冷たさの残る空気の中で、竈門竹雄は煉獄槇寿郎の住まう屋敷の門前に立っていた。
狭霧山で兄・炭治郎と共に修行を始めて、三ヶ月。
水の呼吸の型を習得する段階まで進んでいたものの、どうしても身体の動きに拭えない噛み合わなさが残っていた。
その違和感の正体を見極めた育手・鱗滝左近次から「炎の呼吸が適しているのではないか」と告げられたのは、ほんの数日前のことだった。
兄と同じ道を進めない悔しさは、確かにある。
それでも、自分の身体が感じていた違和感を言い当てられたことで、竹雄の中ではすでに答えが出ていた。迷いは、もう足元に残っていない。鱗滝の伝手を頼り、竹雄はこの屋敷へやって来た。
門をくぐると、女中に先導されて磨き上げられた廊下を進んでいく。
軋み一つない床板、整えられた室内、隅々まで行き届いた清らかな空気。
初めて訪れる場所のはずなのに、不思議と足取りは鈍らなかった。
むしろ、ここでなら自分もやれる———そんな確信に似た感覚が、胸の内で少しずつ形を持ち始めていた。
やがて案内された客室で足を止める。
その時だった———廊下の奥から、力強い足音が一つ。迷いなくこちらへ近づいてきた。
襖が開き、姿を現したのは、当主であるはずの槇寿郎ではなかった。
炎のような髪と、明るく力強い眼差しを持つ青年———煉獄杏寿郎だった。
「君が溝口竹雄か!」
張りのある声が、客室の空気を震わせる。
「違います!竈門竹雄です!あなたは……?」
「父の代わりに君を鬼殺隊士に育てることになった、煉獄杏寿郎だ!よろしく頼む!———早速、道着に着替えて道場に来てくれ!俺はそこで待っている!」
矢継ぎ早に告げられる言葉に、思考が追いつくより先に身体が反応した。
「は、はい!わかりました、よろしくお願いします!」
「うむ!よろしく!」
勢いに押されるように頭を下げながらも、竹雄の中には一つだけ疑問が残っていた。
本来なら、ここで出迎えるはずの槇寿郎の姿がない。そして目の前の青年も、真っ直ぐこちらを見ているようで、その視線がほんの僅かに噛み合わない。けれど、それを気にする暇もないほど、杏寿郎の言葉には迷いがなく、その立ち姿は力強かった。
不思議と不安は形を成さない。代わりに胸の奥へ、小さな確信が灯っていく。
———ここでなら、進める。
竹雄はその感覚を疑うことなく、道場へ続く廊下へ足を踏み出した。
日々は、矢のように過ぎていった。
乾いた打ち込みの音が、道場に何度も響く。振り下ろされた木刀を受け止めきれず、腕ごと弾かれて足がもつれ、床へ叩きつけられる———息が続かない。視界が揺れる。それでも立てと声が飛ぶ。
走り込みで肺を焼き、何度も素振りを繰り返して腕を痺れさせる。真剣を握れば、その重さが手のひらに食い込み、振り下ろすたびに肩から背中まで軋んだ。
それでも基礎鍛錬が終われば、待っているのは杏寿郎との打ち合いだった。
木刀がぶつかる。弾かれる。足を踏み直し、再び構える。腕が上がらなくなっても、脚が震えても、息が乱れても、終わりは来ない。振り下ろし、受け止め、弾かれ、また立ち上がる。
同じ動作を、永遠にも感じるほど繰り返した。そして気がつけば、喉の奥から込み上げたものを、そのまま吐き出していた。
杏寿郎の修行は、とにかく厳しかった。
狭霧山で身体を鍛えて基礎を積んでいたとはいえ、それはあくまで
その鍛錬に、弟の千寿郎が加わることもあった。だが、相手が弟であろうと手加減はない。同じ型を何度も繰り返すその背中には、明確な基準のようなものがあった。
杏寿郎は面倒見が良く、柱になる前から後輩の面倒を見ることも多かった。
けれど、最後まで残る者はいなかった。稽古場を離れていく背中を、杏寿郎は引き止めない。ただ、いつもと変わらぬ明るさで送り出す。
その笑顔の奥に、ほんの僅かな寂しさが滲んでいることに、竹雄は気づいていた。
———いつしか竹雄は、杏寿郎を“師匠”と呼ぶようになっていた。
そして、槇寿郎の代わりに杏寿郎が竹雄を育てている理由も、ほどなくして知ることになる。
その理由は、ある日杏寿郎自身の口から語られた。
母・瑠火を失ってから、父の槇寿郎は部屋に籠もるようになったこと。やがて酒に溺れるようになったこと。
そして———自分が柱になれば、父に認めてもらえると信じていることも。
その話を聞いてから竹雄は放っておけなくなり、部外者でありながら、何かにつけて槇寿郎のもとを訪ねるようになった。
襖を開ければ、荒れた気配と酒の匂い。言葉をかけるより先に蹴り出されることの方が多かった。それでも竹雄は、機会を見つけては足を運んだ。
また別の日には、別の問題が浮上した。
竹雄が小学校を卒業していないことを杏寿郎に、早々に気づかれた。
煉獄家は代々続く家柄でもあり、学問もまた重んじられている。結果として竹雄の意思とは関係なく、半ば強引に地元の学校へ転校することが決まった。
家主である槇寿郎も、この時ばかりは杏寿郎の意見に異を唱えなかった。面倒そうに言葉を投げるだけではあったが、それでも否定はしなかった。
千寿郎と同じ学校に通うことは嬉しかったが、剣士として強くなることを優先したい竹雄にとって、その決定に味方はいなかった。
それでも、日々は止まらない。
修行も、学校も、煉獄家での生活も――全てが同時に進んでいった。
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干し終えた洗濯物を抱え、竹雄は廊下を進んでいた。
奥の部屋からは、いつものように酒の匂いが薄く漂っている。襖の前で足を止めた。声を掛けるより先に開ければ、追い出される。それがいつものことだった。
けれど、その日は違った。障子の向こうで、人の気配が動く。
「…………入れ」
低く、面倒そうな声だった。
竹雄は一瞬だけ目を瞬かせたが、すぐに襖を開ける。
部屋の中は薄暗く、散らかった酒瓶の向こうに、崩れるように座り込んだ槇寿郎の姿があった。
視線は向けられない。それでも、追い出されない。それだけで十分だった。
竹雄は綺麗に畳んだ洗濯物を脇へ置く。その動きを目で追うこともなく、槇寿郎は手にしていた酒をゆっくりと畳へ置いた。
「おい………お前の家に伝わっていた
唐突な問いだった。竹雄は一瞬だけ考える。
先日、杏寿郎たちへ話した"ヒノカミ神楽"のことを思い出す。 その会話を聞いていたのかもしれない。
すぐにそう思い至った。
初めて、向けられた言葉だった。驚きより先に、嬉しさが胸へ浮かぶ。
「はい、分かりました———俺の家は代々、炭焼きを生業にしていて……年の始めに、“ヒノカミ様”に舞を捧げるんです。それをヒノカミ神楽って呼んでて、型は全部で“十二”あります。それを日の出まで一晩中、繰り返して舞うんです」
「待て………“十二”だと?」
低い声が返ってくる。
竹雄は僅かに首を傾げた。
「何か、おかしいですか?」
「いや……何でもない。続けろ」
促され、竹雄は言葉を継いだ。
「家族の中で一晩中踊り続けられるのは、父ちゃんだけでした。俺たちは途中で息が上がってしまうけど、父ちゃんはずっと……変わらず、同じ呼吸で動き続けてて。
あの呼吸の仕方———今思えば、全集中の呼吸にすごく似ていたと思います」
口にしながら、竹雄は父の装束姿を思い出す。
「父ちゃんは、俺たちきょうだいに神楽を教えてくれました。でも、一番上手くて一生懸命だったのは灯麻希姉ちゃんと兄ちゃんで………禰豆子姉ちゃんは、昼寝の方が好きだって言ってました」
そこで少しだけ笑う。
「俺は型は覚えてるんですけど、何回練習してもどうにも様にならなくて………小さい頃から、なんとなく思ってたんです。俺には、父ちゃんみたいにはできないなって」
照れたように頭を掻いた。
「この前、師匠たちに見せた時も……やっぱり下手くそでした」
最後の言葉が落ちると、部屋に沈黙が戻った。
槇寿郎は眉間に皺を寄せたまま、ゆっくりと立ち上がる。何も言わずに障子を開けると、外の空気を取り込むようにして、それから庭へ視線を投げた。
「庭に出ろ」
「え?」
「その“ヒノカミ神楽”とやらを、俺にも見せてみろ」
振り返ることなく、槇寿郎は言い放った。
「でも、俺……槇寿郎さんに見せられるほど、上手くは———」
「下手でいい。さっさとやれ」
言葉を遮られる。竹雄は小さく息を吐き、言われるまま庭へ足を踏み出した。
踏み固められた土の上に立ち、静かに構える。
父が教えてくれた動きを思い出しながら、“円舞”から順に身体を動かしていく。
けれど、父がしていた呼吸を再現しようとすると、胸の奥が詰まるように苦しくなった。鍛えたはずの肺が追いつかず、次第に動きが鈍っていく。
その瞬間、身体が自然に切り替わった。炎の呼吸へ———その方が、よく身体が動く。熱を帯びた動きが途切れなく連なり、“炎舞”まで辿り着いたところで、竹雄はゆっくりと息を整え、動きを止めた。
「ふぅ……これで、いいですか?」
立ったまま問いかける。
返事はない。槇寿郎は、ただ竹雄が先ほどまで立っていた場所を見つめていた。微動だにせず、その目だけが庭先に向けられている。
しばらくして、ようやく声が落ちた。
「…………こっちに来い」
低く、押し殺した声だった。
「ヒノカミ神楽———いや、
竹雄は目を見開いた。庭先から戻り、再び部屋へ入る。
槇寿郎は片手に古びた本を抱え、庭先を見つめたまま語り始めた。それは知識を教えるというより、胸の奥に溜め込んでいたものを吐き出すような、荒く途切れがちな言葉だった。
始まりの呼吸。
全ての呼吸の源で、最強の御業。
だが、誰も辿り着くことのできず、派生した呼吸は猿真似でしかない、劣化したもの———————その断片を、竹雄は黙って聞いた。やがて話が途切れた。
「どうして、俺にこの話をしてくれたんですか?」
問いかけに、すぐには返事がなかった。
ほんの僅かな沈黙の後———
「…………俺も、お前も………持ち得なかった側だからだ」
低く、掠れた声が落ちる。あまりにも小さな言葉だった。
竹雄は眉を寄せる。最後まで聞き取れたのかどうか、それすら曖昧だった。
「………?すみません。聞き取れなかったので、もう一度———」
「話は終わりだ!……さっさと部屋から出て行け!!」
叩きつけるような声に、竹雄は一瞬だけ目を瞬かせた。
それ以上は何も尋ねず、頭を下げる。そして、素早く部屋を後にした。
その時の槇寿郎の表情すら、見ることは叶わなかった。
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十月を過ぎた頃、煉獄邸に新しい風が吹き込んだ。
甘露寺蜜璃が、住み込みの弟子としてやって来たのだ。
竹雄と同じく、元の育手から教わった呼吸が身体に馴染まなかった。適性を見極めた結果、最も身体に合っていそうな“炎の呼吸”を学ぶため、煉獄家に預けられることになったらしい。
男所帯の屋敷に突然現れた、若い女剣士。最初こそ遠慮がちに身を縮めていたものの、昔から煉獄家に仕えている女中の手引きもあってか、思いのほか早く、この家の空気に溶け込んでいった。
ただ一つ———誰の目にも明らかなほど、常とは異なる点があった。彼女の肉体である。
聞けば、筋肉の密度が常人の八倍もあるという。見た目の細さと柔軟さからは想像もつかない力を秘めており、その特異な身体は、日常のあらゆる場面でその片鱗を見せていた。
とりわけ顕著だったのは、食事の席だ。
膳が並び、箸が進む。杏寿郎でさえ手を止める頃になっても、甘露寺の箸は止まらない。積み上がった皿が一枚、また一枚と空になり、追加で運ばれてきた料理まで綺麗に平らげていく。
あまりの食べっぷりに、その場の全員が一瞬だけ言葉を失った。けれどそれは驚愕であっても、拒絶ではなかった。
「甘露寺はよく食べるな!結構なことだ!」
杏寿郎が朗らかに言い切ったことで、固まっていた空気はすぐに解けた。
剣士として強くなるためには、身体を作ることが何よりも重要だ。そう考える杏寿郎にとって、彼女の食欲もまた、恵まれた身体を支える大切な資質の一つだった。
そのやり取りを見ながら、竹雄は自分の椀へ目を落とした。
(俺も、もう少し食べられるようになった方がいいかもしれない)
そんなことを、いたって真面目に考えていた。
日々は、そこから一気に加速していく。
鍛錬、食事、休息。その繰り返しの中で、甘露寺蜜璃は驚くほどの速さで技を吸収していった。
炎の呼吸は、最後まで完全に馴染まなかった。それでも甘露寺は、その違和感ごと前へ進み続けた。合わないものを無理に身につけようとするのではなく、いずれ自分に合う形へと昇華させていく———そんな可能性を感じさせながら、甘露寺は修行を続けていった。
その選択を、杏寿郎は否定しなかった。むしろ、その先にあるものを見据えるように、肯定的に見守っていた。
そして、わずか半年。甘露寺蜜璃は修行を終え、最終選別に合格した。
その報せを聞いた時、竹雄と千寿郎の胸に浮かんだのは、驚きと———ただ純粋な感嘆だった。
同じ屋敷で同じ師のもとに鍛えられていたはずなのに、いつの間にか、甘露寺蜜璃は自分たちとは別の次元へ踏み出している。
追いつくべき背中というより、ただその先に広がるものを見せてくれるような存在だった。
気づけばもう、どこか別の場所へ踏み出している。そんなふうに思えるほどの軽やかな速さがあった。
今話は、現実準拠100%です。