「何なのよ……ここ」
三つ編みの女は、魘夢に教えられた手順をなぞり、夢の外側へと抜け出した。意識の層を潜り、夢の端まで辿り着いて無意識の領域へ至る――そこまでは、何一つ狂いはなかった。町外れの風景を装った夢の壁を、手にした専用の針で切り裂き、その向こうへ足を踏み入れた。
だが、広がっていた光景を目にした途端、女の足は止まった。
大地は黒く焼け、至るところに深いひびが走っていた。踏みしめるたびに草履の裏から乾いた音が返り、遠くでは赤く煮え立つ溶岩がゆっくりと流れながら、周囲の景色を歪ませている。熱気が肌を刺し、息を吸うだけで喉の奥まで焼けつくようだった。
見上げた空は灰色に濁り、幾重もの煙が低く垂れ込めている。陽の光は辛うじて届いていたが、世界を照らすにはあまりにも弱く、辺りには溶岩の放つ鈍い赤だけが、沈んだ光となって広がっていた。
そして———道がなかった。
前方には、地面が断ち切られたような崖が口を開けている。左右には鋭く裂けた岩壁がそびえ、進めるはずの足場は途中で途切れていた。先へ行こうとすれば、あとは奈落へ落ちるしかない。
迷路ですらなかった。道を見失わせるための入り組んだ構造ではなく、そもそも進むこと自体を拒むように、世界そのものが閉ざされている。
女の喉が、ひくりと鳴った。それでも、立ち尽くしているわけにはいかない。女は不安を押し隠すように視線を走らせ、どこかに抜け道があるはずだと、わずかな手掛かりを求めて周囲を探った。
その時———視界の端に、不自然な線が走った。
崩れた岩盤。その断面は、自然に割れたものとは明らかに違っていた。滑らかに断ち切られたのではなく、何かに叩き砕かれ、無理やり捻じ開けられたような痕跡が残っている。さらに、その奥。本来なら地形が繋がるはずのない場所に、細い通路が口を開けていた。
あり得ない。
この領域は、本来もっと整然としているはずだった。精神の核へ至る道は、無意識の世界に沿って形作られるものであり、こんな暴力的な破壊の痕跡を残して現れるものではない。
ならば———誰かが壊したのだ。
そう理解した瞬間、女の背筋を冷たいものが走った。
視線が揺れ、呼吸が浅くなる。それでも、あの通路を確かめようと一歩を踏み出しかけて――足が止まった。
進める気がしない。どこへ向かえばいいのかも、どう進めばいいのかも分からない。
目の前に道らしきものはある。それなのに、そこへ向かうための一歩が、どうしても踏み出せなかった。
「こんなの進めるわけないじゃない――――!!」
女の叫びが、焼けた岩肌に反響した。
(早く、ここに存在しているはずの“精神の核”を破壊して、持ち主を廃人にしないといけないのに……!!)
時間は限られている。夢の外で待ち構えていたお面の女が、再び邪魔をしてくる可能性もあった。焦りが胸の奥で燻り、歯を食いしばりながら周囲へ視線を巡らせた、その時———
———カツン
乾いた音が、頭上から落ちてきた。反射的に顔を上げる。
焼けた岩の縁、不安定な足場の上に、一人の人影が立っていた。逆光に縁取られた輪郭が、ゆっくりとこちらを見下ろす。手には刀身の赤い刀が握られていたが、切っ先は力なく下げられている。
前髪を上げた黒髪の少年———竈門竹雄だった。上下の洋装と緑色の羽織には、煤や土埃がうっすらと付着している。額には汗が滲んでいたが、呼吸は乱れていない。濃い赤の瞳だけが、眼下の女を真っ直ぐに捉えていた。
女の目が、大きく見開かれる。
「人の気配がしたから、もしかしたらと思って来てみれば……良かった!人がいた!」
張り詰めていた緊張が一気に解けたように、言葉が弾ける。声に滲んでいるのは、ようやく助けを求められる相手を見つけた安堵だった。
———その直後。岩の縁にあった竹雄の足が、微かに動いた。次の瞬間には、二人の間にあった距離が消えていた。
ドン、と小さな衝撃が足元を打つ。女が状況を理解するより早く、竹雄はすでに目の前へ降り立っていた。
「ここには人いなかったのに、なんであなたは来れたんだ?」
「……それはこっちが聞きたいわよ!」
反射的に言い返した女を、竹雄は僅かに目を細めて見つめた。
その眼差しは鋭い。けれど、ただ敵意を向けているわけではなかった。女の言葉だけでなく、返答までの間や声の調子、その一瞬の反応までも確かめるような———相手を見極めようとする目だった。
「どうして……
「……っ」
女の言葉が詰まる。指先が強張り、先ほどまで浮かべていた安堵の表情に、わずかな戸惑いが混じった。
竹雄は、その変化を見逃さなかった。追い詰めるために問い詰めているのではない。目の前の女が、自分の知っている何かと食い違っている。その違和感の正体を探るように、反応の一つ一つを拾い上げているのだ。
「まあ……いいか」
ひとまず追及を切り上げ、竹雄は周囲へ目を向けた。黒く焼けた大地に、赤く煮え立つ溶岩。行く手を塞ぐ崖と、足場の途切れた岩壁。どこを見渡しても、安全に進めそうな場所はない。それらを一通り確かめてから、再び女へ視線を戻す。
「ここ、普通じゃないよね。山も崖も全部危険だし、道らしき道もない」
まるで、目の前にある事実を一つずつ確かめるような口調だった。自分がどこにいるのかも、なぜこんな場所にいるのかも分からない。それでも竹雄は、分からないことに呑まれるのではなく、まず目の前の状況を整理しようとしていた。
竹雄は足元の砕けた岩を軽く踏んだ。砂利が崩れ、斜面を転がり落ちていく乾いた音が、周囲の静寂の中でやけに遠くまで響く。その余韻を確かめるように一度だけ周囲へ視線を走らせると、すぐに女へと向き直った。
「でも、あなたは迷ってない。最初から来る場所が分かってたみたいだ。町にいた人たちは誰もここまで来なかったのに、あなただけ違う…………どうして?」
淡々とした問いだった。けれど、言葉を重ねるたびに女の立場は狭まっていく。竹雄は声を荒らげることも、答えを急かすこともなく、目の前にある事実を一つずつ並べ、その食い違いを確かめようとしていた。焦りでも、恐れでもない。ただ状況を理解するための、真っ直ぐな思考だった。
「そ、それは……」
女は答えられず、視線を泳がせた。
竹雄は一歩、前へ出る。威圧するためではなく、相手の反応を確かめるように、静かに距離を詰めた。
「……原因があるなら、壊せば出られると思った。だから、壊してきた」
竹雄の背後には、裂けた大地と砕けた岩盤が広がっていた。無理やり繋げられた足場に、踏み抜かれた亀裂。進むために壊した痕跡が、そのまま歪な道を形作っている。崩れきらずに残っていた砂礫が、遅れて斜面を滑り落ち、ぱらぱらと乾いた音を立てた。
「でも、それじゃ駄目だった。出口は見つからないし、どこにも繋がってない」
竹雄は、そこまでの経緯を確かめるように視線を巡らせた。
壊しても、出られなかった。ならば、別の方法を探す必要がある。そう考える声には、失敗への苛立ちすらほとんど滲んでいなかった。すでに次の手を考えているのだ。
そして————
「それなのに、あなたはここに来れてる」
再び、女を見据える。
「この場所も、鬼が作ってるんだと思う。あなたも鬼の血鬼術の一部かもしれない……」
推測を口にした竹雄の手元で、赤い刀身がゆっくりと持ち上がった。
「な、何をするつもりなの……」
「君を斬る。それで分かるかもしれない」
あまりにも簡潔な答えだった。
そこに、相手を苦しめたいという嗜虐も、怒りに任せた衝動もない。ただ、この場所から抜け出すために必要な情報を得る。そのための手段として、目の前の女を斬るという選択肢が浮かび、竹雄はそれを口にしただけだった。
もっとも、人を斬るという判断が、彼の中で完全に軽いわけではない。
刀を構えたまま、ほんの微かに呼吸が深くなる。刃を振るうことへの躊躇か、それとも自分の推測が間違っている可能性を考えているのか。その一瞬の変化を、女は見逃さなかった。
———この少年は、本気だ。
「ま、待って……!全部話すから、許して!!」
女の声が、目に見えて崩れた。
「私は生きた人間よ!夢でも幻でもない、外から入ってきた……現実の人間なの!!」
堰を切ったように言葉が溢れ出す。乾いた空気に震える声が滲み、女の肩は小刻みに揺れていた。握りしめた袖には幾重もの皺が寄り、視線は目の前の刃から逸らせないまま、必死に言葉を繋いでいく。
「鬼に……魘夢に、言われたの……!夢に入って……その…………壊せばいいって……!!」
言葉は途切れ途切れで、うまく形を保てていない。それでも、自分が何を命じられ、何をすればよかったのかだけは、縋るように繰り返した。
「そうすれば……助かるって……夢を見せてくれるって……!だから……だから……!」
懇願に近い響きが、女の口から零れる。
「壊すって……」
その言葉を遮るように、竹雄の声が落ちた。声色に揺れはない。女の訴えに心を動かされるよりも先に、彼の思考はその言葉が指すものへと進んでいた。
「――――
竹雄の視線が、女の背後へ流れる。
つられて振り返った女は、思わず目を瞬かせた。そこにあるのは、荒れ果てた岩肌と、どこまでも続く裂けた大地。山の斜面からは熱気が揺らめき、赤い溶岩が遠くで煮え立っている。けれど、壊すべきものなど、どこにも見当たらなかった。
「え……?な、何もないわよ…………山しか見えない………何のことを言ってるの?」
困惑を露わにする女を前に、竹雄は答えず、目を細めた。
その時だった。足元の岩が、鈍い音を立てて軋んだ。
――ゴ、と低い地鳴りが響く。直後、地面が大きく揺れた。ひび割れた足場が波打つように沈み、崖の縁から石や砂礫が次々と剥がれ落ちていく。
「ごめん、揺れるよ」
竹雄は一瞬だけ足場を見極めると、女の腕を掴んだ。
「えっ――」
引き寄せられた女が声を上げる間もなく、竹雄は崩れかけた岩を蹴って踏み込んだ。身体が大きく沈んだ次の瞬間、二人の姿は砕けていく足場を離れ、空へと跳ね上がっていた。
「何……?きゃっ……!?」
眼下で岩盤が崩れ落ち、砂煙が舞い上がる。女には何が起きたのか理解する暇もなかった。ただ、つい先ほどまで自分を斬ろうとしていた少年に腕を掴まれ、崩壊する大地から引き離されている――その事実だけが、遅れて頭に追いついてきた。
竹雄は視線を落とすことなく、崩落の連鎖を避けるように次の足場へ飛び移った。着地と同時に岩が砕け、砂礫が崖下へ落ちていく。それにも構わず、さらに先の岩場へと跳ぶ。揺れの大きさと足場の状態を瞬時に見極め、最短で安全な場所を選びながら、迷いなく崩れゆく大地を越えていった。
やがて二人は、崖の縁に沿って細く伸びる岩の通路へと降り立った。ここまで来ると揺れは幾分弱まり、足元の岩もひとまず安定している。竹雄は女の腕を離し、そのまま地面へ下ろした。
「ここなら見える?」
短く尋ね、崖の向こうへ視線を上げる。女もつられるように顔を上げた。
そして———視界の奥で、何かが光った。裂けた大地の向こう、山頂へと続く岩の重なり。その奥にぽっかりと空いた空洞の中で、一際異質な光が揺れていた。
柔らかく、温かい光だった。
黒く焼けた大地も、煮え立つ溶岩も、灰に濁った空も、その光の周囲だけは無縁に思える。小さな木々が穏やかに揺れ、淡い光が辺りを包み込んでいた。その中心に埋め込まれているのは、宝石のように輝く丸い物体だった。
「……っ」
女の喉が震えた。
「そ……そうよ……!あれが……“精神の核”よ……!!」
竹雄は、空洞の中で輝くそれをじっと見つめていた。
ほんの一瞬、呼吸が深くなる。けれど、次に口を開いたときには、もう答えが出ていた。
「やっぱりそうか……」
女が、期待を滲ませた目で竹雄を見上げる。ようやく目的のものを見つけたのだ。これで自分の役目を果たせる――そんな期待が、その表情には浮かんでいた。
「壊さないよ」
竹雄は核から視線を外さないまま、あっさりと言った。女が息を呑む。
「鬼が壊させようとしてるなら、なおさらだ……
あなたの行動は止めない。でも――手伝いもしない」
そこで初めて、竹雄は女へ視線を戻した。
「落ちそうになったら助けるけど……それだけだ」
声音に変化はない。相手を突き放すような怒りも、説得しようとする熱意もなかった。ただ、協力するつもりがないことだけは、はっきりと伝わってくる。
「俺は、ここから出る方法を探す」
それだけ告げると、竹雄は再び視線を外し、周囲の地形を見渡し始めた。
女はしばらく、その背中を見つめていた。やがて、おそるおそる足元へ目を落とす。細く伸びた岩の通路は崖の縁に寄り添うように続き、その下では崩れた岩盤が今も砂煙を上げていた。地震のような揺れも、完全には収まっていない。その先には、精神の核が埋め込まれた山頂がある。
「…………無理よ……こんな所、進めるわけない……さっきから地震も起きてるし……」
ぽつりと零れた声は、掠れていた。
「命がいくつあっても足りないわよ……私は、ただの人間なんだから……」
とうとう力が抜けたように、女はその場へ座り込んだ。顔を上げれば、目的の核が見える。けれど、そこへ続く道を見定めることすらできない。女の視線は山頂へ向かうことなく、ただ、自分の足元に広がる危うい岩場へと落ちていた。
侵入者の女が言葉を失い、竹雄が出口を探るように周囲へ視線を巡らせてから、数分が過ぎた。
唐突に———空気が歪んだ。
最初に異変を捉えたのは竹雄だった。足場の岩を踏みしめたまま、僅かに腰を落として身構える。視線が頭上を走り、遅れて女も周囲の変化に気づいた。
「なに、これ……?」
音がずれていた。風も熱もないはずなのに、目の前の景色だけが水面のように揺らいでいる。空間そのものが何かに押され、形を保てなくなっているかのようだった。
次の瞬間———
「っ!?」
竹雄の全身を、炎が走った。遅れて、女の悲鳴が弾ける。
「ひぃ!体が……も、燃えてる……!!」
赤い炎が衣服ごと竹雄を包み込み、瞬く間に全身へと広がっていく。けれど、焼ける匂いはしない。皮膚を焼く痛みも、熱に炙られる感覚もなかった。竹雄は咄嗟に自分の手を見下ろした。指先に至るまで鮮やかな炎が揺らめいている。それなのに、手の感覚は失われていなかった。
「熱く、ない!」
炎の奥に、微かな気配が混じっていた。鬼のものだ。だが、夢全体を膜のように覆っている、あの禍々しくまとわりつく気配とは違う。もっと穏やかで、近しくて――知っているものに似ていた。姉、灯麻希との記憶が脳裏をよぎる。
「この感じ……」
赤い炎を見つめていた竹雄の目が、大きく見開かれた。
「禰豆子姉ちゃんの血鬼術だ!俺を、起こそうとしてる……!!」
「なっ……そんなこと、できるわけ――」
女の声が震えた。しかし、その言葉は最後まで続かなかった。
炎が一段と強く燃え上がる。赤い揺らぎが竹雄の身体を越え、周囲の空間へと広がっていった。岩肌も、裂けた大地も、灰色の空さえも、その輪郭を保てなくなったかのように軋みながら歪んでいく。
そして、頭上。何もないはずの空間に、白い線が走った。
ひび割れのような細い筋は、音もなく枝分かれしながら広がっていく。やがてその亀裂が大きく口を開け、向こう側へ続く裂け目へと変わった。
「――これは」
竹雄の視線が、その一点に吸い寄せられる。
直感だった。なぜそう思ったのか、説明はできない。けれど、あの向こうに何があるのか、何をすればいいのか――身体が先に理解していた。
――出口だ。
裂け目が、さらに広がった。向こう側から何かが押し出されるように空間が歪み、その隙間から、白く細い腕が伸びてくる。
「っ――!」
考えるより早く、竹雄は動いていた。
燃え盛る炎の中から腕を伸ばし、差し出された手を掴む。指がしっかりと絡んだのを確かめると同時に、もう片方の腕で女の身体を引き寄せた。抵抗する暇も、何が起きているのか考える余裕も与えない。竹雄は女を確実に抱え込み、伸ばした手を決して離さなかった。
その瞬間――赤い炎が、いっそう激しく燃え上がった。
***
最初に、腕の中へ重みが飛び込んできた。
夢の向こうから伸びてきた手を掴み、引き寄せた身体。その感触を確かめる間もなく、足元から列車の揺れが突き上げてくる。車輪が線路を刻む音も、車内の空気も、すべてが一気に現実のものとして押し寄せた。
――戻ってきた。
私の意識が、一気に浮上する。目を開けると、すぐ目の前に赤い瞳があった。見慣れた黒髪。腕の中で瞬きをする、その姿は———
「良かった……!目覚めた……!」
「姉ちゃん!!」
竹雄が、目を覚ました。その事実を確かめるように、私は思わず両手で弟の頬を挟んだ。顔を覗き込み、目の動きや呼吸を確かめる。頬に触れた感触も、返ってくる声も、いつもと変わらない。熱も、呼吸も、視線も———全部、問題ない。
「ちょ、ちょっと……やめてよ姉ちゃん!潰れるって……!」
竹雄が困ったように抗議する。その声を聞いて、ようやく胸の奥に張り詰めていたものがほどけた。無事に目を覚ましてくれた。それだけで、今は十分だった。
「やったね、禰豆子。竹雄、起きたよ……次は炭治郎――」
私は竹雄から手を離し、右側の座席へと視線を向けた。禰豆子が、炭治郎の顔を覗き込んでいる――その瞬間だった。
「うわおおあああああああ!!!」
弾けるように炭治郎が跳ね起きた。
ゴチン!
鈍い音が車内に響き、勢いよく起き上がった炭治郎の額が、覗き込んでいた禰豆子の額にまともにぶつかった。衝撃に禰豆子の体が小さくのけぞる。
「――ん!?」
「炭治郎!!」
「は―――…………」
額を押さえた禰豆子の顔に、赤い血が伝っていく。何が起きたのか分からず驚いたまま固まっていた表情が、やがてゆっくりと崩れ、ぽろぽろと涙が零れ始めた。炭治郎は慌てて妹の顔を覗き込む。
「禰豆子!!血が……大丈夫か……!?」
「兄ちゃんの石頭とぶつかったせいだよ……鬼の姉ちゃんより硬いんだね……兄ちゃんの頭……」
隣で竹雄が苦笑いを浮かべる。その言葉を聞いた途端、炭治郎の顔色が一瞬で変わった。
「そ、そうなのか……!?」
あまりにも真剣な表情で衝撃を受けているものだから、思わず息が抜けそうになる。けれど、すぐに私は炭治郎の首元へと視線を落とした。そこには、禰豆子の血鬼術――“爆血”で焼き切られた縄と、焦げた切符が残っている。
(やっぱり……自分で首を斬って、起きてきたんだ)
そうなる可能性は考えていた。それでも、実際に目の前で確かめると、胸の奥に言葉にしがたいものが込み上げてくる。
額には汗が滲み、目元には反射的に溢れた涙の跡が残っていた。炭治郎はそれを拭う暇もなく、禰豆子の肩に手を添え、必死に謝り続けている。
夢の中での“死”が、そのまま現実の目覚めに繋がる保証なんてない。確かなものは何ひとつないまま、炭治郎は自分の意思で、その綱を掴みにいったのだ。私の予定では、禰豆子の“爆血”で術を焼き、私の“魂視”と“茨ノ連”で亀裂を広げることで、確実に外へ引き戻すつもりだった。
それなのに、炭治郎はその手順を一足飛びに越えてきた。危うさを孕んだ選択だ。けれど、目の前の妹を助けるためなら、ほかの道を選ぼうとしない――それもまた、炭治郎らしい真っ直ぐさなのだろう。
(……本当に、無茶をする)
呆れたように息が緩む。けれど、その胸に残った温度は、決して否定のそれではなかった。
しかし、思考が深く沈みきる前に、私は視線を滑らせた。まだ眠っている侵入者は二人。三つ編みの女と芥子色の着物の男が、炭治郎と竹雄に繋いだ縄を自分たちの手首に括りつけたまま、力なく座席に沈んでいる。
「――竹雄。あの二人を、今のうちに動けないように縛ってくれる?」
短く告げる。詳しい説明は要らない。目の前の状況を見れば、竹雄なら何をすべきか分かるはずだ。
「! 分かった」
返事は即座だった。竹雄は迷わず立ち上がると、まず手近な三つ編みの女の手首から縄を外し、そのまま座席の支柱へと巻き付け始めた。目覚めたばかりだというのに、その手つきに迷いはない。
「……俺も、何か手伝えることはないか」
控えめな声が差し込んだ。
振り向くと、紺色の着物の男が、縄を扱う竹雄を窺っていた。隣の座席では、治療を終えた結核の男が目を伏せて横たわり、穏やかな呼吸を繰り返している。その傍らに膝をついたまま、男は視線だけをこちらへ向けていた。
その目には迷いと躊躇いが残っている。それでも、何かしなければという焦りだけは、押し殺せずに滲んでいた。竹雄がちらりと男へ目を向ける。
「こっちは大丈夫ですので、その男の人を見ててください」
それだけ告げると、竹雄は再び手元へ意識を戻した。
紺色の男は何か言いかけて口を閉じ、やがて小さく頷くと、横たわる男へと視線を落とした。
その間に、炭治郎もまた車内の状況を確かめていた。焼き切れた縄に、焦げた切符。眠り続ける煉獄さん、善逸くん、伊之助。そして、見覚えのない人間たち――炭治郎の視線が、それらを一息のうちに捉えていく。
「姉ちゃん、この人たちは……?」
縄で繋がれたままの二人に、前の座席からこちらを窺う紺色の男と糸目の女。まだ状況の全貌は掴めていないはずなのに、炭治郎の声は、目の前にある疑問の核心をまっすぐに捉えていた。
「彼らは鬼に従った人間なの。眠らされた炭治郎たちに近づいてきたんだ。直接の狙いまでは分からないけど、無力化しようとしていたのは確か。止めようとはしたけど、二人には潜り込まれてしまった……ごめん」
短く息を吐き、私は炭治郎と竹雄に順番に視線を向けた。
「眠っている間に、何かされた?」
先に口を開いたのは竹雄だった。
「女の人と会ったよ。危険な感じはなかったけど……“精神の核”っていうのを探してた。見つけたら壊せって言われてたみたいだ」
「“精神の核”……魂に近いもの、かもしれないね」
「多分。俺を内側から壊すつもりだったんだと思う」
私と竹雄の説明を聞いても、炭治郎はすぐには何も言わなかった。何かを言いかけて口を閉じると、視線を落とし、座席に沈んだままの侵入者たちを見つめる。
「兄ちゃんは、男の人には会ってないの?」
「俺は会ってない」
炭治郎はそう答えたものの、その目は二人から離れなかった。
「……そうか、この人たち…………自分の意志で……」
最後の言葉は、沈み込むように途切れた。
「追い詰められてたんだと思う。現実に耐えきれなくなって、そこに鬼が入り込んだんだ」
私は静かに言葉を落とし、眠ったままの侵入者たちへと目を向けた。
「やろうとしたことは消えない。でも……まだ、取り返しはつく――――止められてよかった」
そこで言葉を切る。
彼らが何を抱え、どんな思いで鬼に従ったのか。そのすべてを、私たちは知らない。けれど、彼らが自分の意志で選んだことも、その選択によって誰かを傷つけようとしたことも、なかったことにはできなかった。
それでも、取り返しのつかないところまで進む前に止められた。その事実だけは、確かだった。
張り詰めた空気に、微かな重さが残る。その端で、不意に声がした。
「仕方、ないでしょう……」
糸目の女が、小さく呟いていた。この女は、魘夢に恋をしていた。結核の男を治療した後、泣きながらそのことを口にしていたのを覚えている。
――利用されているだけだと、分かっていても。その思いが、彼女をここまで動かしたのだろうか。
「……そうか」
炭治郎が、ゆっくりと立ち上がった。その表情からは、目覚めた直後の動揺はもう消えていた。代わりに浮かんでいるのは、目の前の人間たちと、その行いに向き合おうとする静かな眼差しだった。
「姉ちゃんは、禰豆子を頼む!」
「うん。ここは任せて。善逸くんたちも、もうすぐ起きる」
私が頷くと、炭治郎の眼差しが鋭さを増した。
「俺たちは鬼を探す!!竹雄、行くぞ!!」
「うん!!――それと灯麻希姉ちゃん!女の人が起きたら、夢の中ではごめんなさいって伝えてといて!」
竹雄はそう言い残し、炭治郎とともに駆け出した。二人の足音が列車の規則的な揺れに重なり、やがて車輪の響きに呑み込まれていく。
進行方向の扉が開くと、二人は短く言葉を交わした。次の瞬間、炭治郎は躊躇なく車外へと跳び出し、走る列車の屋根へ身を乗り出すと、吹きつける風を切って前方へ駆けていった。一方の竹雄は振り返ることなく車内を走り抜け、前方車両へと姿を消す。
その背を一瞬だけ目で追い、私はすぐに意識を切り替えた。
「禰豆子、少し位置を替えよう。こっちに来てくれる?」
声を掛けると、額の傷が綺麗に塞がった禰豆子は、小さく頷いて立ち上がった。
「善逸くんは、禰豆子が呼んだ方が起きる気がする。私は煉獄さんを起こすよ」
私たちは座席の間を縫うように移動し、手分けして眠る仲間を起こすため、速やかに位置を入れ替えた。そして、右側の座席で眠る煉獄さんへ手を伸ばそうとした、その時だった。
視界の端に、わずかな違和感が引っかかった。
――三つ編みの女の瞼が、薄く開いていた。
「起きていたんですね……その様子だと、随分前から?」
「…………えぇ」
掠れた返答が返ってくる。けれど、その瞳に、目を覚ます前のような狂気の色はなかった。そこにあるのは、夢から醒めて現実を見据えた人間の眼差しだった。
「それなら、竹雄の伝言も私が伝えなくてよさそうですね。夢の中で何があったのか、聞いても?」
少し首を傾け、視線を合わせる。女は眉を寄せると、答える代わりに顔を背けた。その仕草だけで、何があったのかは察せられた。
「……どうにもこうにも、鬼狩りは尋常じゃないって思い知らされただけよ」
吐き捨てるような声音だった。
けれど、そこには夢に入る前の焦燥も、何かに縋ろうとする危うさもない。ただ、思い通りにならなかったことへの苦々しさと、認めたくない何かが滲んでいた。
私は小さく微笑む。
「それは、褒め言葉として受け取っておきますね」
女は何も言わず、ふいと顔を背けた。
灯麻希の無意識領域:満天の星空と地面が丸びを帯びた草原。月はない夜の闇だが、極無でなく星のヴェールに包まれたような安心感がある。
【その後、煉獄を起こす前のシーン】
座席の揺れに紛れて、小さな音が混じった。
ほんの微かな嗚咽に、灯麻希は視線を落とした。縄で繋がれたまま座席に横たわる芥子色の着物の男。その肩が微かに震えている。目は閉じたままだったが、頬には一筋の涙が伝っていた。
「……もしかして、起きてるの?」
小さく声をかけても、返事はない。
けれど、男の呼吸は浅く乱れ、何かを堪えるように喉の奥で詰まっていた。まるで、夢の中で何かを見ているかのように。
その意識の奥深くで――男は、光を前に立ち尽くしていた。
荒れ果てた男の意識の底。辿り着いた先にあったのは、あまりにも静かな場所だった。ひび割れた大地も、濁った空もない。ただ、柔らかな光が満ちている。
その中心に、小さな存在があった。掌に乗るほどの、人の形をした白く淡い光。髪の先が赤みを帯び、額に傷を持つ鬼狩りの少年――炭治郎の無意識の領域にある、精神の核を守る小人だった。
男がここまで連れてきてしまったそれは、何も言わない。
ただ、そこに在るだけで――温かかった。
男の喉が震える。壊せばいい。これを壊せば、救われる。そう言われたのだ。借金も、絶望も、何もかも。この先の苦しみから逃れられるのだと。
けれど、炭治郎の無意識の領域に立った男の手は、最後まで伸びなかった。
壊してはいけない。理屈で考えるより先に、もっと深いところで分かってしまったのだ。目の前にあるものは、自分が望む救いのために踏みにじっていいものではないのだと。
男の膝から、力が抜けた。その瞬間、堰を切ったように涙が溢れ出す。
自分が何をしようとしていたのか。どれほど取り返しのつかないことに手をかけていたのか。ようやく、その意味を理解してしまった。
光の小人は、何も責めない。男の後悔を知っているわけでも、彼が何をしようとしたのか分かっているわけでもない。ただ、変わらず穏やかに、そこに在り続けている。
それが、余計に――堪え難かった。
「…………っ、ぅ…………」
男の喉から、押し殺した嗚咽が漏れる。
閉じられた瞼の下で、涙が途切れることなく流れ続けていた。灯麻希はその様子を、静かに見つめる。
問いかけることはしなかった。何を見ているのか、聞かなくても分かる気がしたからだ。
代わりに、そっと視線を伏せる。
――――この男は、もう
そう判断するには、十分だった。
やがて、男の呼吸が少しずつ落ち着いていく。涙はまだ止まらない。それでも、乱れていた息は次第に整い、肩の震えも弱まっていった。
夢の中での出来事が、目覚めた後までどれほど残るのかは分からない。
それでも、確かに何かが変わったのだろう。灯麻希は小さく息を吐くと、顔を上げ、男へと声をかけた。
「……事情は、上の人に話せる」
わずかな間が空いた。
「騙された借金なら、解決できる道はあるかもしれない。でも、あなたがやろうとしたことは消えない」
男を見据える声音に、甘さはなかった。それでも、突き放すだけでは終わらせない。
「…………それでもいいなら」
男の肩が、再び震えた。
しばらくして、ぎこちなく――それでも確かに、頷いた。