机の上に広げた和紙へ、灯麻希は一文字ずつ筆を走らせていた。
硯から含ませた墨が白い紙へと滲み、ほのかな墨の香りが光を遮った薄暗い部屋の空気にゆっくりと溶け込んでいく。筆先の擦れる音だけが、静寂を細く縫っていた。
「……」
ふと、筆が止まる。書きかけの文字を見つめる灯麻希の視線が、僅かに揺れた。
脳裏をよぎるのは———湿った洞窟の冷気と、あの戦いの終わり。
灰となって崩れ落ちた狒狒鬼と、崖下へ消えていった人だった頃の悲鳴とその末路。
そして、珠世へ託した双子の男女の鬼。
あの二人は今、どんな風に日々を過ごしているのだろうか——ふと胸の奥が、まだ洞窟の冷気を思い出すようにざわついた。
その時、不意に羽ばたきが空気を裂く。
「遅イ!!」
甲高い声が頭上から降ってきて、灯麻希ははっと顔を上げた。
梁の上に止まっていたのは、炭治郎の鎹鴉――天王寺松右衛門だった。
「手紙ヲ、運ブノヲ手伝ッテ欲シイトォ、言イッタノァオ前ダロゥ!カアアア!!」
「ごめん、松右衛門」
素直に謝ると、灯麻希は筆を置き、乾いた和紙を丁寧に折り畳む。細い指先で紐を整え、一つ一つ確かめるように封を結んだ。
「……カァァ!考エ事カ?」
「うん」
短く返された声に、松右衛門は一度だけ羽を鳴らす。
「マタ、
「そう。お願い」
小さく肯定し、紐を結び終えようとした、その瞬間だった。
――ガツッ!!
「いたっ……」
鋭い衝撃が頭頂を貫く。松右衛門の嘴が、容赦なく灯麻希の頭を突いていた。
「遅ィイ!!ソシテェ、上ノ空デ返事ヲォ……スルナ!!」
「ごめん……わかった、わかったから……」
二度、三度と容赦なく繰り返される嘴に、整えていた髪がするりと乱れ、黒髪の間から赤紫の毛先がさらりと頬へ落ちる。
(せっかちだなぁ……)
灯麻希は苦笑しながらも、急いで手紙を脚へ括り付けた。
「珠世さんに、よろしくね」
「カァァ!!」
不満げに鳴きながら飛び立っていく松右衛門を見送る。
その羽音が遠ざかるのを聞き届けてから、乱れた髪を手早く耳へ掛け直す。
(あんなに急かなくてもいいのに…………凄く急いでたのかな)
灯麻希は、乱れた髪を押さえながらそんなことを思った。
静けさが戻った部屋に、今度は廊下から規則正しい足音が響き始めた。その律動の硬さに、灯麻希は思わず背筋を正す。板張りを踏む乾いた音が、泰然とこちらへ近づいてくる。
灯麻希が振り返ると、開け放した扉の前に、一人の隊士が立っていた。
———獪岳だった。
視線が重なる。
ほんの一瞬、部屋の中から音が消えたようだった。遠くで揺れる木々の葉擦れも、廊下から流れる風の音も、全てが薄れていく。
扉の前に立つ獪岳の眉が、僅かに動いた。
「お前……今、何をしていた」
疑問の色を浮かべた、低い声。
灯麻希はすぐには答えなかった。乱れた髪を片手で押さえたまま、指に絡んだ赤紫の毛先を整える。松右衛門に散々突かれたせいで、いつもの落ち着いた姿とは程遠い。
その姿を見ている獪岳は少し困惑した。洞窟で別れた時とは、あまりにも違う空気だった。
「手紙を書いてた」
灯麻希は何でもないことのように答える。声色は平坦だった。
けれど、髪を整える指先が僅かに忙しなく動いている。
「それより———」
灯麻希は顔を上げた。
「久しぶり」
その言葉に、獪岳の目が細まる。
まるで、予想外の刃を向けられたかのように、一瞬だけ呼吸が止まった。警戒するような視線。洞窟の中で向けられた、あの冷たい目と同じものだった。
「……」
返事がない。灯麻希は少し首を傾げ、それでも気にした様子なく続けた。
「これから任務だよね」
「……ああ」
「迎えに来てくれてありがとう」
「違う。迎えに来たわけじゃねぇ」
言い返す声は、思ったより強く出た。自分でも抑えきれなかった反射のように。
獪岳は視線を逸らした。平静を装うように立つ姿勢はいつも通りだった。だが、逸らされた視線だけが、いつもの獪岳とは違っていた。
ほんの少し沈黙が流れる。
だが、その一瞬の間に獪岳の脳裏をよぎったのは、あの日の洞窟だった。
『—————甘いな』
そう吐き捨てた。
鬼の灰が舞う中で、相容れないと思った。自分とは違う場所にいる者だと。
だから、もう共に任務へ向かうことなどないと思っていた。
それなのに――目の前の灯麻希は、まるで何もなかったかのように立っている。
その平然さが、獪岳にはどうにも掴めなかった。自分の知る世界の反応ではない。
灯麻希の様子を、獪岳は理解できないものを見るように眺めていた。
「気まずい?」
灯麻希の声が、静かな部屋に落ちる。
獪岳の眉間に皺が寄った。
「…………何の話だ」
「この前の、狒狒鬼を倒した後のこと」
空気が一瞬、止まる。灯麻希は責めるでもなく、ただ穏やかに獪岳を見る。
「気にしてないよ。むしろ、助かったと思ってる」
あまりにも迷いのない返答だった。
獪岳の目が見開かれる。その反応は、獪岳の想定していたどの答えにも当てはまらなかった。
胸の奥で、何かが一瞬だけ噛み合わずに軋む。
「………………は?」
漏れた声には、隠しきれない疑問が混じった。
怒るでもなく、否定するでもなく。ただ、理解できないという響きだった。
「………どういう意味だ」
問いかけた声には、いつもの棘がなかった。ただ、本当に分からないだけの声音だった。
「他の人も、多分同じことを思ってるから」
灯麻希は机の上へ視線を落とし、片付けを再開する。
折り畳んだ和紙を整え、硯を端へ寄せる。小さな動作を一つずつ重ねるたびに、部屋の静寂さが戻っていく。
「獪岳みたいに、正面から言ってくれる人って……あまりいないから」
そこで一度、灯麻希の手が止まった。
獪岳は、言葉の意味をすぐには掴めなかった。正面から言えば壊れる———そう思ってきた自分とは、あまりにも違う。
「だから、嬉しかった」
その言葉は、獪岳の胸にゆっくりと落ちた。
拒絶でも肯定でもない、初めて触れる温度だった。
机の上を一通り片付け終えると、灯麻希はスッと立ち上がった。
部屋の隅へ歩み寄り、置かれていた木箱を抱え上げる。感触を確かめるように手を添えてから、灯麻希は振り返り、獪岳へ視線を向けた。
「お待たせ。じゃあ、行こうか」
その声は、先ほどまでのやり取りなど最初からなかったかのように和やかだった。
獪岳は返事をしない。返せる言葉が見つからなかった。和やかさが、獪岳にはどうにも掴めない。灯麻希をじっと見つめたまま、眉を寄せる。
理解できないものを前にしたような沈黙が流れた。
やがて、小さく息を吐く。
「やっぱり気味が悪ぃな、お前」
力を抜いた悪態だった。距離を置くための反射だった。それ以外の返し方を、獪岳は知らない。
灯麻希は木箱を抱えたまま小さく首を傾げる。責める気配はどこにもなかった。その純真さが、獪岳にはいっそう理解できない。
「そう?」
その返事もまた、拍子抜けするほど穏やかだった。
灯麻希は首を少し傾げ、微かに笑った。
・
・
・
鎹鴉の先導する羽音を追いながら、獪岳は黙々と山道を進んでいた。
踏み固められた土を蹴り、木の根を越え、大小の岩を迷いなく踏み分けていく。背に負った木箱の重みは、鍛え上げた身体には殆ど感じられない。ただ視線だけは前を捉え、木々の間を縫うように駆け抜けていく。
風が梢を揺らし、青葉の擦れ合う音が頭上を渡っていく。木漏れ日が足元へまだらに落ち、その光は足を進めるたびに形を変えた。
背中の木箱は終始静かなままだった。その静けさは、獪岳の呼吸の邪魔をしなかった。重さよりも、気配の方が確かにそこにある。その小さな気配だけが、そこに灯麻希がいることを獪岳へ伝えていた。
風に乗る草木の匂い。陽射しを含んだ木肌の温もり。箱を抜ける空気の流れ。そんな微かな変化を通して、箱の中の鬼は今、この景色をどのように感じているのか———獪岳はふと、そんなことを思った。
考えるつもりはなかったのに、気づけば意識が向いていた。自分でも、理由は分からない。
(…………竈門も、いつもこんな感覚なのか)
竹雄の姿が、獪岳の脳裏を掠める。竹雄の背に負われていた灯麻希も、いつもこんなふうに物静かだった。木箱の中で余計な音一つ立てず、ただ身を潜めている。話しかけることもなく、無理に存在を示すこともない。それでも、竹雄の背中には確かな気配だけが残っている。
それ以降は獪岳は何も考えず、駆け続ける。
それなのに、不思議とその静穏さは煩わしくなかった。
慣れたくもないのに、拒む理由も見つからない。そんな感覚は、獪岳には初めてだった。
鎹鴉は一定の距離を保ちながら山道を導いていく。
獪岳は走る速度を崩すことなく後を追う。時々、沢の水で喉を潤し、携行した食料で簡単に腹を満たしながら、再び木箱を背負って走り出した。
陽は少しずつ傾き始め、谷間を吹き抜ける風にも涼しさが混じる。昼の熱を残した空気と、山肌から流れ降りる冷気が緩やかに溶け合い、木々の間をゆっくりと渡っていった。
言葉は交わさない。沈黙が、敵でも味方でもない場所に落ち着いていく。
それでも沈黙は息苦しくはなかった。獪岳の足取りは、山奥へ続く細い道を着実に刻んでいた。
狭霧山へ足を踏み入れる頃には、陽はすでに傾き始めていた。
獪岳は背負っていた木箱を地面へ下ろす。
まだ完全な夜ではない。それでも山には白い霧が深く漂い、伸びた木々の間へ沈むように広がっていた。葉の隙間から差し込む夕陽も途中で遮られ、地上まで届く光は殆どなかった。
鬼にとって、日差しを避けるには十分な場所だ。
「ここでいいだろ」
「ありがとう」
灯麻希の声が木箱の内側から返る。
蓋が開かれると、中から小さく縮こまっていた幼子の身体がゆっくりと伸びていく。女性の姿へ戻っていくその様子を、獪岳は黙って見ていた。
鬼など、これまで何度も見てきた。
今更ではあるが、灯麻希を見ても戦場で向き合った時のような、緊張も嫌悪も湧かないことを獪岳は自覚した。それが、余計に戸惑いを生んだ。
それに———何故か、妙に視線の置き場に困る。
(なんだ……この感覚は)
拒む理由も、受け入れる理由も見つからない。ただ、どこに立てばいいのか分からなかった。
「どうしたの?」
灯麻希が首を傾げる。
「………いや、何でもねぇ」
獪岳は短く返し、僅かに目を逸らした。そして、話を切り替えるように口を開く。
「この後はどうするんだ」
周囲を見回しながら続ける。
「鴉の奴は、急に上空に飛んで行きやがったし………お前は何か聞いてんのか」
「ここはまだ、目的地じゃないよ」
灯麻希はあっさりと言った。
「私が頼んで、少し寄り道させてもらったんだ」
獪岳は眉をひそめた。任務の最中に寄り道をするという発想が、どうにも理解できない。
灯麻希は一度、霧の奥へ視線を向ける。
「だから獪岳には、このまま私の後を付いてきてほしい」
「はぁ?面倒くせぇな………」
即座に返ってきた愚痴。だがこの山奥で、獪岳に他に行く場所があるわけでもない。
「……チッ」
舌打ちの音だけは以前のままなのに、歩幅は灯麻希へ向かっていた。
しばらく山道を進むと、霧の向こうに一軒の小さな小屋が浮かび上がった。
木々に囲まれた閑寂な山間。白い霧が流れる中、その場所だけが長い時間を重ねたようにひっそりと佇んでいる。
灯麻希は小屋の前まで歩み寄ると、戸口へ向けて軽く手を伸ばした。控えめな音が、山の静寂へ溶けていく。
しばらくして、内側から戸が開いた。姿を現したのは、天狗の面を身につけた老人だった。
鱗滝左近次———かつて多くの剣士を育てた、水の呼吸の育手である。
灯麻希はすぐに頭を下げ、穏やかな声で言葉を交わし始めた。
その少し後ろで、獪岳は腕を組みながら二人のやり取りを眺めていた。
自分には関係のない話だ。そう思うように、わざと視線を外して少し離れた場所で立っている。
だが———やがて、天狗面の奥の視線が獪岳へ向いた。名前を呼ばれたわけでもないのに、耳がそちらへ向いた。
「ふむ……なるほど」
落ち着いた声が、霧の中へ響く。
「あの剣士は、雷の呼吸を使うのだな」
「はい。そうです」
灯麻希の視線も獪岳へ向けられる。
「…………何だよ」
自分の話をされていることに気づき、獪岳は眉を寄せた。
そのまま二人の方へ歩み寄る。足が向いたのは、考えた結果ではなく無意識だった。
「面識もない剣士の育手を当てろ、ということか」
天狗面の奥で、鱗滝が思案するように短く呟いた。
獪岳は腕を組んだまま、不機嫌そうに二人の声がよく聞こえる近くで立ち止まった。離れたいのに、耳は勝手に拾ってしまう。
「獪岳は、自分のことをほとんど話してくれないんです」
灯麻希が横から口を挟む。
「でも、雷の呼吸を使う剣士なら……鱗滝さんなら分かるかなと思って」
足の置き方。重心の移し方。呼吸を繋ぐ間———鱗滝はしばし獪岳の立ち姿を見つめ、ゆっくりと頷いた。
「桑島のところの弟子だろう………違うか?」
「……!」
獪岳の眉が微かに動いた。
隠したつもりでも、止められなかった。ほんの一瞬。それだけの変化だった。
だが、その反応を見逃さず、灯麻希は小さく笑う。
「獪岳の反応からすると、当たりみたいですね」
(クソッ……あの女、余計なマネしやがって。この爺、なんで先生の名前を知ってやがるんだ……?)
己の育手を一瞬で見破られた苦々しさと、さも自身のことを理解しているかのように微笑む灯麻希への苛立ち。胸の奥が、思わぬところを突かれたようにざわつく。
自分の内側に踏み込まれた居心地の悪さに、獪岳はただ苦虫をかみ潰したような顔で黙り込むしかなかった。言い返す言葉はあったはずなのに、どれも口まで届かなかった。
顔を顰める獪岳。鱗滝は気にした様子もなく、落ち着いたまま続けた。
「雷の呼吸の使い手は少ない。育手も同じだ。だが、それだけで判断したわけではない」
ゆっくりと獪岳の足元へ視線を落とす。
「足運びに、桑島の癖が残っている。呼吸の入り方も似ている。それに———」
天狗面の奥の声が、少し柔らぐ。
「彼奴とは、昔から文を交わしていてな………弟子の話も、時折聞いていた。雷の型をよく身につけた、見込みのある弟子がいるとな———随分と誇らしげに書いてきてたものだ」
「……」
獪岳の眉が、ぴくりと動く。その反応もまた、獪岳自身で抑えられなかった。
その変化も、灯麻希は見落とさなかった。
「もう一人の弟子は、随分と手がかかるとも書いていたが」
鱗滝の声には、幾分の懐かしさが滲む。
「それでも、炭治郎と同じ頃に最終選別を突破できた時は、安心している様子だった」
「それ、善逸くんのことですね」
灯麻希が控えめに笑った。
炭治郎と同じ時期に最終選別を突破し、その後も共に戦ってきた善逸のことを、灯麻希はよく知っている。鬼殺隊に入ったばかりの頃の姿も。そこから少しずつ変わっていっている姿も。
灯麻希は楽しそうに善逸について鱗滝に語る。
「……そうか。あの子も仲間に恵まれたのだな」
「ええ。鬼を前にすると恐怖で気絶してしまうくらい怖がりな性格なんですけど、それでも諦めずに最終選別まで導いてあげたんでしょうね……今では仲間のために命を懸けて戦える剣士になりました」
灯麻希は柔らかく微笑む。
「獪岳も善逸くんも、剣の歩み方はまるで違います。それでも二人とも雷の呼吸をここまで身につけているんですから……桑島さんは弟子を一人一人、ちゃんと見て育てていたんですね」
その話を聞く獪岳の表情が、小さく揺れる。
二人の違いを、桑島は比べるためではなく、ただ見ていたのだと分かる。自分の知っている桑島の姿が、ほんの少しだけ形を変えた。
(————先生が……俺のことを、そんな風に書いていたのか)
桑島が鱗滝と文を交わしていたことすら、獪岳は知らなかった。
知らない場所で、知らない相手に————自分のことを
その温度を、どう受け取ればいいのか分からない。だがその事実は、妙に胸に残った。
獪岳は改めて鱗滝を見る。落ち着きのある立ち姿。衰えを感じさせない、研ぎ澄まされた気配———桑島と同じく、剣士を育てる者。
だが、それだけではない。この老人もまた、長い年月を剣と共に歩んできた人間なのだと、的確に察知する。
(現役の頃は、相当上の階級だったはずだ……“甲”は確実か。いや、気配の張り方からして……“柱”もあり得るな)
その直感は正しかった。鱗滝左近次は、かつて水柱を務めた剣士だ。
だが、それ以上に獪岳の中へ残ったのは、別の感覚だった。
自分の知っている桑島の輪郭が、前より広がった気がした。
(…………先生にも、語り合える相手がいたのか)
ふと、そんな考えが浮かんだ。その光景は、獪岳の想像の外側にあった。
・
・
・
鱗滝左近次と別れたその後———狭霧山のさらに奥へ、二人は足を踏み入れる。
先を行く灯麻希の背を追い、獪岳も急坂な山道を進んでいく。
その瞬間だった。周囲を包む霧が、先ほどまでとは違う濃さを帯びる。
獪岳は思わず足を緩めた。空気の密度が、さっきまでとは違った。
白い靄が木々の間を流れ、伸びた枝の輪郭をぼかしていく。数歩先にあるはずの灯麻希の背中さえ、淡い霧の向こうへ溶けていくようだった。
音もまた、遠のいていく。風が葉を揺らす音も、足元で踏みしめる土の感触も、どこか薄い膜を隔てたように感じられる。耳が研ぎ澄まされるのに、何も聞こえない。
やがて、灯麻希が足を止めた。
それと同時に――霧の奥から、二つの気配が現れる。
「……来たか」
低く落ち着いた声が、白い世界の向こうから響いた。ゆっくりと霧が晴れていく。
獪岳は見覚えのない顔に、無意識に距離を測った。
そこに立っていたのは、一人の少年だった。肩まで伸びた
「久しぶりだね、灯麻希」
その隣から、柔らかな声が重なった。さっきの少年とは対照的な、穏やかな気配だった。
花柄の着物をまとった小柄な少女。艶やかな黒髪と穏やかな瞳が、変わらぬ優しさを宿して灯麻希を見つめている。
二人は狐の面を横へずらし、素顔のまま霧の中に立っていた。
灯麻希は、その姿を前にして足を止める。胸の奥が、ふっと熱を帯びた。
かつて自分が迷い、恐れ、それでも進むことを選んだ場所。その始まりにいた二人が、今も変わらずそこにいた。
「錆兎、真菰……久しぶり。会ってくれて、ありがとう」
(何だ、こいつら…………)
霧の向こうに立つ二人の子どもを、獪岳は細めた目で見据える。
姿形だけなら、人間と変わらない。
だが――違う。呼吸の音がなく、体温も感じない。人間が持つ、気配の揺らぎが存在しなかった。
(生きた人間じゃねぇ……な)
距離を取るべきか判断しながら、足は自然と踏ん張っていた。
幽霊など信じたことは一度もない。それでも、目の前の存在を表すなら、その言葉が最も近いと獪岳は冷静に判断した。
「…………少しだけ、話をしたくて」
灯麻希が話を切り出す。その声は落ち着いていた。
けれど、胸の奥には小さな不安が残っている。対して身体は、迷いなく二人へ向いていた。これから何をするのか、もう決めている。それでも―――最後に、この二人へ伝えておきたかった。
真菰が、ほんの少し首を傾げる。
「何かあった?」
優しい問いかけに、灯麻希は一瞬だけ視線を落とした。
「これから……青い彼岸花を、燃やしに行く」
短く強い言葉だった。
その瞬間、霧の流れがほのかに変わった。獪岳も、空気の密度が変わったことに気づいた。誰も言葉を発しない。山奥には、風に揺れる木々の音だけがうっすらと響いていた。
「また一つ、
口にした声は、思っていたよりも落ち着いていた。
錆兎も、真菰も何も言わない。ただ、灯麻希の言葉を受け止めるように見つめている。
やがて灯麻希は、ふっと息を吐いた。
「………説明しなくても、分かるんだね」
真菰が柔らかく頷く。
「私たちは、鱗滝さんだけじゃなくて———あなたや炭治郎のことも、ずっと見ているから」
穏やかな瞳が、まっすぐ灯麻希へ向けられる。
「だから、大体のことは分かるよ」
「そっか……」
灯麻希は小さく頷いた。
錆兎は腕を組んだまま、変わらぬ眼差しで灯麻希を見下ろしている。
「また迷っているのか」
ぶっきらぼうな声。
「うん……少しだけ」
言葉にした途端、胸の奥が少し痛んだ。灯麻希は苦く笑った。
「変えると決めたことは、間違ってなかったのかって。たまに思うんだ…………不甲斐なくて、ごめん」
一瞬だけ、視線が揺れる。錆兎は小さく息を吐いた。
「お前はもう、決めてる顔だ」
淡々とした言葉だった。
「それに———そんなことを、俺たちに聞くな」
錆兎はまっすぐ灯麻希を見る。獪岳は、その言葉の強さに僅かに眉を動かした。
「決めるのは、お前自身だ。前にも言ったはずだ……お前の道は、
「……うん」
胸の奥に沈んでいた重さが、ほんの少しだけ解けていく。
灯麻希は深く頷いた。
「———灯麻希」
去ろうとした灯麻希を、錆兎の声が呼び止めた。
足を止めて振り返る。霧の向こうで、錆兎は腕を組んだまま、少し離れた場所にいる獪岳へ視線を向けていた。
「あの剣士………」
そこで一度、言葉が途切れる。灯麻希が首を傾げた。
「鬼殺隊士の獪岳だよ。一緒に来てもらってるの」
錆兎はしばらく獪岳を見つめる。獪岳は、視線を向けられた瞬間に微かに肩へ力が入った。
「あいつも、自分の中で答えを探しているんだな」
「………!」
灯麻希は目を瞬く。獪岳は、聞こえないふりをするように視線を逸らした。
錆兎はそれ以上、何も言わない。ただ、ぽつりと続けた。
「あいつも、迷っている」
灯麻希の背後。少し離れた位置で、獪岳は腕を組んだまま会話を聞いていた。
「テメェ、勝手に決めつけんな」
低く吐き捨てる。声は荒いのに、身体はその場から動かなかった。
灯麻希は小さく目を丸くしたあと、ふっと苦笑した。
「そうなの?……まぁ、無理に話さなくてもいいけど」
その言い方は、獪岳の反射反応を責めるものではなかった。
それから、何かを思い出したように二人へ顔を向ける。
「—————そういえば、一つ聞き忘れてたことがあった」
緊張が少し解けたように、灯麻希の声の調子が柔らかくなる。
山の静寂の中を、白い霧がゆっくりと流れていた。
「錆兎と真菰たちは……どうして鱗滝さんに姿を見せないの?」
純粋な疑問。真っ直ぐな問いだった。錆兎は、珍しくすぐには答えなかった。
「それは………………」
言葉を探すように、一瞬だけ間が空く。
隣にいた真菰が、小さく笑った。困ったようでいて、どこか優しい笑みだった。
「鱗滝さんはね、霊感が少しもないの」
真菰が優しく続ける。言いながら、真菰は困ったように肩をすくめた。
「だから、私たちの姿を見ることもできないし、声を聞くこともできない」
そう言って、真菰は霧の向こう――鱗滝のいる小屋へ視線を向けた。
「だから私たちができることは………ただ、そばにいることだけ」
灯麻希は、胸の奥が少し締めつけられるのを感じた。
「そうだったんだ………」
灯麻希は悲しげに呟いた。そして、少しだけ迷ってから問いかける。
「……寂しくない?」
真菰はしばらく黙った。やがて、ゆっくりと首を横に振る。
「少し残念ではあるけど……寂しくはないよ」
真菰は穏やかに笑う。柔らかな声だった。
「だって、私たちは鱗滝さんが大好きだから———ここにいるんだ」
その言葉の先にあるものを確かめるように、灯麻希を見る。
「灯麻希の家族も……きっと同じだよ」
その言葉は、霧よりも静かに灯麻希の胸へ落ちた。
霧が軽やかに流れる。四人の間を通り抜けた白い靄は、山の奥へと消えていった。
・
・
・
狭霧山を下る道。
灯麻希は歩きながら、心の内を確かめるように息を吐いた。胸の奥に残っていた重さが、ゆっくりと流れていく。
しばらく続いた沈黙の中で、背後から獪岳の声が落ちる。
「………あいつら、本当に幽霊なのか」
「うん」
灯麻希は歩みを緩めることなく答えた。
「大切な人を守りたかった人たちだよ」
否定するでもなく、肯定するでもなく、獪岳は返事をしなかった。
ただ一度だけ、足を止める。霧の向こう。もう見えなくなった山奥へ、軽く視線を向けた。
さっきまでいた二人の気配が、まだどこかに残っている気がした。
そして何も言わず、再び歩き出した。
無限列車編開始まで、残り1話