鬼刃奇譚(旧 空想鬼譚)   作:庵non

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31.二子の山が連なる俊岳 下山

 

 

 

 

 

 灯麻希は崩れ落ちた岩壁の瓦礫を踏み越え、洞窟の奥へと歩み出た。

 砕けた石の匂いと、湿った土の冷気が肌に纏わりつく。

 

 視線の先。埋もれた岩塊の奥に、狒狒鬼の気配がある。

 

 (——————遅かった)

 

 胸の奥に落ちるのは深い悔恨だった。判断の遅れではない。最初の見立てそのものを誤ったという事実。

 灯麻希は洞窟の奥に潜んでいた鬼の強さを、正確に掴み切れていなかった。

 

 (竹雄が死にかけたのは、自分の判断が甘かったからだ……子どもたちの護衛に回るのではなく、最初から共に前線に立つべきだった)

 

 前提自体が、最初から間違っていた。

 狒狒鬼は、竹雄と獪岳が手下と戦っていたあいだ、深く眠り込んでいたのだ。気配は極限まで沈み、存在そのものが洞窟の闇に溶けていた。

  

 灯麻希の感知も、竹雄も、獪岳も。誰一人として、その“静止した質量”を戦力として正しく数えられなかった。

 そのまま、見誤った前提で戦闘は進んでしまった。

 それでも———それは言い訳にはならない。想定を外した事実だけが残る。

 

 瓦礫が軋む。そして、巨大な影が石塊を押し退けて姿を現した。

 狒狒鬼がゆっくりと立ち上がる。全身に土埃を纏っているが、傷はない。鬼の肉体は頑強だ。岩壁に叩きつけられた程度では打撲にもならない。

 

 ギラリ、と金色の眼が細まる。

 

「まだ残っておったとはのう、油断したわい………ぬし、妙な匂いがするが————鬼かえ?」

 

 狒狒鬼の声は老獪で、しかしどこか楽しげに湿っていた。洞窟の闇に溶け込むような低い響きが、瓦礫の隙間を這う。

 灯麻希は視線を逸らさないまま答える。

 

「鬼だよ。でも、あなたの仲間じゃない」

 

 怒りは沈めたまま、声には乗せない。

 狒狒鬼は鼻を鳴らし、ゆっくりと顎を傾けた。

 

「ほう……そうかい」

 

 その目が、笑みを浮かべたまま灯麻希の全身をなぞる。立ち姿、呼吸の癖、残る熱の気配。

 

 (炎の匂い……いや、同胞(はらから)かのう)

 

 言葉にせずとも、獲物の輪郭だけは正確に掴んでいる。

 

「人の子の味方をするとは、物好きな鬼もおるものじゃ……あの小僧の胸を貫いたことを怒っておるのかえ?————案ずるな。鬼狩りはしぶとい。今すぐ鬼にしてやれば、命は永らえようぞ」

 

 値踏みは続いている。会話の裏で、距離と角度を測るように視線が動く。

 灯麻希の瞳が僅かに細まった。

 

「竹雄は死なせない。そして、鬼にもさせない。あなたをここで止める」

「おれと、戦おうというのかい?」

「———そう」

 

 迷いのない一音。狒狒鬼は短く笑った。

 

「ヒヒ……小娘も知っとろう。鬼同士の戦いは不毛じゃ。決着はつきにくく、互いに削り合うだけよ」

 

 洞窟の空気が、じわりと重く沈む。圧が一点に収束していく。

 獪岳は後方で、その変化を無言で見ていた。言葉を交わしながらも、両者の視線はすでに、相手を屠るための()だけを冷酷に探り合っている。

 

 灯麻希は小さく首を傾ける。

 

関係ない

 

 灯麻希が言い切った、その瞬間だった。

 

「———それは、強気じゃのう!!」

 

 狒狒鬼の声が弾けると同時に、洞窟の空気がもう一段沈む。

 次の瞬間には巨体が掻き消えた。地を踏み砕く轟音が洞窟を揺らし、遅れて砂塵が噴き上がる。視界が濁るより早く、その中心を突き破って巨体が灯麻希の目前へと現れた。

 振り下ろされる右腕。岩塊を叩き潰す質量がそのまま空気を裂く。

 

 灯麻希の視線はそのまま逸れない。

 足先を微かに滑らせ、地面を踏むのではなく()()()()ように重心をずらし、同時に身体が弧を描いて反転した。

 

 “ヒノカミ神楽 幻日虹げんにちこう

 

 踏み込みは小さく、しかし回転は深い。視線の軸だけが残像を置き去りにし、灯麻希の輪郭が幾重にも揺らぐ。

 叩き潰したはずの鬼の拳は空を掴んでいた。手応えがない。肉の抵抗も、骨を砕く感触もなかった。

 

「チッ!……後ろか!!」

 

 鬼の認識が届いた瞬間、灯麻希はすでに死角にいた。

 踏み込みと同時に、灯麻希の回し蹴りが肩口へ叩き込まれる。骨が軋む鈍い破砕音と共に、狒狒鬼の右腕が根元から弾け飛んだ。だが、鬼は慌てる様子はない。

 

 灯麻希は着地の流れを切らず、そのまま間合いへ踏み込む。肋骨を穿つ角度で拳が放たれる。

 そして、切断されたはずの鬼の肩口が蠢いた。肉が盛り上がり、赤黒い筋繊維が絡み合いながら“欠損”を埋めていく。再生は一瞬だ。生えかけの腕が、灯麻希の拳を真正面から受け止めた。衝撃が洞窟に響き、空気が押し潰される。

 

 狒狒鬼は嗤う。削られることすら前提に置いている、そんな歪んだ余裕。

 次の瞬間、巨腕が横薙ぎに振るわれた。岩壁ごと砕く一撃。

 

 灯麻希は呼吸を落とす。吸う、吐く。その間に一歩だけ()()

 紙一重で軌道を逸らし、衝撃だけを肩先で受け流す。即座に反転。足裏で地を裂くように、火の軌跡を引くように斬撃が走る。

 

 肉と炎が交錯し、洞窟の空気が熱を帯びて歪んだ。

 鬼は自らの肉体を惜しまない。裂け、砕け、それでも前へ出る。灯麻希は呼吸で距離を測り、舞うように躱す。そして神楽で応じ続けた。

 

 

 

 

 

 

 狒狒鬼と灯麻希の衝突は、洞窟の奥を震源に暴れ続けていた。

 衝撃の余波が届かぬ岩陰に身を置き、獪岳は腕を組んだまま視線を細める。足元には癒血の反動で意識を失った竹雄が横たわっている。すでに呼吸は安定しており、死の気配は遠ざかっていた。

 

 地鳴りが腹の底に響く。天井から砂礫が遅れて落ち、岩肌を叩く乾いた音が連続する。

 一瞬、崩落の可能性が脳裏を掠める。だが振動の伝わり方で分かった。地盤そのものはまだ持っている、と。

 

 視線を戦場へ戻す。

 

 (……あの距離で、真正面かよ)

 

 灯麻希は、狒狒鬼の猛攻を正面からいなし続けていた。

 巨躯の質量を受け流し、踏み込みの瞬間だけを裂いて返す。力で押し潰される側の動きではない。むしろ、間合いそのものを灯麻希が管理していた。

 

 舌の奥に、僅かな苛立ちが滲む。

 

 灯麻希の呼吸は獪岳の知る型ではない。竹雄の炎の呼吸に似ているようで、違う。

 炎のような爆ぜる熱ではなく、途切れることなく巡る常火のようだ。しなやかで、途切れない。踏み込みは柔らかいのに、当たれば重かった。

 

 (人間の身体に合わせて、呼吸そのものを作り替えているのか?)

 

 獪岳はそう解釈する。

 

 炎・雷・水・風・岩――基本の呼吸の全てに似ていながら、どれにも当てはまらない形。

 似ているのではない。むしろ、すべての根に触れた残痕と言うべきものだった。

 獪岳は派生技の一つとして錯覚したが、本質は——既存の呼吸体系のどれかではなく、その前段階にある“源流”だ。

 

 両者の空気を爆ぜるような拳脚の風が、幾度も洞窟を揺らす。鈍い破壊音と、火の弧が交錯する。鬼の剛腕が迫るたび、灯麻希の鋭い脚技が描く灼熱の陽炎が、絶え間なくぶつかり合っていた。

 だが———凝視を続ける獪岳の眉間が、不意に一段と深く刻まれた。

 

 (……婆鬼の奴、遅くねェか?)

 

 踏み込みに、微細な()()が混じる。大気を裂くはずの振り下ろしが、目に見えない粘泥に絡め取られたかのように、一瞬だけ重く沈む。その僅かな遅延に連動するように、斬り飛ばされた肉芽の再生もまた、これまでの勢いを失っていた。盛り上がるはずの肉が遅れ、癒着の速度が僅かに乱れる。

 

 その全てが、単なる疲労とは異なる崩れ方だった。消耗ではない。戦いの果てに崩壊しているのではなく———戦いの最中で、内側から機能そのものが削がれていた。

 

 灯麻希が呼吸を乱さず、一定の間合いを保ち続けるその軌道の中で、鬼の肉体だけが噛み合わなくなっていく。攻めているはずの動きが、踏み込みの瞬間ごとに、確実に()()()()()

 

「…………」

 

 次の瞬間、狒狒鬼が身を翻した拍子に、その背が一瞬だけ露わになる。裂けた古着の隙間、黒ずんだ筋肉の上を、細い影が這っていた。茨が、絡みついている。

 獪岳の目が鋭く光った。

 

 (!)

 

 ただの裂傷ではない。皮膚の下に棘が潜り込み、肉の奥を辿るように枝分かれしている。

 

 (あれは……あいつの血鬼術か)

 

 灯麻希の拳が打ち込まれるたび、蹴りが脇腹を抉るたびに———その接触に呼応するように、鬼の背を這う影は増殖していく。

 発動の気配すらない。戦闘のただ中で、気づかれぬ量だけを積み重ねている。

 

 獪岳の脳裏に、鬼が現れる前の光景が一瞬だけ差し込む。

 灯麻希の攻撃の後、糸に絡め取られたように縺れ、地へ崩れ落ちていった異形の群れ。

 

 (獣共にやったあれと同じ………!いつ仕込みやがった)

 

 灯麻希の二つ目の血鬼術、“茨ノ連”。

 

 それは殺すための術ではない。鬼の体内を巡る力に茨のように絡みつき、踏み込みの拍子や振り抜きの軌道を()()()()()()()技だ。

 踏み出すはずの一拍が遅れ、振り抜くはずの軌道が僅かに噛み合わない。そのズレだけを積み重ねて、全体を崩す。

 効き方は鬼ごとに異なる。だからこそ、読めない。気配も音もなく、確実に———崩していく。

 

 (……見逃したのか、俺が)

 

「………チッ」

 

 獪岳は最初から見ていた。灯麻希の間合いも、踏み替えも、呼吸の揺らぎすら計算していた。

 それでも――仕込みの瞬間だけが、視界の継ぎ目からすり抜けていた。

 

 舌の奥に、遅れて鋭い苛立ちが滲んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 重い———岩を砕くはずの踏み込みが、地面を抉りながら沈み込む。砂利が跳ね、草履の裏に粘りつくような感触だけが残る。

 遅い———振り抜いた拳は確実に速い。風圧が灯麻希の髪を揺らす。だが直撃の感触だけが、半寸ずれて空を切った。

 

 力が行き場を失い、腕の奥で鈍く軋む。込めるほどに噛み合わない。灯麻希の身体は、常に紙一重で()()()()()

 

「くそう!……何故じゃ!!どうして当たらん!?」

 

 怒声が洞窟の天井を震わせる。砂粒がぱらぱらと落ち、肩に当たって弾けた。

 灯麻希は答えない。火を宿した瞳だけが、淡く揺れる鬼の動きを正確に捉えている。

 

 その沈黙が、更に神経を逆撫でした。

 

「黙ってねェで、何か言わんかぁぁ!!」

 

 逆上した狒狒鬼の巨腕が、猛烈な横薙ぎに振り抜かれる。

 直撃を免れた背後の岩柱が、風圧に押し潰されて爆ぜるように砕け散った。凄まじい音と共に無数の破片が散り、洞窟の暗がりが白く乾いた粉塵で霞む。

 

 その粉塵を割るように、灯麻希は上方へと高く跳んだ。

 滞空する一瞬、彼女の呼吸が深く、熱く、底へと沈み込む。身体の芯から沸き立つ熱を感じながら、降下した足先が砂利を捉えた。そのまま後方へと鋭く滑り退く。

 

「……!!」

 

 鬼の腕に、違和感が走る。

 肘から先ではない。内側だ。筋肉の奥から、見えない何かが巻き付いている。

 

 視線を落とす。

 黒ずんだ肉の上に、細い茨が這っていた。棘は皮膚を貫き、血を吸いながら脈打つように広がっている。赤紫色の影が、体温に呼応して微かに明滅した。

 

 戦闘の熱だと思っていた。長く本気を出していなかった反動で、身体が昂っているだけだと。

 だが、違う。内側から、力が絡め取られている。踏み込むたび、血の巡りが鈍る。拳を握るたび、筋肉の収縮が僅かに遅れる。

 理解が、ようやく追いつく。

 触れた瞬間だ。殴られた時、蹴られた時、斬られた時———その全ての瞬間に、仕込まれていた。

 

「小賢しい……!!毟り取ってやる……!こんなものぉ!!」

 

 鬼は自らの腕を掴み、筋肉を膨張させる。棘ごと引き千切るように力を込める。

 だが茨は離れない。むしろ肉の奥へと沈み込み、さらに絡みつく。血が滲み、地に落ちて黒く広がった。 

 洞窟の空気が震える、その先で。

 

「気付いたところで———もう遅い」

 

 灯麻希が右腕を突き出し、掌が開かれる。呼吸が深く落ちて洞窟の空気が、一瞬静まる。その瞳が、強く耀いた。

 

 瞬間――狒狒鬼の視界が、内側から軋んだ。

 

 洞窟を満たしていた冷気が、ぬるりと質を変える。湿った血の臭いの奥へ、別の匂いが割り込んだ。

 雨を吸った黒土。畑を踏み荒らした泥。指先へ纏わり付く、冷たい湿り気。

 

「……?」

 

 岩肌が、熱に歪むように揺らぐ。ゴツゴツとした石の壁が古びた土壁へと滲んでいき、天井から滴る水滴の音が、ザクザクと鍬で固い土を打ち下ろす音へとすり替わる。

 

 ————違う。ここは洞窟だ。目の前には鬼狩りの鬼がいる。

 

 そう必死に理解しようとするのに、視界の隅ではいつの間にか囲炉裏のパチパチと爆ぜる火が揺らめく。頭上では煤けた太い梁が緩やかに軋んでいた。

 灯りに照らされた若い女が、柔らかく微笑んだ。縫い針を運ぶ細い指。艶のある黒髪。切れ長の眼。

 

 ――知っている。だが、誰だ。

 

 その姿が霧のように霞んだ瞬間、今度は小柄な背中が目の前を駆け抜けた。

 耳元で無邪気な笑い声が響く。弾かれたように振り返る。先程と同じ女だ———自分と同じ背丈。自分と同じ顔をした、十六になったばかりの娘。

 喉の奥がひくりと痙攣する。牙が、小さく鳴った。

 

 (思い出したくない)

 

「……やめろ」

 

 吐き捨てるように唸り、無理やり現実を引き戻そうと拳を握る。

 だが、腕が重い。

 黒い地を這う茨の幻影が、音もなく頑強な肉へ食い込み、全身の筋肉を締め上げる。皮膚の下では血が脈打ち、動こうとするたび、全身の力が絡め取られていった。

 記憶が、爪で抉られるように引き剥がされていく。

 

 場面が変わった———

 

 満たされない空腹。骨まで凍る冬の寒さ。荒れ果てた痩せた畑。何も実らないひび割れた土。絶望に息を潜める村の家々。間違ってる。ここは、洞窟だ。鬼狩りがいるはずだ。

 なのに————視界を焼き尽くす赫い炎。手首へきつく食い込む麻縄。すぐ隣で絶望に震える、自分と同じ顔の娘。

 

「※※※ちゃん………」

 

 弱々しい声が耳朶を打つ。

 天へ縋るような悲痛な祈り。冷酷に自分たちを取り囲む男たちのざわめき————生贄

 

 胸の奥で、何かが音を立ててひび割れた。狒狒の貌の下で皮膚が軋み、金色の瞳孔が激しく揺れる。

 

 

「————————やめろォォォ!!

 

 

 絶叫が洞窟を震わせた。岩壁に反響した怒号が砕けた小石を震わせ、砂塵がぱらぱらと降り注ぐ。

 だが灯麻希は、一歩も退かない。伸ばした掌も、その瞳も、微動だにしなかった。

 

 ———“魂視”は、まだ終わらせない。

 

 (沼鬼の時と同じ……自分が()()()()()を受け入れれば、止まるはず……!)

 

 額を伝う汗が顎先から滴り落ちる。呼吸が乱れ、腕が震える。

 強い鬼ほど、人だった頃の記憶は深く沈み、固く閉ざされている。その記憶を無理やり現在へ引き戻し続けることは、灯麻希自身にも大きな負荷を強いる。

 

 それでも————

 

 (—————あと一歩)

 

 その確信だけが、戦場の呼吸の隙間に残っていた。

 その刹那。砂利を砕く音が背後で炸裂した。雷鳴に似た踏み込み。空気が一瞬で引き裂かれ、洞窟の影が歪む。

 灯麻希の視界の端を、閃光のような黒い一線が猛烈な速度で貫いた。肌を焼くほどの風圧が、一拍遅れて彼女の頬を強く叩く。

 

「!?」

 

 割り込んできた影を認識した瞬間には、もう、一線の刃が迷いなく鬼の頸を薙いでいた。

 骨が裂ける鈍い感触が、鉄槌のような衝撃となって乱入者の腕へと伝わる。一拍遅れて、肉と骨が完全に断絶する音が洞窟の闇に落ちた。

 

 ――ぶつり

 

 狒狒鬼の視界が傾く。顔は驚愕のまま横転し、岩壁と天井が入れ替わるように回転する。血の匂いが一気に濃くなり、砂利が頬を打つ感触だけがやけに鮮明だった。

 胴体が崩れ落ちる。遅れて、膝が力を失ったように地へ沈んだ。

 温い血が、ゆっくりと地面に広がっていった。

 

「…………獪岳」

 

 灯麻希の声は、僅かに遅れて零れた。

 

 刀を振り抜いた姿勢のまま、獪岳はそこに立っていた。刃先から血が一滴、また一滴と落ちる。

 そして視線だけを、ゆっくりと灯麻希へ向けた。揺れはなく、迷いもない。そこにあるのは、自分の判断が正しいという一つの結論だけだった。

 

「あいつの動きが完全に止まってただろうが。隙だらけの頸が目の前にあった、だから俺が斬った。それだけの話だ」

 

 言い訳も、容赦もない。ただ“生存と勝利”という結果だけを至上とする男の、冷徹で合理的な事実の突きつけだった。

 その後、鬼を縛っていた茨が、乾いた音を立ててパラパラと解けていく。その音の余韻の中で、灯麻希は一瞬だけ目を伏せた。

 

 ――遅いのは、どちらだったのか。

 

 そんな考えが喉の奥まで上がりかけて、すぐに消える。灯麻希は小さく息を吐き、ほんの微かに苦く笑った。

 

「………早いよ」

 

 その一言には、安堵と呆れと、少しだけ悔しさが混ざっていた。

 

 

 

 崩れ始めた鬼の頸が、微かに痙攣した。

 

 狒狒の貌に走っていたひび割れが、内側から押し広げられるように歪み、その隙間から別の顔立ちが滲み出していく。白く乾いていた髪は、根元からゆっくりと黒へと戻る。獣の仮面のようだった老婆の皮が、音もなく剥がれ落ちた。

 

 そこに現れたのは、妙齢の女の顔だった。

 濁っていた金の瞳が、徐々に澄んでいく。その視線が、ゆっくりと獪岳を捉えた。

 

「………見事な太刀筋だ、雷の小僧」

 

 声はもう嗄れていない。長く澱んでいた時間が溶けるように、澄んだ響きが洞窟に落ちた。

 

「私は……これで終いか」

 

 ふ、と乾いた息のような笑みが漏れる。

 

「巡り巡って……私は、あの男たちと同じことをしていたのか………」

 

 言葉と同時に、途切れていた記憶が裂け目から溢れ出す。

 

 篝火の橙。

 夜を焦がす光の揺れ。

 崖の縁で吹きつける冷たい風。

 縄で縛られた手首。

 背を押される感覚。

 そして、共に闇へ落ちていく片割れの姿。伸ばした指は届かないまま、闇に呑まれていく。

 

 あの瞬間から、時が止まっていたのだと今になって知る。

 

「妹が、おったのぅ」

 

 ぽつりと落ちた声には、遅れて戻ってきた悲しみが滲んでいた。

 

「共に鬼となったはずだが………今の今まで、忘れておった」

 

 灯麻希は短く目を伏せる。

 その脳裏に浮かんだのは——元炎柱に斬られた、()()()()()()()()()()()。あの鬼が、この女の“妹”だった。

 

「妹さんは、先に逝っています。あなたを待っていますよ」

「……そうか」

 

 一瞬だけ、女の瞳に僅かな柔らかさが戻った。安堵とも悔恨ともつかない微笑が、唇に浮かぶ。

 

「世話を、かけたな」

 

 その言葉と同時に、頬に刻まれていた紫の紋様が、淡く解けていく。禍々しさが剥がれ落ちるように薄れ、金の瞳は菊の花弁のように柔らかな色へと変わっていった。

 最後に、ほんの一瞬だけその視線が灯麻希へ向く。責めるでも、怨むでもない。ただ、静かな確認のように。

 

 そして――灰となって、崩れ落ちた。

 

 

 

 洞窟の奥に残るのは、焦げた匂いと生温い血の気配だけだった。

 灯麻希は珠世から預かった小刀で、狒狒鬼の残滓から血を採取する。それが終わるとしばらく灰のあった場所を見つめ、ぽつりと呟いた。

 

「……鬼は、救われないね」

 

 淡い声だった。怒りでも悲嘆でもない。ただ、事実を確かめるような響きに近い。

 

「自分の一番の望みが、一番最悪な形で叶ってしまう」

 

 崖から落とされた生贄の娘たち。鬼となってなお、その構造から逃れられなかった存在。

 灯麻希は目を伏せた。

 

「生きたかっただけなのに」

 

 砂利を踏む音が、静寂を切った。

 

「お前自身が鬼だから、か?———ずいぶん都合のいい見方だな」

 

 刀を収めた獪岳の声は低い。視線が灯麻希を射抜く。

 

「自分だけは違う、特別だとでも思っているのか?」

「――そんなつもりはないよ」

 

 即答だった。

 

「ただ、あの人は……もしもの私だと思っただけ。今ここにいるのは、運が良かっただけの話」

 

 天井から落ちた雫が、ぽたりと音を立てる。

 獪岳の目が、わずかに細くなった。一歩、距離が詰まり、鼻で笑う。しかしその笑いは、どこか乾いていた。

 

「運だと?違うな……勝てなかった。それだけだろ」

 

 間。視線が、鬼の灰に落ちる。

 

「結局、あの鬼と同じだ。間違った存在だろうが、生きようとしてる。お前もそれと変わらない」

 

 吐き捨てるような声だった。言葉が一歩、踏み込む。

 

「紙一重で人間の側に立ってるつもりか?俺から見りゃ、どっちも同じだ」

 

 灯麻希は反論しない。視線が一瞬だけ伏せられる。

 

「それでも……受け入れられないものはある。私自身はどうでもいい。でも、それを否定したら………私は、禰豆子を殺さなきゃいけなくなる」

 

 洞窟の空気が僅かに冷える。

 

「———それは、できない」

 

 その言葉に、一切の迷いがなかった。自分がどうなろうと構わない。それでも、たった一人だけは例外だと灯麻希は言い切る。

 獪岳は何も言わない。ただ、目の前の女が吐き出した傲慢な結論を、じっと睨みつけていた。

 

 ———理解できない。

 

 生き残るためなら、自分以外は切り捨てる。そうしなければ、生き残れない。

 肉親も、情も、綺麗事も、全部だ。それが、生きるということだった。

 

 なのに、この女は違う。自分の命より重いものを抱えたまま、それでも立っている。

 そんなものは、いつか必ず隙になる。あの鬼と同じように、奪われ、負けて、終わるだけだ。

 

 認められるものか。そんな甘い生き方が、最後まで通用するはずがない。

 

 獪岳は忌々しげに背を向けた。

 

「—————甘いな」

 

 それだけを落として、足音が遠ざかる。

 洞窟の奥に、言葉だけが残った。

 

 

 

 

 

 

 やがて、獪岳の気配も完全に途絶えた。洞窟には、冷えた静寂だけが残る。

 灯麻希は小さく息を吐き、入口付近に横たえられた竹雄へと歩み寄った。背負い上げるために膝を折りかけた、その瞬間。

 

 ———微かな違和感。

 

 (……これは)

 

 狒狒鬼の妖気が消えたことで、洞窟全体に満ちていた“濁り”が抜け落ちる。その隙間に、今まで完全に溶け込んでいた極めて微弱な気配が浮かび上がった。

 

「…………」

 

 灯麻希は目を細めた。“魂視”を、ごく薄く開く。視界の奥で灯火が揺れる。

 一つだった灯火が、ゆっくりと二つへ割れた。

 

 (一人、いや……二人いる?)

 

 灯麻希は竹雄を一度その場に戻し、視線だけを洞窟の奥へ向けた。

 奥へ続く空間は二つに分かれている。左側は戦闘の余波で入り口は塞がれ、右側は人一人がようやく通れるほどの細い通路へと続いていた。

 

 灯麻希は迷いなく右を選び、身を屈めてその通路へ滑り込む。

 

 狭い岩肌を抜けると、小さな空洞が口を開けていた。

 壁には粗く削られた棚穴が並び、壺が無造作に押し込まれている。干からびた肉の匂いと、湿った土の匂いが混じり合い、空気は重い。

 

 その最奥———闇の中で、小さな影が二つ寄り添っていた。互いの身体を隠すように身を寄せ合い、震えている。

 同じ背丈。同じ輪郭。闇の向こうから、ただ灯麻希だけを見つめていた。

 

 灯麻希の視界が、その正体を捉える。

 左右対称———まるで鏡を向かい合わせたような、幼い男女の双子だった。

 けれど、魂だけが違った。一つであるはずの灯火が、無理やり引き裂かれたように歪み、互いを求めるように揺れている。

 

 灯麻希の眉が僅かに寄る。過去を視ようと意識を向ける————だが、視えない。霧に閉ざされたように、その先だけが途切れていた。

 

「……あなたたちは、誰?」

 

 先に反応したのは、少女だった。少年は半歩だけ身を引き、その背へ隠れる。それでも二人の影は、離れようとしない。

 小さく震える唇が、ゆっくりと開いた。

 

 

「いらない子」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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