(——————そろそろかな)
木箱の暗闇の中で、意識をゆっくりと引き上げる。顔に付けた狐面が、列車の揺れに合わせてカタリと鳴った。
車輪の音も、一定の揺れも変わらない。けれど、外へ意識を向ければ、車内を満たしていた人の気配が妙に静まり返っているのが分かった。
私は扉を押し開け、木箱の外へ出る。小さく縮めていた身体を元の大きさへ戻しながら車内を見渡すと、座席に並ぶ炭治郎たちの姿が目に入った。
全員、眠っている。
ただ眠っているだけではない。身体から力が抜け、呼吸は深く穏やかで、誰一人として身じろぎすらしない。まるで、示し合わせたように同じ眠りへ落ちている。
竹雄の足元には、入鋏された切符が落ちていた。
(鬼……魘夢の術に落とされた、か)
状況は明白だった。このやり方と手順———無限列車に潜む鬼は、下弦の壱・魘夢で間違いない。
魘夢は慎重な性格で、自ら手を下すことはない。人間を使って夢へ誘い込み、“精神の核”を破壊する。対象は抵抗する間もなく、廃人となる。
そして今回、それを
非情な選択ではある。それでも、誰も夢に落ちなければ、魘夢は別の手段に出ると考えたからだ。この列車には二百人の乗客がいる。狭い車内で戦闘になれば、被害を避けることは難しい。
“知識”の中では、炭治郎たちが夢に落ちている間に魘夢は列車と同化し、頸の在り処も特定された。結果として、乗客に犠牲は出なかった。
だが、それは条件と流れが揃って、初めて成立した結果だ。
(下手に流れを変えれば、犠牲者が出る可能性がある)
魘夢の予測を外せば、奴は動きを変えるだろう。より早く、より確実に、人を巻き込む形で。
それを防ぐには——“知識”の流れを、維持するしかない。魘夢の気配は遠く、列車そのものを包み込むように広がっている。
(でも………流れに沿うのは、ここまでだ)
心を引き締め、改めて周囲へ視線を巡らせる。
(夢から醒ます方法は分かっている。このままなら炭治郎たちは目を覚ます。だから問題はない)
視線を落とせば、車掌が去ってすぐに動き出したため、炭治郎たちの眠りはまだ浅い。夢の深さが目覚めにどう影響するのかは分からないが、長く沈めば、それだけ現実へ戻しにくくなる可能性がある。時間はかけない方がいい。
魘夢はこの後、人間を送り込む。夢へ侵入させ、持ち主の“精神の核”を破壊させるための刺客だ。
(彼らが来る前に、禰豆子を起こそう)
炭治郎と煉獄の向かい合う座席、その足元に置かれた木箱へ歩み寄る。指先で側面を軽く叩き、小声で呼びかけた。
「禰豆子、起きて」
返事はないが、箱の中から伝わる気配が僅かに揺れた。もう一度、「禰豆子」と同じ調子で名前を呼ぶ。
すると———カパ、と乾いた音を立てて蓋が開いた。
次の揺れに押し出されるように、幼い姿の禰豆子が転がり出る。禰豆子は床に手をつくと、ぱちぱちと瞬きを繰り返し、驚きがそのまま顔に浮かんでいる。
思わず、口元が緩んだ。
「びっくりしたね。ここは蒸気機関車って呼ばれる乗り物の中だよ」
しゃがみ込み、乱れた髪を整えるように頭を撫でる。
「起きてくれてありがとう。これから、少しだけ手伝ってほしいことがあるんだ。力を貸してほしい」
目線を合わせて告げると、禰豆子の表情がぱっと明るくなる。
言葉の意味を正確に理解しているわけではない。それでも、“手伝う”という響きに反応していることだけは明らかだった。禰豆子は大きく、何度も頷く。
「よかった。ありがとう」
禰豆子に微笑み返す。
その瞬間———車両の前方で、仕切りの扉が音を立てて開いた。金具の軋む音が、静かな車内にやけに大きく響く。
視線を上げると、前の車両から五人の人影がゆっくりと姿を現した。顔色は悪く、足取りも揃っているようで、どこか揃っていない。生気の薄い目だけが、ぼんやりとこちらを捉えている。
(もう来たか……想定より早かったな)
「私たちに、用がある人が来たみたいだね」
後ろにいる禰豆子にだけ届く声量で告げ、振り返る。いつもと変わらない笑顔を向けた。
「これからお姉ちゃんは、あの人たちと少しお話してくるよ。お兄ちゃんたちはすぐには起きないから、そばで待ってて」
安心させるようにそう言い残し、立ち上がる。
禰豆子を背にして、一歩前へ。車両と車両の間にある仕切りの扉、その向こうから現れた五人との距離を詰めるように、通路の中央へ歩み出る。
視線を外さず、彼らの姿を見つめる。一息後、五人もまた、こちらへ向かっていた足を止めた。
起きている者がいるとは思っていなかったのだろう。その顔に、明らかな動揺が走る。
それを見逃さず、さらに一歩だけ距離を詰めた。
「それ以上、近づかないでください」
五人の視線が、一斉にこちらへ向いた。
「な、何なのよ、このお面の女……!なんで眠ってないのよ!?全員眠ってるはずじゃないの……!?」
緑色の着物に三つ編みを垂らした女が、声を荒らげる。
その隣で、紺色の着物を着た男が低く制した。
「待て!落ち着け……!刀を持ってないから、鬼狩りじゃないのかもしれないだろ……!」
そう言いながらも、その目は泳いでいる。状況を前にして、判断が追いついていないようだ。
五人は自然と身を寄せ合い、互いの距離を詰めた。逃げ道を探りながら、それでも前へ出る機会を窺っているようだった。
「私は鬼殺隊の者です。ここで眠らされた彼らの仲間———あなた方の狙いも分かっています。
……手荒な真似はしたくない」
一歩、距離を詰めれば、その動きに反応するように五人の肩が一斉に強張った。
私は鬼だ。人を喰わないこと、傷つけないことを示して、ようやくこの場にいる。
ここで力ずくに彼らを制圧すれば、私だけの問題では済まない。禰豆子や私たちを庇う炭治郎や竹雄以外にも、煉獄さんや義勇さん、鱗滝さんまで。余計な疑いを向けられる可能性がある。
だから、まだ彼らがこちらへ明確に刃を向けていない今は———話をするという選択肢を取る。
もちろん、話し合いが通じないなら、その時は止めるつもりだ。眠っている皆を、傷つけさせるつもりはない。
焦りが濃くなるのと同時に、何人かの手が懐へ伸びた。取り出されたのは、尖端の細い針状の器具。
「邪魔しないでよ!こっちに来ないで!……あんたのせいで夢を見せてもらえなかったらどうするのよ!!」
三つ編みの女の叫びが、車内の空気を震わせる。恐怖ではなく、魂に浮かぶ色は焦燥と執着の方が濃い。
「鬼に従っているんですね」
肯定も否定も返ってこない。代わりに、五人は数歩後退った。けれど、距離はそれ以上開かない。逃げる気はないようだ。
「そ、そうだ……!そのためなら……」
最も顔色の悪い男が、掠れた声を絞り出す。呼吸は浅く、胸元が不規則に上下している。
それでも、針を握る手は震えていなかった。
「人を刺すことだって、躊躇しない」
その言葉だけが、やけに深く落ちた。
覚悟は決めているのだろう———だが、針型の暗器程度では、私の身体を満足に傷つけることはできない。
視線を滑らせる。五人の構えは揃っている。けれど、その奥にある魂の色は、決して一つではなかった。焦り、執着、そして———拠り所を失うことへの恐怖。
彼らの縋り先を否定することは簡単だ。けれど、今の彼らを正面から正論で諭したところで、固く閉じた心には届かない。
ならば、まずは話を聞いてもらう隙を作る。固く締められた心の構えを、少しだけ緩める。
「
声を落とす。踏み込まず、ただ彼らの抱えているものをなぞるように。
針を構えたままの手が、止まった。下ろしはしない。けれど、五人の指先から微かに力が抜けるのが分かった。
「辛い現実から逃れられる方法があるなら、そちらを選びたくなるのも当然だと思います」
張り詰めていた空気が、重なるように僅かに緩んだ。
しかし警戒は解けていない。それでも———確かに、一瞬だけ隙が生まれた。
次に、一人へ視線を定める。先ほど、人を刺しても構わないと言い切った男。誰よりも呼吸が速く、浅い。胸元が小刻みに上下し、息を吸うたび、喉の奥が微かに鳴っている。目が合った瞬間、男の肩が僅かに強張った。
「あなたは……ずっと苦しかったんですね」
「……っ」
男の喉が、小さく鳴る。声にならない息が喉の奥で引っかかり、言葉を返そうとしても空気だけが漏れた。
瞳が揺れる。焦点が定まらないまま視線が泳ぎ、握り込んだ針の先がかすかに震える。白くなった指先には、力だけが過剰に籠もっていた。
「夢の中では、きっと楽に呼吸ができる」
声を落として言葉を置く。男の目が見開かれ、息を吸う動きが一瞬だけ止まった。
———図星だった。
「苦しくない身体で、普通に生きられる」
言葉を重ねるたび、張り詰めていた空気にわずかな隙間が生まれていく。それを感じ取ったのか、他の侵入者たちも無意識に男へ視線を寄せた。誰も口を挟まない。息を詰めたまま、ただ私の言葉を聞いている。否定できないのだ。
それが、不治の病――結核を患う男にとって、どれほどの
「でも……」
一拍、置く。揺れかけた思考へ、逃げ場を与えないように次の言葉を差し込む。
「それが夢じゃなくても、叶うとしたら?」
男の呼吸が止まった。吸いかけた息が途切れ、胸の動きまで固まる。
「治せるとしたら———それでも、そちらを選びますか」
選択肢を置く。夢か、現実か。同じ“救い”を、別の形で並べる。
男の視線が揺れた。私から外れ、足元へ落ち、再び戻ってくる。それでも焦点は定まらず、構えた針の先がほんの少し下がった。腕に入っていた力が、均衡を失っていく。
「……そ、そんな、こと…………」
言葉が崩れる。否定になりきらない否定が喉の奥で途切れ、形を持たないまま零れた。
信じたいわけではない。けれど、完全に退けることもできないのだろう。男の呼吸が乱れる。吸う。吐く。その間隔が不規則に崩れていく———迷いが、明確に生まれていた。
「今すぐに決めろとは言いません」
声の調子を和らげる。追い詰めないために、あえて距離を残したまま続ける。
「ただ、私たちに時間はあまり残されていない」
声の調子を僅かに変える。
ここから先は、事実を伝える。
「あなた方が従っている魘夢は———人喰い鬼です。
すでに術にかかっている乗客は二百人。あのまま放置すれば、全員が喰われる可能性がある」
空気が変わった。張り詰めていたものとは別の、重い空気が落ちる。
「———あなたたちも例外ではありません」
視線を外さず、言い切る。侵入者たちの表情が揺れた。先ほどまでの焦燥とは違う。初めて、理解しかけた者の揺れだった。魘夢は、夢を見せてくれる安全な存在ではない。彼らが縋っていた幻想に、罅が入った。
しかし——————
「…………ふざけないで!そんな話、信じられるわけないでしょ……!!」
張り詰めていた空気が、鋭く裂けた。
三つ編みの女は肩を大きく上下させ、噛みしめた歯の隙間から怒りと焦燥を滲ませる。車内の灯りを反射する瞳は濡れていたが、そこに浮かぶのは悲しみよりも、縋ってきたものを否定されたことへの激しい拒絶だった。
「夢を見せてくれるのよ……?こんな苦しい現実より、ずっといいに決まってるじゃない……!」
叫びは強い。けれど、その芯にあるのは私への反発だけではなく、縋りつくような執着だった。夢こそが救いなのだと信じ込むことでしか、彼女は現実から逃れる術を保てないのかもしれない。
「……あんたの言ってることは、分かる」
そこへ低く押し殺した声が重なった。
「あの人が……鬼が危険だってことも。ここが安全じゃないってことも」
そこまで言って、男は口をつぐんだ。理解したことを認めたところで、どうにもならない現実がある。言葉を飲み込もうとしても、胸の奥に詰まったものは消えてくれないのだろう。
「…………でも、それでどうしろって言うんだ」
吐き出すような声とともに、握り締めた拳が震えた。
「ちくしょう!俺は……もう、戻れねぇんだよ……!到底返し切れない借金を背負ってる……!!騙されたって分かっても、もう遅いんだ!!」
堪えていたものが一気に溢れ出し、男の肩が大きく揺れる。荒くなった呼吸の合間から、追い詰められた現実が次々とこぼれ落ちた。
「内臓でも何でも売らなきゃ、どうにもならねぇ……それでも足りねぇんだ……!!」
声の端が崩れ、最後には悲鳴にも似た響きが混じる。鬼の危険性を理解していても、そこから離れた先に待つのが返済しきれない借金と逃げ場のない生活なら、彼にとって夢を手放すことは、ただ救いを失うだけでは済まないのだろう。
「待て!……そんなに騒ぐな!」
鋭い制止が、男の言葉を遮った。
紺色の着物の男がすぐさま隣から踏み出し、伸ばした手で芥子色の男の腕を掴む。そのまま強く押し留められ、勢いのまま前へ出かけていた身体が、ようやくその場で止まった。
「他に何か方法があるはずだ!……な?そうだろう!?」
言い聞かせるような声は、芥子色の男に向けられているようでいて、同時に自分自身にも向けられていた。掴んだ腕を離さずにいる手には力がこもり、そうして繋ぎ止めていなければ、相手も自分も崩れてしまうとでもいうようだった。
けれど、その必死の制止だけでは、膨れ上がった感情を抑えきれない。
三つ編みの女はなおもこちらを睨み、芥子色の男は荒い息を繰り返し、紺色の男は二人の間で声を張り上げる。五人の間に生まれた動揺は互いに伝わり、場の緊張をじわじわと押し上げていった。
ようやく緩みかけていた心の構えが、今度は別の形で崩れ始めている。
———その時だった。
「あ、あれ……ちょっと……」
黄色の着物の女が、戸惑ったような声を漏らした。長い髪がふらりと揺れ、力の抜けた身体がそのまま前へ傾いていく。
「胸が……急に、締めつけられてるみたいで……っ」
胸元を押さえた女は、その場に膝をついた。床に手をつこうとした指先には力が入らず、支えを求めるように伸ばした手が、板張りの上を頼りなく滑る。
その瞬間、場の空気が変わった。
先ほどまでの張り詰めた緊張とは異なる動揺が、波のように広がっていく。数人が身じろぎし、息を呑む気配が重なる中、私も反射的に女へ向かって一歩を踏み出した。
———けれど、足が床を蹴るその僅かな間に、遅れて意識が追いつく。
(タイミングが……あまりにも、出来すぎてない?)
鋭い違和感が走った。
視界に入った女の姿を瞬時に捉え直す。浅い呼吸に、肩の揺れ、浮かんだ汗――どれも苦しんでいる人間の反応として不自然ではない。ただ、その一つ一つが、あまりにも均一だった。
(違う……これは、演技だ!)
鬼となってから研ぎ澄まされた感覚が、迷いなく警鐘を鳴らす。踏み出しかけた脚が止まる。
その刹那、湿った咳が車内の空気を裂いた。
「っ……ごほっ、げほっ……!」
弾かれるように視線を左へ向けると、ほかの侵入者たちも一斉にそちらを振り返っていた。
結核を患う青年だった。
「ごほっ……ご、ほっ……っ……ごほ、ごほっ……!」
喉の奥で空気が擦れ、潰れるような音が続く。乱れた呼吸に合わせて身体が大きく揺れ、咳を堪えようとするたびに肩が跳ねた。
「…………がふっ!」
――ビシャリッ
鈍い音とともに、青年の口元から赤い飛沫が散った。掌と床に叩きつけられた血は、跳ねてから板張りの上へ広がり、暗い染みとなってじわじわと滲んでいく。生温かな血の匂いが、狭い車内に一気に濃くなった。
迷う余地はなかった。
私は即座に踏み込み、結核の青年との距離を詰める。けれど、私が動き出すのに合わせるように、残る四人が弾かれたように後退した。
誰一人として、こちらへ近づこうとはしない。視線だけを残して距離を取り、まるで青年の周囲だけが切り離されたかのように、その場に空白が生まれる。孤立した青年と、救助に向かう私だけが、その中心に取り残された。
———その瞬間、足元に重みが絡みついた。
「……!」
視線を落とすと、先ほどまで倒れ込んでいた黄色い着物の女が、私の足に縋りついていた。細い指が衣を強く掴み、肩を震わせながら、荒い息の合間に助けを求める声を絞り出す。
「たす、け……っ……」
掠れた声にも、縋りつく手にも、苦しげな様子にも、先ほどと同じ違和感があった。
———やっぱり、演技だ。確信は揺らがない。けれど、だからといって、吐血した青年を放っておくわけにはいかなかった。
「あなたのは嘘だって分かってます!」
思った以上に大きな声が出た。それでも、女の腕は私の足から離れない。振りほどこうとすれば、そのぶん青年への対応が遅れる――その一瞬の足止めこそが、彼女の狙いなのだと気づいたときには、もう遅かった。
「この人を早く助けないと、息ができなくて死んでしまう———離れてください!」
声が狭い車内に反響する。
その直後、視界の端で二つの影が弾けた。三つ編みの女と、芥子色の着物の男だ。
(――やられた……!)
考えるより先に、二人の動きを目で追う。列車の揺れに合わせて天井の灯りが不規則に明滅するなか、二人の身体だけが、迷いもためらいもなく通路を駆け抜けていった。
女は左――竹雄の眠る座席へ。
男は右――炭治郎の元へ。
眠り込んだ乗客たちの座席の間をすり抜け、二人はそれぞれ標的へと一直線に向かう。私は足を取られたまま、青年を助けるために踏み出した一歩が、弟たちを狙う二人を止めるには遅すぎたことを悟った。
懐から縄を引き抜く音が、やけに大きく響いた。擦れる繊維の音。荒い呼吸。絶え間なく続く列車の走行音。それらが重なり、耳の奥で不気味に歪んでいく。
二人の動きに、躊躇はなかった。自分の手首に縄を回し、続けて眠る弟たちの腕へと伸ばす。指先が縄を操り、あっという間に結び目を作っていく。
そして———結び目が、きつく締まった。
「……っ」
視線だけが、二人を追う。止めなければならないと分かっているのに、身体は動かなかった。足元では、女の指が未だに私の衣を必死に掴んでいる。振りほどけば、その少しの時間で――目の前の命が零れ落ちる。
腕の中には、倒れ込んだ結核の青年がいた。身体は異様なほど熱く、呼吸は浅く、今にも途切れてしまいそうだった。私は青年の胸元へ手を当て、“癒血”を流し込む。血の匂いと鉄のような味が鼻腔を刺すなか、意識を集中させ、傷ついた身体へと血を巡らせていった。
それでも、視線は一つに定まらない。腕の中にある命と、遠ざかっていく二人の姿。その間で、意識が引き裂かれる。
――あの二人を、止めなければ。
分かっている。今すぐ追いかけなければ、間に合わなくなるかもしれない。それなのに、青年を見捨てて動くこともできなかった。やがて、座席の背もたれに二人の身体が沈み込んだ。
列車の揺れに身を委ねるように、腕から力が抜けていく。頭が傾き、瞼が閉じられると、そのまま意識が夢の底へと引き込まれていった。
(………)
奥歯を噛み締める。
———今は、まだ。
込み上げる悔しさを押し殺し、私は無理やり意識を手元へ引き戻した。
今、優先すべきは――こちらだ。腕の中で、青年の胸が荒く上下している。その動きを見失わないように、私はさらに深く“癒血”を流し込み、少しでも呼吸が落ち着くよう、血の巡りを促していった。
その背後で———紺色の着物の男が、動けずに立ち尽くしていた。
伸ばしかけた手は宙に浮いたまま、視線だけが、二人の消えた座席を追っている。止められたかもしれない。けれど、何もできなかった。その二つの思いの間で、男はただ固まっていた。
やがて、足元の糸目の女が、ふっと身体の力を抜いた。衣を掴んでいた指が、するりと離れる。俯いたままの顔は、髪に隠れて見えなかった。ただ――その肩が、ほんのわずかに震えている。
まるで、込み上げる何かを必死に押し殺しているかのように。私は青年の呼吸を確かめながら、その震えを視界の端に捉えていた。