太陽が、丸い輪郭を山の稜線から覗かせ始めた頃。
東の空が次第に明るさを増す中、横転した無限列車の周囲では、隠たちが慌ただしく動き回っていた。負傷した隊士の手当てにあたる者。乗客の安否を確かめる者。傾いた車両の中へ入り、取り残された者がいないか、一つずつ確認していく者。
その慌ただしい現場へ、二つの人影が駆け込んできた。
甘露寺は、周囲を見渡すなり煉獄の姿を見つけ、その表情をぱっと明るくした。
「煉獄さん……!!良かった……!ご無事だったんですね……!!」
「甘露寺!」
煉獄もまた、駆け寄ってきた甘露寺と、その後ろから姿を現した伊黒を認め、驚いたように目を見開いた。
「伊黒も!何故、二人がここに……!?」
応援を要請した覚えはない。それでも二人がここへ駆けつけたということは、近くで別の任務にあたっていたのだろうか。
疑問を抱く煉獄に、伊黒はすぐには答えず、その姿を沈黙のまま見つめていた。血に濡れた隊服。乱れた呼吸。顔には、隠しようもない疲労の色が濃く残っている。
それでも、五体満足で生きていた。伊黒の張り詰めていた目元が、ほんの僅かに緩んだ。
「…………遅くなってしまってすまなかった」
短い言葉だった。けれど、その声には、普段の伊黒にはあまり表れない安堵が滲んでいた。
「よく生き残ったな、煉獄」
「うむ!心配をかけたようだな!」
煉獄は、いつもと変わらぬ力強さで応じた。
「しかし、俺は応援を呼んだ記憶がない。近くで任務があったのか?」
「違う。そうではない」
伊黒が首を横に振る。煉獄は微かに眉を上げた。
「俺たちは、お館様からこの任務の援軍として待機するよう命を受けていた」
「そうだったのか!」
煉獄が目を見開く。その反応に、甘露寺は申し訳なさそうに眉を下げた。
「本当は、もっと早く来るつもりだったんです。でも……」
「汽車が通る地点に向かう途中で、別の鬼と遭遇した」
甘露寺の言葉を引き継ぎ、伊黒が説明する。
「放置すれば、夜明けまでにさらに死傷者が増える状況だった。だから、そちらを先に片付ける必要があった」
そう告げてから、伊黒は横転した無限列車へと視線を向けた。
「———その間に、まさか
その言葉を聞き、煉獄はようやく二人がここへ駆けつけるまでの経緯を理解した。
「そういうことだったのか!」
煉獄は納得したように頷いた。
「ならば、二人が遅れたことを責める理由はない。救える命を救ったのだろう!」
「煉獄さんにそう言ってもらえるなら、安心できます……!」
「…………」
甘露寺が安堵したように胸を撫で下ろす一方で、伊黒は何も答えなかった。
鎹鴉から、上弦の参が現れ、煉獄たちが交戦しているとの報せを受けた時――二人の胸をよぎったのは、自分たちの判断が遅すぎたのではないかという思いだった。
今夜の任務において、二人はあくまで、必要になった場合に備えた援軍として待機を命じられていた。
追加で下弦以上の鬼が現れる可能性も、柱が二人も必要となる上弦の鬼が出現するかどうかさえ、分からなかったのだ。
そして実際に鬼と遭遇し、目の前で人々が傷ついているのを見てしまえば、見過ごすことなどできなかった。
最初に足を止めたのは、甘露寺だった。目の前の命を救わなければならない――そう訴える彼女を、伊黒も止めることができなかった。
いや、違う。止めるべきではないと思ったのだ。
確証のない未来に備えて急ぐことと、今まさに失われようとしている命を救うこと。あの時、どちらを選ぶべきだったのか。
伊黒には、今も答えが出せずにいた。
ただ一つ、確かなのは――あの場にいた負傷者たちを置き去りにして、ここへ向かうことなど、自分たちにはできなかったということだ。
そして、その判断を下した時間の向こうで、煉獄と灯麻希は上弦の参と戦っていた。
「お前なら上弦の鬼を倒せると思っていたが………流石に、上弦の参ともなると容易ではないか」
伊黒の言葉に、煉獄はむしろ嬉しそうに笑った。
「随分俺を高く評価してくれるのは嬉しいが、伊黒!灯麻希殿がいなかったら、今夜俺は死んでいたぞ!上手くいっても相討ち程度だ!上弦の参は、それほどまでに強かった!!」
「ええ……!」
甘露寺が目を見開く。
煉獄の口から告げられた上弦の強さに驚きながらも、その瞳には恐れに呑まれることのない、強い意志が宿っていた。
「それほどの鬼と戦って……煉獄さんが生きて帰ってこられたのは、本当に凄いことです……!」
「うむ!だが、俺自身もまだまだ鍛錬が足りないことを知った!もっと強くならねばな!!」
「はい!私も、頑張ります!!」
煉獄と、かつての弟子である甘露寺が、互いに熱のこもった言葉を交わす。
その傍らで、伊黒の視線はいつの間にか別の場所へ向いていた。東の空から差し始めた淡い朝日を避けるように、横転した列車の影へ置かれた二つの木箱。一つは禰豆子の箱。そして、もう一つは――灯麻希が眠る箱だった。
煉獄の言葉が、遅れて伊黒の胸に落ちてくる。
――灯麻希殿がいなかったら、今夜俺は死んでいた。箱へ視線を向けたまま、伊黒は静かに問いかけた。
「
「うむ! 俺がこうして五体満足で生きているのは、灯麻希殿のおかげだ!それに、もうここにはいないが――」
「報告、失礼いたします!」
煉獄の言葉を遮るように、一人の隠が駆け寄ってきた。その声に、その場にいた全員が振り向く。
「乗客の安否確認が完了いたしました!」
隠は息を整えながら、手短に報告を続けた。
「負傷者は多数おりますが、死亡者は確認されておりません!二百名の乗客は全員、命に別状ありません!」
その報告を聞いた瞬間、煉獄の表情がぱっと明るくなった。
「そうか!全員守ることができたのだな!喜ばしいことだ!!」
煉獄は心から嬉しそうに頷いた。甘露寺も安堵したように胸を撫で下ろす。一方、伊黒は驚きを隠せずにいた。
二百人――それだけの人数を、一人も死なせなかった。
それがどれほど困難なことなのか、柱である伊黒にはよく分かっていた。だからこそ、全員が生存しているという報告は、にわかには信じがたいほどの成果だった。そんな伊黒へ、煉獄が声を掛ける。
「――伊黒!先程言いかけたが、乗客を全員守り抜けたのは、俺の継子と、新たに継子となる三人の新人隊士、そして竈門妹少女の尽力のおかげだ!」
伊黒の眉が、僅かに動いた。
「そして、汽車にいた鬼――下弦の壱の頸を斬ったのは、竈門少年だ!!」
煉獄は、まるで自らの誇りを語るように胸を張った。
「これでも、あのきょうだいを認めるのは無理か!」
それは挑発というよりも、自分が信じるものを決して曲げない煉獄らしい、真っ直ぐな問いだった。
だが、伊黒の表情は険しいままだった。
「認めない。煉獄がいくら信用しようとも、俺は信じない。お館様は『証明し続けろ』とおっしゃった」
迷いのない返答だった。伊黒の視線が、灯麻希の眠る木箱へと向かう。
「特に鬼は、絶対に認めない。今回は戦力となっただろう。だが――『鬼殺隊として戦い、力となり、役に立てる』ことができなくなった瞬間、俺が斬る」
その声には、鬼という存在そのものに向けられた、容易には揺らがない警戒が滲んでいた。
それを聞いても、煉獄は少しも怒ることなく頷いた。
「そうか!手堅いな、伊黒は!」
そして、すぐさま頭を下げる。
「そして、お前に言うべきことではなかった!悪かった!」
「いや、煉獄が頭を下げる程のことではない」
伊黒は僅かに目を見開いた。
まさか、これほどあっさりと頭を下げられるとは思っていなかったのだ。溌剌とした性格の相手には、昔からどうにも弱い。ましてや、煉獄は伊黒が信頼を寄せる柱の一人だった。
だからこそ、こうして真正面から謝られてしまうと、こちらまで強く言い返す気が削がれてしまう。伊黒は僅かに視線を逸らし、声を落として付け加えた。
「………お前が気にすることではない」
今夜の戦いについての報告は、夜が明ける頃には産屋敷家をはじめ、柱たちや鬼殺隊の各所へと伝えられていた。
下弦の壱を討伐。
上弦の参・猗窩座が出現――炎柱・煉獄杏寿郎と鬼の灯麻希が交戦し、二人とも生還。
そして、無限列車に乗り合わせていた二百名の乗客に、死者は一人もいなかった。
もたらされた報告に、一般隊士たちは驚きと喜びに沸いた。
上弦の鬼との遭遇。それだけで、これまでは多数の犠牲を覚悟しなければならない事態だった。
それが今回は、柱を含め、鬼殺隊側の戦力を一人も失うことなく夜を越えたのだ。
だが、柱たちの受け止め方は少し違っていた。
上弦の参――煉獄の力をもってしても、容易には討ち果たせなかった鬼。
その強さを知ったことで、彼らは自分たちと上弦の鬼との間にある隔たりを、改めて思い知らされた。この先に待ち受ける戦いを生き抜くためには、もっと強くならなければならない。今夜の戦いは、確かな成果をもたらした一方で、新たな課題を突きつけるものでもあった。
その報告を、産屋敷耀哉もまた、静かに聞いていた。
「そうか。上弦の参を倒すことは叶わなかったが、杏寿郎は無事に生き残れたんだね」
妻に身体を支えられながら、耀哉は穏やかに頷いた。
灯麻希から与えられた〝知識〟の中にあった未来。そこでは、この夜、煉獄杏寿郎が命を落としていた。その結末を、変えることができた。
「乗客も一人として死ななかった。十分な成果だ」
耀哉は、初めから今回の作戦がすべて思いどおりに進むとは考えていなかった。たとえ未来を知り、わずかな時間で備えたとしても、あらゆる出来事を望んだ形に変えられるわけではない。
もし、それほど簡単に運命を変えられるのなら――鬼舞辻無惨は、とっくに討ち取られているはずだからだ。
それほどまでに、鬼殺隊と無惨との間には大きな戦力差がある。だからこそ、今夜、猗窩座を倒すことができれば、それは幸運なことだと考えていた。結果として、こちらの戦力を一人も失うことなく下弦の壱を討伐し、さらに上弦の参という未知の鬼の情報まで持ち帰ることができた。それならば、十分すぎるほどの成果だった。
「蜜璃と小芭内は、他の鬼の出現で対応せざるを得なかったんだね。無垢の民を鬼から守るのが鬼殺隊の使命だ。その判断は、決して間違いではない」
甘露寺と伊黒が、予定していた場所へ辿り着けなかったこと。
その道中で別の鬼と遭遇し、目の前の人々を救うために足を止めたこと。
一見すれば、それは偶然が重なった結果に過ぎない。けれど、耀哉には、そうとは思えなかった。
「今夜、上弦の参が生き残ることは、変えられない
一つの未来を変えれば、その先につながる未来もまた変わっていく。何かを変えたからといって、望んだ結果だけを選び取れるわけではない。むしろ、小さな選択の一つひとつが新たな枝を生み、その先で、思いもよらない出来事を引き起こすことさえある。
それでも———
「焦らず、一つずつ減らしていけばいい。それが、あの男を倒す運命を現実へ手繰り寄せる綱になる」
耀哉は、未来を急いで掴もうとはしなかった。
今夜、猗窩座を倒せなかったことも。甘露寺と伊黒が、別の場所で人命を救うことになったことも。それらを失敗として切り捨てる必要はない。一つひとつの選択が積み重なり、やがて、今とは異なる未来へとつながっていくはずだ。
「たとえ大きな波紋を呼ぼうとも、それまでに積み上げてきた繋がりがあれば、私たちは反動のうねりでさえ乗り越えられるはずだ」
耀哉の目の前には、何も見えない。
呪いによって失われた視界の先には、ただ暗闇が広がっている。その闇の向こうに潜む、鬼舞辻無惨へと言葉を届けるかのように―――耀哉は、重く声を落とした。
・
・
・
刻が少し遡った、東京府内のとある屋敷。
二階の一室には、夜の気配がまだ色濃く残っていた。その静寂を破るのは、紙が裂ける乾いた音だけだった。
人間の少年に化けた鬼舞辻無惨は、手にしていた本を握り潰すように閉じると、そのまま無造作に引き裂いた。
ばらばらになった紙片が、床へと散らばる。普段なら人間の子供らしく整えられている顔には、もはや隠しきれない怒気が浮かんでいた。青く染めていた瞳は、いつの間にか本来の紅い瞳孔へと戻っている。額からこめかみへ、さらに首筋へと血管が浮かび上がり、無惨の指先から伸びた鋭い爪が、手元に残った紙片を容赦なく握り潰した。
怒りの原因は、この部屋にはいない。
無限城へと戻された、猗窩座。そして――その猗窩座を、あそこまで追い詰めた竈門灯麻希。
無惨の脳裏に、猗窩座の細胞に刻まれた記憶が蘇る。
炎柱との死闘。そして、その傍らにいた鬼。灯麻希の力によって、猗窩座の奥底へ沈めていたはずの、人間だった頃の記憶が無理やり引きずり出されていた。
単なる記憶であれば、まだよかった。
だが、あれは違う。長い年月をかけて鬼として染め上げた猗窩座の内側で、人間だった頃の記憶が再び浮かび上がっている。それは、鬼としての存在そのものを揺るがしかねない異常だった。
無惨は、猗窩座を殺してはいない。殺す必要がなかったからだ。
上弦の参――猗窩座は、無惨にとって利用価値のある鬼だった。だからこそ、無惨の呪いで強引に縛り付け、無限城まで引き戻したのだ。
しかし、戻ってきた猗窩座の姿を見て、無惨は悟った。
このままでは使い物にならない。自ら手を加えなければならないほどに、猗窩座は鬼としての在り方を損なわれていた。
(何故―――私が、このような後始末をしなければならない)
握り潰された紙片が、指の隙間からはらはらと落ちていく。
(あの鬼……余計なことを!)
灯麻希―――無惨の血を取り込みながら、その支配から逃れ、さらには他の鬼の魂にまで干渉する異常な鬼。
これまでならば、ただの逃れ鬼として処分すればよかった。
だが、今回の一件で、認識を改めざるを得なくなった。灯麻希は、自分の支配下にある鬼へ干渉することができる。それも、上弦の参に―――
(あの場にいた柱どころか、鬼狩りを一人も始末できずに逆に死にそうになった……!猗窩座め!この失態だけではなく、“青い彼岸花”もまだ見つけていないとは……!!)
猗窩座の細胞を細かく読み解いていく過程で、無惨はそこに刻まれた戦いの記憶だけでなく、永年探し続けている“青い彼岸花”についても探った。だが、確かな情報は何一つとして得られなかった。
その事実が、無惨の苛立ちをさらに煽る。怒りに歪んだ顔が、いっそう険しさを増した。
灯麻希によって深く傷つけられた猗窩座は、ただ再生させるだけでは済まない状態にまで追い込まれていた。
まだ利用価値のある鬼だからこそ、殺すつもりはない。だが、このままでは鬼として使い物にならない。
結局、自ら
(わざわざ近くにいた猗窩座を向かわせたというのに……!役立たずの狛犬が!!)
無惨の足先が、床に散らばった紙片を踏み潰す。
自分の望むものは、何一つとして手に入らない。それどころか、これまで使ってきた手駒まで傷つけられた。胸の奥で膨れ上がった苛立ちは、やがて一つの存在へと収束していく。
――――竈門灯麻希。猗窩座の記憶に残された、その姿を無惨は思い返す。
(だが、猗窩座の記憶からあの鬼の詳細が分かった。竈門炭治郎の姉―――それも彼奴は、悍ましい“日の呼吸”を使う……!)
無惨は、竈門炭治郎の戦いもまた、猗窩座の細胞を通して見ていた。
日の呼吸―――炭治郎と灯麻希が繰り出したそれは、継国縁壱のように完成されたものではない。
灯麻希の方は、一撃一撃には強い力が宿っているものの、それらが一つの流れとなって繋がっているわけではなかった。型を扱う精度も、呼吸を巡らせる技量も、縁壱という化物には遠く及ばない。
だが、それでも―――
無惨が唯一恐れた人間と同じ呼吸を扱う者が、再び現れた。しかも、灯麻希には、それだけでは説明のつかない力がある。その事実を前に、無惨の中で、竈門灯麻希に対する警戒が大きく引き上げられていく。
それは、これまでの〝逃れ鬼〟に向けていたものとは、明らかに異なる警戒だった。
猗窩座戦の終わりで、無惨はようやく灯麻希を炭治郎と同じように抹殺命令を出す。
無限列車編(無限夢列車編)、これにて終点に到着です!ここまでご乗車(?)いただき、ありがとうございました。
次回の投稿は1週間後の11/8を予定しています。次回からは定期投稿に戻りますので、引き続きよろしくお願いします!