猗窩座を中心に、十二方向へ針を放射したような陣が展開される。雪の結晶にも似た紋様が夜気の中で淡く光り、足元に広がるその図形は、見る者の距離感さえ狂わせるように揺らめいていた。
煉獄と灯麻希が、ほぼ同時に脚へ力を込める。猗窩座との間合いを詰めようと地を蹴る、その刹那――猗窩座が口元を吊り上げ、ふわりと宙へ跳んだ。
(! あの構え――)
灯麻希がその軌道の異常さを捉えた瞬間、猗窩座の拳が空を薙ぐ。
(――
“破壊殺・空式”!
拳が振るわれた空間から、青い衝撃が放たれる。目に映るのは拳そのものではない。眼前へと迫り、地上へ降り注ぐ衝撃の奔流だった。
煉獄が即座に一歩前へ出る。その動きを視界の端に捉えた灯麻希も、ほとんど反射的に跳躍していた。煉獄の赤い刀身が、炎を引いて走る。
“肆ノ型 盛炎のうねり”!
“ヒノカミ神楽 灼骨炎陽”!
地上では、燃え上がる炎の軌跡が降り注ぐ衝撃を正面から迎え撃つ。空中では、水平に走った焔が迫り来る衝撃の余波を受け流すように広がり、青い破壊の奔流と交錯した。
衝撃が重なり合い、夜の空気が一瞬、白く歪む。
炭治郎が目を見開いた時には、三人の姿はすでに交錯し、次の動きへと移っていた。
轟音が立て続けに弾ける。余波が汽車の煙突を吹き飛ばし、左手の林をなぎ倒す。遅れて大地が揺れ、砕けた土や木片が夜空へ舞い上がった。
「やはり弱者を守るか、杏寿郎!」
猗窩座の声が、舞い上がる土煙を貫いて夜気を滑る。
「今まで殺してきた柱たちに炎はいなかったな!そして俺の誘いに頷く者も、弱者を守らない者もいなかった!」
愉快そうに嗤う猗窩座に、煉獄は答えない。
土煙を蹴散らし、地面を砕く勢いで踏み込むと、そのまま一気に間合いを詰めた。灯麻希もまた、地を蹴る。
二人の間に言葉はない。それでも、互いに理解していた。
距離を取られれば、不利になる。
先ほどの空式が示したのは、単なる威力だけではなかった。広範囲を巻き込む攻撃を自在に放たれれば、守るべき者たちを背負ったまま戦うことになる。
ならば、選ぶべき道はひとつ。猗窩座に距離を取らせず、接近戦を維持する。
「素晴らしい反応速度だ!」
迫り来る二人を見据え、猗窩座の瞳が歓喜に染まった。
「この素晴らしい剣技も失われていくのだ、杏寿郎!悲しくはないのか!!」
「誰もがそうだ!人間なら!!当然のことだ!!」
炎を引く刀身と、青白い拳が空中で激突する。鋭い金属音にも似た衝撃が夜の
着地した瞬間、間髪入れずに次の一撃が交わされる。
煉獄が踏み込み、猗窩座の拳を迎え撃つ。その攻防の隙間へ灯麻希が滑り込み、鋭い蹴撃を叩き込んだ。猗窩座が身を捌いてかわすより早く、煉獄の刃が追いすがる。
拳と刃、脚撃が目まぐるしく交錯し、凄まじい轟音が夜の草原に連続して響き渡った。
炭治郎から少し離れた前方で、二人と一体の激闘が繰り広げられている。
煉獄と灯麻希が息を合わせるように攻め立てても、猗窩座はその連撃を嬉々として捌いていた。拳と刃がぶつかるたびに衝撃が弾け、足元の土が砕け散る。それほどの攻撃を受けながら、猗窩座の動きには一切の淀みがない。
(速い!!)
炭治郎は目を見開いた。
二人の動きを追おうと、視線を必死に走らせる。目まぐるしく入れ替わる位置も、拳と刀が交差する瞬間も、かろうじて捉えられる。だが、動きを追うだけで精一杯だった。
その一方で、猗窩座には傷ひとつついていない。
(これほどの攻撃を受けているのに……!)
背筋を冷たいものが這い上がる。上弦の参――その強さを、炭治郎は目の前で思い知らされていた。
(俺も加勢しなければ……!起き上がらないと……!!)
見ているだけではいられなかった。炭治郎は腹の傷を押さえ、歯を食いしばりながら上体を起こそうとする。傷口に力がかかるたび、腹の奥に鋭い痛みが走った。それでも、目の前で戦う二人を見捨てるわけにはいかない。
地面に手をつき、どうにか身体を持ち上げようとした、その時――
「動くな!!傷が開いたら致命傷になるぞ!!待機命令!!」
「!!」
戦場を貫く煉獄の声に、炭治郎の動きが止まった。
その直後、猗窩座の拳をかわしながら、灯麻希が一瞬だけこちらを振り向いた。
目が合う。
姉は、にこりと笑った。その表情は、激しい攻防のさなかにあっても、少しも揺らいでいなかった。
戦場は、濃密な鬼の気配に支配されている。上弦の参――鬼舞辻無惨に連なる鬼の匂いが、夜気そのものを侵食するかのように満ちていた。その中では、姉の匂いさえ届かない。
それでも炭治郎には、分かった。
――ここは、私たちに任せろ。姉の笑顔は、そう告げていた。
猗窩座は、心底理解できないというように眉を寄せた。
「俺は理解しかねる!同じく武を極める者として!」
唸りを上げた拳撃が、煉獄の斬撃と正面から激突する。
衝撃が爆ぜ、地面を抉りながら砕けた土砂を宙へと巻き上げた。煉獄は炎を引く刀身を押し込み、猗窩座は拳ひとつでそれを受け止める。互いに一歩も退かぬまま、次の攻防へとなだれ込んだ。
「選ばれた者しか鬼にはなれないというのに!」
猗窩座の蹴りが夜気を裂く。
煉獄は身を捻って軌道をかわし、炎を纏った刃で蹴撃を受け流した。その刹那、灯麻希が煉獄の動きに生じた隙を縫い、猗窩座の死角へと滑り込む。
拳が閃いた。しかし――猗窩座は振り向きもしなかった。
迫る一撃を察知していたかのように肘を振るい、灯麻希の拳を横合いから叩き落とす。激突した瞬間、灯麻希の腕が跳ね上がった。骨が軋む。皮膚が裂け、鮮血が夜気に散った。
(っっやはり死角からの攻撃すら、見ることもなく捌くか……!)
腕に走る痛みを押し殺し、灯麻希は即座に身を引く。死角を突いたはずの一撃さえ、猗窩座には届かない。視界に捉えられていないのではなく、こちらの動きを察知したうえで、振り向く必要すらないのだ。
「素晴らしき才能を持つ者が醜く衰えてゆく!俺はつらい!耐えられない!」
嘆きとは裏腹に、猗窩座の拳は淀みなく繰り出される。
煉獄が刃を振るい、灯麻希が間合いを変えて攻め込む。その連携を前にしても、猗窩座は笑みを崩さず、迫る攻撃を次々と捌いていった。
拳圧が弾けるたび、周囲の木々が軋み、地面が浅く抉れて土煙が舞い上がる。
それでも猗窩座の表情には、苦痛も焦りもない。あるのは、目の前の強者を惜しむような、歪んだ歓喜だけだった。
「――死んでくれ杏寿郎!若く強いまま!」
笑みを深めた猗窩座が、煉獄を見据える。
その刹那、戦場の空気が変わった。猗窩座の両腕が残像を引くほどの速さで動き、次の攻撃へと構えられる。
煉獄の眼光が鋭く細まる。地を蹴った瞬間、踏み込みに呼応するように炎が膨れ上がった。
“炎の呼吸 伍ノ型”――
その傍らで、灯麻希もまた地を蹴る。
肺いっぱいに空気を取り込み、全身を巡る熱を一気に解き放つ。赫く燃え上がった火焔《かえん》が脚部から噴き上がり、彼女の身体を包み込むように揺らめいた。
ヒノカミ神楽――
“破壊殺・乱式”!!!
“炎虎”!!!
“輝輝恩光”!!!
耳を劈くような激音が炸裂した。猗窩座の両腕が唸りを上げ、嵐のごとき乱打となって空間を埋め尽くす。一撃ごとに衝撃波が弾け、地面には亀裂が走り、砕けた石片が四方へと吹き飛んだ。
その正面へ、煉獄の炎虎が食らいつく。巨大な烈火の虎が咆哮するように突き進み、押し寄せる乱打の渦へと真正面から激突した。炎が爆ぜ、拳圧が荒れ狂う。互いの力がぶつかり合い、夜の草原を灼熱と衝撃が塗り潰していく。
同時に、灯麻希が乱式の側面へと踏み込んだ。炎を纏うような高速の連撃――輝輝恩光の軌跡が幾重にも重なり、渦を巻く乱打の横腹へと叩き込まれる。拳と拳圧が衝突するたび火花のような炎が散り、正面へ集中していた衝撃が少しずつ削り取られていった。
乱打の圧力が、わずかに揺らぐ。その一瞬を、煉獄は逃さなかった。
炎虎が咆哮を轟かせ、正面から乱打を押し返す。烈火が拳圧の渦を食い破り、猗窩座の両腕を弾き飛ばした。
(……すげぇ!!)
炭治郎のもとへ駆けつけた伊之助が、目を見開いた。その隣では、竹雄が言葉を失って立ち尽くしていた。炎と拳圧が激突した軌跡を追ったまま、瞬きさえ忘れたように、戦場から目を離せない。
炎虎と乱式がぶつかり合った余波は凄まじかった。
衝撃に煽られた木々が、戦場の側面で次々と根元から薙ぎ倒される。土煙が夜空へ舞い上がり、砕けた地面の向こうに、三つの影が浮かび上がった。
煉獄、灯麻希、そして猗窩座。ほんの数秒前まで激突していたとは思えないほどの静寂が、戦場を包み込む。
炭治郎は息を呑んだ。
煉獄の隊服は裂け、露わになった肌には幾筋もの傷が走っている。灯麻希も無傷ではなかった。腕や肩に刻まれた裂傷から血が流れ、傷口では再生を始めた肉がゆっくりと蠢いていた。
そして、二人の正面に立つ猗窩座は――斬り飛ばされた両腕も、全身に刻まれた傷も、すでにその大半が塞がりつつあった。
つい先ほどまで、あれほどの攻撃を受けていたというのに。鬼と人間。その隔たりを見せつけるかのような光景だった。
炭治郎の喉が、ごくりと鳴る。
(助けに入りたい……!!でも、今の俺じゃ……!傷も深いし、ヒノカミ神楽の疲労も残っている。このまま飛び込んでも、二人の足手まといになるだけだ……!!)
先ほどまで繰り広げられていた攻防が、鮮明に脳裏へ焼きついている。煉獄と灯麻希の連携でさえ、猗窩座の猛攻を押し返すには、ほんの一瞬の隙を作るのが精いっぱいだった。そこへ無理に踏み込めば、自分など一撃で叩き伏せられかねない。
隣で、伊之助も歯を食いしばっていた。目の前の強敵を前に、闘争心が燃え上がる。それでも、あの間合いに飛び込めば命はない――理屈ではなく、本能がそう告げていた。
竹雄は拳を固く握り締めたまま、動けずにいた。
姉が戦っている。傷を負いながらも、煉獄と並んで、あの恐ろしい鬼に立ち向かっている。
すぐそばにいるのに、何もできない。誰一人、口を開かなかった。
戦場を満たす土煙が、夜風にゆっくりと流れていく。
灯麻希は、隣に立つ煉獄へと視線を向けた。
灯麻希は戦闘の合間を縫って、猗窩座に気づかれぬよう“茨ノ連”を発動させていた。
けれど、動きを鈍らせるどころか、麻痺の兆候すら見られず、毒に侵されたような反応もなかった。
(駄目だ……茨ノ連が全然効いている様子がない)
上弦の参を相手に、そう簡単に通用するとは思っていなかった。それでも、これほど何の変化もないとなれば、少なくとも今の攻防で隙を作ることは期待できそうにない。灯麻希はそれ以上の確認を切り上げ、煉獄へと意識を戻した。
「大丈夫ですか、煉獄さん。
……すみません。猗窩座の攻撃の大部分を任せてしまいました」
——————『人生は選ぶことの繰り返し。けれども選択肢は無限にあるわけではなく、考える時間も無限にある訳ではない』
負荷も損傷も、戦場においては判断材料のひとつにすぎない。
煉獄は短く息を吐くと、灯麻希へ視線を向けることなく、正面の猗窩座を見据えたまま答えた。
「まだまだやれる!!一緒に頑張ろう!!」
力強い声に、躊躇はなかった。痛みを訴える余裕も、損傷を気にかける素振りもない。ただ、戦い続けるための熱だけが、その言葉には満ちていた。
灯麻希は、すぐに理解する。今は説明も、細かな確認もいらない。必要なのは、互いの状態を把握したうえで、同じ速度で動き続けること。それだけだった。
一方、猗窩座は灯麻希を一度だけ視界の端に捉えたものの、すぐに興味を失ったように、黄金の瞳孔を煉獄へと据え直した。
「杏寿郎……生身を削る思いで戦ったとしても、全て無駄なんだよ」
猗窩座が両腕を軽く広げる。つい先ほど、炎虎によって弾き飛ばされたはずの両腕は、すでに再生を終えていた。肌には傷跡ひとつ残っていない。
「お前が俺に喰らわせた素晴らしい斬撃も、瞬きする間に完治してしまった―――だが、お前達は違う」
その言葉に重なるように、灯麻希の腕もようやく再生を終えた。
鬼としては、決して遅すぎるわけではない。だが、猗窩座の回復速度と比べれば、その差は歴然としていた。彼女の再生は、鬼の中ではごく平均的なものにすぎない。
「傷付き、削れ、弱っていく。鬼の女も、精々下弦程度の鬼でしかない。人間の技でようやく立ち回れる程度だ。だが杏寿郎なら違う。俺のように、もっと強い鬼になれるだろう」
その言葉は、勧誘であると同時に、猗窩座にとって疑う余地のない確信でもあった。
人間は老い、衰え、いずれ死ぬ。どれほど優れた才能も、限りある命の中で失われていく。猗窩座には、それが耐え難い。だからこそ、煉獄の才能を惜しみ、鬼になることを求める。
そして、その価値観の外にいる灯麻希には、ほとんど関心を払わない。
――そうであるはずだった。猗窩座はふと、もう一度だけ灯麻希を見やった。
「そういえば、まだお前の名を聞いてなかったな。名を名乗れ」
「……竈門灯麻希」
「そうか。灯麻希――お前の闘気は妙だ」
猗窩座の眉間に、訝しげな皺が寄る。
「薄く、揺れている……使う呼吸術のせいか?それとも元来の性質か?」
戦闘の最中、猗窩座の中に積み重なっていた僅かな齟齬が、ようやく言葉になりかけていた。
動きに不自然なところがあるわけではない。攻撃も、反応も、鬼としての身体能力も、理解の及ばぬほど突出しているわけではなかった。
それなのに、何かがおかしい。闘気が薄く、揺らいでいる。捉えたと思えば、どこか定まらない。違和感の正体を探ろうとしても、指の間からすり抜けるように輪郭が掴めなかった。説明はできない。だが、確かに気に障る。
一拍の間を置いて、灯麻希が口を開いた。
「知らない。分かったとしても言わない…………
短く、そっけない返答だった。猗窩座は、わずかに沈黙する。
答えになっていない。かといって、問いを真正面から否定したわけでもない。まるで、こちらが掴み損ねている何かを、逆に突きつけられたかのようだった。
理解できない。そのこと自体が、癪に障る。
「……お前は弱者ではないが、気に障るな」
低く吐き捨て、猗窩座は視線を煉獄へと戻した。
「これが最後の猶予だ、杏寿郎。もう一度言おう―――お前は鬼になるべきだ」
猗窩座の声が、重く戦場へと落ちた。
「何度問われようと、俺は鬼にならない!
この煉獄の赫き炎刀は、お前のその歪んだ執着もろとも焼き尽くす!!」
煉獄の呼吸が深く沈む。肺の奥へ取り込んだ空気が全身を巡り、内に宿る炎が再び燃え上がった。持ち上げられた刀身が赫く夜気を照らす。その構えには、微塵の迷いもなかった。
猗窩座の口元が、歓喜に歪む。
「素晴らしい闘気だ!疲労で弱まらない上に更に練り上げられている!その気迫、一分の隙もない構え――!」
黄金の瞳が大きく見開かれる。
煉獄の拒絶を前にしてなお、猗窩座の胸を満たすのは怒りではなかった。理屈も損得も超えた、本能から湧き上がる喜悦。目の前の強者が、今この瞬間もなお己を高め続けている。その事実が、たまらなく嬉しいのだ。
「やはりお前は鬼になれ、杏寿郎!!俺と永遠に戦い続けよう!!」
熱狂に満ちた声が、夜の草原を震わせる。
煉獄は答えない。ただ炎を宿した刀を構え、猗窩座を正面から見据えていた。その傍らで、灯麻希は静かに呼吸を整える。
猗窩座の視線が煉獄に向けられている今も、気を緩めるつもりはなかった。次に何が来るのか、どこから攻撃が飛ぶのか。一瞬の油断が命取りになる相手だと、すでに身をもって知っている。
戦いは、まだ終わらない。夜明けまでは、遠い。
猗窩座が破壊殺を繰り出すより早く、煉獄の足が地を砕いた。
ほぼ同時に、灯麻希も駆け出す。二つの焔が夜気を裂き、猗窩座へと迫った。
“炎の呼吸 壱ノ型 不知火”!!
“ヒノカミ神楽 炎舞”!!
猗窩座は笑っていた。まるで、この瞬間を待ち望んでいたかのように。煉獄の姿が炎を引き、一直線の火閃となって突き進む。赫い刃が猗窩座の胴を薙いだ――かに見えた。猗窩座は紙一重で半身を捻り、刃の軌道から身を外す。
その直後、死角へ回り込んだ灯麻希の手刀が閃いた。熱を帯びた紅鏡の軌跡が、斜めに走る。
猗窩座の拳が迎え撃ち、炎舞の一撃目を横へと弾いた。
だが、灯麻希は止まらない。弾かれた勢いを殺さず、そのまま身体を回転させる。踏み替えた足を軸に、間髪入れず二撃目が放たれた。大きな半円を描く火輪が、猗窩座の退路を塞ぐ。
「いい動きだ」
感嘆の声とともに、猗窩座が腕を差し込んだ。
手刀が肉を裂き、骨を断つ。それでも猗窩座は怯まない。切断された腕の損傷など意に介さず、強引に身体を捻って攻撃の軌道をずらすと、間髪入れず拳を灯麻希へと突き出した。
灯麻希は咄嗟に身を沈める。拳が頭上を掠め、凄まじい拳圧が夜気を吹き飛ばした。
その隙を、煉獄は逃さない。地を踏み砕いて間合いを詰め、刀を下段から一気に跳ね上げる。炎を引く刃が空気を切り裂き、猛炎の軌跡となって夜を引き裂いた。
“弐ノ型 昇り炎天”!!
煉獄の刀が下段から上方へと振り抜かれ、猗窩座の胴を正確に狙う。
だが、猗窩座は笑みを浮かべたまま腕を使わなかった。地を踏み砕き、刃が迫る瞬間に身体をわずかに跳ね上げる。刀と脚が交差し、激しい火花が散った。
――受けたのではない。衝突の瞬間、猗窩座は自らの重心ごと刃の流れを外へと逃がしていた。煉獄の一閃は致命の軌道を外れ、空を斬る。
そのまま猗窩座の身体が反転した。空中で身を捻り、次の動作へ移るまでの、ほんの一瞬の空白が生まれる。
その刹那を、灯麻希は見逃さなかった。地を蹴り、横合いから炎のごとく踏み込む。
“ヒノカミ神楽 碧羅の――”
円を描くように繰り出された脚技が、横薙ぎに空間を切り裂いた。日輪の輪郭をなぞる軌跡が、猗窩座の胴へと迫る。
だが、猗窩座の瞳はすでに灯麻希を捉えていた。
空中から着地へと移る、その動作の中でさえ、猗窩座は攻撃の機を逃さない。
“破壊殺 脚式 冠先割”
跳ね上がる蹴撃が、音を置き去りにして空間を貫いた。
左側から踏み込んでいた灯麻希は、反応が間に合わない。咄嗟に受け止めるのではなく、衝撃を逃がす判断へと切り替えたものの――間に合わなかった。
蹴撃が左脚を直撃する。骨が軋み、肉が裂ける。凄まじい衝撃に身体を浮かされた灯麻希は、そのまま夜の中へと弾き飛ばされた。
(――速い!)
揺らぐ意識の中、それだけが確かに残った。
猗窩座が追撃に移るより早く、煉獄はすでに動いていた。
「杏寿郎!!」
冠先割が放たれた瞬間、煉獄は間合いを詰めるべく地を蹴り、宙へと跳躍する。炎を引く刀が、夜を裂いて猗窩座へと迫った。
「――良いぞ!!全力を出せ!!更なる技を俺に魅せろ!!」
歓喜に満ちた声とともに、猗窩座の拳が唸る。刃と拳が幾度も激突した。火花が散り、衝撃が空気を震わせ、踏みしめられた地面が削れていく。だが、その攻防の中で、猗窩座の動きには明確な変化が生じていた。
煉獄の踏み込み、呼吸、斬り返し――そのすべてが途切れることなく、一本の線を描いてつながっていく。攻撃から次の攻撃へ、淀みなく移り変わる剣筋。
その流れを断ち切るように、煉獄が刀を振りかぶった。
“炎の呼吸 参ノ型 気炎万象”!!
上方から振り下ろされる弧の斬撃が、燃え盛る炎をまとって猗窩座へと迫る。炎の軌跡が視界を覆い、逃げ場を焼き払うかのようにその身へと迫った。
それでも、猗窩座の口角は上がったままだった。
“破壊殺・乱式”!!
無数の拳が唸りを上げ、炎の軌道を噛み砕く。連撃と斬撃がぶつかり合うたびに火花が空中へと弾け、気炎万象の流れが押し崩されていく。
刃は、届かない。煉獄の剣筋は、完全に読まれていた。
猗窩座は、羅針盤の端で灯麻希を再び捉えた。
問題は、鬼であるはずの灯麻希だった。同じ戦場に立っている。だというのに、彼女の周囲だけは“戦闘の規則”そのものが異なっている。武術の軌道が、己の知る型と完全には一致しない。呼吸の波形も、一定の形へと収束しない――それなのに、煉獄の攻撃とは確かに噛み合っていた。
理解しようとするたび、猗窩座の中で、それまでの前提が一つずつ崩れていく。
(コイツは何だ――? 初めて見る呼吸術の特徴か? 生物としての揺らぎか? それとも……意図的に崩しているのか)
思考を巡らせるほど、答えは遠ざかっていく。
灯麻希が何かしら血鬼術を使っていることには、猗窩座も気づいていた。
視界の端に、血のようなものが揺らめく瞬間がある。だが、それは一瞬目に留まる程度のもので、羅針盤が示す闘気の流れにも、煉獄との攻防にも、目立った変化をもたらしてはいなかった。
(血鬼術は………何かを仕掛けているようだが、俺の羅針には何の影響もない)
煉獄の動きは読める。踏み込みも、呼吸も、剣筋も、積み重ねられた技の流れとして捉えられる。だが、灯麻希がそこにいるだけで、戦場全体が
そのズレは、ほんの僅か。単独ならば、致命的な脅威にはならないのかもしれない。
――しかし、煉獄と噛み合った瞬間、その僅かなズレが戦局を狂わせる。
理解できないものを、理解できないまま放置するつもりはなかった。猗窩座の思考が、一つの結論へと収束する。
(理解できないのならば、叩き潰してその本性を見極める!!)
“術式展開”――
空気が沈んだ。
猗窩座が拳を引き、闘気を一点へと収束させる。視線の先にいる灯麻希もまた、その気配を正面から受け止めていた。
“破壊殺 鬼芯八重芯”