空想鬼譚   作:庵non

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(3話アンケートの話題)
「空想鬼滅奇譚」が一番お気に入りの没タイトルです!
空想科学読本にハマっていた昔を思い出すので。
本作タイトルは「滅滅鬼譚」と組み合わせて完成しました。


4.光

 

 

 

 

 ―――夢か、記憶か、それとも誰かの追憶か。

 

 灯麻希の意識は、静かに、ゆらゆらと漂っていた。

 闇でもなく、光でもない。形も色も時間も曖昧な、()()()()()。空気は重くも軽くもなく、耳を澄ませば水底のような静寂だけが広がる。

 

 その沈黙を切り裂くように、ひとしずく、炭治郎の声が水面に落ちるように響いた。

 

 

 『――“水の呼吸 壱ノ型 水面斬り

 

 鋭い音とともに、水面が弾ける。

 光が乱反射する刹那、少年の体は空中で一瞬の舞を描き、巨大な鬼の頸を斬り落していた。

 その瞳には、鋼の決意と、深い優しさが同時に宿っている。

 

 一瞬、世界が静止したように感じた。

 水滴が宙に散り、時間が止まる。

 その中心で、炭治郎の瞳だけが生きていた。

 

 

 『――ごめん、ごめんな。もう少し待ってくれ。兄ちゃんがきっと人間に戻してやるから

 

 胸が、きゅっと締めつけられる。

 これは誰かの記憶。それでいて、なぜか懐かしい。遠い昔の夢を思い出すような、甘くも苦い感覚。

 

 

 

 

 

 

 景色が変わった。

 

 香りも、空気も違う。

 人波の中、仮面を被ったような男の背中を炭治郎が睨む。浅草の夜。すべての始まりであり、終わりの予兆の瞬間。

 

 『――鬼舞辻無惨!!俺はお前を逃さない!!どこへ行こうと地獄の果てまで追いかけて、必ずお前の頸に刃を振るう!!絶対にお前を許さない!!

 

 

 『――君の血鬼術は凄かった!……でも、人を殺したことは、許さない

 

 怒りと優しさを抱き、刀を握る少年の姿が、灯麻希の中にゆっくりと熱を灯す。

 

 

 『――俺と禰豆子の絆は誰にも引き裂けない!!

 

 その叫びは、言葉を超え、灯麻希の心の奥まで届く。

 守るべきものを守る力が、痛みと共に伝わってくる。

 

 鬼となった妹を守りながら、少年は迷わず進む。

 たとえ否定されても、たったひとつの願いのために。

 

 

 

 この記憶は誰のものかという問いも、もはや意味を持たない。

 炭治郎が斬りかかるのは、鬼ではなく、“人を喰った罪”そのものだと、彼の姿を追いかけながら、灯麻希は気づく。

 

 

 

 『――“ヒノカミ神楽 灼骨炎陽”

 

 まばゆい陽炎のような剣閃が、無数の帯を裂き、目の前を焼き焦がす。

 少年は、もはや“ただの子供”ではなかった。

 仲間の死、喪失、痛みを背負いながら、それでも立ち上がる、責任を全身で背負う闘う(おとこ)になっていた。

 

 

 『――お前が今まで犯した罪、悪業。その全ての責任はお前に必ず取らせる!絶対に逃さない!!

 

 夜の森に響いたその声は、憤怒の断罪。

 逃げ続け、他人を踏みにじり、恐怖と暴力で保身する卑劣な鬼に、迷いなく突きつけられる正義。

 怒りだけでなく、命を背負った者の覚悟が宿っていた。

 

 

 

 

 『――生き物に対してこれ程冷たい気持ちになったのは……腹の底まで厭悪が渦を巻いたのは、初めてだ

 

 仇敵は、己に殺されることを「天災に遭っただけ」と嘯く。まるで他者の命など最初から無価値だと言わんばかりに。

 炭治郎の怒りは、激情を超え、魂の芯から湧き上がる拒絶となった。

 それは凍てつくような怒りだ。苦しみや悲しみの果てに残る、消えない執念――厭悪(えんお)の感情だった。

 

 

 灯麻希は感じた。

 多くの仲間を喪い、大切な人を失いながらも、前を向く少年の姿。

 誰かの命を未来に繋ごうとする意思。

 そのまっすぐな背中が、胸を突き動かす。

 

 

 

 

 

――終わりにしよう、無惨

 

 死の淵から蘇った彼の宣告は静かな言葉だった。

 叫びでも呪いでもない。

 すべてを焼き尽くす戦いの果てに、少年が放った、揺るぎない意志。

 

 瓦礫の中、血と炎、灰が混じる空気を裂いて、炭治郎の刀が閃く。

 生き残った数人の柱と仲間たちが無惨の猛攻で戦闘不能になろうとも、日の元に無惨の身を晒すまで、彼らは一人でも道を切り開く。

 残された蛇柱、善逸と伊之助が炭治郎を支え、一瞬を繋ぐ。

 途切れそうな呼吸の中で、炭治郎はもう一度、ヒノカミ神楽を紡ぐ。

 

 燃えるような神楽の舞が、未だ明けない夜空を焦がした。

 その一閃が、まるで世界の終わりと始まりを分かつように、すべての闇を切り裂いていく―――

 

 

 

 

 ―――その光景を、自ら体験しているかのように、灯麻希の胸に炎が燃え上がった。

 

 (許さない。絶対に。これほど多くの命を奪い、踏みにじった存在が生きていていいはずがない)

 

 しかし、胸の奥に微かに残る声があった。

 ()()()()()()()()()()()()()と問いかけるような、小さく微かな疑念だ。

 

 そして夢の深奥に漂っていた光の粒が、胸に淡く残る。

 

 叫びでも呪いでもない、()()()()()という静かな決意。炭治郎の全ての想いを背負った言葉(いのり)

 怒りと痛みの中でなお、人の尊厳を守ろうとした光だ。

 

 その光源は、消えずに灯麻希の中に留まり、胸の奥底で静かに揺れている。

 輝きの中の疑問の種は、まだ形にならない。

 だが確かに、灯麻希の中にあった。

 

 

 

 

 ぽたり――――――

 

 

 遠くの水面に雫が落ちるような音が、静寂を破る。

 ふわりと頬を撫でる、朝の空気にも似た風が通り抜ける。

 遠くから水のせせらぎのような、誰かの囁きが聞こえた。

 

 

 (…………炭治郎?)

 

 かすかに、薪が弾ける音。

 

 瞼の裏に微かな光が差し込み、意識の層がゆっくりと戻ってくる。

 

 

 

 

 ―――――――――眠りの幕が上がるように、瞳が露わになる。

 光彩が、世界の輪郭を描き始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 

 

 夜の気配が、肌を撫でていく。

 冷たいはずの空気が、なぜか胸の奥を温めていた。

 虫の声が遠く、ゆらゆらと揺れるように耳へ届く。

 その音が、ここが夢ではなく現実なのだと、静かに告げていた。

 

 

 (………また、長く眠っていたのだろうか)

 

 重たい瞼を持ち上げながら、私はぼんやりとそう思った。

 炭治郎と竹雄の、不安げな顔が浮かぶ。

 起きる度に、心配をかけてしまっている。あの曇った瞳を見るのは、酷く堪えるのに。

 

 

 左に目をやると、禰豆子が眠っていた。

 竹で口を塞がれたまま、静かな寝息を立てている。その穏やかな横顔と、寝返りひとつ打たず眠る姿に、胸の奥がわずかに疼いた。

 傍から見れば、まるで植物人間のような、二度と目覚めないと思わせるほど深い眠り。弟たちが抱えていた気持ちが、今になって痛いほどわかる気がした。

 

 

 けれど同時に、ようやく実感した。

 

 私は現実に戻ってきたのだ、と。

 

 そして、夢のような濁流の記憶は――ただの幻想ではなかった。

 炭治郎の声、剣の軌跡、怒りと願いの狭間で揺れる感情――それらは、私の胸に確かに残っている。

 目覚めた今も、炭治郎の背中を見た瞬間に、あの記憶が脈打つように蘇った。

 だから、あれは単なる夢ではない。私の中に刻まれた確かな真実――炭治郎(主人公)の目線で、大樹の如く大きな流れを追体験したのだ。

 それは、より良い未来を掴み取るための、大きな()()となる。

 

 

  

 ふと、無意識に気配を探る。

 

 鬼になってから染みついた癖だ。弟たちと、そして最近は鱗滝さんの存在も含まれるようになった。

 

 (………!)

 

 竹雄の気配が、ない。

 

 慌てて、ガバリと上体を起こす。

 それと同時に、戸口が勢いよく開いた。

 

 夜風が吹き込み、鱗滝さんと――炭治郎が飛び込んでくる。

 その瞳が、ぱっと驚きに見開かれた。

 

「姉ちゃん…………!!」

 

 炭治郎の声が震える。

 次の瞬間には、彼は私に飛びついていた。

 

「お、起きた……!ね、姉ちゃん……目が覚めて、よかった……!! なんで、ずっと起きなかったんだよ――――!!」

 

 声が裏返り、嗚咽が胸にぶつかってくる。

 頬に落ちた涙は熱く、震えていた。

 あの炭治郎が、まるで幼い子どものように泣いている。

 

 状況を飲み込めずにいる私に、鱗滝さんが口を開いた。

 落ち着いた声音で、それでいて安堵の滲んだ口調だった。

 

「……ようやく、目を覚ましたか」

 

 その言葉のあとに続いたのは、驚くべき事実だった。

 

 ――――目覚めるまで、一年が経っていたらしい。

 

 伝えられた内容を飲み込むのに、少し時間がかかった。

 まさか、自分がそんなに眠っていたとは露にも思わなかったからだ。

 炭治郎が小声で「……死ぬかと、思ってた」と呟いた。

 冗談のように言ったけれど、目元は本気だった。その瞳には、張り詰めた糸が切れたような、安堵と疲労が滲んでいた。

 私は言葉を返せず、ただ彼の顔を見つめるだけだった。

 

 

 

 やがて炭治郎が落ち着いた頃、私はぽつぽつと話を聞いた。

 

 この一年、彼がどんなふうに過ごしてきたのか。一字一句、聞き逃さぬように。その声の震えも、言葉の間に滲む痛みも、真剣な眼差しで受け止めた。

 

 

 試練、山下り、水の呼吸の習得――

 竹雄も最初は一緒に鍛錬していたが、呼吸の適性が合わず、炎の呼吸の使い手を頼って別の場所へ旅立ったという。現在、その呼吸を教える育手が不在のため、鱗滝さんの知人に託されたらしい。

 

「炭治郎は、今日から岩斬りの試練に入った」

 

 と鱗滝さんが付け加えた。

 それを乗り越えれば、最終選別に臨める。鬼殺隊として命を懸ける試練が、すぐそこに待っているのだ。

 

 

 私は炭治郎を見た。

 目覚める前より、ずっと背が伸びていた。身体には筋肉がつき、手のひらは豆が潰れて硬くなり、分厚くなっている。顔や腕には擦り傷が残り、衣服には土汚れが滲んでいた。

 その全てが、()の努力と積み重ねの証だった。

 

 夢の中で見た()()()の姿を思い出す。

 どんなふうに戦い、どんなふうに泣き、誰のために剣を振るってきたのか――その記憶と、今目の前にいる現実の炭治郎の姿が、ひとつに重なる。

 

 私は目の頭にそっと手を伸ばし、赤みがかった髪を撫でた。

 

「お姉ちゃんが寝てる間に、炭治郎はよく頑張ったんだね」

 

 そう言って、ぎゅっと、優しく抱きしめる。

 彼の体は、以前よりもずっと逞しくなっていた。けれど、抱きしめた瞬間に伝わってきたのは、震える鼓動と、涙の余熱だった。

 炭治郎は少し戸惑ったように、小さく「うん……」と呟いた。

 

 その声は、かすかに震えていた。

 

 

 ―――温かいはずの胸の奥が少しだけ、ちくりと痛む。

 

 (私が眠っていた一年間、炭治郎はひとりで歩き続けたんだ)

 (対して自分は…………何ひとつできなかった)

 

 焦りじゃない。寂しさでもない。

 

 けれど、心のどこかで、何かが取り残されたような気がした。

 

 そして、竹雄のことを思い出す。

 末の弟になってしまった彼は、何を考えながら壮途につき、その先でどう過ごしているのか。

 背中を見送ることもできず、言葉を交わすこともできなかった。私ができることは、彼の無事を心に抱き続けることだけだった。

 

 竹雄も、ひとりで選んで進んだ。

 

 それがあの子らしいけれど――やっぱり、少し、寂しかった。

 

 

 

 

 

 

  ***

 

 

 

 

 

 夜の気配が肌を撫でていく。

 

 灯りを落とした小屋の中、寝息だけが静かに響いていた。

 その隙を縫うように、私はそっと外へ出る。冷えた空気が頬を撫で、月光が庭の草木を白く染め上げていた。

 

 

 静寂に満ちた夜の庭。

 月が明るく照らし、その場に立つのは私ひとり。舞うように、呼吸を整えて体を動かす。

 

 

 ――――“ヒノカミ神楽”。

 

 我が家に代々伝わる、火を司る者の舞。

 火の仕事をする者たちが、無事息災を祈って神に捧げてきたもの。

 

 しかしそれは、単なる舞いではなかった。

 流れるような型の連続。極限まで研ぎ澄ませた身体の制御。

 鬼の体を持ちながら、私は人の技をなぞるように、何度も何度もその舞いを繰り返していた。

 

 

 

 その夜――――

 

 月光のもとで一歩を踏み出そうとしたとき、不意に背後から気配が現れた。

 

「……毎晩、そうやって舞っているのか」

 

 低く、落ち着いた声。

 振り返らずとも分かる。声の主は――鱗滝左近次。

 

 老翁は私の修行を、最初から見抜いていたのだ。

 

「はい……家に伝わる“神楽”です。火の仕事をするので、年の始めに“ヒノカミ様”に舞いを捧げて、無事を祈っていました」

 

 言葉にしながら、胸の奥に浮かんだのは、父の残光だった。

 雪が降り積もる銀世界の中で舞う姿を、幼い私は母と並んで見つめていた。周囲を囲む松明の炎と舞の流れが重なり、まるで炎の精が降りてきたかのようだった。

 時が経つにつれて、見守る家族の数が増えていった――その記憶が、今も私の中に確かに息づいている。

 

 

「そうか……()()()()()()と――」

 

「――()()()()()()

 

 私が言葉を繋ぐと、短い沈黙が落ちた。

 その間に、夜の虫の音がひときわ大きく響いた気がした。

 

 (…………ちょっと踏み込みすぎたかもしれない)

 

 彼の反応が読めない。

 空気が少し張り詰めている気がして、気まずさを振り払うように言葉を続けた。

 

「……炭治郎から“水の呼吸”のことを聞きました。型も、呼吸の仕組みも。“ヒノカミ神楽”も、同じく“型”と“呼吸”を伴います。

 ……私の舞いは、どう思われますか?」

「共に戦いたい、と言うのか」

 

 お堂で問われたときと同じ、相手を測るような気迫が鱗滝さんの声に滲んでいた。

 間違った返答をすれば、すべてが終わる――そう思わせる圧。斬られはしなくとも、尊老はこの場から静かに去っていくだろう。

 

 あのときも、そう感じた。

 だからこそ、私は迷わず頷いた。

 

「はい」

 

 鱗滝さんはしばらく黙ったまま、こちらを見つめていた。

 日輪刀の鞘に手をかけたまま、ひとつ深い溜め息を吐く。

 

「…お前は鬼だ。人を襲う可能性は、常にある。たとえ今、衝動を眠りで抑えているとしても――」

「それでも、お願いします」

 

 私は頭を深く下げた。

 

「水の呼吸を教えてほしいとは言いません。ただ、この神楽の動きを見て、正すところを教えていただけたら、それでいいんです。私の体が鬼であることも、自分がどれだけ脅威であるかも分かっています。けれど……鬼だからこそ、出来ることもあるはずです。

 無惨を倒したい。弟たちと共に、生きたい。だから、どうか――――」

 

 言葉を重ねるごとに、胸の奥が熱くなっていく。

 鱗滝さんの沈黙が、まるで刃のように背中に突き刺さる。

 私は頭を下げたまま、拳を握りしめた。

 

 この願いが届かなければ、何も始まらない。それでも、諦めるつもりはなかった。肉体が化物の鬼でも、その力を守るために使いたい――その一心で、私は言葉を絞り出す。

 

「…………刀を握らせることはできん」

 

「この体が、私にとっての(かたな)です」

 

 言葉に熱が帯びるのが分かる。鱗滝さんの目が細くなり、沈黙が落ちた。

 静かに、呼吸のような間を置き……やがて一言、口を開かれた。

 

「………足運びは安定している。動きは、無駄がない。呼吸との融合は未熟だが、使()()()

 

 それは、訓練を許すという意味だと受け取った。

 自然と、口元が緩む。

 

「ありがとうございます……!」

 

 緊張が解けたその瞬間、ふと、鱗滝さんが小さく呟いた。

 

「炭治郎も竹雄も、ヒノカミ神楽について何も話さなかったな……」

「……あはは。竹雄は、気づいてても黙ってたんだと思います。でも、炭治郎は……」

 

 私は指先を鼻の頭に添えて、いたずらっぽく笑った。

 

()()()()()()()()は、ちょっと鈍いんです。匂いで分からないことには、とことん疎い」

 

 私の言葉に、鱗滝さんは面の下で喉の奥をわずかに鳴らした。ほんの一瞬だが、息の弾みだけで笑ったのが分かる。

 

「……確かに。あやつは頭が、固い」

 

 

 

 

 

 ・

 ・

 ・

 

 

 

 それからの日々、鱗滝さんの厳しい訓練が始まった。

 

 深閑な山の空気の中で、私の体は少しずつ馴染んでいった。

 

 鬼としての戦闘技術を身につける前に、まずは呼吸術の一種であるヒノカミ神楽を主軸にして、鬼となった身体に慣れるための基礎体力と動作の訓練に取り組んだ。

 

 力は確実に増しているのに、感覚には常に微かなズレがあった。

 人間だった頃の繊細な重心の勘が薄れ、踏み込みの間合いや跳躍のリズムを掴むのが思いのほか難しかった。

 

「全集中の呼吸は型を支える土台だ。だが、型をなぞることばかり考えるな。自分の身体を隅々まで把握しろ」

 

 老師はそう言いながらも、容赦なく筋力トレーニングを課す。

 鬼の身体の再生力や跳躍力は確かに優れている。だがそれに戦い方では、いずれ限界が来る。

 

 やがて、模擬戦で炭治郎と組むことも多くなった。

 弟は鋭い動きで攻めてくる。対して私は、自分の爪や蹴りをどう活かせばいいのか、まだ試行錯誤の途中だった。

 日輪刀は持てない。だから、必然的に体術中心になる。

 

 炭治郎の突進に、反射的に爪で応じたとき―――――

 

 胸の奥に、小さなざらつきが残った。

 

 人を傷つける力を持つことの恐ろしさ。

 その感覚だけは、どれほど鍛えても、決して消えることはなかった。

 

 

 

 

 ・

 ・

 ・

 

 

 

 星屑を散りばめたような夜、炭治郎はぽつりとつぶやいた。

 

「禰豆子は、いつ起きるんだろう……」

 

 その声には、不安が滲んでいた。

 炭治郎の呟きが、深い夜の空気に吸い込まれていく。

 その隙間に、私の確信だけが明瞭に浮かび上がった。

 

 私は知っている。炭治郎が最終選別を終えるまで、禰豆子は眠り続けることを──でも、その未来を弟に語ることはできない。理由も、証拠もないのだから。

 

 ただ胸奥に、確証だけが存在していた。

 

 それを伝えられないもどかしさを、笑顔で覆い隠すしかなかった。

 

「禰豆子は、寝るのが好きだから。きっと今は、たくさん寝ていたいだけだよ」

 

 少し冗談めかして言うと、炭治郎も僅かに笑みを浮かべる。胸の奥に垂れ込めていた影が、ほんのわずかに和らいだように見えた。

 その様子に、私もまた胸を撫で下ろす。

 

 弟が少しでも前を向けるなら、それだけで十分だった。

 

 

 

 

 やり取りの後、私たちはいつものように禰豆子と並ぶように横になり、揃って眠りについた。

 

 炭治郎の隣で、浅い眠りの中をふらふらと漂っていたときだった。

 

 ふと、寝苦しそうに顔をしかめる炭治郎が目に入る。

 

 夢の中で何かに追われているかのような、苦しげな表情。

 心配が胸に広がり、自然と手が伸びる。

 ぼんやりとした意識のまま、私は布団越しに弟の肩をそっと叩いた。

 

 

 ――――とんとんとん

 

 

 その瞬間、掌からふわりと薄い血の匂いが漂った。

 目に見える傷などないのに、何かが私の内側から滲み出たかのような──そんな感覚だ。

 

 思わず息を呑んだが、次の瞬間には炭治郎の表情が柔らかく緩む。

 深く、安らかな眠りへ落ちていく彼を見届けたあと、私も再び目を閉じる。

 

 不思議に思うよりも先に、眠気が意識をさらっていく。

 そのまままどろみに身を任せ、夜は静かに更けていった。

 

 

 

 

 

 

 ・

 ・

 ・

 

 

 

 濃霧に包まれた山の斜面には、日の光は届かず、冷たい風だけが薄暗い空気を揺らしている。

 修行の場となった山の斜面では、今日も変わらぬ打ち合いが繰り返されていた。木立の向こう、少し離れた岩陰に立つ鱗滝さんは、面越しにこちらを見つめたまま微動だにしない。

 

 静かな監視の気配が、私たちの背を正す。

 

 

 ――――何度目の手合わせだろうか。

 

 炭治郎は必死に呼吸を整えていたが、その肩は上下を繰り返す。

 何度も斬り結び、踏み込みを繰り返した足元には、剥き出しの土と細かく折れた枝が散らばっている。

 繰り返すほどに、彼の疲れは確実に蓄積されていた。

 

 それでも、彼の目は真っすぐだった。まだ、折れていない。

 

 私も応えなければ――そう思った。 

 

 炭治郎がぐっと踏み込む。

 

 鋭い斬り込み、その気迫にわずかに圧され、私の視線が遅れる。

 しかし次の瞬間、足元の石を踏み外したのか、炭治郎の重心が崩れた。

 続きの踏み込みがほんの一拍だけ遅れる。

 

 (ここだ――)

 

 反射のように、身体が動いた。

 足を捌き、上体をひねる。軌道は最短、威力は最小限に。そのはずだった。

 

 だが、刹那の時に胸をよぎる不安――――

 

 鬼の身体は思った以上に速く、強い。

 目覚めてから数か月が過ぎ、繰り返す修行の日々で、鬼の身体をだいぶ上手く制御できるようになったと認識していた。

 

 しかし、それが油断を招いてしまったのだ。

 

 (まずい……!これだと、強すぎる!)

 

 そう思った瞬間にはもう、私の足は空を切っていた。

 炭治郎の体が弧を描くように宙を舞い、ゆっくりと遠ざかっていく。

 背中から地面に倒れ、頭がごつんと嫌な音を立てる。

 

「──っ!」

 

 息が詰まった。

 どうしよう、と声を出したい。だが、喉に何かが詰まり、言葉にならない。

 

 起き上がろうとした炭治郎の額から、赤いものがつうっと流れているのが見えた。

 

 頭。頭を打ったんだ。

 

「た、炭治郎!!」

 

 足を急いで動かし、弟の元に駆け寄ろうとする。

 けれど、伸ばしかけた手は宙で固まった。

 

 触れるのが怖かった。

 

 この()()()で、炭治郎を再び傷つけてしまうのではないか――その恐怖が胸を締め付ける。

 

 思わず、ぐっと拳を握る。

 鋭い爪が手のひらに食い込み、柔らかい感触とともに、ぱたりと血が滲んだ。

 

 拳から下に落ちるはずの血液が、宙を舞う。風に乗ったように小さな雫が、彼の頬に触れた。

 

 

 

 瞬間、何かが広がった。

 

 

 見えないはずのものが、花開くように視界にひらく。

 夜明けの光のように、赤くやさしい花弁が広がり、炭治郎を包み込んだ。

 淡く、しかし確かに──その現象は彼の傷を癒していった。

 

 

「あれ?」

 

 炭治郎が目を瞬く。

 額に手をやり、さっきまで流れていたはずの血を拭う。

 

 それから私を見た。

 

「痛みが消えた……?」

 

 私は何も言えなかった。

 何が起こったのかは分からない。ただ、私の中で何かが芽吹いたことだけは、はっきりと分かった。

 

「これは……」

 

 声がして、振り向けば鱗滝さんがいた。

 穏やかでも冷たくもない声色。私の()()を見透かしたような響きがあった。

 

「お前の、鬼の“異能”か」

 

 私が何か答える前に、炭治郎が転んだ頭を押さえながら、よろよろと体を起こした。

 

「――凄い!姉ちゃん!!」

 

 頭から手を離し、ぽんっと自分の脇腹を軽く叩く。

 

「さっきまで確かに怪我をしていたのにもう痛くない!こことここ……!」

 

 その無邪気な声に、私は唖然とする。

 信じられないけれど、確かに傷は癒えていた。

 

 視線を遠くにやると、少し離れた場所で鱗滝さんが静かにこちらを見ている。

 彼は何も言わず、ただ黙って頷いていた。

 

 頭の中で、鱗滝さんが放った言葉が反響する。

 

 “これは――お前の、鬼の異能か”

 

 私は小さく息を吐き、静かに頷き返した。

 

 炭治郎の喜ぶ姿が瞳に映る。“大丈夫”と伝えるような仕草に、自然と笑みが零れた。

 

 

 

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