やがて季節は巡り、春。
柔らかな陽光が庭を満たすその日、煉獄邸には久方ぶりの大きな賑わいが戻っていた。
十二鬼月・下弦の弐を討ったことで、杏寿郎が柱へ昇格した祝い。
そしてもう一つ———甘露寺蜜璃が、自らの呼吸である“恋の呼吸”を見出したことを祝うために。
彼女は再び、この家を訪れていた。
台所には、穏やかな熱気が満ちている。炭がぱちりと音を立て、網の上では鯛の皮が香ばしく弾けた。立ちのぼる香りに包まれながら、竹雄は串を返し、焼き加減を確かめるように身を屈める。
「千寿郎君!鯛の塩焼きの、焼き加減はこれでいいかな?」
「完璧です……!皮も綺麗に焼けています」
隣で手際よく椀を並べていた千寿郎が、ほっとしたように微笑んだ。だが、ふと申し訳なさそうに視線を落とす。
「でも……竹雄君の好きな鮎を用意できなくて、すみません」
「お祝いの席なんだから、鮎は食べられなくていいよ!これからいくらでも食べられるからさ!」
竹雄は気にした様子もなく笑い、炭火の具合を確かめながら軽く肩を竦めた。
「それなら……良かったです」
千寿郎が、ほっとしたように呟く。
そのまま二人の視線が、台の上へ流れた。並んでいるのは、鯛の塩焼きに、さつま芋ご飯、さつま芋の味噌汁――どれも杏寿郎の好物ばかりだ。湯気の立つ料理から漂う香りに、見ているだけで竹雄の腹が鳴りそうになる。
「“すいーとぽてと”は、兄上も気に入っていらしたので、また作りました」
木皿の上には、黄金色に焼き上がった芋の洋菓子と桜餅が並んでいた。ほんのり甘い香りが、料理の匂いに重なって漂っている。
「桜餅以外、見事に師匠の好物ばかりになってしまった……」
「蜜璃さんは、何でも美味しそうに食べてくださいますからね」
竹雄が苦笑交じりに呟くと、千寿郎も小さく笑った。
「うーん……ハイカラなお菓子は俺、全然分からないからなぁ。蜜璃さんの方が詳しいよね」
「はい。この“すいーとぽてと”も、元々は蜜璃さんに教えていただいたものです」
そう言いながら、千寿郎は一つ一つ丁寧に皿を整えていく。
祝いの膳は、いつの間にか十分すぎるほどの品数になっていた。はまぐりのお吸い物に煮物が並び、色よく炊かれた人参と大根、その中には祝いの席らしく海老も添えられている。ほのかな甘みを含んだ出汁が、それぞれの料理を邪魔することなく、食卓全体を柔らかくまとめていた。
どれも派手ではない。けれど、今日という日を祝うために、心を込めて用意された料理ばかりだった。
「千寿郎坊っちゃん、竹雄さん」
背後から、落ち着いた声がかかった。振り返ると、長年この家に仕えている女中の老婦が、穏やかな笑みを浮かべて立っている。
「これで十分ですよ。そろそろ蜜璃さんが到着する頃合いです。お出迎えに行って差し上げてください。あとは私が整えておきますから」
「分かりました!ありがとうございます!」
二人は揃って頭を下げると、急ぎ足で台所を後にした。
廊下へ出た瞬間、外の空気がそっと頬を撫でる。曲がり角を抜けた、その先だった。
「——————うわあああ!!」
弾けるような泣き声が響いた。竹雄の視線の先では、甘露寺が杏寿郎にしがみつくように抱きつき、子どものように声を上げて泣いている。
「蜜璃さん!?どうしたんですか!?そんなに泣いて……!」
思わず駆け寄りながら、竹雄が声を上げた。
「あ、兄上………」
隣で千寿郎も戸惑いを滲ませ、小さく名を呼ぶ。二人は顔を見合わせることもできないまま、状況を飲み込めずに足を進めた。
「ち、父上に……柱になったことを報告しに行ったんですよね……?それで……父上と、何かあったんですか……?」
言葉を選びながら尋ねる千寿郎に、杏寿郎はまっすぐその顔を見た。
「認めてくれた」
短い言葉だった。
けれど、その一言が持つ意味を、甘露寺は竹雄たちと同じように理解していた。ずっと自分を認めようとしなかった槇寿郎に、杏寿郎がようやく認められた。それが嬉しくて、堪えていた涙が止まらなくなったのだ。
「父上は喜んでくれた!!よくやったと!!」
杏寿郎の声に確かな熱が宿る。
一瞬、場の空気が止まった。
「……っ」
千寿郎の喉が小さく鳴る。次の瞬間———
「兄上……っ」
堪えきれず、千寿郎の目から涙が溢れた。そのまま一歩踏み出し、杏寿郎に縋るように抱きつく。
「良かった……本当に、良かったです……!」
「うむ!!」
杏寿郎は力強く応じ、その背を大きな手で包み込んだ。
その様子を見ていた甘露寺も、さらに涙を零しながら何度も頷く。
「私、煉獄さんを探してたら、たまたま煉獄さんのお父様とお話ししてるのを聞いてしまったんだけど……私が一番騒いじゃって、ごめんなさい……」
涙を拭いながら、甘露寺が申し訳なさそうに頭を下げる。
「それほど自分のことのように喜んでくれたのだろう!! 俺は嬉しい!!ありがとう、甘露寺!」
廊下には、喜びの声と泣き声が重なった。誰もが、ようやく報われたのだと信じていた。
竹雄は、その光景を少し離れた場所から独りで見ていた。
「…………」
笑顔の杏寿郎。涙を流しながら、それでも嬉しそうに笑う千寿郎と甘露寺。
その光景を眺めているうちに、竹雄の胸の奥で、ほんの僅かな引っかかりが生まれた。
何かが、違う。そう思った気がした。けれど、その違和感が何なのかを考えるより早く———
「竹雄君!!」
明るい声に名を呼ばれた。
顔を上げる。そこには、涙を浮かべたまま笑う甘露寺と、いつも以上に晴れやかな表情の杏寿郎がいた。
「君も来い!!」
差し伸べられたような、その声に引かれる。竹雄は一歩、また一歩と二人のもとへ近づいていった。
さっきまで胸の奥にあった小さな引っかかりは、いつの間にか消えている。
気づけば——————その輪の中に、竹雄も入っていた。
・
・
・
その年の十一月———一年半に及ぶ修練の末、竹雄は藤襲山で行われた最終選別を突破した。炭治郎がそこへ臨む、三ヶ月前のことだった。
兄より一足早く鬼殺隊へ加わったものの、竹雄は時透無一郎のように、瞬く間に柱へと至る天賦の才を持つ剣士ではない。十三という年齢も相まって、任される任務は自然と限られていた。
そのため、竹雄は炎柱である杏寿郎と共に任務へ向かうことが多くなった。
炎の呼吸を扱う現役の剣士がほとんど存在しないこと。そして、煉獄家で杏寿郎の元に預けられ、鍛えられてきたという経緯もあって———周囲はいつしか、竹雄を半ば当然のように“継子”として扱うようになっていた。
竹雄自身が否定する間もなく、杏寿郎も快くそれを受け入れていた。
やがて炭治郎も鬼殺隊へ入り、兄弟は五月のある任務の最中に再び顔を合わせた。互いに無事であったことを喜び、短い時間ながら言葉を交わす———それだけで十分だったはずなのに。
それからというもの、炭治郎は灯麻希と禰豆子を連れて、たびたび煉獄邸を訪れるようになった。
任務の合間に立ち寄ることもあれば、特に用事がなくとも顔を見せることもある。
そうしているうちに—————気づけば、
灯麻希も、炭治郎も、禰豆子も。竹雄が振り返れば、いつだってそこにいる。
まるで、それがずっと続いてきた日常であるかのように。
「———姉ちゃん、また服を繕ってるの?」
襖を開けた先には、薄暗い部屋の中で膝を折り、黙々と針を動かす灯麻希の姿があった。傍らには、羽織や着物が几帳面に畳まれて積まれている。破れを繕ったものもあれば、これから手を入れるものもあるらしい。
「うん。お世話になってるし、これくらいはできるから」
顔を上げた灯麻希は、いつもと変わらない調子で答えた。それでも針を動かす手は止まらない。布地を押さえる指先から糸を引き、慣れた手つきで縫い目を整えていく。
「……そっか。でも無理はしないでね」
竹雄は小さく頷いた。それ以上は何も言わず、踵を返す。
「俺、これから兄ちゃんと道場で鍛錬してくるよ」
「頑張って。それと———」
呼び止められ、竹雄が振り返る。
灯麻希は針を動かしたまま、目線だけをこちらへ向けた。
「禰豆子の居場所、知ってる?さっきまでここにいたんだけど……どこか行っちゃったみたいで。道場に行く前に、少し探してもらえる?」
「分かった。任せて!」
軽く手を振り、竹雄は廊下へ出た。板張りの床を踏みながら、屋敷の中を見回す。
こうして皆が同じ場所で過ごすことにも、もうすっかり慣れていた。
炭治郎と再会したあの頃———兄が鬼である姉妹を連れていると、一時は騒ぎになったこともあった。
けれど、灯麻希も禰豆子も、一度も人を喰ったことはない。その事実が知られてからは、周囲の反応も少しずつ変わっていった。
鬼であることに変わりはない。それでも、二人が人を傷つける存在ではないことを皆が知れば、必要以上に恐れる者はいなかった。
いつの間にか、同じ屋根の下で過ごすことも、任務のない日に顔を合わせることも、何気ない会話を交わすことも———全てが、ごく当たり前の日常になっていた。
誰も疑わない。誰も拒まない。ただ、そこに竹雄の兄姉がいることを受け入れている。
その場所には、追い出される理由も、離れなければならない理由もなかった。
—————それで、竹雄は十分だった。
・
・
・
灯麻希に頼まれた通り、禰豆子を探そうと廊下を進んでいた竹雄は、足元から響く布の擦れる音に足を止めた。少し先では、炭治郎が広い板張りの床に屈み込み、黙々と雑巾掛けをしている。丁寧に磨き上げられた床は、差し込む光を柔らかく反射していた。
「あ、竹雄!もう、修行の時間なのか?」
「うん、そろそろ鍛錬の時間だよ。ところで兄ちゃん……まだ掃除してたの!?」
「大きな屋敷だから、掃除のし甲斐があるんだ。もう少しやったら、この辺は終わるよ」
「確かに師匠の家は広いけど……でも、磨きすぎじゃない?」
「そうか?」
きょとんとした声が返ってくる。
昔から変わらない———いや、変わらなさすぎる調子に、竹雄は呆れたように小さく肩を竦めた。
天井の隅から床の継ぎ目まで、手入れは行き届いている。几帳面なのは昔からだが、こうして改めて見ると、どこか
「兄ちゃんの気が済むまでやればいいけどさぁ……
今、灯麻希姉ちゃんに頼まれて禰豆子姉ちゃんを探してるんだ。どこにいるか知ってる?」
「禰豆子なら、台所にいたよ」
「分かった。行ってみるよ」
竹雄はそう答えると、そのまま台所へ向かった。
厨房の戸を開けた途端、炊きかけの米の匂いがふわりと鼻をくすぐる。
奥へ目を向けると、禰豆子が女中の手伝いをしていた。釜の前に座り、火加減を確かめながら慣れた手つきで米を炊いている。
(禰豆子姉ちゃんが……米を炊いてる……?)
一瞬、竹雄の足が止まった。
何かがおかしい———そう思ったのは、ほんの一瞬だった。
(いや……別に、変じゃないか)
自分に言い聞かせるように考え直し、竹雄は何気ない顔で声をかけようとした—————その時。
「あれ、竹雄。もうお腹空いちゃったの?」
柔らかな声が、あまりにも当たり前のように返ってきた。
「えっ……」
竹雄の思考が、一瞬だけ止まる。
聞き間違いではない。今、確かに———
「姉ちゃんが喋った!?」
驚きのあまり、声が裏返った。
「? どうしてそんなに驚いてるの?」
禰豆子は不思議そうに首を傾げる。その仕草も、表情も、記憶の中にある姉と何一つ変わらない。
「あっ……いや……あの、その…………」
口を開いたものの、言葉が続かない。
頭の中で、これまでの記憶が一気に繋がっていく。
禰豆子は鬼だ。無惨に鬼にされてから、言葉を話すことはできなくなった。普段はよく眠っていて、目を覚ましている時も、幼い子どものような振る舞いをする。それが、竹雄の知っている禰豆子だった————筈だ。
(姉ちゃんは鬼で……でも、灯麻希姉ちゃんと違って喋れなくて……いつも幼くて………)
そこまで考えたところで、思考が引っかかった。何かが、噛み合わない。
「改まって、どうしたの?」
禰豆子が可笑しそうに笑う。
「私が話せることが、そんなに変?
私もお姉ちゃんも無惨に鬼にされたけど、人間の頃と同じように話せるよ———大丈夫?……熱でもあるの?」
禰豆子の声で、竹雄は我に返った。
いつの間にか、禰豆子がすぐ目の前まで来ている。迷いのない動きで伸ばされた手が、竹雄の額に触れた。
掌は温かかった。確かな体温が、皮膚を通して伝わってくる。
「……っ」
竹雄は息を呑んだ。
間近で見る顔には、瞳孔の裂けた瞳があり、口元からは鋭い牙が覗いている。指先には、人間のものとは明らかに違う長く鋭い爪。
紛れもなく、
なのに———
どうして、
胸の奥で、何かが大きく軋んだ。
「熱なんかないよ!元気いっぱい!だから、平気!!」
反射的に、竹雄の声が強くなる。自分でも驚くほどの勢いで禰豆子の手から離れ、一歩、後ろへ下がった。
「さっきまで昼寝してて、寝ぼけてたみたいだ!あははは!!」
誤魔化すように笑い声を上げながら、さらに一歩、二歩と後ずさる。視線を逸らしたまま、出口へ身体を向けた。
「俺、鍛錬しに道場行ってくる!」
戸口に手をかけ、思い出したように振り返る。
「灯麻希姉ちゃんが、姉ちゃんのこと探してたよ!それじゃ!」
返事を待つ余裕もなく、竹雄はその場を後にした。
廊下へ出た瞬間、足取りが自然と速くなる。板張りの床を踏む音が、やけに大きく耳へ響いた。
止まれ、と頭のどこかで思う。けれど、身体はそのまま前へ進んでいく。
(……何だったんだ、今の)
胸の奥に、はっきりとした引っ掛かりが残っている。
(変じゃない……何も、おかしくないはずだ)
そう自分に言い聞かせ、結論づけようとする。
けれど、思考の奥ではすでに、別の答えが浮かび始めていた。
(兄ちゃんは、ずっと掃除をしていた。禰豆子姉ちゃんは、鬼なのに普通に喋っていた。それに———)
竹雄は、歩みを少しだけ緩めた。
これまでの記憶を、頭の中で一つずつ並べ直す。思考が、途中で引っかかる。記憶の中の兄姉と、今ここにいる兄姉が噛み合わない。一つではなく、いくつもの小さな違和感が重なって、ようやくひとつの形を作り始めていた。
それでも竹雄は、まだその答えを口にはしなかった。
ただ胸の奥に残る違和感だけが、どうしても消えてくれなかった。
その夜。
珍しく任務の入らなかった日で、煉獄邸の一室には、いつになく多くの人が揃っていた。
卓を囲んでいるのは、杏寿郎、槇寿郎、千寿郎、そして竹雄と炭治郎。少し離れた場所には、灯麻希と禰豆子も並んで座っている。食事の匂いと人の気配が重なり、部屋には穏やかな温もりが満ちていた。
「うまい!うまい!うまい!」
明るい声を響かせながら、杏寿郎が次々と箸を進めていく。
その隣、上座には槇寿郎が座っていた。酒の盃ではなく、茶碗を手にしている。まるで、それが当たり前であるかのように。
「いつもより食が細いぞ、竹雄!いっぱい食べなさい!」
槇寿郎の朗らかな声が飛んできた。
「そんなこと、ないですよ。沢山食べてます」
竹雄は笑って答え、視線を落としたまま飯を口へ運ぶ。
味は分かる。温かさも、香りも、舌に残る味も、いつもと何も変わらない。
それなのに———箸が、僅かに止まった。
昼間から胸の奥に残り続けている、あの感覚。
何かがおかしい。自分の記憶と、目の前にある状況が一致していない。そのことだけは、もう分かっていた。
ただ———なぜ、こんな光景になっているのか。その答えだけが出てこない。
竹雄はもう一度、ゆっくりと顔を上げた。
目の前には、槇寿郎がいる。煉獄家に預けられてから少しずつ言葉を交わすようにはなった。 それでも、こうして同じ卓を囲んで食事をするような関係ではなかったはずだ。
その隣には、杏寿郎。任務に出ていることの方が多いはずなのに、最近はこうして家にいる時間が当然のように続いている。
そして———炭治郎。灯麻希。禰豆子。視線を向けるたび、胸の奥に小さな引っかかりが増えていく。
(兄ちゃんたちが……どうして、ここにいるんだ?)
そもそも、自分はいつからこんなふうに———皆と一緒に過ごしていた?
考えようとしたところで、別の声が割り込んだ。
「昼間もちょっと変だったし、やっぱり風邪を引いちゃったんじゃない?」
禰豆子の声だった。昼間に聞いた、あの自然で柔らかな声音が耳に届く。
また、胸の奥が切なくざわついた。
「そうなのか?———竹雄、今日は早く寝るんだぞ。風邪なら早く治さなくちゃ」
炭治郎も心配そうに頷く。
竹雄は返事をしようとして———ほんの一瞬、言葉を失った。
目の前にいる兄の顔は、あまりにも自然だった。ここにいることを、少しも疑っていない。まるで———これが、ずっと続いてきた日常であるかのように。
そして、炭治郎は続けて——————
「それにしても、ずっとこうならいいのになぁ」
「…………え?」
竹雄の手がピタリと止まった。箸を持ったまま、顔だけがゆっくりと炭治郎へ向く。
———ずっとこうならいい。
その言葉が、胸の奥に大きく引っかかった。
何気ない一言のはずだった。けれど、今まで積み重なっていた違和感と重なった瞬間、空気そのものが僅かに歪んだように感じられた。
「それはいい考えだ!炭治郎少年!ずっと家にいればいい!父上も千寿郎も、そう思うでしょう?」
「ああ。それがいい」
「僕もそう思います!」
間髪入れず、同意が重なる。杏寿郎が笑い、槇寿郎が頷き、千寿郎まで嬉しそうに微笑む。
誰も疑問を抱かない。誰も、「そんなことはできない」と言わない。
まるで最初から、それが当然の結論として用意されていたかのように。
胸の奥が、はっきりと軋んだ。
「いや……流石に、それはおかしいですよ」
竹雄は、ゆっくりと周囲を見回した。
誰もが笑っている。穏やかで、温かくて、幸せそうな顔をしている。
———その光景が、あまりにも都合よく整いすぎていた。
「……そうだよね? 灯麻希姉ちゃん」
最後の確認を求めるように、竹雄は灯麻希へ視線を向けた。
けれど、灯麻希は何でもないことのように微笑んだ。
「それで、いいんじゃない?みんな幸せなんだし」
「……灯麻希姉ちゃん?」
その答えを聞いた瞬間、胸の奥が大きく揺れた。
違う。これは、違う。一番上の姉なら、そんなふうには言わない。
いや、それ以前に———
「でも、ずっと一緒に師匠の家にいるなんて変だ……!兄ちゃんたちの方が、様子がおかしいよ!」
自分でも驚くほど、声が強くなった。
けれど灯麻希は、それでも穏やかな笑みを崩さない。禰豆子まで、何の疑問もなく言葉を重ねる。
「何で?みんなで一緒にいられるから、このままでいいじゃない」
「そうだぞ、竹雄」
炭治郎の声が続いた。
「みんなでずっと一緒にいられるなら、それが一番いいだろう?」
肯定が重なる。ひとつ。またひとつ。まるで竹雄の疑問を押し流し、ここに留めようとするように。
その瞬間だった。昼間から感じていた違和感が、一気に一本の線で繋がった。
喋る禰豆子。ここにいるはずのない灯麻希。別々の道を進んで鬼殺隊へ入ったはずの炭治郎と自分。当然のように家に居続ける杏寿郎。そして、本来ならこうして穏やかに食卓を囲むことなどない槇寿郎。
どれも一つ一つなら、見過ごせてしまった。けれど、それらが同時に存在している。
自分の記憶にある出来事と、目の前の光景が、明らかに違っていた。
なのに、誰もそれをおかしいと思わない。
———違う。ここは、自分がいていい現実じゃない。その結論が、今度は迷いなく浮かんだ。
竹雄は勢いよく立ち上がった。
「そんなの変だ!!」
竹雄の声が、静かな部屋を打ち震わせた。先ほどまで満ちていた穏やかな空気が、一瞬で張り詰める。
「喋る禰豆子姉ちゃんも!何でもいいって言う灯麻希姉ちゃんも!ここにいる槇寿郎さんも!」
胸の奥に溜まっていたものが、堰を切ったように溢れ出す。
昼間から感じていた違和感。積み重なっていた一つひとつの矛盾。それらが、今になってようやく一つの叫びになった。
「みんな、皆おかしい!!」
声を張り上げながら、竹雄は周囲を見回す。
誰もが自分を心配そうに見つめている。誰もが優しい。誰もが、ここにいればいいと言っている———だからこそ、許せなかった。
こんなものは、優しさなんかじゃない。
前へ進まなくていい。何も変えなくていい。失ったものを取り戻そうとしなくていい。そんな世界を、竹雄は受け入れられなかった。視線が、炭治郎へ向く。
「それに、俺の兄ちゃんはこんなに腑抜けじゃない!!」
拳が震える。兄は、こんなところで立ち止まる人間ではない。家族を失っても。鬼になった灯麻希と禰豆子を連れていても———どれだけ苦しくても、前へ進もうとしていた。
「姉ちゃんたちを人間に戻すんだろ!!?」
叩きつけるように言い切った。
その言葉と同時に、竹雄は障子へ向かって駆け出す。乱暴に引き開けた瞬間、冷たい夜気が室内へ一気に流れ込んだ。頬を撫でる風に、頭の奥まで冷やされる。
「待って!」
「待ちなさい、竹雄!!」
「行くな、竹雄!!」
背後から、次々と声が飛んでくる。けれど、竹雄は振り返らなかった。
今まで積み重ねてきたものも。 これから進むべき道も。全部、自分で選んできたものだ。
だから———こんなところで止まるつもりはない。
竹雄はただ前だけを見て、夜の中へ駆け出していった。