洞窟の大空間内、湿った空気が冷たく肌を刺す。岩肌に滲む水滴が、規則のない音で落ちていた。
竹雄の胸は微かに上下し、灯麻希の血鬼術・“癒血”によって右胸の貫通傷はすでに塞がっている。呼吸に引っかかりはないが、全身の奥に鈍い疲労が残っていた。
視線の先には心配そうにこちらを見つめる姉、灯麻希。その足元に、小さな影が二つ。
薄い灰色の頭が並び、まるで鏡を向かい合わせたように寄り添っている。男女の双子。距離はないのに、どこか離れないまま重なって見えた。
口の中に残る鉄の味を押し殺しながら、ようやく声を落とした。
「……その子たちは、どうしたの?」
灯麻希は双子の頭にそっと手を置く。
撫でる動きは慎重で、触れるというより
「右の横穴の奥に隠れてたの。狒狒鬼の手下が使ってた血鬼術の動物……それを作ってたのは、この子たちだって。女の子が教えてくれたよ」
竹雄の目が僅かに揺れる。意味を飲み込むより先に、もう一度双子を見る。
「鬼の気配は薄いけど……危険はないってこと?」
竹雄の問いに、灯麻希はすぐには答えなかった。
双子の表情を見ているのか、それともその奥に沈む“魂の揺れ”を見ているのか判然としないまま、短い沈黙が落ちる。
「危険は、今はほとんどないよ」
灯麻希は双子の頭にそっと触れながら、竹雄へ静かに言葉を落とす。
「この子たち………魂がね。元々、一人分なんだよ。どこかで引き裂かれて、二つに分かれてしまってる。だから過去も、気持ちも、霧みたいにぼやけてるんだ」
竹雄は息を呑む。双子の寄り添う肩が、僅かに震えた。
「でも……怯えたり、戸惑ったりする気持ちはちゃんとある。目の前の姿も偽りじゃない。術で作られた影じゃなくて……ただ、分かれてしまった結果として
灯麻希は双子の肩にそっと触れ、続けた。
「狒狒鬼に利用されてたんだと思う。飢えは、あの鬼の残したものとかで、どうにか凌いでたみたい」
「そっか……狒狒の鬼、自分の血鬼術で作ってるみたいに振る舞ってたよ」
思い返すのは、洞窟に響いた誇示の声。全てが自分の支配下のように嗤っていた響きを思い出す。
その時。女の子が、灰色の睫毛を伏せたまま、抑揚のない声を落とした。
「あの子たちは、
空気が、ひやりと沈んだ。竹雄と灯麻希の視線が同時に少女へ向く。
灯麻希はそっと、少女と目線を合わせる位置まで膝を折る。声を落とすというより、慎重に話す声色だった。
「狒狒の鬼は、あなたたちのお母さんじゃない。そう呼ばせていただけだよ」
男の子の指先が、少女の袖をぎゅっと掴む。
「でも……母様だって、そう言ったんだ……」
震える声が、洞窟の硬い地面に落ちる。
竹雄は一瞬だけ息を詰めるようにして、その現実を飲み込んだ。胸の奥に、痛みのような重さが落ちる。
「そう言い込まれてたんだ」
灯麻希は微かに目を伏せ、二人の肩をそっと包むように抱き寄せる。
小さな体温が、冷え切った空間にじわりと滲んだ。
「うん……きっと、そうだね」
少し間を置いてから、続ける。
「本当の母親じゃないと、どこかで気づいてたとしても……それでも信じるしかなかったんだ」
双子は何も言わず、ただ灯麻希の袖を握りしめていた。
その手を、灯麻希は拒まない。双子を抱き寄せる腕は、ただの保護ではない。何かを守ろうとしている——そんな気配があった。
(……姉ちゃんは、この子たちをどうするつもりだ?)
ただ連れて行くだけなら、こんな抱き方にはならない。
その時、脳裏に柱合裁判の空気がよぎる。あの沈黙。あの視線。鬼であるというだけで押し潰される、逃げ場のない空間。この双子が同じ場所に立たされたら——どうなるか。想像しただけで、胸が重くなる。
「………鬼殺隊に連れて行くの?」
竹雄の問いは責めではなく、確認だった。姉が見据えているものを、確かめるための問いであった。
灯麻希はすぐには答えなかった。双子の小さな手を見たまま、ほんの短い沈黙を挟む。
「連れてはいかない————大丈夫、考えがある」
灯麻希はそう言うと、懐から小刀を取り出した。刃ではなく柄の部分を、軽く見せるように差し出す。
「それは珠世さんの……!無事に血を取れたんだ」
「うん、何とかね」
竹雄が仕掛けを確かめたその時。
「ニャ——」
背後からの声に、竹雄と双子の肩が跳ねる。
いつの間にか三毛猫がそこにいた。首には札。気配は直前まで完全に途切れていた。
「来てくれてありがとう」
茶々丸は尾を揺らして灯麻希の足元へ歩み寄り、背の小さな鞄を揺らす。
灯麻希は小刀を鞄へ収め、代わりに札を取り出した。
「……それは?」
「愈史郎くんの札。“目くらまし”の術札の予備だよ。これがあれば、この子たちを人目から隠せる」
灯麻希は双子へ一度視線を落とし、それから茶々丸に目を向けた。
「二人を珠世さんのところへ連れて行ってほしいんだ…………お願いしてもいい?」
茶々丸は返事をしない。ただ静かに身を丸め、落ち着いたまま毛づくろいを続けている。
その沈黙を肯定と受け取るように、灯麻希は懐から巾着を取り出した。針と糸を取り出し、双子の着物の内側へ札を縫い込んでいく。布を貫く細い音だけが、湿った洞窟の空気に静かに溶けていった。
「お姉ちゃん……」
少女が袖を握る。指先は強くはない。ただ、離したら何かが途切れてしまうとでも思うように、そっと縋りつく力だった。
灯麻希は手を止めず、穏やかに答える。
「一緒には行けないんだ。鬼殺隊に連れて行っても、安全とは言えないから……それに私たちといれば、鬼や無惨と戦うことにもなる」
針を引き抜き、結び目を固く締める。
「反対に、珠世さんたちは無惨から身を隠して生きてる。同じ鬼でも、人を喰わずに……必ず、ここより安心できる」
少女の瞳が揺れる。少年は首を振り、喉の奥で言葉を詰まらせた。
「やだ……いやだよ……ここで……」
その否定を、灯麻希は拒絶しない。ただ両手で二人の頬を包んだ。
「ごめんね……それでも、生きていてほしい」
少女は袖を掴んだまま、唇を噛んで視線を揺らした。少年もまた、姉の顔と地面の間で目を泳がせ、息を詰めている。
まだ踏み出せない。どちらにも行けないまま、時間だけが伸びていく。
やがて、少女の指先から力が抜けた。少年も遅れて、小さく肩を落とす。
沈黙の中で、少女がほんの僅かに頷いた。強い決意ではない。ただ、拒絶を選ばなかったというだけの、小さな意思だった。少年は一拍遅れて、それをなぞるように頷く。
その後、灯麻希は短い手紙を茶々丸の鞄へ差し入れた。
その時——双子の小さな指が、灯麻希の袖をきゅっと掴んだ。さっきの拒む力とは違う。別れの瞬間が怖くて、確かめるように縋る力だった。
灯麻希はしゃがみ込み、二人の額にそっと手を添える。
「大丈夫。また会える」
少女は息を飲み込み、ゆっくりと指を離した。少年もそれに倣うように、ほんの少し遅れて手を緩める。
離れる一拍だけ迷いが残る。それでも次の瞬間には、二人の手は灯麻希の袖から離れていた。
茶々丸が一声鳴く。次の瞬間———双子と猫の姿は、空気に溶けるように消えた。洞窟に残ったのは静寂だけだった。
「………姉ちゃん、これでよかったの?」
竹雄がぽつりと呟く。
灯麻希は、消えた場所を見つめたまま答える。
「最善じゃない。でも……これしかなかったと思う。今の私では守り切れないから」
僅かに息を吐き、続けた。
「珠世さんは、無惨から何百年も隠れ続けてきた人だよ。産屋敷家にさえ悟られなかったくらいだもの。苦労をかけてしまうけど………信じるしかない」
正しいのかどうか、はっきりとは分からない。けれど目の前で起きていることが、間違いとして切り捨てられるものではないことだけは理解できた。
姉が選んだものは、綺麗な正解ではない。それでも、その中にほんの少しでも救いが残るのなら——竹雄はそれ以上を否定する理由もなかった。
***
六月下旬――梅雨も後半、湿り気を帯びた風に、少しずつ夏の匂いが混じり始めた頃。
一週間に及んだ青梅の山奥での任務を終え、私は再び蝶屋敷へ戻ってきた。夜に任務が入れば竹雄と共に向かい、それ以外の時間は屋敷で過ごす。私が留守にしていた間にも、炭治郎たちには少しずつ変化があった。
炭治郎と伊之助は、那田蜘蛛山で日輪刀を大きく損傷してしまったため、しばらく任務には出られない。新しい刀が刀鍛冶から届くまでは、蝶屋敷で鍛錬に励む日々だ。
その代わり――刀が無事で解毒も終わった善逸だけが、任務へ送り出されていた。
そのたびに善逸は大騒ぎだったらしい。泣き言を並べ立て、最後はアオイに背を押されるか、他の少女たちに囲まれて半ば引きずられるように出発していく。そんな光景が、この一週間で何度も繰り返されたと聞いた。
一人だけ任務へ送り出される善逸は気の毒だと思う。
でも炭治郎たちと出会う前は、彼も一人で任務をこなしてきた。これから先も生き残るためには、この機会に少しでも恐怖を乗り越えてほしい。
伊之助は相変わらず、猪突猛進。炭治郎も実直に鍛錬を積み重ねている。
常中を身につけた伊之助は、以前より気が長くなっていた。善逸が逃げ出そうとすれば、余裕を持って頭突きで止めるくらいには。
三人とも、忙しい毎日を過ごしていたようだ。
でも鬼は待ってくれない。時間もまた、止まってはくれない。
だから私は、今日も三人の前に立つ。
少しでも強くなるために。守れるものを、増やすために—————
「———————ゔっ……!!」
鈍い音が板張りの床に響いた。
炭治郎の背中が床へ叩きつけられ、肺から空気が押し出される。踏み込んだ足で身動きを封じ、そのまま首元へ手刀を添えた。
「はい、一本」
道場には汗の匂いと荒い息遣いが満ちている。湿気を含んだ空気が熱を逃がさず、じっとりと肌へ纏わりついた。
「俺、強くなったはずなのに……なんでデカ紫に勝てねぇんだよ……」
先に倒れていた伊之助が、床へ大の字になったまま唸る。
その隣では――善逸が、ぴくりとも動かない。
「善逸は、いつまでそうしてるんだ?」
炭治郎が半ば呆れたように声を掛ける。
「話しかけるな……炭治郎………!俺はもう限界なんだ……!」
床に頬を押し付けたまま、今にも消え入りそうな声が返ってくる。
私は軽く息を整えた。私自身は手合わせでしか動いていないので、呼吸は乱れていない。身体にほんのりと熱が残る程度だ。
対して三人は、早朝から山で走り込み、そのまま休む間もなく手合わせに入っていた。
ここまで動き続ければ、善逸が弱音を吐くのも無理はない。でも、辛さを乗り越えなければ強くはなれない。
「呼吸が乱れてるよ」
私は伊之助と善逸へ視線を向ける。
「“常中”が途切れてる。全集中の呼吸を続けるのは辛いけど、その分回復も早くなる。そこを越えないと意味がないよ」
「—————もうムリだよぉぉぉ……!!」
善逸が勢いよく顔を上げた。
「早朝から山を全力で何往復もしてるんだよ!?肺と体が壊れちゃう!!」
涙目で、本気の抗議である。
「それに俺だけ任務もあるんだ!
しかし、炭治郎は素直に感心したように笑う。
「俺は毎回すごいと思ってるよ、善逸!任務もこなしながら修行を続けるなんて、簡単にできることじゃないよ!!」
「ほ、褒められるのは嬉しいけど……!でも無理なもんは無理なんだよぉ……!!」
善逸は相変わらず弱音ばかり口にする。それでも、逃げ出すことなく鍛錬を続けているのは事実だった。
「俺たちも早く任務に行きたいよ。刀が届いたら、もっと役に立てるように頑張るんだ」
「炭治郎の言う通り。善逸の体も肺も、ちゃんと強くなってるよ。もちろん———伊之助もね」
「……フン!当然だな!!」
伊之助が鼻を鳴らす。そのわりに肩は大きく上下し、呼吸はまだ荒い。
「二人はまだ集中が散りやすいね。“常中”が乱れるのは、そのせい。手合わせは、一旦終わりにしようか」
「やった……!休憩だぁ…………」
善逸は糸が切れたように、再び床へ崩れ落ちた。
「この後は、瞑想を三十分。その後、息止めの練習ね」
その瞬間、善逸の体がびくりと跳ねた。
瞑想は縁側で行うのが日課だが、善逸はこれがとにかく苦手だ。禰豆子を思い浮かべたり、庭を行き交う少女たちに気を取られたりで、雑念の塊だ。
伊之助もまた、瞑想は得意ではない。じっと座り続けることより、身体を動かしている方が性に合っている。それでも以前ほど無茶に動き回ることは減り、少しずつ我慢を覚え始めていた。
「瞑想は糞を食うみてぇにムシャクシャするが、息止めは俺様の勝ちだァ!!肺が破裂するまで吸い込んでやるからな!勝ったら菓子は全部、俺のモンだ!!————分かったな、紋壱!!」
伊之助が勢いよく飛び起きる。
「肺が破裂したら死ぬわ!?最初から俺の負けでいいから!だから俺が気絶したら、ちゃんと助けろよ!!」
善逸と伊之助は言い合いを続けながら、にぎやかに道場を出ていく。
「伊之助は、瞑想中に寝ないように気を付けるんだぞー!」
炭治郎の声が、二人の背中を追い掛ける。
「寝ねェわ!!いつも寝るのは
「お前だよ!!俺の名前も一文字も合ってねぇよ!いい加減覚えろ!!」
騒がしい声が遠ざかり、やがて道場に静寂が戻る。
半ば開いた扉から、夏の気配を含んだ風がすっと入り込む。湿り気を含んだ風が木の香りを運び、熱を帯びた空気を緩やかに揺らしていく。
炭治郎は一度息を吐き、額の汗を拭うと、借りている予備の日輪刀を握り直した。
「始めようか」
「うん!」
炭治郎が真っすぐ頷く。
深く息を吸い込み、呼吸を途切れさせないまま踏み込む———刃が大きく円を描いた。
——“ヒノカミ神楽 円舞”
滑らかで力強い軌道。床板をなぞる風圧が、僅かに遅れて頬を撫でる。
その勢いを殺さず、刃は空へと弧を描いた。
――“碧羅の天”
間髪入れず、
――“烈日紅鏡”
左右対称の斬撃が空を裂く。
炭治郎は型を途切れさせない。呼吸の流れを保ったまま、次の技へと移っていく。足運びは軽く、呼吸もまだ乱れない。
――“灼骨炎陽”
――“陽華突”
跳躍と着地。
脚へ少しずつ重さが乗り始める。それでも呼吸はまだ繋がっていた。
――“日暈の龍・頭舞い”
流れるように間合いを詰め、龍炎の軌跡を描くように刃が舞う。
――“斜陽転身”
――“飛輪陽炎”
ここで吸気が更に浅くなる。それでも炭治郎は止まらない。
――“輝輝恩光”
振り抜いた刃先が、若干ぶれた。肩が上下し始める。次は――火車。その構えへ移ろうとした瞬間だった。
炭治郎の動きが止まる。呼吸の流れがそこで途切れた。膝をつき、大きく肩で息をする。汗が床へ次々と落ちた。息を吸うたび胸が激しく上下し、喉の奥で苦しげな呼吸音が鳴る。
ヒノカミ神楽の呼吸は、そこから先へ繋がらなかった。私は一歩近づく。
「そこ———」
炭治郎の肩の動きを指すように、短く告げる。
「“輝輝恩光”までは安定してる。でも、“火車”に入る瞬間で崩れてるね」
炭治郎は荒い息のまま頷く。呼吸を数回整え、ようやく言葉を絞り出した。
「心臓の音がすごく大きくなって……胸の奥が焼けるみたいなんだ。筋肉も強張って、動かなくなる」
「体の熱に引っ張られてるんだね。焦りが呼吸より先に体を動かしてる」
私は静かに続ける。
「“火車”へ繋げようと意識し過ぎてる。威力を出そうとして、体が呼吸を追い越してるんだよ。だから、吸い切る前に筋肉が動いてしまう。呼吸の流れが途切れて、型が崩れる」
炭治郎ははっとしたように顔を上げた。思い当たる節があるのだろう、何度か頷いた。
「型を出そうとして動かさない。呼吸に体を乗せて」
「……分かった!」
炭治郎は目を閉じ、ゆっくりと常中へ戻る。乱れていた呼吸が少しずつ整っていく。以前よりも回復が早い。
那田蜘蛛山で下弦の伍・累と戦った時、炭治郎は限界を超えてヒノカミ神楽を振るった話を本人から聞いた。許された回数も、連続使用の制限も越えて――結果、身体が動かなくなるほどの反動を受けたようだ。
けれど今は違う。蝶屋敷での療養と機能回復訓練を経て、身体がどこまで耐えられるのかを自分自身で少しずつ理解し始めている。
無理に力を引き出すのではなく、限界を見極めながら立て直す術を身につけているのだろう。
そして、再び刀を構えた。
“円舞”から始まり、“碧羅の天”、“烈日紅鏡”———先ほどよりも力を抜き、呼吸に身体を合わせていく。
だが、またしても“輝輝恩光”を越えたところで、微かに足が止まった。
次の型へ繋げようとした瞬間、呼吸が浅くなる。肩に力が入り、踏み込みの角度が僅かに鈍った。炭治郎は悔しそうに唇を噛む。
それでも、以前より崩れ方は小さい。あと少し———でも、その少しが今の炭治郎には届かない。
私は小さく口を開いた。
「三つ減らして繋げよう。途切れない長さを身体に覚えさせる。九つ目を目指さなくていい」
強さを足すのではない。今は、削って整える。
炭治郎は力強く頷き、再び刀を構えた。