鬼刃奇譚(旧 空想鬼譚)   作:庵non

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30.二子の山が連なる俊岳 登頂

 

 

 

 

 

 洞窟の奥で、砂が流れる音だけが低く続いていた。

 

 狒狒鬼は欠伸をひとつ漏らし、もはや身を潜める必要もないとばかりに、岩柱の列をゆるりと見渡す。

 視線の先に残っているのは———獪岳、ただ一人。

 

 (……残りは雷の小僧だけか。もう地を弄る必要もなかろう。残りは、彼奴を噛み砕くだけじゃ)

 

 倒れ伏した炎の剣士、竹雄は視界の端に押しやられていた。胸を貫かれ、血を失い、呼吸は細い。今すぐ殺す必要はない。放っておいても勝手に終わる。

 だから狒狒鬼の興味は、すでに“戦える方”へ移っていた。

 

 残りの獲物は、雷の剣士。

 

 

 獪岳は砂地に足を取られぬよう重心を落とし、崩れる地形の癖と岩柱の間合いを、視界の中で寸分違わず切り分けていた。地面の僅かな脈動さえ、次の変化として拾っている。

 

 だがその思考の半分は、どうしても背後に残る。

 竹雄の呼吸は浅い。間隔が、一つずつ長くなっている。血の匂いが濃くなるたびに、時間の輪郭が鈍る。

 

 (時間が、ねぇ)

 

 焦りではない。

 だが、使える手札が減っていく現実だけが、静かに重い。 

 

 この場で刺し違える覚悟で首を狙うか。それとも、僅かな隙を待つか。

 

 —————どちらにしても、長くは保たない。

 

 

 狒狒鬼が、低く笑った。

 

「くく……落ち着いとるのう。流石は雷の剣士」

 

 岩柱の陰から、一歩。

 砂が流れ、地形がまた呼吸を強める。

 

「だが、もう終いじゃ。次はお前の番」

 

 獪岳は刀を握り直した。

 背後で、竹雄が微かに息を吸う。その音が、やけに遠い。

 

 その瞬間、狒狒鬼の気配だけが変質した。

 地面は沈まない。砂も揺れない。ただ、洞窟の空気そのものが重く締まる。次の刹那には巨体が何の前触れもなく真正面から踏み込んできた。

 

「……クソッ!!」

 

 獪岳の瞳が、小さく見開かれる。

 これまでの、足場を裏切らせる血鬼術の揺さぶりとは違う。狒狒鬼は何の小細工もなく、純粋な肉体の速度だけで正面から距離を詰めてきていた。速く、巨躯に似合わぬ無音の加速。岩柱を蹴り、空間を踏み潰すように迫る。

 

 思考の半分を竹雄(後ろ)に割いていた分、一瞬、判断が遅れた。

 だが――獪岳は歯を食いしばり、即座に身体を捻った。直近の岩柱の影へ滑り込む。その瞬間、鬼の拳が空を裂いた。背後で硬い轟音が響き、砕けた岩の破片が肌を叩いた。

 

 (相当消耗してるはずじゃが……まだ避けるか、この小僧)

 

 狒狒鬼のぎょろりとした瞳が細まる。

 地を操る血鬼術は広く場を制する代わりに、集中と力、血を大量に要する。相手が複数であり、かつ選別を要するからこそ意味を持つ術だ。

 だが残るは、ただ一人。わざわざ地を揺らすまでもない。

 

 (雷は、ほんにすばしっこくて面倒よのう)

 

 鬼は、己の肉体のみで踏み込んだ。

 

 (あいつを連れてこの間合いから逃げるのは、不可能だ————……チッ!来るなら、来やがれ…!!)

 

 直感的な動揺は、そこで切り捨てた。

 鬼が直接来る。それだけ判明すれば、やるべきことは極めて単純になる。

 

 獪岳は最小限の歩幅で後退しながら、先ほどまで頭に叩き込んでいた岩柱の位置、落とし穴の縁、砂地の流れを視界の端で一つずつ即座に繋ぎ直す。

 崩れる足場を、逆に軸ずらしの踏み台に変える。柱を盾にし、正面衝突の軌道を僅かに狂わせる。

 そして、その精緻な回避の隙間に、雷の型を刻み込んだ。

 

 弐ノ型・稲魂。半円を描く五連撃が、迫る剛腕の軌道を冷たく弾く。

 参ノ型・聚蚊成雷。波状の斬撃が鬼の肉を薄く削ぎ落とし、それ以上の前進を阻む。

 

 踏み込みは最小限。斬撃は牽制に留める。

 決して深追いはしない。

 

 ———しかし。

 

「ぐっ…………」

 

 胸の奥が、文字通り焼けつく。息を吸うたびに肺胞が軋んで悲鳴を上げ、吐くたびに指先から力が抜けていくのが分かった。

 

 (このままだと……持たねェな)

 

 冷静な計算だけが、逆に現実の猶予の無さを突きつけてくる。

 保って数秒。防戦に徹し続ければ、先に肉体が壊れるのは間違いなく自分だ。

 

 だが、視界の端で、狒狒鬼の踏み込みも僅かに鈍っていた。

 肉弾戦に切り替えたとはいえ、あれだけの血鬼術を使った巨体だ。鬼にも確実に疲弊の影が見える。

 

 ———ならば、と。泥をすするような思考の底から、一筋の勝ち筋が跳ね上がる。

 

 

 “壱ノ型———霹靂一閃

 

 

 一瞬、脳裏を鋭利な閃光が走る。

 

 大地を爆裂させる、ただ一歩の踏み込み。

 空間を一直線に両断する斬撃。

 狒狒鬼の首へと肉薄する、最短最速の、絶対的な軌道。

 

 この間合い、この直線。決まりさえすれば、確実にあの頸を叩き斬れる。

 

 だが。

 

 (—————————無理だ)

 

 心がその熱を帯びるより早く、冷や水を浴びせるように選択を切り捨てた。

 脳髄に、不快なほど鮮明な記憶が焼き付いている。理由は、吐き気がするほどに単純だった。

 

 ————形にすら、なったことがない。

 

 修行中でさえ、まともに成功した試しのない基本の型。

 育手の桑島慈悟郎が認める精度に、ただの一度だって届いたことのない、獪岳にとっての出来損ないの技

 

 居合の真髄———いや、今の獪岳にとっては、命をドブに捨てるだけの博打だ。

 

 刹那の一瞬でも遅れれば、無防備な身体のまま鬼に踏み潰されて終わる。勝つ確率など微塵もない。己の不完全さという破綻のほうが、先にハッキリと見えてしまう。

 そんなものに、命を賭ける価値はなかった。

 

 (今は……今だけは、絶対に選ぶな。あんな技は……ッ!!)

 

 奥歯が割れそうなほどの噛み締めとともに、獪岳はその焦燥を脳の奥底へねじ伏せた。

 

 ただ一度、刀を鋭く握り直す。

 手の掌の皮はとっくに裂け、汗と血が混じり合って柄がじっとりと滑る。鉄錆と、己の肉が焼けるような酷い匂い。それでも強引に指を食い込ませるたび、走る激痛が逆に、薄れかける現実へ正気を引き戻してくれた。

 

 決して、無謀に踏み込まない。代わりに、摺り足で半歩だけ下がる。

 重心を限界まで低く落とし、足元の砂の流れに神経を研ぎ澄ました。あえて崩れかけた砂地に爪先を置き、不規則な沈み込みを予測して、身体の軸を紙一重でずらす。

 

 直後、狒狒鬼の剛拳が空気を爆裂させて唸った。

 視界を塞ぐ岩柱。それを盾として挟み込む。直撃した拳が岩を粉々に砕く。その破片が視界に散るより早く、さらに半歩、横へ。

 

 鬼の爪が届く、決して捕まらない距離。

 しかし、こちらの刀が届く、決して逃げ切れない距離。

 

 生と死が交錯する極薄の境界線だけを、獪岳は綱渡りのように渡り続けた。

 

 防ぐ。凌ぐ。ただ、潰されないために。

 

 それだけでいい。ここで倒れさえしなければ、まだ終わらない。

 

 生きていれば、次がある。

 今日でなくともいい。今この瞬間、あの鬼を殺せなくともいい。

 どんなに泥を啜ってでも、醜く這いつくばってでも、生き残りさえすれば勝機は巡ってくる。

 

 背後から聞こえる、あの忌々しいほどに細い呼吸は、まだ途切れていなかった。

 ここで自分が倒れれば、あの死に損ないは確実に死ぬ。そうなれば、残るのは限界まで消耗した自分一人だ。結果など考えるまでもない。

 

 思考は、それだけで十分だった。

 

 

 ——————だから、退けない。

 

 

 

 狒狒鬼の重い拳を刃先で受け止め、獪岳は一瞬だけ身体を弾ませる。衝撃を殺しきれず、靴底が砂を削りながら後退する。

 

 鬼はそれを見て、喉の奥で笑った。

 

「苦しそうじゃのう?あたしは優しいからねぇ、痛ぶらずに一思いに殺してやるよ」

 

 その声には、すでに“勝ち”の確信が混じっていた。

 抵抗は弱く、動きはますます鈍くなっている。呼吸も乱雑だ。

 

 ———折れかけている、と鬼が判断するには十分だった。

 

 獪岳の表情に、微かな揺らぎが落ちる。次の瞬間、構えていた刀をほんの僅かに下げた。

 

「……………………その話、本当だろうな」

 

 声は掠れている。呼吸は浅く、言葉の間に途切れが混じる。

 狒狒鬼の眉がピクリと動く。

 

 (ふむ……応ずるか)

 

 予想外ではある。だが、不自然ではない。

 追い詰められた獲物が、これ以上の抵抗は無意味だと判断し、苦痛の少ない終わりに傾くことはある。

 目の前の鬼狩りは、その段階に見えた。立っているだけで限界に近い。奇妙な呼吸は続いているが、それすら維持のための延命に見える。

 

 (ならば……それでいい。此方としても、便良し)

 

 狒狒鬼の口角が、ゆっくりと持ち上がる。

 言葉は饒舌だが、その内側にはこの場の支配者は自分だという確信だけが満ちていた。

 

「勿論じゃ! あたしは嘘は嫌いでのう。村の男の童しか喰っておらんじゃろ?先程までは村人も喰うつもりじゃったが……お前が諦めるなら、この婆も我慢してやろうぞ」

 

 狒狒鬼の()()()は、ただの自己正当化に過ぎない。他の鬼と同じく、この鬼も平然と嘘を吐く。

 この村の人間を「生贄以外は喰わない」と言いながら、実際には手下に外部の人間を定期的に狩らせていた。自分の手で直接()()を壊さないだけで、外側では勝手に喰い散らかしている。

 

 そして現在口にしている「村は守る」という言葉も、同じ構造だった。

 獪岳を殺した後に村人を皆殺しにしないのも、慈悲ではない。

 支配の構造が崩れた後の、後始末の手間を考えれば、その方が効率がいいというだけの話だ。

 

 狒狒鬼にとって嘘とは欺くためのものではなく、状況を自分に都合よく整理するための言葉に過ぎなかった。

 

 ただしその均衡は脆い。ひとたび気分が傾けば、残虐性のまま村ごと喰らい尽くすことすら、この鬼にとっては選択肢の一つに過ぎなかった。

 

 

「………そうか」

 

 獪岳は、諦めを完全に滲ませた細い息を吐き出した。

 震える指先から、限界を迎えたように、ゆっくりと日輪刀の力が抜いていく。汗と血に塗れた掌から一本、また一本と指が離れ、ついに無防備な柄が手から滑り落ちた。

 

 鈍い光を放つ刃が、漆黒の虚空をすっと滑り落ちる。金属の冷たい腹が剥き出しの岩肌をかすめ、微かな火花が散る。乾いた、あまりにも無力な音を立てて————地面に転がった。

 

 静まり返った洞窟に響いたその音を、狒狒鬼は完全なる“降伏の証明”として受け取る。

 

 (終わったのう。やはり口ほどにもない小僧じゃった)

 

 醜悪な顔全面に、隠しようのない喜色と傲慢な嘲笑がどろりと浮かび上がった。

 絶対的な勝利の確定。退屈な狩りの終幕。

 

「ヒヒヒ………鬼狩りよ。いい判断じゃて。

 

 —————さらば、すばしっこいだけの阿呆め」

 

 狒狒鬼の巨体が一歩踏み出す。哀れな獲物へ最後の一撃を与えるためだけに、太い剛腕がゆっくりと持ち上がった。

 

 その瞬間だった。

 

 鬼の視界の死角。先ほど崩れ落ちた岩柱の陰から、一つの影が飛び出す。そこから、火を噴く火薬が弾けたかのように、あまりにも獰猛な()()が割り込んできた。

 凄まじい風圧とともに繰り出された灯麻希の蹴りが、狒狒鬼の分厚い横腹へ、容赦なく深く突き刺さる。

 

「がッッはっ……!?」

 

 衝撃を認識するより早く、巨体が横へ弾き飛ばされる。

 岩柱へ激突した。

 

 一本。

 二本。

 三本。

 

 轟音とともに硬い岩をへし折りながら吹き飛び、そのまま洞窟の最奥の壁へ凄まじい質量で叩きつけられる。

 ズゥンッ!!と地響きが鳴り渡った。一拍遅れて、濃い砂埃が爆発するように噴き上がる。

 

 轟音と砂煙の向こうで。獪岳は演技のために乱していた呼吸をピタリと止め、短く息を吐いた。

 

「……遅えんだよ、クソ(あま)

 

 獪岳の声が、剥き出しの苛立ちを帯びて低く響く。

 

「うん。ごめん」

 

 灯麻希の返答は淡々としていた。言い訳を挟むつもりはないらしい。

 

「……………………あいつは?」

 

 獪岳は視線を僅かに泳がせる。

 灯麻希は獪岳の様子を一瞥すると、手短に答えた。

 

「獪岳の時間稼ぎのおかげで、“癒血”を施せたよ。だからもう命の危険はない。本当に、ありがとう。でも……日輪刀を手放すのは良くない」

「結果的に大丈夫だったろうが。だからいいんだよ、ガタガタ抜かすな」

 

 これ以上の追及を遮るように吐き捨てた獪岳の声は、未だ硬く冷たい。それでも、死の淵で凍りついていた首筋の皮膚が、僅かに弛緩していくのを隠せなかった。

 

「良くはないけど………———ちょっと手を貸して」

 

 有無を言わせぬ調子で、灯麻希の白く煤けた手が、そっと獪岳の左手を包み込む。

 淡い光が指先から滲み、焼けつくようだった筋肉の強張りが少しずつ解けていく。無理やり張り詰めていた身体から、熱だけが抜け落ちていくようだった。

 

「……ここからは私が、削る」

 

 細胞の活性化を見届けるや否や、灯麻希は視線を狒狒鬼へと戻す。そのまま洞窟の暗がりへと駆け出していった。

 

 視界から彼女の背が消え、獪岳は一旦、岩陰の出口付近へと足を進める。

 そこに寝かせられていた竹雄の身体も、同様の淡い光の残滓に包まれていた。先ほどまで肉を裂き骨を砕いていたはずの表面の裂傷はすでに塞がっており、血の巡りを取り戻した胸郭が、規則正しい呼吸を刻んでいる。

 

 最悪の結果だけは免れたらしい。

 

 灯麻希が戦場に到達したという事実の重みに、獪岳は無意識のうちに、凝り固まっていた肩の力をストンと落とした。

 そして、自分が他人の存在に安堵したのだと気づいた瞬間。胃の奥が焼けるような不快感が込み上げた。

 

 元を正せば、竹雄が身を挺して自分を庇ったこと自体が、徹底した“生存計算”の枠を外れた不確定要素だ。

 無駄な真似をしやがって、足手まといが、と頭の中で罵倒を繰り返す。

 

 遅れてやってきた灯麻希にしてもそうだ。到着の遅さをなじり、罵倒の一つや二つでも浴びせてやらなければ気が済まないはずだった。

 だが、喉の奥まで出かかった言葉は、どうしても形にならなかった。

 

 (………つくづく、面倒な女だ)

 

 脳裏に、ほんの一瞬だけ先程の光景がよぎる。

 

 鬼の拳。その軌道に割り込むように飛び込んできた竹雄の身体。次の瞬間、視界の端で飛び散った鮮血と、力を失って崩れ落ちる人影。

 そして———あの女が見せた、感情の温度を削ぎ落としたような視線。

 

 獪岳は眉間に深い皺を刻み、その残像ごと脳裏から押し潰すように切り捨てた。

 

 結果が全てだ。過程などどうでもいい。

 竹雄は生きている。自分も、五体満足で生きている。

 ならば戦術としては成立している。それ以上でも、それ以下でもない。

 

「はぁ……………クソが」

 

 誰もいない暗がりで舌打ちが漏れる。

 獪岳は乱暴に前髪を掻き上げ、まとわりつく焦燥と不快感を振り払うように頭を振った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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