上弦の参――猗窩座の気配が、完全に消えた。
そのことを確かめてから、煉獄はゆっくりと息を吐いた。張り詰めていた呼吸を整え、血に濡れた日輪刀を拭い、鞘へと収める。全力を出し切った身体は、まだ細かく震えていた。額から頬を伝った血が顎先から滴り落ち、羽織や隊服のあちこちにも、赤黒い染みが広がっている。それでも、煉獄は自らの足で大地を踏みしめ、確かに立っていた。深刻な傷はない。
周囲の状況を確かめようと振り返った、その時だった。
後方で固唾を呑み、最後まで戦いを見守っていた三人が、一斉に駆け出した。
「し、師匠……!!姉ちゃん……!!」
「うわあああああ!煉獄さん!!姉ちゃん!!良かったーー!!無事で本当に良かったよーーー!!」
「ギョロギョロ目ん玉!!アイツは!?あの鬼……倒し切れなかったのかよ!!」
竹雄が駆け寄るよりも早く、炭治郎の叫びが夜の静けさを震わせた。その頬を、涙がぼろぼろと伝い落ちていく。
煉獄が生きている。灯麻希も無事だった。その事実だけで、胸がいっぱいだった。つい先ほどまで、二人がどうなったのかも分からず、ただ煙の向こうを見つめることしかできなかったのだ。だからこそ、目の前に立つ二人の姿が、何よりも嬉しかった。
一方、伊之助は興奮のままに声を張り上げていた。
目の前で繰り広げられた戦いは、今の自分では到底届かない領域のものだった。圧倒的な力を目の当たりにした興奮と、自分の弱さを思い知らされた悔しさ。その二つが胸の中で入り乱れ、行き場を失った感情が、矢継ぎ早の問いとなって煉獄へと向かっていた。
「姉ちゃん……大丈夫!?」
竹雄が灯麻希へと駆け寄った。煉獄の隣では、灯麻希が片膝を地面についたまま座り込んでいた。全身から力が抜けたように俯き、荒い呼吸を繰り返している。
「……うん、大丈夫……煉獄さんが、守ってくれたから……怪我はないよ………」
灯麻希は顔を上げようとした。けれど、身体に力が入らず、途中で視線を落としてしまう。
「猗窩座を倒せなくて、ごめん………」
「それは違うよ、姉ちゃん!」
すぐさま、炭治郎が声を上げた。
「姉ちゃんは、煉獄さんを守ったんだ!!俺たちは………何もできなかった。俺なんて怪我をして、あの戦いを見てることしかできなかったんだ!」
握り締めた拳が震えた。悔しかった。目の前で仲間が戦っているのに、傷ついた身体では立ち上がることさえできなかった。自分にもっと力があれば。せめて、あと少しでも動けていたなら――そんな思いが、今も胸の奥に燻っている。
「それなのに、姉ちゃんと煉獄さんは、俺たちを守りながらあの鬼と戦ってた。だから……謝る必要なんてない!!」
炭治郎の声は涙に濡れていた。自分だって悔しい。何もできなかったことが、どうしようもなく悔しい。それでも、姉まで自分を責める必要なんてない。炭治郎は、そう伝えたかった。灯麻希は、返す言葉を失った。
炭治郎の言葉は、彼女が抱えていた悔しさを否定するものではなかった。倒せなかったという事実が消えるわけでもない。それでも――自分が何もできなかったわけではないと、そう言ってもらえた気がした。けれど、今はまだ、それ以上の言葉を返すことができなかった。
「師匠……上弦の参は、どうなったんですか?」
竹雄が尋ねると、煉獄は猗窩座が消えていった方角へ、一度だけ視線を向けた。
「すまない。取り逃がしてしまった」
その声には、悔しさよりも、戦いを振り返る冷静な分析が滲んでいた。
「あの鬼は最後の大技を放った割には、俺を倒そうという意識がまるで無かった。おそらく直に夜が明けるため、太陽から逃れるための攻撃でしかなかったのだろう」
「じゃあ……アイツが逃げなかったら、勝てたのか!?」
伊之助が食い気味に問いかける。煉獄は、ほんのわずかに考えるような間を置いてから、首を横に振った。
「いや、むしろこちらが負けていたはずだ」
「……何ィ!?」
「あの鬼は、最後の大技を放つ前に様子が変わった。それまでとは、まるで別人のように」
煉獄の脳裏に、“滅式”を繰り出す直前、突如として乱れた“乱式”を放った猗窩座の姿が蘇る。
あの瞬間、確かに何かが変わっていた。
「それまでの上弦の参なら、俺の“奥義”を受け止めたうえで致命傷を負わせることもできただろう。だが、奴はそうしなかった。俺を倒すことよりも、日の光から逃れることを優先した」
煉獄は、猗窩座が消えていった方角へ再び目を向けた。
「それが、どうにも腑に落ちない」
「……………嘘だろ」
伊之助の声から、先ほどまでの勢いが消えた。目の前で繰り広げられた戦いが、脳裏に蘇る。圧倒的な速さと力。どれだけ攻撃を重ねても倒れず、傷さえ瞬く間に再生する鬼。あの強さを思えば、煉獄の言葉を否定することなどできなかった。
もし、猗窩座が最後まで戦うつもりだったなら――煉獄は、負けていた。そして、その後に動けなくなっていた灯麻希も。
伊之助は、息を呑んだ。
つい先ほどまで、二人が生きていたことを喜んでいた。だが、二人が無事に戻ってきたという事実の裏側に、ほんの一歩違えば命を落としていたかもしれない現実があった。それが、今になって重く胸へと落ちてきた。
「俺は、鬼の匂いが濃すぎて何も分からなかった……急に動きが止まった時は変だと思ったけど……」
炭治郎も言葉を失ったまま、猗窩座が消えた夜の闇を見つめていた。竹雄もまた、煉獄の話に驚きを隠せずにいた。けれど、沈黙が続くうちに、ふと顔を上げる。
「でも……上弦の鬼と遭遇して、生き残れた隊士はずっといなかったんだよ!」
その声には、先ほどまでの緊張を吹き飛ばすような驚きと、抑えきれない興奮が入り混じっていた。
「少なくとも、百年以上!それなのに、師匠と姉ちゃんは、上弦の“参”と戦って生き残れたんだ!!それって、凄いことだよ!!」
竹雄は煉獄と灯麻希を交互に見た。今ここに二人が立っている。その事実こそが、何よりも凄いことなのだと、まっすぐに伝えようとしていた。
その言葉に、炭治郎もはっと顔を上げる。
「そうですよ、煉獄さん!」
涙の跡が残る顔に、少しずつ力が戻っていく。
「上弦の鬼の情報を持ち帰って、もっと俺たちが強くなれば、次は絶対に倒せます!!」
そう言って、炭治郎はまっすぐに煉獄を見つめた。声が、夜明け寸前の静けさを真っ直ぐに貫く。
「それに、煉獄さんたちは乗客を誰も死なせなかった!!煉獄さんたちの勝ちだ!!」
「その通りだぜ、炭八郎に竹蔵!!」
伊之助も勢いよく声を張り上げた。
煉獄は、嬉しげに目を細めた。上弦の鬼を取り逃がしたことも、最後まで倒し切れなかったことも、事実として変わらない。それでも、目の前の三人は、煉獄と灯麻希が守り抜いたものを見ていた。
乗客の命。そして、互いの命。その戦いを肯定してくれる言葉に、煉獄の表情が穏やかに和らいだ。
その隣で、灯麻希は俯いたままだった。
三人の声を聞いていても、顔を上げることはできなかった。周囲に安堵が広がっていく中、彼女の胸には、まだ晴れないものが重く沈んでいた。
「ところで兄ちゃん……上弦の鬼の血、採った?」
竹雄がふと思い出したように尋ねると、炭治郎が目を見開いた。
「あ!……まだだ!」
「それなら、早く――日が昇る前に採らないと……!」
思い出した瞬間には、もう身体が動いていた。炭治郎は猗窩座が消えた方角へ向かって駆け出す。
「竈門少年は、どこに行くつもりだ?」
煉獄が問いかけると、竹雄は炭治郎の背中を見送りながら、元気よく答えた。
「そういえば、師匠にはまだ話してませんでしたね!———後で、訳をお話しします!」
言葉を交わす間にも、炭治郎の姿は遠ざかっていく。
「ねぇ、竹雄」
「ん?なに、姉ちゃん?」
灯麻希に呼ばれ、竹雄が振り向く。灯麻希は答える代わりに、自分の腕へと視線を落とした。
そこには、これまでとは明らかに違う変化が残っている。戦いの最中に覚醒した身体は、まだ元の姿へ戻っていなかった。
「私の血も採っておいてくれる……?」
少しだけ躊躇ったあと、灯麻希はそう続けた。
「多分、役に立てると思うから」
竹雄は一瞬、灯麻希の姿を見つめた。その瞳に浮かんだのは、驚きというよりも、すぐに納得したような色だった。
「確かにそうだね。見た目も随分変わってるし……うん、分かった!」
竹雄は迷いなく頷いた。
その返事を聞いて、灯麻希は小さく息を吐く。自分の身体に残る変化へ、改めて意識を向けた。肌に浮かぶ紋様も、髪や瞳に現れた変化も、まだ消えてはいない。これが何を意味するのか、今の灯麻希には分からなかった。
それでも――
(この血が、珠世さんの役に立つのなら…………)
自分の身に起きたことを、すぐに理解することはできない。戦いの悔しさも、胸の奥に残ったままだ。
けれど、この変化にも何か意味があるのかもしれない。今はただ、そう考えられることだけが、灯麻希にとって唯一の救いだった。
***
採血のために、竹雄が私の腕を取った。
「ちょっと痛いよ、姉ちゃん」
「……針くらいなら何ともないよ」
小さく頷くと、針が皮膚へと刺さった。細い針を通して、私の血が少しずつ抜き取られていく。私はその様子を、どこか心ここにあらずといったまま、ぼんやりと眺めていた。
“煉獄さんの死を止めて、猗窩座をここで倒す”
ここへ来る前、お館様と立てた今回の目標だった。その半分は、成功した。煉獄さんは生き残った。
けれど――“猗窩座を、ここで倒す”
こちらは、失敗した。
私は一度、深く息を吐いて目を伏せた。無限列車で魘夢を倒した後、列車が脱線し、その先で上弦の参が襲来する。そして、その戦いによって煉獄さんが命を落とす。
それが、私の“知識”に刻まれていた未来だった。だから今回は、猗窩座が現れることを最初から想定して行動していた。魘夢との戦いが始まる前から――ずっと。
(………次に猗窩座と戦うのは、“知識”通りなら……おそらく無限城になる)
ならば、最後の戦いまでに、一体でも多く上弦の鬼を減らしておきたかった。
炭治郎たちのために――これから上弦の鬼と戦うことになる、他の隊士たちのためにも。一人でも多く、生き残れるように。だから、猗窩座を
そのために、魂視も使った。
もちろん、鬼となった狛治の魂を取り戻したかったという理由もある。けれど、それだけではなかった。
(私と煉獄さんの二人だけで、あの猗窩座を日の出まで相手にできるのか……実際に戦いの場に立つまで、それは分からなかった)
猗窩座と戦えるように、炭治郎たちと修行を重ねてきてヒノカミ神楽の練度も上げてきた。
戦いの最中、“知識”にある禰豆子のように、見た目だけなら鬼化が進んだようにも思える。けれど、私自身が感じた変化は、それだけではなかった。
今までずっと、自分の内側には言葉にできない違和感があった。何なのか、いくら考えても分からない。ただ、時折ふとした瞬間に、何かが噛み合っていないような感覚が残る。それが当たり前になりすぎて、いつしか疑問に思うことさえなくなっていた。
けれど、あの瞬間――その違和感は、いつの間にか消えていた。胸の奥にあったものが、どこかへ消え去ったというよりも、長い間引っかかっていた何かが、ようやく収まるべき場所を見つけたような感覚だった。
何が起きたのかは、私にも分からない。ただ、身体の内側にあった違和感がなくなり、今までよりもずっと自然に、自分の力を扱えるようになったことだけは分かった。
魂視の力も、以前とは比べものにならないほど強くなっていた。あの時の私は、それを疑わなかった。
――これなら、猗窩座と渡り合える。
そう思った。だからこそ、最後に魂視を使った。
それでも――――
あと一歩だった。あと一歩で、届いたはずだった。
私は、採血されている腕へと視線を落とした。赤い血が、透明な容器の中へ一滴ずつ落ちていく。
あの時、猗窩座は大きく揺さぶられた。そして私は、狛治の魂に届いた。けれど、その直後——無惨に、私の干渉を気づかれた。
(………私は、見誤っていた)
上弦の鬼と無惨が、どれほど強く繋がっているのか。
私は、猗窩座を倒すことだけを考えていた。
けれど、上弦の鬼を一体倒すということは、ただ目の前の敵を一体倒せば済む話ではなかったのだ。
(鬼の背後には、無惨がいる。その事実を、私は知っていたはずなのに…………)
無惨に気づかれた以上、もう同じ手は使えない。
(もう……上弦の鬼に…………いや、鬼に魂視を使うこと自体———やめるべきだ)
これから先、この力を切り札にすることはできないだろう。そう考えると、胸の奥が重く沈んだ。
(———猗窩座《狛治》は、どうなるのだろう)
無惨は、猗窩座を捨てなかった。逃げることを許した。
ならば、まだ生かしておくつもりなのだろう。けれど、その先は読めない。私の干渉に気づいた無惨が、猗窩座をどう扱うのか。どんな罰を与えるのか。どこまで支配を強めるのか。
(最悪の場合——————)
そこまで考えたところで、私は思考を止めた。考えたくなかった。けれど、考えずにはいられない。
猗窩座を止めたかった。狛治を救いたかった。それなのに、どちらもできなかった。それどころか、自分が介入したことで、猗窩座の置かれた状況をかえって悪くしてしまったのではないか。そんな考えが、胸の奥にこびりついて離れない。
竹雄は何も言わず、採血を続けている。私は、透明な容器の中へ落ちていく自分の血を見つめたまま、唇を噛み締めた。
(…………私のせいだ)
その言葉だけが、胸の奥に重く残っていた。
***
竹雄が灯麻希の採血を終えた頃、炭治郎も戻ってきた。
その手には、小刀が握られている。猗窩座が残していった肉片のうち、切断されて地面に転がっていた腕などから、どうにか血液を採取してきたらしい。
「兄ちゃん、お帰り。無事に採れた?」
「うん。ちゃんと採れたよ」
互いに傷だらけの姿を晒しながらも、二人はいつもと変わらない調子で言葉を交わした。
そんな兄弟の姿を、煉獄は静かに見つめていた。炭治郎の顔には腹部の刺傷と疲労が色濃く残り、竹雄もまた泥と血に塗れている。それでも、こうして並んで言葉を交わす二人の姿が、煉獄にはひどく眩しく映った。
ふと、二人に千寿郎の姿が重なる。
(無事でいてくれて、本当によかった)
胸の内に安堵を噛み締めながら、煉獄は二人から視線を外した。
東の空が、ほんの僅かに白み始めている。
「……そろそろ日が昇る!灯麻希殿を日の当たらない場所に避難させた方がいいのではないか?」
「「!」」
その声に、炭治郎と竹雄が同時に振り返った。二人の視線の先では、灯麻希が依然として俯いたまま座り込んでいる。
「姉ちゃんの木箱は、きっとまだ列車の中だ……!今から取りに行っても間に合わないぞ!?」
「と、とにかく、姉ちゃん……近くの林の木陰まで移動———」
竹雄はそう言いながら灯麻希の肩へ手を伸ばしかけたが、途中でその手を止めた。
灯麻希は、自力で立ち上がれるような状態ではなかった。戦いが終わってからも荒い呼吸は収まらず、身体を支える脚にはほとんど力が残っていない。先ほどから俯いたまま動かないのも、ただ考え込んでいるからというわけではないのだろう。その様子を一目見た煉獄は、首を横に振った。
「いや、灯麻希殿は今、歩ける状態ではないだろう」
「じゃあ、どうすれば…………」
竹雄が途方に暮れたように灯麻希へ目を向ける。炭治郎も周囲を見回したが、すぐに使えそうなものは見当たらなかった。
その時だった。
「何、悩んでんだよ!」
頭の後ろで両手を組んだ伊之助が、呆れたように声を上げた。
「ピョン子のようにコン希が縮んで、布被ぶしてから腹に隠して運べばいいだけじゃねぇか!!」
炭治郎たちは、一瞬そろって伊之助を見た。そして、揃って目を瞬かせる。
———そうだった。
灯麻希は普段から、禰豆子と同じように身体を縮めて木箱に入っている。
今さらながら、そのことを思い出したのだ。あまりにも当たり前になっていたせいで、激しい戦いを終えたばかりの頭からは、すっかり抜け落ちていたらしい。伊之助の言葉を受け、竹雄が灯麻希の前にしゃがみ込んだ。
「どう?姉ちゃん……上手く小さくなれる?」
心配そうに顔を覗き込まれても、灯麻希はすぐには答えなかった。何度か呼吸を整えようとした後、目を伏せたまま小さく首を横に振る。
「ううん、ごめん……いつもなら簡単に縮むことができるのに……身体を酷使してるし……今すぐ眠りたい気分なのに、肉体は興奮したままみたいで……上手くできないの」
戦いはすでに終わったというのに、身体の奥にはまだ熱が残っていた。
力を使い果たしているはずなのに、心臓は早鐘のように脈打ち、全身の筋肉も完全には緩んでいない。休息を求める身体と、戦闘の興奮から抜け出せない肉体が、ちぐはぐな状態に陥っているのだ。その様子を見ていた煉獄は、灯麻希の状態を見極めるように目を細めた。
「強まった鬼の力に、まだ適応できていない可能性が高いな!」
「適応できていないって……このままじゃ、身体を縮めることもできないってことですか?」
竹雄の声に焦りが滲む。
炭治郎も灯麻希の傍へ寄り、匂いを確かめるように眉を寄せた。疲れ切った身体から漂う、重く濃い匂い。その奥には、戦いの最中に燃え上がった興奮が、まだ鋭く残っている。眠気を訴えているのに、身体だけが戦いの続きを求めるように緊張している——炭治郎には、そんな状態に感じられた。
「まだ体がビンビンなんだな!寝てぇのに、体だけまだ戦っていやがるんだ!」
伊之助も灯麻希を見ながら、肌で感じ取ったものをそのまま口にする。
「うん。俺にも、そんなふうに感じる」
炭治郎が頷いた。灯麻希は何も言わず、ただ疲れ切った目で二人を見ている。
「それなら、心を落ち着かせられるように、母さんが寝る前に歌ってた子守歌を歌おう!」
「そうか!それなら、俺が……!」
竹雄が手を挙げかけた、その時だった。竹雄を押しのけるように、炭治郎が一歩前へ出る。
「ここは兄ちゃんに任せて!!」
「でもさ……」
竹雄の顔に、なんとも言えない表情が浮かんだ。何かを言いかけて口を開くものの、その言葉が形になる前に、炭治郎は灯麻希の正面へと座り込んでしまう。
「大丈夫だよ、姉ちゃん。ゆっくり息を吐いて……」
本人は至って真剣だった。母から何度も聞いた子守歌を思い浮かべ、灯麻希を安心させようと、そっと歌い始める。
「こんこん、小山の子うさぎはァァァ
なぁぜにィ゙お耳が長うござアぁぁるヴヴ。小さい時に母さまが、長ァ゛ァ゛イ木の葉を食べたゆえェ゛、そーれでお耳が長うござあア゛ア゛ア゛ア゛る———!!」
炭治郎は、いたって真剣だった。
ただし、歌声は凄まじかった。音程が妙に上下する。正しい旋律を歌おうとしていることだけは伝わってくるのに、音を取るたび、半音どころではない幅で外れていく。高く歌うところでは必要以上に声が跳ね上がり、低くなるところでは反対に沈み込む。そのうえ、語尾は本人の気が済むまで伸び続けた。
しかも、子守歌だというのに声量だけは妙に大きい。眠りを誘うどころか、周囲の意識を強制的に引きずり起こしかねない勢いだった。
それでも炭治郎は、自分の歌が周囲にどんな音として聞こえているのかなど、まるで気に留めていない。ただ、姉を少しでも楽にしてやりたい。その一心で、灯麻希を眠らせようと大真面目に歌い続けていた。
竹雄は、隣で固まっていた。
兄が姉を心配して歌ってくれているのは分かる。分かるからこそ、何も言えなかった。
「……兄ちゃん…………」
どうにか呼びかけてみたものの、その先の言葉が出てこない。
灯麻希もまた、ぼんやりと炭治郎を見つめていた。身体は眠りを求めているはずなのに、あまりにも予想外の歌声に、意識だけが妙に冴えてしまっている。
(うん……ありがたいんだけど……歌うのは、竹雄にしてもらいたかった…………)
それ以上は、考えないことにした。
そして———
「うるせぇんだよ! クソ音痴郎!!
お前の歌聞いてると、全身の鳥肌が止まんねェ……!!もう夜が明けちまうってのに、狐子分が落ち着けねぇじゃねぇか!このタコ助が!!」
「…………えっ!?」
全身をガタガタと震わせた伊之助が、ついに堪えきれず、炭治郎へ向かって怒鳴りつけた。
突然の怒声に、炭治郎は目を丸くする。それから、はっとしたように灯麻希へ視線を戻すと、姉もまた、ぽかんとした顔で虚空を見つめていた。
「本当だ!ごめん、姉ちゃん!頑張って歌いすぎちゃった!!」
「い、いや……いいよ……炭治郎は私を心配して、一生懸命に歌ってくれただけだから…………」
灯麻希は小さく首を横に振った。その声には、気遣いと疲労が滲んでいた。
それでも、身体の奥に残った昂りだけは消えなかった。肩から力を抜こうとしても、どこかに強張りが残り、思うように身体を緩められない。
そんな灯麻希を見下ろし、煉獄はふっと表情を和らげた。
そして、その肩へそっと手を置く。力強い手だった。けれど、掌から伝わる温もりには、不思議なほどの優しさがあった。
「灯麻希殿」
「……はい」
「———もう戦いは終わったぞ」
短い言葉だった。けれど、その声には微塵の迷いもなかった。煉獄はそのまま灯麻希の前に腰を落とし、目線の高さを合わせる。
「君は十分に戦った。あとは、身体を休めればいい」
「でも…………」
「うむ!」
言い淀む灯麻希に、煉獄は力強く頷いた。
「今は何も心配する必要はない!ここにいる者たちが、君を守る!!」
その言葉が届いた瞬間、灯麻希の肩から、ほんの僅かに力が抜けた。張り詰めていた糸が、ようやく緩んだかのようだった。身体の奥で暴れていた熱も、少しずつ静まり始める。
灯麻希は、目の前の煉獄を見つめた。戦いの最中、何度も自分を支えてくれた眼差しが、今も変わらずこちらを見つめている。強く、真っ直ぐで、それでいて今は、穏やかだった。
「……煉獄さん…………」
「うむ」
「……もう、終わったんですね」
「ああ、終わった!」
迷いのない返事だった。
「だから、安心して休むといい」
灯麻希は、しばらく煉獄を見つめていた。
やがて、ゆっくりと息を吐く。今度こそ、身体から余計な力が抜けていった。
「…………よかった」
小さく頷いた灯麻希の瞼が、ゆっくりと下りていく。
煉獄はその様子を見届けると、満足そうに目を細めた。
——————「(俺の歌、そんなに酷かったのか?)」
——————「(まぁね……昔から、寝かし付けは姉ちゃん達のほうが上手かったよ。もちろん、一番は母ちゃんだけど。兄ちゃんは……)」
竹雄は、そっと目を逸らした。その無言の反応が、何よりも雄弁に答えを物語っていた。
弟の気まずそうな態度に、炭治郎はがっくりと肩を落とす。まるで頭上に「ガーーン!」と効果音が響いたかのように、盛大に項垂れる炭治郎であった。
・
・
・
灯麻希の瞼が、ゆっくりと閉じていく。小さな呟きを最後に、身体からふっと力が抜けた。
次の瞬間、張り詰めていた身体が、ゆっくりと縮み始める。煉獄たちが見守る中、灯麻希の姿はみるみる小さくなり、やがて幼子ほどの大きさへと変わった。竹雄はすぐさま自分の羽織を広げ、小さくなった姉の身体をそっと包み込む。
「よし……」
日光が差し込まないよう、羽織の隙間を丁寧に整えてから、竹雄は灯麻希を腹の前で抱えた。
東の空は、すでに夜の闇を薄め、淡い白みを帯び始めている。竹雄は朝日が昇る方角に背を向けると、横倒しになった無限列車へ向かって歩き出した。炭治郎と伊之助がその後に続き、煉獄もまた、静かに歩を進める。
先ほどまで激しい戦いが繰り広げられていた場所には、もう大きな物音はなかった。ただ、遠くから鳥の鳴き声が聞こえ始めている。夜が明けようとしていた———その時だった。
「おーーい!炭治郎〜〜〜!!良かったぁぁ!!みんな無事だ〜〜〜〜!!」
聞き慣れた声が、横倒しになった列車の向こうから響いた。
全員が足を止めると、木箱を前後に一つずつ背負った善逸が、こちらへ向かって駆けてくる姿が見えた。
「善逸さん!」
「善逸!無事で良かった!!」
竹雄と炭治郎が笑顔で迎えると、善逸は二人のもとへ駆け寄り、背負っていた二つの木箱のうち、前に抱えていた空の箱を竹雄へ差し出した。
「はい、これ!灯麻希ちゃんの箱!」
「ありがとう!善逸さん!」
竹雄は受け取った箱を開けると、腕の中で眠る灯麻希を、起こさないよう慎重に寝かせた。
「それにしても、汽車の中で転がってたのに、禰豆子ちゃんと灯麻希ちゃんの木箱ってすっごく丈夫なんだね!あんな大事故だったのに、ほとんど傷ついてなかったよ!」
「鱗滝さんの特製だから!一度も壊れたことがないんだ! それより善逸、怪我は平気か!?」
「平気じゃないよぉ!特におでこと頭が痛くて堪らないんだけど……!—————って、それより!」
包帯の巻かれた頭を押さえ、涙目で訴えていた善逸だったが、ふと重大なことを思い出したように、炭治郎たちへ顔を上げた。
「汽車が横転した後、前のほうからものすっごく怖い音がする鬼が来たと思ったんだけど……あれ、どうなったの!?煉獄さんが倒したの!?」
炭治郎は頷くと、上弦の参が現れたこと、そして、その鬼と煉獄、灯麻希が夜明けまで戦い続けたことを説明した。
「えええええ!?ほんとに、上弦の参が来たのか!?汽車の鬼を倒した後に、上弦なんか来たのぉぉ……!?」
善逸が目を見開いた、その横から伊之助が声を張り上げた。
「そうだぜ!!ところで、なんでチュウ逸は来なかった!!またガクガク震えて座ってたのか!?」
「………伊之助の言う通り、怖くて震えてたけどさぁ!」
善逸が涙目のまま答えると、炭治郎はすぐさま伊之助を振り返った。
「伊之助……!」
咎めるような声だった。上弦の参を前にして、炭治郎も竹雄も、遠くから戦いを見守ることしかできなかったのだ。善逸が恐怖で動けなかったとしても、それを責められる立場ではない。
「伊之助さん!」
竹雄も慌てて口を挟んだ。
「善逸さんは、俺の代わりに禰豆子姉ちゃんと乗客を安全な場所まで避難させてくれてたんです! だから、ここに来られなかったのは当たり前です!」
「……何だ。そうか」
伊之助は、あっさりと納得した。
「フン、少しはできるようになったか!チュウ逸」
「……その鼠みたいな名前だと、馬鹿にされてる気分にしかなんねぇよ!というか、呼び間違いの種類が多すぎだろ!どんだけあるんだよ!本当は本名言えるだろ、お前!」
善逸が呆れた目を向ける。
「それに———」
言いかけて、善逸は背中の木箱へちらりと視線を向けた。その中には、眠ったままの禰豆子がいる。
「俺の禰豆子ちゃんを、異次元に怖い音のする上弦の参……の前になんか連れて行けないよ!!あの鬼が来てから禰豆子ちゃんがすっごく警戒してて。あんなに怒ってるのなんて見たことがなかったから、本当に驚いたし、心配したんだ……!」
勢いよくまくし立てていた善逸の表情から、先ほどまでの騒がしさが僅かに消えた。
「でも、どうしてそうなったのか、俺には分かんなくて……炭治郎、分かる?」
「ああ。それは、猗窩座の鬼の匂いや気配が、無惨に最も似ていたからだよ」
「無惨……!?」
善逸の顔が、みるみる引きつった。
「それって鬼舞辻無惨!?ば、ばバケモノの親玉の!?…………ハッ!?も、もしかして、炭治郎って鬼舞辻無惨と会ったことあるの!?」
「そうだよ。そういえば、善逸と伊之助には言ってなかったな」
「初耳だよ!!なんでソイツと出会って、今も生きてんのぉぉぉ!この人ぉぉぉぉ!!ヒイィィィィ!」
その場にいた善逸と炭治郎を除く三人が、揃って呆れた顔をした。
(失礼な人だ)(失礼な奴)(失礼だな!)
それぞれの胸中に浮かんだ言葉が重なった、次の瞬間。
――ゴッ!!
「っっ痛ぁぁぁ!!」
伊之助の頭突きが、善逸の傷ついていない方の額に炸裂した。
「……ポン治郎の代わりに頭突きしてやった」
「ありがとう、伊之助さん」
「親分として当然の行動だ、竹チ※竹雄はイタチを連想させる名前」
伊之助が、ふん、と得意げに胸を張った。
・
・
・
その後、煉獄の鎹鴉である
「竈門炭治郎隊員は、腹部に深い裂傷あり!応急処置をします!」
「動かないでくださいね」
炭治郎、伊之助、善逸、竹雄の四人は、隠の指示に従い、されるがままに手当てを受けていた。
煉獄もまた、負傷の具合を確認されながら、今夜の戦闘について一つずつ質問に答えていく。
その途中、ふと視線を向けた先に、二つの木箱が並んでいた。禰豆子の入った箱と、その隣に置かれた、ひと回り小さな箱。灯麻希が眠る箱だった。煉獄は、しばらくその小さな箱を見つめた。
戦闘が終わった直後、灯麻希はなぜあれほど沈んでいたのだろう。
猗窩座を倒せず、取り逃がしたこと。それが悔しかったのは間違いないだろう。だが、彼女の表情に浮かんでいたものは、本当にそれだけだったのだろうか。
煉獄は、戦いの中で見た灯麻希の姿を思い返す。鬼でありながら人を守り、傷ついてもなお、最後まで戦い続けた。そして、あの時――彼女は猗窩座に向かって、何かを訴えるように手を伸ばしていた。
あの手に、どんな思いが込められていたのか。彼女の胸の内に何があったのか、煉獄にはまだ分からない。ただ一つだけ、確かなことがある。
——————『誰かに称賛されたくて命を懸けているのではない。どうしてもそうせずにはいられなかっただけ。その瞬間に選んだことが、自分の魂の叫びだっただけ』
煉獄は、今夜の戦いを振り返る。
目の前の命を守るため、それぞれが己の持てる力を尽くした。炭治郎も、伊之助も、善逸も、竹雄も、禰豆子も。そして、灯麻希も。彼らがそれぞれの思いで選び取った行動が、確かに守り抜いた命へとつながっていた。
その姿を見つめるうちに、煉獄の胸に遠い記憶が蘇る。
最終選別を生き残ったばかりの頃、共に任務へ向かった隊士たちがいた。幼い子どもを抱くようにして守り、最期までその命を守り抜いた者。自らの命が尽きようとする間際まで、鬼の能力を伝えてくれた同期の仲間。
彼らもまた、誰かに褒められるためではなく、目の前にある命を守るために戦っていた。あの時の自分は、そんな彼らの姿を見て思った。
—————『君たちのような立派な人に、いつかきっと俺もなりたい』
煉獄は、視線を現在へと戻す。
そこには、今夜の戦いを共に乗り越えた新しい仲間たちがいる。あの頃と変わらず、誰かが誰かを守ろうとしている。その姿を見つめながら、煉獄は再び胸の内で問いかけた。
(———俺は、“かつての彼ら”のような立派な人に、なれているだろうか)
朝日が、東の空から広がっていった。
炭治郎の音痴設定はギャグ補正もありますが、炭治郎は真面目な性格なので、本気で歌えば歌うほど音痴が酷くなる、という解釈で書いています。
この設定は、単行本10巻に収録されている「さぁ、歌いましょう」のおまけ漫画を参考にしています。
ただ、原作の遊郭編では、飢餓状態になって暴走した禰豆子を眠らせるために炭治郎が子守り歌を歌う場面があります。そこではあまり音痴には聞こえませんでしたが、禰豆子が暴れる余波でダメージを受けながら、歌詞を途切れ途切れに歌っていたため、音痴が目立たなかったのだと解釈しています。
原作の炭治郎は、歌うことよりも禰豆子を止めることに必死だったですし。
それから、今話の随所で匂わせていましたが、本作における伊之助の夢の「洞窟探検隊」の構成員は以下のメンバーでした!
炭治郎 → たぬき(ポン治郎)
善逸 → ネズミ(チュウ逸)
禰豆子 → ウサギ(ピョン子)
〜ここまでは原作と変わらず〜
灯麻希 → キツネ(コン希)
竹雄 → イタチ(竹チ)
今話で伊之助が名前を呼び間違えていたのは、夢の内容に影響された結果です。
本作における竹雄のイメージ動物は、何にするか迷いましたが、日本在来種の森に暮らす小動物であり、炭治郎のたぬきや灯麻希のキツネに近い生き物ということで、イタチにしました。
それに、炎の呼吸と火遁という「炎」の共通点から、NARUTOのうちはイタチも連想できるので、個人的にも気に入っています。
テンやオコジョも候補に挙がりましたが、テンはイタチよりも細身で俊敏な印象があり、オコジョは白い毛並みも相まって、さらに可愛らしさが増してしまうので、竹雄には似合わないかなと思い、却下しました。
「もっと竹雄のイメージに合う動物がいるよ!」という方がいたら、ぜひコメントで教えてください!あるいは、「イタチは竹雄に似合ってる!」という感想をいただけたら嬉しいです……!
かなり悩んで捻り出した結果なので、合っているかどうか、実はあまり自信がないんですよね……(^_^;)