鬼刃奇譚   作:庵non

40 / 40
40.起き上がれ 

 

 

 

 

 

「何なのよ……ここ」

 

 三つ編みの女は、魘夢に教えられた手順をなぞり、夢の外側へと抜け出した。意識の層を潜り、夢の端まで辿り着いて無意識の領域へ至る――そこまでは、何一つ狂いはなかった。町外れの風景を装った夢の壁を、手にした専用の針で切り裂き、その向こうへ足を踏み入れた。

 

 だが、広がっていた光景を目にした途端、女の足は止まった。

 大地は黒く焼け、至るところに深いひびが走っていた。踏みしめるたびに草履の裏から乾いた音が返り、遠くでは赤く煮え立つ溶岩がゆっくりと流れながら、周囲の景色を歪ませている。熱気が肌を刺し、息を吸うだけで喉の奥まで焼けつくようだった。

 見上げた空は灰色に濁り、幾重もの煙が低く垂れ込めている。陽の光は辛うじて届いていたが、世界を照らすにはあまりにも弱く、辺りには溶岩の放つ鈍い赤だけが、沈んだ光となって広がっていた。

 

 そして———道がなかった。

 前方には、地面が断ち切られたような崖が口を開けている。左右には鋭く裂けた岩壁がそびえ、進めるはずの足場は途中で途切れていた。先へ行こうとすれば、あとは奈落へ落ちるしかない。

 

 迷路ですらなかった。道を見失わせるための入り組んだ構造ではなく、そもそも進むこと自体を拒むように、世界そのものが閉ざされている。

 

 女の喉が、ひくりと鳴った。それでも、立ち尽くしているわけにはいかない。女は不安を押し隠すように視線を走らせ、どこかに抜け道があるはずだと、わずかな手掛かりを求めて周囲を探った。

 

 その時———視界の端に、不自然な線が走った。

 崩れた岩盤。その断面は、自然に割れたものとは明らかに違っていた。滑らかに断ち切られたのではなく、何かに叩き砕かれ、無理やり捻じ開けられたような痕跡が残っている。さらに、その奥。本来なら地形が繋がるはずのない場所に、細い通路が口を開けていた。

 

 あり得ない。

 この領域は、本来もっと整然としているはずだった。精神の核へ至る道は、無意識の世界に沿って形作られるものであり、こんな暴力的な破壊の痕跡を残して現れるものではない。

 

 ならば———誰かが壊したのだ。

 

 そう理解した瞬間、女の背筋を冷たいものが走った。

 視線が揺れ、呼吸が浅くなる。それでも、あの通路を確かめようと一歩を踏み出しかけて――足が止まった。

 

 進める気がしない。どこへ向かえばいいのかも、どう進めばいいのかも分からない。

 目の前に道らしきものはある。それなのに、そこへ向かうための一歩が、どうしても踏み出せなかった。

 

「こんなの進めるわけないじゃない――――!!」

 

 女の叫びが、焼けた岩肌に反響した。

 

 (早く、ここに存在しているはずの“精神の核”を破壊して、持ち主を廃人にしないといけないのに……!!)

 

 時間は限られている。夢の外で待ち構えていたお面の女が、再び邪魔をしてくる可能性もあった。焦りが胸の奥で燻り、歯を食いしばりながら周囲へ視線を巡らせた、その時———

 

 ———カツン

 

 乾いた音が、頭上から落ちてきた。反射的に顔を上げる。

 焼けた岩の縁、不安定な足場の上に、一人の人影が立っていた。逆光に縁取られた輪郭が、ゆっくりとこちらを見下ろす。手には刀身の赤い刀が握られていたが、切っ先は力なく下げられている。

 

 前髪を上げた黒髪の少年———竈門竹雄だった。上下の洋装と緑色の羽織には、煤や土埃がうっすらと付着している。額には汗が滲んでいたが、呼吸は乱れていない。濃い赤の瞳だけが、眼下の女を真っ直ぐに捉えていた。

 女の目が、大きく見開かれる。

 

「人の気配がしたから、もしかしたらと思って来てみれば……良かった!人がいた!」

 

 張り詰めていた緊張が一気に解けたように、言葉が弾ける。声に滲んでいるのは、ようやく助けを求められる相手を見つけた安堵だった。

 

 ———その直後。岩の縁にあった竹雄の足が、微かに動いた。次の瞬間には、二人の間にあった距離が消えていた。

 ドン、と小さな衝撃が足元を打つ。女が状況を理解するより早く、竹雄はすでに目の前へ降り立っていた。

 

「ここには人いなかったのに、なんであなたは来れたんだ?」

「……それはこっちが聞きたいわよ!」

 

 反射的に言い返した女を、竹雄は僅かに目を細めて見つめた。

 その眼差しは鋭い。けれど、ただ敵意を向けているわけではなかった。女の言葉だけでなく、返答までの間や声の調子、その一瞬の反応までも確かめるような———相手を見極めようとする目だった。

 

「どうして……こ(・)っ(・)ち(・)が(・)聞(・)き(・)た(・)い(・)の?」

「……っ」

 

 女の言葉が詰まる。指先が強張り、先ほどまで浮かべていた安堵の表情に、わずかな戸惑いが混じった。

 竹雄は、その変化を見逃さなかった。追い詰めるために問い詰めているのではない。目の前の女が、自分の知っている何かと食い違っている。その違和感の正体を探るように、反応の一つ一つを拾い上げているのだ。

 

「まあ……いいか」

 

 ひとまず追及を切り上げ、竹雄は周囲へ目を向けた。黒く焼けた大地に、赤く煮え立つ溶岩。行く手を塞ぐ崖と、足場の途切れた岩壁。どこを見渡しても、安全に進めそうな場所はない。それらを一通り確かめてから、再び女へ視線を戻す。

 

「ここ、普通じゃないよね。山も崖も全部危険だし、道らしき道もない」

 

 まるで、目の前にある事実を一つずつ確かめるような口調だった。自分がどこにいるのかも、なぜこんな場所にいるのかも分からない。それでも竹雄は、分からないことに呑まれるのではなく、まず目の前の状況を整理しようとしていた。

 

 竹雄は足元の砕けた岩を軽く踏んだ。砂利が崩れ、斜面を転がり落ちていく乾いた音が、周囲の静寂の中でやけに遠くまで響く。その余韻を確かめるように一度だけ周囲へ視線を走らせると、すぐに女へと向き直った。

 

「でも、あなたは迷ってない。最初から来る場所が分かってたみたいだ。町にいた人たちは誰もここまで来なかったのに、あなただけ違う…………どうして?」

 

 淡々とした問いだった。けれど、言葉を重ねるたびに女の立場は狭まっていく。竹雄は声を荒らげることも、答えを急かすこともなく、目の前にある事実を一つずつ並べ、その食い違いを確かめようとしていた。焦りでも、恐れでもない。ただ状況を理解するための、真っ直ぐな思考だった。

 

「そ、それは……」

 

 女は答えられず、視線を泳がせた。

 竹雄は一歩、前へ出る。威圧するためではなく、相手の反応を確かめるように、静かに距離を詰めた。

 

「……原因があるなら、壊せば出られると思った。だから、壊してきた」

 

 竹雄の背後には、裂けた大地と砕けた岩盤が広がっていた。無理やり繋げられた足場に、踏み抜かれた亀裂。進むために壊した痕跡が、そのまま歪な道を形作っている。崩れきらずに残っていた砂礫が、遅れて斜面を滑り落ち、ぱらぱらと乾いた音を立てた。

 

「でも、それじゃ駄目だった。出口は見つからないし、どこにも繋がってない」

 

 竹雄は、そこまでの経緯を確かめるように視線を巡らせた。

 壊しても、出られなかった。ならば、別の方法を探す必要がある。そう考える声には、失敗への苛立ちすらほとんど滲んでいなかった。すでに次の手を考えているのだ。

 

 そして————

 

「それなのに、あなたはここに来れてる」

 

 再び、女を見据える。

 

「この場所も、鬼が作ってるんだと思う。あなたも鬼の血鬼術の一部かもしれない……」

 

 推測を口にした竹雄の手元で、赤い刀身がゆっくりと持ち上がった。

 

「な、何をするつもりなの……」

「君を斬る。それで分かるかもしれない」

 

 あまりにも簡潔な答えだった。

 そこに、相手を苦しめたいという嗜虐も、怒りに任せた衝動もない。ただ、この場所から抜け出すために必要な情報を得る。そのための手段として、目の前の女を斬るという選択肢が浮かび、竹雄はそれを口にしただけだった。

 

 もっとも、人を斬るという判断が、彼の中で完全に軽いわけではない。

 刀を構えたまま、ほんの微かに呼吸が深くなる。刃を振るうことへの躊躇か、それとも自分の推測が間違っている可能性を考えているのか。その一瞬の変化を、女は見逃さなかった。

 

 ———この少年は、本気だ。

 

「ま、待って……!全部話すから、許して!!」

 

 女の声が、目に見えて崩れた。

 

「私は生きた人間よ!夢でも幻でもない、外から入ってきた……現実の人間なの!!」

 

 堰を切ったように言葉が溢れ出す。乾いた空気に震える声が滲み、女の肩は小刻みに揺れていた。握りしめた袖には幾重もの皺が寄り、視線は目の前の刃から逸らせないまま、必死に言葉を繋いでいく。

 

「鬼に……魘夢に、言われたの……!夢に入って……その…………壊せばいいって……!!」

 

 言葉は途切れ途切れで、うまく形を保てていない。それでも、自分が何を命じられ、何をすればよかったのかだけは、縋るように繰り返した。

 

「そうすれば……助かるって……夢を見せてくれるって……!だから……だから……!」

 

 懇願に近い響きが、女の口から零れる。

 

「壊すって……」

 

 その言葉を遮るように、竹雄の声が落ちた。声色に揺れはない。女の訴えに心を動かされるよりも先に、彼の思考はその言葉が指すものへと進んでいた。

 

「――――あ(・)れ(・)のこと?」

 

 竹雄の視線が、女の背後へ流れる。

 つられて振り返った女は、思わず目を瞬かせた。そこにあるのは、荒れ果てた岩肌と、どこまでも続く裂けた大地。山の斜面からは熱気が揺らめき、赤い溶岩が遠くで煮え立っている。けれど、壊すべきものなど、どこにも見当たらなかった。

 

「え……?な、何もないわよ…………山しか見えない………何のことを言ってるの?」

 

 困惑を露わにする女を前に、竹雄は答えず、目を細めた。

 その時だった。足元の岩が、鈍い音を立てて軋んだ。

 ――ゴ、と低い地鳴りが響く。直後、地面が大きく揺れた。ひび割れた足場が波打つように沈み、崖の縁から石や砂礫が次々と剥がれ落ちていく。

 

「ごめん、揺れるよ」

 

 竹雄は一瞬だけ足場を見極めると、女の腕を掴んだ。

 

「えっ――」

 

 引き寄せられた女が声を上げる間もなく、竹雄は崩れかけた岩を蹴って踏み込んだ。身体が大きく沈んだ次の瞬間、二人の姿は砕けていく足場を離れ、空へと跳ね上がっていた。

 

「何……?きゃっ……!?」

 

 眼下で岩盤が崩れ落ち、砂煙が舞い上がる。女には何が起きたのか理解する暇もなかった。ただ、つい先ほどまで自分を斬ろうとしていた少年に腕を掴まれ、崩壊する大地から引き離されている――その事実だけが、遅れて頭に追いついてきた。

 

 竹雄は視線を落とすことなく、崩落の連鎖を避けるように次の足場へ飛び移った。着地と同時に岩が砕け、砂礫が崖下へ落ちていく。それにも構わず、さらに先の岩場へと跳ぶ。揺れの大きさと足場の状態を瞬時に見極め、最短で安全な場所を選びながら、迷いなく崩れゆく大地を越えていった。

 

 やがて二人は、崖の縁に沿って細く伸びる岩の通路へと降り立った。ここまで来ると揺れは幾分弱まり、足元の岩もひとまず安定している。竹雄は女の腕を離し、そのまま地面へ下ろした。

 

「ここなら見える?」

 

 短く尋ね、崖の向こうへ視線を上げる。女もつられるように顔を上げた。

 

 そして———視界の奥で、何かが光った。裂けた大地の向こう、山頂へと続く岩の重なり。その奥にぽっかりと空いた空洞の中で、一際異質な光が揺れていた。

 

 柔らかく、温かい光だった。

 黒く焼けた大地も、煮え立つ溶岩も、灰に濁った空も、その光の周囲だけは無縁に思える。小さな木々が穏やかに揺れ、淡い光が辺りを包み込んでいた。その中心に埋め込まれているのは、宝石のように輝く丸い物体だった。

 

「……っ」

 

 女の喉が震えた。

 

「そ……そうよ……!あれが……“精神の核”よ……!!」

 

 竹雄は、空洞の中で輝くそれをじっと見つめていた。

 ほんの一瞬、呼吸が深くなる。けれど、次に口を開いたときには、もう答えが出ていた。

 

「やっぱりそうか……」

 

 女が、期待を滲ませた目で竹雄を見上げる。ようやく目的のものを見つけたのだ。これで自分の役目を果たせる――そんな期待が、その表情には浮かんでいた。

 

「壊さないよ」

 

 竹雄は核から視線を外さないまま、あっさりと言った。女が息を呑む。

 

「鬼が壊させようとしてるなら、なおさらだ……

 あなたの行動は止めない。でも――手伝いもしない」

 

 そこで初めて、竹雄は女へ視線を戻した。

 

「落ちそうになったら助けるけど……それだけだ」

 

 声音に変化はない。相手を突き放すような怒りも、説得しようとする熱意もなかった。ただ、協力するつもりがないことだけは、はっきりと伝わってくる。

 

「俺は、ここから出る方法を探す」

 

 それだけ告げると、竹雄は再び視線を外し、周囲の地形を見渡し始めた。

 女はしばらく、その背中を見つめていた。やがて、おそるおそる足元へ目を落とす。細く伸びた岩の通路は崖の縁に寄り添うように続き、その下では崩れた岩盤が今も砂煙を上げていた。地震のような揺れも、完全には収まっていない。その先には、精神の核が埋め込まれた山頂がある。

 

「…………無理よ……こんな所、進めるわけない……さっきから地震も起きてるし……」

 

 ぽつりと零れた声は、掠れていた。

 

「命がいくつあっても足りないわよ……私は、ただの人間なんだから……」

 

 とうとう力が抜けたように、女はその場へ座り込んだ。顔を上げれば、目的の核が見える。けれど、そこへ続く道を見定めることすらできない。女の視線は山頂へ向かうことなく、ただ、自分の足元に広がる危うい岩場へと落ちていた。

 侵入者の女が言葉を失い、竹雄が出口を探るように周囲へ視線を巡らせてから、数分が過ぎた。

 

 唐突に———空気が歪んだ。

 

 最初に異変を捉えたのは竹雄だった。足場の岩を踏みしめたまま、僅かに腰を落として身構える。視線が頭上を走り、遅れて女も周囲の変化に気づいた。

 

「なに、これ……?」

 

 音がずれていた。風も熱もないはずなのに、目の前の景色だけが水面のように揺らいでいる。空間そのものが何かに押され、形を保てなくなっているかのようだった。

 

 次の瞬間———

 

「っ!?」

 

 竹雄の全身を、炎が走った。遅れて、女の悲鳴が弾ける。

 

「ひぃ!体が……も、燃えてる……!!」

 

 赤い炎が衣服ごと竹雄を包み込み、瞬く間に全身へと広がっていく。けれど、焼ける匂いはしない。皮膚を焼く痛みも、熱に炙られる感覚もなかった。竹雄は咄嗟に自分の手を見下ろした。指先に至るまで鮮やかな炎が揺らめいている。それなのに、手の感覚は失われていなかった。

 

「熱く、ない!」

 

 炎の奥に、微かな気配が混じっていた。鬼のものだ。だが、夢全体を膜のように覆っている、あの禍々しくまとわりつく気配とは違う。もっと穏やかで、近しくて――知っているものに似ていた。姉、灯麻希との記憶が脳裏をよぎる。

 

「この感じ……」

 

 赤い炎を見つめていた竹雄の目が、大きく見開かれた。

 

「禰豆子姉ちゃんの血鬼術だ!俺を、起こそうとしてる……!!」

「なっ……そんなこと、できるわけ――」

 

 女の声が震えた。しかし、その言葉は最後まで続かなかった。

 炎が一段と強く燃え上がる。赤い揺らぎが竹雄の身体を越え、周囲の空間へと広がっていった。岩肌も、裂けた大地も、灰色の空さえも、その輪郭を保てなくなったかのように軋みながら歪んでいく。

 

 そして、頭上。何もないはずの空間に、白い線が走った。

 ひび割れのような細い筋は、音もなく枝分かれしながら広がっていく。やがてその亀裂が大きく口を開け、向こう側へ続く裂け目へと変わった。

 

「――これは」

 

 竹雄の視線が、その一点に吸い寄せられる。

 直感だった。なぜそう思ったのか、説明はできない。けれど、あの向こうに何があるのか、何をすればいいのか――身体が先に理解していた。

 

 ――出口だ。

 

 裂け目が、さらに広がった。向こう側から何かが押し出されるように空間が歪み、その隙間から、白く細い腕が伸びてくる。

 

「っ――!」

 

 考えるより早く、竹雄は動いていた。

 燃え盛る炎の中から腕を伸ばし、差し出された手を掴む。指がしっかりと絡んだのを確かめると同時に、もう片方の腕で女の身体を引き寄せた。抵抗する暇も、何が起きているのか考える余裕も与えない。竹雄は女を確実に抱え込み、伸ばした手を決して離さなかった。

 

 その瞬間――赤い炎が、いっそう激しく燃え上がった。

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 

 最初に、腕の中へ重みが飛び込んできた。

 夢の向こうから伸びてきた手を掴み、引き寄せた身体。その感触を確かめる間もなく、足元から列車の揺れが突き上げてくる。車輪が線路を刻む音も、車内の空気も、すべてが一気に現実のものとして押し寄せた。

 

 ――戻ってきた。

 

 私の意識が、一気に浮上する。目を開けると、すぐ目の前に赤い瞳があった。見慣れた黒髪。腕の中で瞬きをする、その姿は———

 

「良かった……!目覚めた……!」

「姉ちゃん!!」

 

 竹雄が、目を覚ました。その事実を確かめるように、私は思わず両手で弟の頬を挟んだ。顔を覗き込み、目の動きや呼吸を確かめる。頬に触れた感触も、返ってくる声も、いつもと変わらない。熱も、呼吸も、視線も———全部、問題ない。

 

「ちょ、ちょっと……やめてよ姉ちゃん!潰れるって……!」

 

 竹雄が困ったように抗議する。その声を聞いて、ようやく胸の奥に張り詰めていたものがほどけた。無事に目を覚ましてくれた。それだけで、今は十分だった。

 

「やったね、禰豆子。竹雄、起きたよ……次は炭治郎――」

 

 私は竹雄から手を離し、右側の座席へと視線を向けた。禰豆子が、炭治郎の顔を覗き込んでいる――その瞬間だった。

 

「うわおおあああああああ!!!」

 

 弾けるように炭治郎が跳ね起きた。

 

 ゴチン!

 

 鈍い音が車内に響き、勢いよく起き上がった炭治郎の額が、覗き込んでいた禰豆子の額にまともにぶつかった。衝撃に禰豆子の体が小さくのけぞる。

 

「――ん!?」

「炭治郎!!」

「は―――…………」

 

 額を押さえた禰豆子の顔に、赤い血が伝っていく。何が起きたのか分からず驚いたまま固まっていた表情が、やがてゆっくりと崩れ、ぽろぽろと涙が零れ始めた。炭治郎は慌てて妹の顔を覗き込む。

 

「禰豆子!!血が……大丈夫か……!?」

「兄ちゃんの石頭とぶつかったせいだよ……鬼の姉ちゃんより硬いんだね……兄ちゃんの頭……」

 

 隣で竹雄が苦笑いを浮かべる。その言葉を聞いた途端、炭治郎の顔色が一瞬で変わった。

 

「そ、そうなのか……!?」

 あまりにも真剣な表情で衝撃を受けているものだから、思わず息が抜けそうになる。けれど、すぐに私は炭治郎の首元へと視線を落とした。そこには、禰豆子の血鬼術――“爆血”で焼き切られた縄と、焦げた切符が残っている。

 

 (やっぱり……自分で首を斬って、起きてきたんだ)

 

 そうなる可能性は考えていた。それでも、実際に目の前で確かめると、胸の奥に言葉にしがたいものが込み上げてくる。

  額には汗が滲み、目元には反射的に溢れた涙の跡が残っていた。炭治郎はそれを拭う暇もなく、禰豆子の肩に手を添え、必死に謝り続けている。

 

 夢の中での“死”が、そのまま現実の目覚めに繋がる保証なんてない。確かなものは何ひとつないまま、炭治郎は自分の意思で、その綱を掴みにいったのだ。私の予定では、禰豆子の“爆血”で術を焼き、私の“魂視”と“茨ノ連”で亀裂を広げることで、確実に外へ引き戻すつもりだった。

 

 それなのに、炭治郎はその手順を一足飛びに越えてきた。危うさを孕んだ選択だ。けれど、目の前の妹を助けるためなら、ほかの道を選ぼうとしない――それもまた、炭治郎らしい真っ直ぐさなのだろう。

 

 (……本当に、無茶をする)

 

 呆れたように息が緩む。けれど、その胸に残った温度は、決して否定のそれではなかった。

 しかし、思考が深く沈みきる前に、私は視線を滑らせた。まだ眠っている侵入者は二人。三つ編みの女と芥子色の着物の男が、炭治郎と竹雄に繋いだ縄を自分たちの手首に括りつけたまま、力なく座席に沈んでいる。

 

「――竹雄。あの二人を、今のうちに動けないように縛ってくれる?」

 

 短く告げる。詳しい説明は要らない。目の前の状況を見れば、竹雄なら何をすべきか分かるはずだ。

 

 「! 分かった」

 

 返事は即座だった。竹雄は迷わず立ち上がると、まず手近な三つ編みの女の手首から縄を外し、そのまま座席の支柱へと巻き付け始めた。目覚めたばかりだというのに、その手つきに迷いはない。

 

「……俺も、何か手伝えることはないか」

 

 控えめな声が差し込んだ。

 振り向くと、紺色の着物の男が、縄を扱う竹雄を窺っていた。隣の座席では、治療を終えた結核の男が目を伏せて横たわり、穏やかな呼吸を繰り返している。その傍らに膝をついたまま、男は視線だけをこちらへ向けていた。

 

 その目には迷いと躊躇いが残っている。それでも、何かしなければという焦りだけは、押し殺せずに滲んでいた。竹雄がちらりと男へ目を向ける。

 

「こっちは大丈夫ですので、その男の人を見ててください」

 

 それだけ告げると、竹雄は再び手元へ意識を戻した。

 紺色の男は何か言いかけて口を閉じ、やがて小さく頷くと、横たわる男へと視線を落とした。

 

 その間に、炭治郎もまた車内の状況を確かめていた。焼き切れた縄に、焦げた切符。眠り続ける煉獄さん、善逸くん、伊之助。そして、見覚えのない人間たち――炭治郎の視線が、それらを一息のうちに捉えていく。

 

「姉ちゃん、この人たちは……?」

 

 縄で繋がれたままの二人に、前の座席からこちらを窺う紺色の男と糸目の女。まだ状況の全貌は掴めていないはずなのに、炭治郎の声は、目の前にある疑問の核心をまっすぐに捉えていた。

 

「彼らは鬼に従った人間なの。眠らされた炭治郎たちに近づいてきたんだ。直接の狙いまでは分からないけど、無力化しようとしていたのは確か。止めようとはしたけど、二人には潜り込まれてしまった……ごめん」

 

 短く息を吐き、私は炭治郎と竹雄に順番に視線を向けた。

 

「眠っている間に、何かされた?」

 

 先に口を開いたのは竹雄だった。

 

「女の人と会ったよ。危険な感じはなかったけど……“精神の核”っていうのを探してた。見つけたら壊せって言われてたみたいだ」

「“精神の核”……魂に近いもの、かもしれないね」

「多分。俺を内側から壊すつもりだったんだと思う」

 

 私と竹雄の説明を聞いても、炭治郎はすぐには何も言わなかった。何かを言いかけて口を閉じると、視線を落とし、座席に沈んだままの侵入者たちを見つめる。

 

「兄ちゃんは、男の人には会ってないの?」

「俺は会ってない」

 

 炭治郎はそう答えたものの、その目は二人から離れなかった。

 

「……そうか、この人たち…………自分の意志で……」

 

 最後の言葉は、沈み込むように途切れた。

 

「追い詰められてたんだと思う。現実に耐えきれなくなって、そこに鬼が入り込んだんだ」

 

 私は静かに言葉を落とし、眠ったままの侵入者たちへと目を向けた。

 

「やろうとしたことは消えない。でも……まだ、取り返しはつく――――止められてよかった」

 

 そこで言葉を切る。

 彼らが何を抱え、どんな思いで鬼に従ったのか。そのすべてを、私たちは知らない。けれど、彼らが自分の意志で選んだことも、その選択によって誰かを傷つけようとしたことも、なかったことにはできなかった。

 

 それでも、取り返しのつかないところまで進む前に止められた。その事実だけは、確かだった。

 張り詰めた空気に、微かな重さが残る。その端で、不意に声がした。

 

「仕方、ないでしょう……」

 

 糸目の女が、小さく呟いていた。この女は、魘夢に恋をしていた。結核の男を治療した後、泣きながらそのことを口にしていたのを覚えている。

 

 ――利用されているだけだと、分かっていても。その思いが、彼女をここまで動かしたのだろうか。

 

「……そうか」

 

 炭治郎が、ゆっくりと立ち上がった。その表情からは、目覚めた直後の動揺はもう消えていた。代わりに浮かんでいるのは、目の前の人間たちと、その行いに向き合おうとする静かな眼差しだった。

 

「姉ちゃんは、禰豆子を頼む!」

「うん。ここは任せて。善逸くんたちも、もうすぐ起きる」

 

 私が頷くと、炭治郎の眼差しが鋭さを増した。

 

「俺たちは鬼を探す!!竹雄、行くぞ!!」

「うん!!――それと灯麻希姉ちゃん!女の人が起きたら、夢の中ではごめんなさいって伝えてといて!」

 

 竹雄はそう言い残し、炭治郎とともに駆け出した。二人の足音が列車の規則的な揺れに重なり、やがて車輪の響きに呑み込まれていく。

 

 進行方向の扉が開くと、二人は短く言葉を交わした。次の瞬間、炭治郎は躊躇なく車外へと跳び出し、走る列車の屋根へ身を乗り出すと、吹きつける風を切って前方へ駆けていった。一方の竹雄は振り返ることなく車内を走り抜け、前方車両へと姿を消す。

 

 その背を一瞬だけ目で追い、私はすぐに意識を切り替えた。

 

「禰豆子、少し位置を替えよう。こっちに来てくれる?」

 

 声を掛けると、額の傷が綺麗に塞がった禰豆子は、小さく頷いて立ち上がった。

 

「善逸くんは、禰豆子が呼んだ方が起きる気がする。私は煉獄さんを起こすよ」

 

 私たちは座席の間を縫うように移動し、手分けして眠る仲間を起こすため、速やかに位置を入れ替えた。そして、右側の座席で眠る煉獄さんへ手を伸ばそうとした、その時だった。

 視界の端に、わずかな違和感が引っかかった。

 

 ――三つ編みの女の瞼が、薄く開いていた。

 

「起きていたんですね……その様子だと、随分前から?」

「…………えぇ」

 

 掠れた返答が返ってくる。けれど、その瞳に、目を覚ます前のような狂気の色はなかった。そこにあるのは、夢から醒めて現実を見据えた人間の眼差しだった。

 

「それなら、竹雄の伝言も私が伝えなくてよさそうですね。夢の中で何があったのか、聞いても?」

 

 少し首を傾け、視線を合わせる。女は眉を寄せると、答える代わりに顔を背けた。その仕草だけで、何があったのかは察せられた。

 

「……どうにもこうにも、鬼狩りは尋常じゃないって思い知らされただけよ」

 

 吐き捨てるような声音だった。

 けれど、そこには夢に入る前の焦燥も、何かに縋ろうとする危うさもない。ただ、思い通りにならなかったことへの苦々しさと、認めたくない何かが滲んでいた。

 

 私は小さく微笑む。

 

「それは、褒め言葉として受け取っておきますね」

 

 女は何も言わず、ふいと顔を背けた。

 

 

 

 

 

 

 




 灯麻希の無意識領域:満天の星空と地面が丸びを帯びた草原。月はない夜の闇だが、極無でなく星のヴェールに包まれたような安心感がある。




 【その後、煉獄を起こす前のシーン】
 
 座席の揺れに紛れて、小さな音が混じった。
 ほんの微かな嗚咽に、灯麻希は視線を落とした。縄で繋がれたまま座席に横たわる芥子色の着物の男。その肩が微かに震えている。目は閉じたままだったが、頬には一筋の涙が伝っていた。
 
「……もしかして、起きてるの?」

 小さく声をかけても、返事はない。
 けれど、男の呼吸は浅く乱れ、何かを堪えるように喉の奥で詰まっていた。まるで、夢の中で何かを見ているかのように。

 その意識の奥深くで――男は、光を前に立ち尽くしていた。

 荒れ果てた男の意識の底。辿り着いた先にあったのは、あまりにも静かな場所だった。ひび割れた大地も、濁った空もない。ただ、柔らかな光が満ちている。
 その中心に、小さな存在があった。掌に乗るほどの、人の形をした白く淡い光。髪の先が赤みを帯び、額に傷を持つ鬼狩りの少年――炭治郎の無意識の領域にある、精神の核を守る小人だった。
 
 男がここまで連れてきてしまったそれは、何も言わない。
 ただ、そこに在るだけで――温かかった。

 男の喉が震える。壊せばいい。これを壊せば、救われる。そう言われたのだ。借金も、絶望も、何もかも。この先の苦しみから逃れられるのだと。

 けれど、炭治郎の無意識の領域に立った男の手は、最後まで伸びなかった。
 
 壊してはいけない。理屈で考えるより先に、もっと深いところで分かってしまったのだ。目の前にあるものは、自分が望む救いのために踏みにじっていいものではないのだと。

 男の膝から、力が抜けた。その瞬間、堰を切ったように涙が溢れ出す。
 自分が何をしようとしていたのか。どれほど取り返しのつかないことに手をかけていたのか。ようやく、その意味を理解してしまった。
 
 光の小人は、何も責めない。男の後悔を知っているわけでも、彼が何をしようとしたのか分かっているわけでもない。ただ、変わらず穏やかに、そこに在り続けている。

 それが、余計に――堪え難かった。

「…………っ、ぅ…………」

 男の喉から、押し殺した嗚咽が漏れる。
 閉じられた瞼の下で、涙が途切れることなく流れ続けていた。灯麻希はその様子を、静かに見つめる。

 問いかけることはしなかった。何を見ているのか、聞かなくても分かる気がしたからだ。
 代わりに、そっと視線を伏せる。

 ――――この男は、もう壊(・)す(・)側(・)には戻れない。

 そう判断するには、十分だった。
 やがて、男の呼吸が少しずつ落ち着いていく。涙はまだ止まらない。それでも、乱れていた息は次第に整い、肩の震えも弱まっていった。

 夢の中での出来事が、目覚めた後までどれほど残るのかは分からない。
 それでも、確かに何かが変わったのだろう。灯麻希は小さく息を吐くと、顔を上げ、男へと声をかけた。

「……事情は、上の人に話せる」

 わずかな間が空いた。

「騙された借金なら、解決できる道はあるかもしれない。でも、あなたがやろうとしたことは消えない」

 男を見据える声音に、甘さはなかった。それでも、突き放すだけでは終わらせない。

「…………それでもいいなら」

 男の肩が、再び震えた。
 しばらくして、ぎこちなく――それでも確かに、頷いた。
 
 

 
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

藤襲山の巫女鬼 きめつ隠れ里噺【完結】(作者:chikuwabu)(原作:鬼滅の刃)

慶応四年。呪いを祓う力を持った幼い巫女が、鬼にされた挙げ句に「最終選別」で知られる藤襲山に放り込まれ。▼なんやかんやで呪いを自力で解き、鬼とは違う存在となって、相棒の手鬼とともに藤襲山に自分たちだけの隠れ里を作り、最終選別にちょっかいを出したり、鱗滝一門を曇らせたり、蜂蜜を舐めたり、眷属を作って里を開拓したりで、第三勢力としてまったりゆったり過ごしていくお話…


総合評価:4226/評価:8.88/完結:81話/更新日時:2026年10月23日(金) 23:00 小説情報

目覚めたらまさかの竈門一家の一人で禰豆子となぜか炭治郎が鬼化していた件(作者:時長凜祢@二次創作主力垢)(原作:鬼滅の刃)

 時は大正時代。▼ 夜は鬼が蔓延り、常に鬼狩りたちが駆け回る世界。▼ そこにはどういうわけか、世界のイレギュラー要素として入り込んでしまった少女がいた。▼ 少女の名前は竈門優緋。▼ 本来ならば、普通の高校生として学校生活を送り、なんの変哲もない人生を歩むはずだった彼女は、いつのまにか竈門家の一番上の姉という立場として、鬼になってしまった禰豆子と、なぜか本来な…


総合評価:8382/評価:7.69/連載:181話/更新日時:2026年09月16日(水) 22:07 小説情報

なんかしらんけど原作壊れてたので、ヴィランデクにして王にします。(作者:ライジール)(原作:僕のヒーローアカデミア)

TS転生してヴィラン『ジョーカー』が、見守っていたら何故か原作が壊れたので、デクを拾って『ヴィランデク』を作ろうと思います。▼ジョーカーの立ち絵が完成しました▼【挿絵表示】▼トガヒミコの立ち絵▼【挿絵表示】▼トゥワイスの立ち絵▼【挿絵表示】▼ロワ・ザ・ワールド▼【挿絵表示】▼R18▼https://syosetu.org/?mode=write_novel_…


総合評価:2938/評価:7.55/連載:10話/更新日時:2026年10月09日(金) 01:00 小説情報

ありふれたギャルは世界最狂(作者:バグッた左スティック)(原作:ありふれた職業で世界最強)

▼「一章『虚ろなる異界へ招かれて』完結済み。現在、二章『紫電纏し銀爛の魔女』連載中です。」▼「あーし別に、人殺しになりたいわけじゃないし」▼ある日の昼休み、教室ごと異世界へ召喚された高校生たち。▼戦争への協力を求められ、クラスの中心にいる少年が頷きかけたその時――思わずシャツの裾を掴んで引き止めたのは、金髪ゆる巻きのギャル・南雲ハジメだった。▼難しいことは腐…


総合評価:429/評価:8.83/連載:58話/更新日時:2026年10月27日(火) 00:00 小説情報

俺がマギカなのか……?改(作者:きのこ大三元)(原作:魔法少女まどか☆マギカ)

 目を覚ますと、そこは『魔法少女まどか☆マギカ』の世界だった。▼ ▼ しかも自分は見知らぬ少女の姿で、時系列は暁美ほむらがまだ眼鏡と三つ編みだった最初の時間軸。▼ ▼ 『叛逆の物語』まで知っている以上、この先に起こる悲劇も知っている。▼ なら、未来を変えればいい――そう思った。▼ ▼ だが、自分自身のことだけは何も分からない。▼ ▼ 長く学校を休んでいたらし…


総合評価:2024/評価:8.6/連載:56話/更新日時:2026年10月26日(月) 18:53 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>