と獪岳は全集中の呼吸を喉の奥で爆発させながら、その質量兵器とも言える猛攻を必死に捌いていた。迫る岩塊を紙一重で躱し、崩落する砂を蹴って辛うじて宙へ跳ぶ。
だが、隙を見つけて反撃に転じようとする、まさにその刹那に床が動いた。
―――踏み込みが、滑る。
―――間合いが、数寸ずれる。
―――刃が、届かない。
ほんの指一枚分の狂い。それだけで、必殺の一撃はただ冷たい虚空を斬る刃へと変えられた。
時間が経つごとに、肺胞が焼けつくように呼吸が重くなる。
吸い込むたびに血の匂い混じりの湿った空気が肺を圧迫し、酷使された筋肉が千切れんばかりに悲鳴を上げた。噴き出した汗が目に入り、視界を滲ませる。液状化するように崩れ続ける足場は、一歩踏み出すたびに二人の体力を容赦なく吸い上げていった。
決定打を打てないまま削られ続ける泥沼の攻防に、二人の焦燥は確実に膨れ上がっていく。
そして―――不意に、床が爆ぜるように大きく歪んだ。
隆起する岩と流砂が二人を強引に引き剥がし、足元に深い裂け目が走る。それはまるで、獲物を分断し、孤立させて貪ろうとする捕食者の意志そのものだった。
対して狒狒鬼は、目の前の二人の連携を
一人ずつ確実に屠るため、盤面そのものを冷酷に組み替える。視界を遮る岩壁、体勢を崩す砂、そして太刀筋を狂わせる爪先ほどの微細な段差———刃を交え続けた時間が、鬼に
(コイツ……俺たちの動きに合わせて、地面を動かしてやがる……!!)
(完全に読まれてる……!!獪岳さんと俺の距離を引き離す気だ!!)
二人は同時に絶望の輪郭を悟る。だが、思考の先を行くように、変化し続ける地形が身体の自由を奪っていった。
刻一刻と迫り来る岩の壁。そして引き裂かれた裂け目の向こう、暗がりの陰から、鬼の凶悪な質量が肉薄する。引き絞られる刹那の中、竹雄と獪岳はただ互いの生存を信じて呼吸を繋ぎ、型を放ち続けるしかなかった。
罠に嵌まった獲物に、突破口を探る余裕など―――もう、どこにも残されていない。
―――“地織荒戯・陰陽の顎”
洞窟の床が轟音と共に両断され、底知れぬ亀裂が二人の距離を無慈悲に引き裂いていく。
(……な、なんだ、この歪み方は……!?)
竹雄は奥歯が軋むほど噛み締めた。自分の足元は底なしの蟻地獄のように崩れ、踏み出すたびに力を奪われていく。
そして亀裂の向こう側では、獪岳の背後に岩壁が
(獪岳さんの、後ろが……!!)
そう、叫びたい。喉が張り裂けるほどに。
しかし、声を出すために全集中の呼吸を乱せば、その瞬間に自分がこの流砂に呑まれる。竹雄はただ、刀を握る手に力を込めることしかできなかった。
一方、切り離された戦場の中心で、狒狒鬼の動きに合わせて地形そのものが再構築されていく。振り下ろされる腕ごとに、砂が波となって押し寄せ、岩が壁となって立ち上がる。
それは分かりやすい攻撃というより、閉じ込めるための包囲網だった。
動けば足が沈み、止まれば岩に挟まれる。逃げ道は、最初から存在していなかった。その中で獪岳の意識だけが、極限まで研ぎ澄まされていく。死線の圧迫に耐えかねた獪岳の意識は、極限の殺意をもって、ただ前方の一点へと収束した。そして―――――
(ようやく、見えたッ!!)
交差する岩柱の少しの歪み、吹きすさぶ砂の幕が途切れたその刹那。
傲然と構える狒狒鬼の、無防備な首筋が視界に飛び込んでくるように
(……いける。ここしかねェ!俺の雷なら、ブチ抜ける!!)
肺腑が千切れるほどの呼吸を、雷鳴の如く爆発させる。
今なら届く。ここで首を落とさなければ、この中で肉塊にされる。獪岳の足は、吸い寄せられるように前へと爆ぜた。
だが、その瞬間――地面が
「………ッ!?」
足首が沈む。砂が流れるのではない。引き込まれるように崩れた。同時に、背後の岩が微かに位置を変える。
一歩がずれる。その一歩分だけ、刃の軌道が外れる。
(――――クソっ!!………誘われたか!?)
獪岳の認識が形になるより早く、空間が殺意を持って収束した。
「山は、おれの腹の中さァ!!」
嘲る声と同時に、狒狒鬼の巨体が沈み込む。地を踏むというより、地面そのものを押し潰す動きだった。
盛り上がる肩と岩塊のような腕。その全てが“発射前の圧”に変わる。
次の瞬間、視界が歪む速度で拳が放たれた。速さとは違う。重さの圧が先に届く。
「――――ッ!!」
回避は間に合わない。一瞬、体がまだ動こうとする。雷の呼吸が勝手に次の一手を探し、筋肉が逃げ道を選ぼうとする。
だが、ない。
地面は沈み、足は奪われ、視界の“逃げるための線”はすべて歪められている。上も、横も、後ろも。どこにも抜けがない。獪岳の視界を
ズッ―――
鈍く、湿った音が洞窟内に響く。刃でも衝突でもない、内部から破裂するような音。
拳が、竹雄の胸の中心を貫いた。骨が軋み、肺が押し潰され、内側の空気が一瞬で消える。
遅れて、竹雄の中で痛みが火のように広がった。熱と圧と、体の奥を直接かき回される感覚だけが先に立つ。
息が、止まる。
何を考えたのか、自分でも分からない。気づいた時には、身体が獪岳の前へ飛び出していた。
庇おうとしたのか。守ろうとしたのか。そんなものを考えるより先に、足が地を蹴っていた。
「――――ほう」
感心とも嘲りともつかない鬼の低い声が落ちる。
その直後、獪岳は反射で竹雄の身体を引き寄せ、そのまま後方へ跳んだ。追撃が届く前に、空間を切り離すように距離を殺す。獪岳の腕に残る重さが、妙に現実的だった。
「計画とはちぃと違ったが……これで一匹は確実かえ?」
狒狒鬼の言葉に、返事は返されない。
ごぼり、と濃い赤が竹雄の口元から零れ落ちる。呼吸の形が崩れている。肺が潰れ、空気が通らない。胸の奥で、焼けるような痛みだけが断続的に跳ねていた。
一瞬、洞窟が静まったように感じられる。
もし、あの一撃がなければ――今ここで地に伏していたのは、獪岳だった。誰が見ても分かるほど、結果は明白だ。
「…………………
喉の奥がひりつく。
「………余計なことしやがって」
獪岳が吐き捨てるように言いながらも、竹雄の手から刀は落ちていなかった。
血に濡れた刀身から、ゆっくりと滴が落ちた。