――“鬼芯八重芯”
次の瞬間、無数の拳が空を裂いた。
乱式の連撃が一点に集中するのではなく、周囲の空間そのものへと広がっていく。上下左右、前後――逃げ道という概念さえ削り取るように、拳の軌道が網目となって張り巡らされた。
煉獄は即座に踏み込む。
“炎の呼吸 肆ノ型 盛炎のうねり”!!
円を描く刃が、押し寄せる破壊の軌道を受け流すように幾重もの弧を描いた。燃え盛る炎の渦が防壁となり、迫る拳の一部を逸らしていく。
しかし、全ては防ぎきれない。
猗窩座の拳は、受け流されることすら織り込み済みだった。ひとつの軌道を逸らされれば、間髪入れずに次の角度から別の拳が滑り込む。狙うのは防御の隙間ではない。防御そのものが切り替わる、その
煉獄の呼吸が、ほんの一瞬だけ乱れる。その刹那、攻防の連なりに空白が生まれた。
拳が、その隙間へと差し込まれる――――
だが、その瞬間。
空間を横断するように、赤紫の軌跡が割り込んだ。
灯麻希が、煉獄の前を舞った。地を蹴ったその姿は、もはや単に跳躍したとは言い難い。揺らぎながら、なお一点へと収束していく異質な軌道。その身は煉獄が捌ききれなかった領域へ滑り込み、迫る破壊の奔流を追うように宙を駆けた。
“ヒノカミ神楽 日暈の龍・頭舞い”
龍が地を這い、うねりながら天へ昇るように。あるいは、円環を描いていた軌道が崩れ、別の形へと組み替わるように。灯麻希の脚が弧を描き、幾重にも重なる軌跡を夜の空間へ刻んだ。
猗窩座の拳と、灯麻希の脚が激突する。
衝撃が弾けた。轟音よりも先に、空間そのものが歪んだかのような圧力が周囲へ広がる。煉獄の防御をすり抜けた破壊の軌道が、灯麻希の一撃によって正面から押し返され、開きかけていた裂け目が、ほんの一瞬だけ閉じた。
その瞬間――灯麻希の気配が変わった。
猗窩座の集中砲火が止む。拳の嵐が途切れ、三者の間に、張り詰めた静寂が戻ってきた。
夜風が吹き抜ける。煉獄の隣へ、灯麻希が音もなく着地した。
その姿を目にした瞬間、誰の目にも明らかな変化が飛び込んできた。
太腿から断ち切られていたはずの左脚は、すでに再生を終えていた。地を踏む足には傷ひとつなく、履物を失った素足が、夜気の中に晒されている。
そして、首筋。そこに浮かび上がっていたのは、赤紫の紋様だった。
一輪の椿が、肌の上に咲いたかのような形。花弁を思わせる線が首筋を彩り、そこから波紋のように紋様が広がっていく。藤紫の着物は戦闘の傷によって裂け、その隙間から覗く肌にも、同じ赤紫の紋様が刻まれていた。花弁と蔓が絡み合い、身体を這うように伸びていく。
それは、外から刻みつけられたものではなかった。まるで、身体の奥深くに眠っていた何かが、内側から芽吹き、花開き、その存在を主張するように肌の表面へと滲み出していた。
「……君のおかげで助かった!!あの一撃がなければ、俺も危うかっただろう!見事な援護だった!」
煉獄が晴れやかな声で礼を告げると、灯麻希は一度だけ頷いた。
顔を覆っていた狐面は、すでに砕け散っていた。露わになったその瞳を見て、煉獄は息を呑む。
虹彩には、椿の花弁を思わせる紋様が浮かんでいた。その中心を、鬼特有の縦長の瞳孔が真っ直ぐに貫いている。
灯麻希の身に起きた変化を目の当たりにし、鬼化が進んだのかと判断しかけていた煉獄だったが、その瞳に宿る光を捉えた瞬間、胸中に浮かんだ結論が崩れた。
鬼が力を増した際に見せる変化ならば、知っている。だが、目の前のそれは、どこか違っていた。
鬼の本能に呑まれた狂気でも、己を失った暴走でもない。
むしろ揺らいでいたものが、ようやく定まったかのような———そんな印象を受けた。
———『刹那で選び取ったものがその人を形作っていく。誰かの命を守るため精一杯戦おうとする人は、ただ愛おしい。清らからでひたむきな想いに才能の有無は関係ない』
煉獄は迷わなかった。目の前の変化に戸惑いを覚えながらも、その瞳に宿るものを信じるように、まっすぐ灯麻希を見据える。
「頼もしいな――灯麻希殿!君がどのような姿になろうとも、今この場で俺と共に戦い、命を救ってくれたことに変わりはない!その力、これからも存分に振るってくれ!」
灯麻希が目を見開いた。だが、灯麻希が返事をするより早く、笑みを消した猗窩座が口を挟んだ。
「与えられた血が少ない割には、窮地で強くなったのか」
細められた瞳が、灯麻希の姿を捉える。首筋に浮かぶ紋様。変化した瞳。鬼として増した気配――そのどれもが、目に見える変化としてそこにあった。
だが、猗窩座の眉間に微かな皺が寄る。
「しかし、その程度の変化で――」
言葉が途切れた。
羅針が捉える感覚と、目の前に立つ灯麻希という存在。その二つが、どうしても噛み合わなかった。
灯麻希の内には、長い時間をかけて歪められたまま、残り続けていたものがある。
それは、二つの魂ではない。一つの魂が無惨の血によって裂かれ、歪められた結果、生じた“二つの気配”だった。
本来ならば、分断されたまま在り続けるはずだったそれらが、今この瞬間、初めて互いを拒絶することなく重なり始めていた。
鬼として歪められた側と、人としての形を保とうとする側。
相反していた二つの気配が、ようやく一つの輪郭へと収束しつつある。
それは、進化でも変質でもない。失われたものを新たに得るのでも、別の何かへと生まれ変わるのでもなく――本来あるべき形へと戻ろうとする、
そしてその変化は、まだ誰の理屈にも収まっていなかった。
猗窩座の視線は、灯麻希を捉え続けている。変化は見えている。何が起きているのか、目に映る範囲であれば理解もできる。
それでも、どれだけ観察を重ねても、ひとつの結論へと辿り着けない。
羅針は揺らぐことなく輝き、回転を続けていた。その感覚に狂いはない。確かに、そこに灯麻希は存在している。なのに、そこに映し出されるはずの答えだけが、いつまで経っても形を結ばなかった。
――羅針は、答えを示せない。
「お前は俺の理を乱す。理解できない。だからこそ――不快だ」
吐き捨てると同時に、猗窩座が踏み込んだ。
“破壊殺――砕式 万葉閃柳”
空気が爆ぜる。地を蹴った勢いを乗せ、灯麻希の身体を粉砕せんと拳が伸びた。だが、届かない。灯麻希は紙一重で上体を反らし、捻りを加えながら身を上方へ逃がす。拳がその軌道を掠め、空を穿った。
直後、猗窩座の拳が大地へ叩き込まれる。轟音とともに地面が砕け、衝撃が放射状に駆け抜けた。岩盤を抉り、砕けた破片を巻き上げながら、周囲一帯を薙ぎ払っていく。
煉獄は衝撃が広がるよりも早く地を蹴った。飛散する岩片が炎柱の羽織を掠め、背後へと吹き抜けていく。その頭上を、灯麻希が舞った。
“ヒノカミ神楽 火車”
空中で身体を回転させ、その勢いのまま猗窩座の背後へと回り込む。赤紫の残光が夜に弧を描き、振り抜かれた脚先が頸元へと迫った。
猗窩座は間一髪で頸を逸らす。脚が皮膚を掠め、裂けた傷口から血が散った。
その瞬間、横合いから炎が走る。煉獄の斬撃が、猗窩座の胴を狙って横薙ぎに迫った。
猗窩座は即座に腕を差し出し、刃の軌道を受け流す。肉が裂け、骨が露わになる。だが、傷を負った腕に意識を割く間もなく、今度は灯麻希の蹴撃が死角から襲いかかった。
躱したはずの攻撃が、次の瞬間には別の角度から迫る。
煉獄の剣筋は読める。だが、灯麻希の動きは羅針盤の感覚と噛み合わない。その僅かな齟齬が、二人の連携によって次々と隙を生み出していく。
猗窩座の眉間が深く寄った。理解できない。捉えきれない。目の前で起きていることは見えているはずなのに、羅針が示す感覚だけが、灯麻希という存在を正しく捉えられない。
その齟齬が、猗窩座の苛立ちをさらに募らせていった。
先ほどまで、猗窩座と正面から渡り合っていたのは煉獄だった。
だが、今は違う。灯麻希が前へ出れば、煉獄がその背を支える。煉獄の刃を躱せば灯麻希が迫り、灯麻希を迎撃すれば煉獄の斬撃が死角へと滑り込む。
一方を防げば、もう一方が襲いかかる。
煉獄と灯麻希は、同じ呼吸を使っているわけではない。武術の系統も、歩法も異なる。それでも、二人の攻撃は互いの隙を埋めるように重なり、ひとつの流れを形作っていた。これほど緻密な連携は、一昼一夜で築けるものではない。
事実、灯麻希と煉獄が直接呼吸を合わせて戦うのは、猗窩座とのこの戦いが初めてだった。
それでも、灯麻希には積み重ねがあった。煉獄の弟子である竹雄と共に臨んだ任務。煉獄家で垣間見た、炎の剣士たちの姿。そして何より、煉獄杏寿郎自身の動きや癖、その人となりを見続けてきた記憶。灯麻希は、未来を見通しているわけではなかった。
炎の剣士なら、次にどう動くのか。煉獄なら、この状況で何を選ぶのか。これまでに見聞きしたものを手掛かりに、一つずつ予測を積み重ねていた。煉獄の剣筋を読み、その先に生まれる隙を見極め、自らの動きを重ねる。そうして、初めて共に戦う相手との間に、連携を成立させていた。
煉獄もまた、ただ灯麻希に合わせているわけではない。
数多の任務を通じて培った経験と、人を見る眼で、彼女の動きを読み取っていた。どこへ踏み込み、どの角度から攻め、次に何を選ぶのか。言葉を交わさずとも、その意図を察し、迷いなく刃を重ねていく
二人の間に、あらかじめ定められた合図はない。
あるのは、互いを観察してきた時間と、その場で相手の選択を読み取る力だった。
だが、猗窩座はそこまで辿り着けない。羅針が示すのは、武術であり、経験であり――闘気だ。
相手の動作を見極め、技の軌道を読み、闘気から次の一手を察する。それらはすべて、戦いを制するための理だった。
だが、煉獄と灯麻希をつないでいるものは、それだけではない。
積み重ねてきた記憶。相手を見続けてきた観察。そして、目の前の相手が何を選ぶのかを読み、その動きに応えようとする意志。それらが重なり合うことで、二人の連携は生まれていた。
羅針は、闘気を捉える。武術を読み、戦いの理を示す。
しかし――人が人を見てきた時間までは、測れなかった。
・
・
・
――――“ヒノカミ神楽 幻日虹”
灯麻希の姿が、ふっと揺らいだ。夜の闇に溶け込むように残像だけを置き去りにし、その身は猗窩座の拳筋から外れていく。拳は虚しく空を裂いた。確かに捉えたはずの一撃が、何もない場所を打ち抜く。
(外すのは、これで何度目だ?)
羅針が示す軌道に、誤りはない。相手の闘気を捉え、動きを読み、最適な一撃を導き出している。強い闘気を持つ者であればあるほど、その感覚は研ぎ澄まされるはずだった。
それなのに――当たらない。積み重なる違和感が、思考の奥底へと沈んでいく。
(落ち着け……!冷静になり、対処しなければならない!俺はそれができる――)
猗窩座は一度、意識を静めた。高ぶる思考を押さえ込み、戦場を見据え直す。羅針が回り、敵の闘気を捉えようとする。だが、その感覚を追いかける途中で、猗窩座の思考がふと止まった。
(……違う。これは必要ない)
羅針が示すのは、戦いにおける
だが、今この場で求められているのは、正解を導き出すことではなかった。
理に従い、答えを得てから動くのでは遅い。一瞬の判断が勝敗を分けるこの戦場では、そのわずかな遅れさえ致命的になりかねない。
(今一度、武術の粋を思い出せ……!)
猗窩座の中で、何かが切り替わった。
羅針という
百年を超えて積み重ねてきた戦闘の記憶が、別の層から浮かび上がった。
破壊殺を操る上弦の参ではない。猗窩座という名を持つ以前、素流を修めた一人の武人――
猗窩座は、道場の中にいた。目の前では、師範の慶蔵が構えを取っている。見慣れた姿を前にしても、猗窩座は何ひとつ疑問に思わなかった。
――狛治に戻っているのだから。
床板を踏みしめる足裏の感触。朝の冷えた空気。正面に立つ慶蔵の重心が、わずかに沈む。
来る。そう判断した瞬間には、もう身体が動いていた。
拳を受け流し、間合いを詰める。幾千、幾万と繰り返してきた動きに、思考を挟む必要はない。力の流れを感じ取り、相手の動きに応じて身体を運ぶ。
ただ、身体が知っていた。
灯麻希は、猗窩座の変化を見逃さなかった。ほんの僅か。だが、確かに攻撃の質が変わっている。
羅針が導く動きではない。もっと深い場所――猗窩座という鬼の奥底で、長い年月、眠り続けていた何かが動き始めていた。その変化を捉えた瞬間、灯麻希はようやく確かな手応えを掴んだ。
(――
これまで断片的にしか視えなかったものが、一本の線となって繋がっていく。灯麻希が自らの変化を認識したのは、覚醒を遂げた後のことだった。
猗窩座の羅針が、幾度となく狂い続けた理由。闘気を捉えているはずなのに、その読みが攻撃の結果へと結びつかなかった理由。
その答えは、無意識のうちに発動していた“魂視”にあった。
確証があるわけではない。何が起きているのか、その全容を理解できたわけでもない。
それでも灯麻希には分かった。猗窩座という鬼の奥底に沈んだ
同じ頃、煉獄もまた猗窩座の異変を察知していた。
攻撃の連なりに生じた、ほんのわずかな綻び。これまで決して見逃さなかったはずの動きに、一瞬だけ隙が生まれている。
(この
それは、魂視によって灯麻希と猗窩座の繋がりが、さらに深まろうとしている瞬間だった。
灯麻希の黒髪に混じる葡萄色の髪が、夜闇の中で血を思わせる赤紫へと色を深める。首筋に咲いた椿の紋様が、呼応するように微かに脈打った。その紋様から波紋のごとく広がった赤紫の線が、鎖骨から肩へ、腕へと這い伸びていく。肌の下を巡るそれは、花弁と蔓の形を織りなしながら、灯麻希の全身へと静かに浸透していった。
猗窩座の攻撃が途切れた、その瞬間。灯麻希と煉獄が、示し合わせたかのように同時に踏み込んだ。
“ヒノカミ神楽”――
“炎の呼吸”――
二つの攻撃が、猗窩座へと迫る。その直後だった。
――――猗窩座が、大きく後退した。
「!!」
灯麻希と煉獄の瞳が、同時に見開かれる。次の瞬間、猗窩座の拳が唸りを上げた。
“破壊殺 乱式”!!
無数の拳が、周囲の空間を叩き潰すように荒れ狂う。
先ほどまでの精密な連撃とは明らかに違う。ひとつひとつの拳に凄まじい破壊力が宿っていることに変わりはない。だが、その軌道には、これまでの猗窩座にはなかった乱れが生じていた。
煉獄と灯麻希は咄嗟に防御へと転じる。
しかし、次々と襲いかかる拳は、あまりにも不規則だった。攻撃の流れを読み、次の一手を予測しようにも、その軌道は予測を裏切るように乱れ続ける。
(猗窩座の様子が変わった……!? 何故……っ!?)
その違和感を捉えた、まさにその瞬間だった。
灯麻希の視界が、落ちた。
・
・
・
気付けば――灯麻希は、現実の戦場から切り離されていた。
立っているのは、暗闇に沈んだ猗窩座の精神世界。
先ほどまでそこにあった、穏やかな道場の面影はどこにもない。床板も、壁も、慶蔵の姿も。すべてが闇に呑まれ、果ての見えない空間だけが広がっていた。
その中に、ひとつの影が立っている。鬼の姿へと戻った猗窩座だった。俯いたまま、沈黙している。
灯麻希は息を呑んだ。魂視は、これまで幾度となく使ってきた。鬼の記憶へと触れ、人であった頃の景色を覗き、その奥に残された感情を読み取ってきた。
だが――こんなことは、一度もなかった。
現実の戦場から引き剥がされるように、相手の精神世界へと引きずり込まれる。しかも、そこに広がっているはずの記憶も、過去の情景も、何ひとつ見当たらない。
「ここは……?な、何が……起きてるの……?」
声を発した途端、その響きさえ闇に吸い込まれていった。反響すら、返ってこない。
少し離れた場所に立つ猗窩座は、俯いたまま微動だにしなかった。息遣いも聞こえない。闘気はおろか、鬼としての気配さえ感じられない。そこにいるのは確かなはずなのに、まるで何も存在していないかのようだった。
時だけが止まってしまったのだろうか。
そんな考えが脳裏をよぎる。だが、静寂に満ちた空間には、時間の流れそのものが失われてしまったかのような、不気味な気配が漂っていた。
「何で猗窩座の姿に……?元の狛治に戻りかけてた筈なのに………」
困惑を押し殺せず、灯麻希は呟いた。
魂視を使えば、相手の魂が生み出す揺らぎを視ることができる。怒りも、悲しみも、迷いも――たとえ人であった頃の記憶を失った鬼であろうと、その奥に残されたものまで消えるわけではない。
だからこそ、灯麻希には分かるはずだった。
目の前にいる猗窩座が、何を感じ、何に囚われているのか。
しかし――何も、見えなかった。揺らぎもない。感情もない。魂の輪郭さえ、掴めない。
灯麻希は息を詰めた。そこにいるはずの魂が、どこにも見当たらなかった。
「そんな……」
胸の奥が、大きくざわめいた。生まれてこの方、魂視が届かなかったことなど一度もない。鬼も、人も、獣も――命あるものならば、その魂は必ず灯麻希の瞳に映ってきた。それなのに、今は何も視えない。
長年、当たり前のようにそこにあった感覚が、唐突に失われている。その喪失は、五感のひとつを突如として奪われたかのような恐怖となって、灯麻希の足元を揺るがした。
(……………落ち着け。猗窩座に近づけば、何か分かるかもしれない)
かろうじて思考を繋ぎ止め、灯麻希は一歩を踏み出した。
だが、景色は変わらない。深い闇はどこまでも続き、踏み出した足音だけが虚しく響く。目の前に立つ猗窩座との距離が縮まったのか、それすら定かではなかった。まるで、この空間そのものが、灯麻希の感覚を拒んでいるかのようだった。
長年当たり前だった感覚が、不意に失われる。その喪失は、五感の一つを突然奪われたかのような拭い難い恐怖となって、灯麻希の足元が崩れるような感覚だった。
その時、不意に猗窩座の気配が変わった。俯いていた首が、ゆっくりと持ち上がる。あまりにも緩慢な動きだった。意思を持つ生き物のそれとは思えない。見えない糸に操られた人形が、ぎこちなく顔を上げるような、不自然な動き。
やがて、その視線が灯麻希を捉えた。
灯麻希は息を止めた。そこにあったのは、猗窩座――上弦の参の証である、黄色い瞳ではなかった。細く裂けた瞳孔を宿す、血を溶かし込んだような赫い双眸。
その眼を、灯麻希は知っていた。忘れようもない。鬼という存在の頂点に君臨する者の眼。
――――鬼舞辻無惨の瞳だった。
「………無惨」
その名が、灯麻希の唇から零れ落ちた。
本人の魂は視えない。それでも、間違えるはずがなかった。浅草で、ほんの一瞬だけ交わった、あの血のように赫い瞳。鬼舞辻無惨。鬼の始祖にして、すべての鬼の源。
あの時、無惨の視線は花札の耳飾りを下げた炭治郎だけを捉え、灯麻希という鬼には一瞥すらくれなかった。
だが――今は違う。猗窩座の精神世界を介しているとはいえ、二人の視線は初めて真正面から交わっていた。
無惨の赫い瞳が、灯麻希を冷徹に見据える。その眼差しに、驚きはなかった。あるのは、隠しきれない苛立ち。
珠世に続き、自らの支配を外れた鬼。それだけでも不愉快極まりないというのに、今度は己の所有物にまで手を伸ばそうとしている。無惨にとって、それは決して看過できる事態ではなかった。やがて、無惨の唇が薄く開く。
「……貴様、何をしている」
低い声が、暗闇そのものを震わせた。
「珠世のように小賢しく身を隠していれば、私の目に留まることもなかったものを」
灯麻希は一歩も退かなかった。無惨の赫い瞳を、真正面から見返す。
「猗窩座に、何をした」
「………」
その一言とともに、空気が軋んだ。
灯麻希は答えない。答えられないのではない。そもそも、目の前の男にわざわざ説明してやる必要などないと思っていた。
数瞬の静寂が落ちる。やがて、無惨はわずかに目を細めた。
「……いや。答えは不要だ———貴様は私の支配へ手を伸ばした。その事実だけで十分だ」
暗闇が脈打つ。猗窩座の身体は、なおも動かない。俯いたままの姿は、まるで意思そのものを押さえ込まれているかのようだった。
「上弦の鬼を、下弦以下の塵芥と同じものだと思うな。奴らはこの私が選び、私が目をかけ、私が生かしている鬼たちだ」
その声音に滲むのは、単なる支配欲ではなかった。所有欲――猗窩座という一個の人格すら、自らの手元に置いた道具としか見ていない者だけが抱く、絶対的な傲慢さだった。
「貴様如きが、猗窩座を私から奪えると思ったか?」
灯麻希は、拳を固く握り締めた。鬼舞辻無惨という存在の性質なら、知っている。己の望みだけを追い、他者を顧みず、同じ鬼でさえ自らの目的を果たすための道具として扱う。その支配に従う限りは価値を認め、逆らうものには容赦なく牙を剥く。
それでも――目の前でその傲慢さを突きつけられると、胸の奥から抑え難い苛立ちが込み上げた。
猗窩座もまた、無惨から血を分け与えられた鬼だ。
百年以上を生き、上弦の参にまで上り詰めた一体の鬼。その年月も、積み重ねた経験も、猗窩座自身が生きてきた証も――無惨にとっては何の意味も持たないのだろう。
目の前の男は、猗窩座を一個の命として見ていない。ただ、自らの支配下に置いた所有物として扱っている。
灯麻希は、無惨を見据えた。倒さなければならない。いつか、この悲劇の連鎖に終止符を打つために。その認識は、変わらない。だが、今はそれ以上に———
(猗窩座は、無惨の所有物なんかじゃない……!!)
人として、鬼として生きてきた者の尊厳を、まるで己の所有物であるかのように踏みにじる。その在り方が、灯麻希には許せなかった。灯麻希が口を開くより早く、無惨は彼女から視線を外した。まるで、すでに結論は出たと言わんばかりに。
「無惨……!」
呼び止める声にも、無惨は振り返らない。
「――もう夜が終わる」
短く告げられた言葉に、温度はなかった。
「今、この身体を失う理由はない」
その言葉が落ちた瞬間、暗闇そのものが大きく軋んだ。
「今回は命拾いをしたな……私の視界に入ることは、二度はないと思え」
最後まで灯麻希を見ようともせず、無惨は言い捨てた。その姿が、闇の奥へと溶けていく。
灯麻希は追おうとした。だが、踏み出そうとした足は動かなかった。
次の瞬間――視界が、再び落ちた。暗闇が、途切れる。
――――轟音。何かが砕け散る音と、大地を叩き潰すような衝撃が、一気に押し寄せた。
「……っ!」
灯麻希の意識が、現実へと引き戻される。夜の冷気。焦げた土の匂い。耳を劈く戦闘音が、衝撃とともに全身を揺さぶっていた。現実だった。ほんの一瞬、何が起きているのか理解できなかった。
身体が重い。指先に力が入らない。魂視を強く使った反動なのか。それとも、無惨との接触そのものが精神を削ったのか。考えようとしても、答えを探るだけの余裕すらなかった。
ただ、目の前にいる猗窩座だけが、はっきりと視界に映っていた。
先ほどまでとは違う。両脚を深く沈めて腰を落とし、両腕を構えている。全身に力を凝縮させたその姿勢には、先ほどまでの乱れた動きとは明らかに異なるものがあった。灯麻希は息を呑んだ。
(無惨……! 猗窩座を操って、何を……!!)
思考が答えに辿り着くより早く、身体が危険を告げていた。
防御しなければならない。だが、動けない。意識は戻っている。目の前の危険も理解している。それなのに、身体がついてこなかった。混濁する意識の中、膝が僅かに震える。それでも灯麻希の身体は、その場に縫い留められたように動かなかった。
その異変を、煉獄は見逃さなかった。灯麻希の様子を一瞥し、すぐさま猗窩座へと視線を戻す。
構え。気配。そして、直前までの乱れた攻撃。煉獄の直感が、警鐘を鳴らした。
先程の乱式は、これまで見てきた猗窩座の攻撃とは明らかに異なっていた。精密さを欠き、ただ力を叩きつけるような荒々しい連撃。そして今、猗窩座が取っているのは、これまで一度も目にしたことのない、深く腰を落とした低い構えだった。
一方で、灯麻希は突然、動きを止めている。偶然とは思えなかった。
(先程の攻撃の変化と、灯麻希殿の異変……何か関係があるのか!?)
だが、理由を考えている暇はなかった。
「灯麻希殿!大丈夫か!!」
「れ、れんごくさん……あ、かざが……」
灯麻希の声は掠れ、言葉を繋ぐことさえままならない。
その視線の先で、猗窩座が息を吐いた。低く沈めた腰も、構えた両腕も、微動だにしない。ただ一定の間隔で、呼吸だけが繰り返されている。まるで、あらかじめ定められた動作を、何度もなぞっているかのように。そこには、先程まで煉獄と灯麻希を相手に見せていた、戦いを楽しむ猗窩座の気配がなかった。
“術式展開”———
地面に広がった羅針の陣が、夜の闇を押し退けるように大きく展開された。
煉獄は刀の柄を強く握り直す。理由は分からない。猗窩座に何が起きたのかも、灯麻希に何があったのかも。それでも――今、目の前にある脅威だけは分かる。
「猗窩座の様子が、突然おかしくなったのは承知している!!」
煉獄は迷わず一歩踏み出し、灯麻希を庇うようにその前へ立った。
「だが、俺なら心配ない!!ここにいる者は、誰も死なせない!!」
煉獄は刀を強く握り直す。
理由は分からない。猗窩座に何が起きたのかも、灯麻希に何があったのかも。
猗窩座は答えない。無表情のまま、構えをさらに深く沈める。その姿を正面から見据え、煉獄もまた腰を落とした。
ゴォ――――――
深く、力強い呼吸音が夜気を震わせる。
肺へ取り込んだ空気が全身を巡り、血潮が熱を帯びる。揺るぎない意志を芯に、煉獄の気配が研ぎ澄まされていった。目の前の脅威から目を逸らさず、背後にいる者を守るために。
そして———
「俺は俺の責務を全うする!!」
“破壊殺 滅式”!!
“玖ノ型 煉獄”!!
猗窩座が両腕を大きく振り抜いた瞬間、その拳から凄まじい衝撃波が放たれた。地面を薙ぎ払うように広がった破壊の奔流が、触れるものすべてを根こそぎ砕いていく。夜の大地は幾重にも抉られ、土塊が弾け飛ぶ中、衝撃波は煉獄へと迫った。
対して、煉獄は退かなかった。全身に炎を迸らせ、日輪刀を渾身の力で一閃する。
瞬間、灼熱の斬撃が大地を抉りながら突き進んだ。燃え盛る炎の軌跡が夜を切り裂き、広範囲へと拡散する衝撃波を正面から迎え撃つ。
轟ッ――!!
二つの必殺技が激突した瞬間、凄まじい衝撃が大地を揺るがした。衝突点を中心に地面が爆ぜ、土砂が噴き上がる。砕けた岩片が四方へと弾け飛び、衝撃は周囲の木々さえ激しく揺さぶった。炎と破壊の力がせめぎ合う中、巻き上がった粉塵が夜の戦場を呑み込んでいく。やがて、視界を覆い尽くすほどの土煙が立ち込めた。
「煉獄さん……!!」
遠くから戦いを見守っていた炭治郎たちの視界も、白茶けた土煙に遮られた。灯麻希にも、二人の姿は見えない。何が起きたのか。
(猗窩座はどうなった……!? 煉獄さんは――――!!)
誰にも分からなかった。轟音の余韻が消え、戦場に張り詰めた静寂が落ちる。
やがて、風が吹いた。舞い上がった土煙が、少しずつ流れていく。
その向こうに、ひとつの影が浮かび上がった。
人影は、立っていた。全身から血を流し、荒い呼吸に肩を上下させながら、それでも両足で大地を踏みしめている。手には、日輪刀が握られていた。
その刃を支えにすることもなく、ただ己の足で、そこに立っていた。
生きている――――煉獄杏寿郎、ただ一人だった。