「——————何やってるんだ、兄ちゃんとあの人は………」
竹雄が蝶屋敷を訪れたその日、真っ先に目に飛び込んできた光景だった。
六月も終わりを迎え、季節が夏へ移ろうとしていた頃――蝶屋敷の庭先は、妙な騒ぎに包まれていた。
「よくも、よくもォォ、俺の刀を折ったなァァ!!殺してやる――!!」
「ごめんなさい――っ!!」
庭を全力で駆け回る炭治郎。その後ろを、包丁を振り上げたひょっとこ面の男が鬼気迫る勢いで追い掛けている。
どう見ても殺傷沙汰だ。どう考えても、兄はあのひょっとこ面に命を狙われている。
なのに———縁側では、もう一人の眉が太いひょっとこ面を付けた男が、男が湯呑みを片手に静かに茶をすすり、その様子を穏やかに眺めていた。畳では伊之助が寝転がり、煎餅をぼりぼりと頬張っている。誰も、止めようとしない。
庭先の修羅場と、縁側ののどかな昼下がり。
あまりにも噛み合わない光景に、竹雄はただ混乱して立ち尽くいた。
「あ、あの……止めなくていいんですか?」
「はい、大丈夫ですよ。
(えぇ……)
竹雄は思わず、縁側の穏やかな光景と庭の修羅場を見比べた。どう見ても
その直後。
「お前が弱いから、俺の刀が折れたんだろうがァァ!!」
鋼鐵塚の怒号が庭中へ響き渡る。
竹雄には、全く大丈夫には見えなかった。
「アイツらずっと追っかけ比べしてるが、まだ決着つかねぇ。飽きれたもんだぜ」
「ええ、一時間ほど前からですね」
伊之助とひょっとこ面の男は、まるで世間話でもするように笑い合う。伊之助の解釈はズレているが。
竹雄は思わず、一歩引いた。
「はぁ、そんなものなんですか……」
炭治郎が反撃もせず逃げ回っているのには、きっと兄なりの理由があるのだろう。
竹雄はそう納得すると、改めてひょっとこ面の男へ視線を向けた。
「その格好……刀鍛冶の方、ですよね?」
「あ、申し遅れました。私は
少しでも、戦いのお役に立てれば幸いです—————おや、ちょうど終わりましたね」
包丁を鞘へ収めた鋼鐵塚が、大股でこちらへ歩いてくる。
その数歩後ろでは、冷や汗まみれの炭治郎が肩を落としてついてきていた。
「鋼鐵塚さんは癇癪を起こしやすい方ですが、しばらく時間が経てば自然と落ち着くんですよ」
鉄穴森が慣れたように笑う。
「兄ちゃん、大変だったね」
「怖かったけど、大事な刀を折ってしまったし。鋼鐵塚さんが怒るのも無理はないよ」
炭治郎は苦笑しながら頬をかいた。
縁側では、伊之助が待ちきれない様子で新しい二本の日輪刀を抜き放った。陽の光を受けた刀身が淡く輝き、やがて藍鼠色へと色づいていく。
「ああ、綺麗ですね。渋く光る、実に刀らしい良い色だ」
鉄穴森は満足そうに、お面の下で目を細めて何度も頷く。
だが、炭治郎の後ろで寝転がった鋼鐵塚は一瞥しただけだった。伊之助の刀には興味を示さず、その視線は真っすぐ竹雄へ向けられる。そして、身を乗り出してぐっと顔を寄せた。
「んん?お前も”
突然、赤みを帯びた竹雄の瞳をビシッと指差され、竹雄は思わず瞬きをした。
「赫灼?……何ですか、それ?」
「里には一人もいねぇのに、なんで里を出ると会うんだろうなぁ」
鋼鐵塚は竹雄と炭治郎の頭を交互に見ながら、ぶつぶつと呟き続ける。竹雄はますます意味が分からなかった。代わりに、炭治郎が苦笑交じりに口を開いた。
「竹雄も髪や目が赤みがかってるだろ?火の仕事をする家に生まれると縁起がいいらしいんだ。俺も初めて会った時に教えてもらったよ」
「なのに、こいつの刀は期待外れの黒だったからなぁ。漆黒だぞ!漆黒!!俺は赤い刀が見たかったのに!!クソ—————ッ!!」
沸点の低い鋼鐵塚は悔しそうに叫ぶと、その勢いのまま炭治郎の頭をボカボカと叩き始めた。
「痛っ!鋼鐵塚さん、痛いです!!」
どうして兄が叩かれるのか。竹雄には理屈がまったく分からない。
このままでは、また兄への八つ当たりが大きくなる。そう思った竹雄は慌てて腰の日輪刀へ手を伸ばし、鞘から少しだけ抜いた。
「あの……俺の刀ならちょうど赤色です。これで気を紛らわせてもらえたら……その、兄ちゃんを叩くのはやめてもらえますか」
鋼鐵塚の目が、ぎらりと輝く。
「おお!鮮やかな赤い刀身じゃねぇか!!これだよ!!俺が見たかったのはよぉ!!」
「あいたたたっ!そんなに気に入らなかったんですか!?」
歓喜したかと思えば、その興奮の矛先はなぜか再び炭治郎へ向かった。鋼鐵塚は勢いよく炭治郎へ掴みかかる。
どうやら緋色の刀身を見せたことは、兄を助けるどころか逆効果だったらしい。竹雄は刀を鞘へ納め、小さく肩を落とした。
炭治郎が抵抗しないことをいい事に、鋼鐵塚は興奮のまま炭治郎へ飛びかかり、そのまま床へ押し倒した。
「うわ……!」
背中を打った炭治郎の上に馬乗りになり、鋼鐵塚は容赦なく頬をぐいぐいと引っ張る。
「すぐ怒って暴力に訴えるなんて、大人気なさすぎますよ!何歳なんですか!!」
竹雄が思わず叫ぶ。
「三十七だ!!」
「立派な大人じゃないですか!!尚更、駄目です!!」
竹雄は呆れながらも、慌てて鋼鐵塚の背後へ回り、胴へ腕を回して力いっぱい引き剥がした。
「鋼鐵塚さん、落ち着いてください!!」
「うるさい黙れ!!俺の情熱が分からん奴はすっこんでろ!!」
竹雄は、暴走を
解放された炭治郎は床に座り込み、頬を押さえながら安堵の息を吐いた。
「ありがとう、竹雄……」
その一方で———
騒ぎのすぐ隣では、鉄穴森が変わらぬ穏やかな表情のまま、伊之助の新しい日輪刀を眺めていた。
「握り心地はどうでしょうか。実は私、二刀流の方に刀を作るのが初めてでして………」
鉄穴森が説明を続ける中、不意に伊之助が立ち上がった。何かを思いついたような雰囲気だった。
縁側から軽快に庭へ降りると、二本の日輪刀を手にしたまま、何も言わず歩いていく。
「伊之助殿?」
鉄穴森が不思議そうに呼びかける。しかし、伊之助は振り返らない。
そのまま庭先まで進むと、その場にしゃがみ込んで転がっていた石をいくつか拾い上げた。
大きさ、形、重さ———まるで獲物を見定めるように手の中で確かめ、気に入らなければそのまま投げ捨てる。
妙な沈黙が落ちた。誰も声をかけることができない。
伊之助が何をしようとしているのか、誰にも分からなかった。鋼鐵塚も、炭治郎も、竹雄も———三人の視線が自然と伊之助へ集まっていく。
次の瞬間。しゃがんだ伊之助は拳ほどの大きさの石を握り締め、日輪刀の刃へ向けて——————振り下ろした。
ガチィンッ!!
庭に鋭い金属音が響く。
そして、もう一度。
ガチィンッ!!
その場にいた全員が凍りつき、鉄穴森の顔色だけがみるみる青ざめていく。
「――――ッ!!」
鉄穴森の言葉にならない絶叫が、庭に響き渡った。
打ったばかりの刀を、よりにもよって石で叩いているのだから当然だ。
その後、伊之助は二本の新品の刀を見事にボロボロにした。
「よし!」
満足げに頷いた、その直後。
「ぶっ殺してやる、この糞餓鬼!!」
「「すみません!!すみません!!」」
発狂した鉄穴森が伊之助へ飛びかかり、炭治郎と竹雄が必死に謝りながら止めに入る。
伊之助にとっては、壊したのではない。自分の手に馴染む形へ変えただけだった。
新しい刀が届いた日の蝶屋敷は、結局最後まで騒がしいままだった。
***
西日が傾き、蝶屋敷の廊下に細長い影がゆっくりと伸び始めた頃。
私はアオイと共に、日差しの届かない奥の涼しい部屋で薬草の仕分けをしていた。
畳の上には籠や木箱がいくつも並べられ、その中には乾燥させる前の薬草や、すでに処理を終えたものが整然と収められている。昼のうちに、きよたちが山で摘んできたものだ。
町の業者から届けられたもの。蝶屋敷で使われる薬は、いつも多くの人の手によって支えられていた。
アオイは慣れた手つきで束をほどき、葉の状態を確かめながら種類ごとに分けていく。
私はその隣で、彼女の指示に従いながら紙に包み、紐で丁寧に結んだ。
乾いた葉を指先で擦ると、少し苦みを含んだ青い香りが立ち上る。開け放たれた窓から入り込む夕暮れの風が、その香りを静かに部屋の外へ運んでいった。
「それは、もう少し乾燥棚に回してください」
アオイは手を止めることなく淡々と告げた。私は頷き、籠を抱えて立ち上がる。
蝶屋敷は、こういう時間が一番穏やかだ。
朝方から昼にかけては、怪我人の手当てや訓練、様々な雑事で人の声が絶えない。けれど夕方になると、騒がしさは少しずつ遠のき、屋敷全体が落ち着いた時間に包まれる。
籠を戻して振り返ると、アオイの手がふと止まっていた。手元の薬草を見つめたまま、しばらく動かない。その様子に、私は思わず足を止めた。
「…………灯麻希さんは、この薬草を知っていますか?」
差し出された葉を受け取り、私は首を傾げた。
「ごめん、分からないや。どんな薬草なの?」
「傷の熱を下げる薬になります。珍しい薬草です」
アオイは答えながら、そっと薬草へ視線を落とした。そのまま、僅かに沈黙が落ちる。
「でも昔から、ここではよく使っていて………」
そこで言葉が途切れた。アオイの表情が、ほんの少しだけ曇る。
「————————カナエ様が、好きだった薬草なんです」
その名を口にした瞬間、アオイの声がほんの少しだけ細くなった。
アオイは手の中の葉を見つめたまま、小さく息を吐く。指先は慣れた動きで薬草を扱っているのに、その表情にはどこか遠くを見るような寂しさが滲んでいた。
「カナエ様は、しのぶ様のお姉様です。
………誰にでも優しいお方でした。戦えない私のことも、親を失って身寄りの無かったきよたちのことも、蝶屋敷で受け入れてくださって…………私たちに居場所を作ってくれたんです」
アオイの声は穏やかだった。
けれど、その奥には長い間抱えてきた想いが深く沈んでいるように感じた。
「鬼に対しても、哀れだと同情するくらい————炭治郎さんみたいな人でした」
ふと、アオイが私の顔を見た。
「もし、あなたや禰豆子さんみたいな鬼にもっと早く出会っていたら………」
そこで一度、言葉が止まる。アオイは視線を落とし、手にしていた薬草を丁寧に籠へ戻した。
「しのぶ様も………あんなふうに、自分を偽り続けなくて済んだのかもしれません」
アオイは小さく笑う。けれど、それは単なる笑みではなかった。
どうしようもない現実を前にした、諦めにも似た苦笑だった。
「こんな話、しても困りますよね」
アオイはそう言って、少しだけ肩を竦める。
「私がもっと………まともな隊士だったら、しのぶ様を支えられたのかもしれません」
声が僅かに揺れる。握られた手に、少しだけ力が入った。
「でも実際は、鬼と戦うことが恐ろしくなった……意気地なしですから」
部屋には、アオイの言葉だけが落ちていった。乾いた薬草の匂いだけが、変わらず漂っていた。
私はすぐには答えなかった。
アオイが今口にしたのは、ただの弱音ではない。長い間、自分自身に向け続けてきた、責める言葉だったから。
「———そうかな」
アオイがゆっくりと顔を上げた。
「あなたがそう思うなら、私には強くは言えないけど………」
私は畳の上に並んだ薬草へ視線を落とした。
昼間、きよたちが汗を沢山かきながら一生懸命運んできたもの。その中から、一つの紙包みを手に取る。
「でも……アオイちゃんがここにいることで、助かっている人は沢山いるよ」
アオイが僅かに目を動かした。
「昼間、きよちゃんたちに薬草の束ね方を教えていたでしょう。あの子たち、アオイちゃんの手元をよく見て真似していた。教えてくれることを頼りにしてる」
次に、乾燥棚へ視線を向けて少しだけ記憶を辿る。
「怪我人の包帯を替えていたのも見たよ。痛みに耐えていた人が、あなたに手当てをしてもらった後……安心したように眠っていた」
私はアオイを見る。
「私は……誰かのために頑張れる人を、意気地なしだとは思わない」
アオイは何も言わなかった。ただ、少しだけ驚いたような顔で、こちらを見ている。
私は手の中の薬草へ視線を落とした。
「カナエさんが、優しい人だったなら———」
一枚の葉を慎重に籠へ戻す。
「きっと、アオイちゃんのことを……今も誇りに思っているよ」
・
・
・
夜の蝶屋敷は、昼間の慌ただしさが嘘のように、静まり返っていた。怪我人の呻き声も、少女たちの足音も、今はもう遠い。
禰豆子と手を繋いで、縁側を並んで歩く。
庭には三日月の明かりが落ち、風に揺れる草木の音だけがひっそりと響いていた。
その時だった。ふと、屋根の上から人の声が届いた————炭治郎と、しのぶさんの声。
小さくて、途切れ途切れで――それでも、夜の静けさの中でははっきりと聞こえた。風が運んできた言葉の中に、ひとつの名前が混じる。
————
私は足を止めた。少しだけ、屋根の上へ視線を向ける。
しのぶさんの声には、普段の穏やかな笑顔の奥に隠されたものが、微かに滲んでいた。
けれど、私は再び歩き出した。
今、あの場所に必要なのは、自分ではない。
隣を歩く禰豆子が、夜風に長い髪を揺らしている。月明かりに照らされた横顔は、機嫌が良く穏やかだった。
蝶屋敷の夜は、誰かの想いを抱えたまま、ゆっくりと更けていった。
灯麻希とアオイの会話シーンは、アオイ自身が「自分を責める視点」しか持てていない状態に、“戦場以外でも、人を支えることは戦いの一部”という視点を渡す場面です。
この後、炭治郎がさらに一歩踏み込んで「アオイさんの想いは俺が戦いの場に持って行く」と言うことで、段階的にアオイの自己否定が解けていく流れになります。
途中の台詞は原作とニュアンスが異なる部分もありますが、結局は原作と同じ結論に向かうため、描写は本作では省く予定です。
また今話の最後に描いた、炭治郎としのぶの会話シーンと同様に、無限列車の任務前に炭治郎が不死川玄弥とすれ違う場面や、(アオイと)カナヲにお礼をするシーンも本作の時系列では存在します。
こちらは完全に原作と同じ流れになるため、本作では描写しない方針です。